「美しい文章」って、そもそも何なのか。 [転載禁止]©2ch.net
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「文章の美しさ」が感じられるようなものかも
まあ受け取り手によって異なるわな 美しさの本質は秩序。
だから「これはペンです。」という一文も美しいが、ありきたりなので評価されないだけ。
また、あまりにも整いすぎると嫌悪感を抱く。整形美人のように。 簡潔とは限らない。
複雑でも淀みなく流れる文章は美しい。
流れにもいろいろあり、
言葉の響きつまり音読におけるリズムのほかにも、
内容がすっと流れるように頭に入ってくる、
または、イメージが次々と淀みなく浮かぶ、
などある。
が、ようするに、
美しい文章を読んだとき、意識が何かしらの心地よい流れを感じる。 俺としては川端康成の文章が好きなんだが、川端康成の文章の評価はどうなの? 「正確な位置に置かれたコンマは
どんな鋭利な金属よりも鋭く我々を引き裂く」
て外人が言ってたけど要は受け手の感じ方なんだろうね >>9
世間の評価はしらんが川端康成は千羽鶴が最も綺麗だと思う。
長ったらしい文は最小限で、改行を多くして文にリズムを持たせてる。
余計な描写は無く、日本文化と日本語との確かな合致を感じられる。
読んでて日本語そのものに感動したのは今でも千羽鶴だけだなぁ。 >>1
人間の美的判断はカントの『判断力批判』では悟性と実践理性の間に
位置する、とある。
美の判断というものは十人十色でありながら、普遍的な要素もある。 風景として美しいのは川端康成
日本語として美しいのは谷崎潤一郎 先生が「文章が上手くなりたい人は志賀直哉を読め」とか言ってたんだよね。
志賀直哉の文章は淡々としていて微妙なんだけど、上手いのか? 中川郁子・門問題
大事なのは唯一つ。
公金の流用のありやなしや。
和歌山、北海道間の旅費、交通費などどうなってた? (2年間付き合っていたとも)
政務官室がラブホ代わりに、ってのは実際のところどうなん? (2時間こもっていたとも)
多額の税金によって生きている二人が
税金をこんなふうに使っていたとしたならば。
庶民はやりきれんのだよ。 >>17
>志賀直哉の文章は淡々としていて微妙なんだけど、上手いのか?
上手くはないでしょう。
・・・・た。・・・た。・・・た。で続くから
切断力による歯切れよさが文章の上手さと錯覚されるだけであって。
散文としてはぜんぜん駄目ですね。
俳句などと同じ感覚で文章を書いているだけです。 誰かが翻訳文が主述一番整っていて美しいとか書いてた気がする まわりくどい文章は美しくない。
条件を積み重ねていく経緯が潔さに欠ける感じを受ける。 それは違うな。
男の脳は結論を目的にテキストを読む。
だから簡潔を好む傾向にあるがそれは普遍的な美しさとは別だ。性差における個人の好み。 私は>>27に同意だ。
簡潔でなおかつ、論理的で筋がしっかりと通っている文章は理解もしやすく客観的に美しい。
哲学者の文章にしばしば見受けられる。 美しさはそれだけで観賞に堪えうるものだから、
もし簡潔さが美しいというのなら、
簡潔で筋が通っている取説でも読んでおけ、ってことだろう。
つまり、そういったものは美しい文章とはいわないってこと。 美しい文章が表現するのは対象の「説明」ではなく「描写」ではないか?
そこに簡潔さは必要なものの一つだと思っている。 俺としては簡潔でも複雑でもいいけど、その文章に詩情があるかどうかが、美しい文章とそうでない文章を区分すると考えてる。 この文美しいなぁって思いながら読むとどんな文もまじで美しく見えてくる 一説に、読者に美感を起こさせることを目的とする文章を美文と言う。 友成純一の文章は美しいな。緻密な肉体描写の中にある下品なまでの官能。
もっと有名になってもいいのに。 「凌辱の魔界」しか読んだことが無いけど
そんなに美しかったかな? 簡潔で筋が通っていて、しかも筋以上のなにか、感情や気持ちやふいんきや空気感みたいなものが伝わってくる文章がいい。 2chではふいんきの形勢有利だけど、世間では真逆。みっともないから使わないほうがいいよ。
美しいは必ずしもえろいと同義ではないと思う。 美しい文章なんて音に決まってるじゃないかなに言ってんのバカばかりなの? 俺が美しさと感じたのは徒然草だな。
美しさの記述は難しいんだよな。
言葉でたとえようもなく、言語的把握を拒否するくらいのことを、
美術品やら芸術品は平気でできるわけだよ。
卑近な例で言うと絶世の美女に男心が奪われたとして、それは男性としての敗北を突きつけられたんだな。
軍門に下るってやつだ。そういう暴力を美はふるうわけだ。
倫理だとか、美の善悪とかは考えると面倒になるけどな。
文学でも同じことで、
美しい文章(例えば徒然草第一九段)があって、それは日本語で作られているけれども、
そう簡単に平易な日本語ではかみ砕きようがない。
つまり、本当のところ俺にも分かってないんだよな。
だから、説明ができない。個々人で味わうしかない。
味わうしかないと言うことは、読むしかない、黙るしかない。
しかし、美に触れればその体験を共有したくて喋りたい、つまり記述したくなる。
そこでの、美について語る言葉は熱に浮かされたようなもので、
あまり信用がならない。といっても、もちろん独力で美は探せない。
だから、美に触れたければ
「みんなが美しいと言っているものを、これはほんとに美しいのかな?
と思いながら半信半疑で読んだり鑑賞して自分で判断していくしかない。」
つまり、1に文章の美しさは教えられません。 55です。
ビシッと決まったかと思ったんだけど、失敗しました、すまん。
まあクラッシックをユーチューブで聞いたり、
家族の料理の愛情をもっと感じてみようとしたり、
簡単な古典を読んだりしてみてよ。
万葉集の入門書(斎藤茂吉「万葉秀歌」)とか良いんじゃない? こういう時にとりあえず王道の古典出しときゃオッケーみたいな人っているよね 俺は、枕草子の文章は美しくないと思う。
ひとつの文章の中で、「いと・・・云々」「いと・・・云々」と同じ副詞を立て続けに使っている。
他にも同じ意味の副詞はあるだろうに、実に芸が無い。
「美しい文章」と言われるものならば、こういうつまらない書き方はしていないだろう。 物狂おしいきらめきが読み手を辱めるはしたなさを、
慈悲と教養で丁重につまびらく徒然草(の例えば一九段)が美しくなくて、
どこに美しい文章があるか具体的に知りたいね。
(それが万葉集なら俺にもわかる。) 美少女が書く文章は全て美しい。
ブサイクは何やってもダメ。 美しい文章というのは、描かれている内容ではなく、文章それ自体が艶やかで官能的であるので、たとえ何気ない日常のスケッチであったとしても、読むと恍惚とさせられる。 昔の人は何を持って、文章の評価をしていたんだろうね。 某書には、「美しい文章とは、言い表し方が露骨でなく、蕪雜でなく、どこか綺麗に優美に綴られた文章のことである。…」
と書いてある。ちょっとトートロジーっぽいけど、実際に定義するとなると似たようなものだろう。 自分が文章に対して持つ美しさの定義を考えてみるべき 三十歳──今後に予想される孤独の十年間。
独身の友の数はほそり、感激を蔵した袋もほそり、髪の毛もまたほそってゆくことだろう。
しかし、ぼくの傍にはジョーダンがいた。
これは、ディズィとちがって、きれいに忘れ去られた夢を、年から年へと持ち続けてゆくことの愚かさをわきまえている女だった。
車が暗い橋を渡ったとき、蒼ざめた彼女の顔が、ものうげに、ぼくの上着の肩にもたれかかってきた。そして、ぼくを励ますかに堅く握りしめてくる彼女の手に、三十歳のぼくの衝撃は消え去ってしまった。
こうしてぼくたちは、涼しくなりかけた暮色の中を、死にむかって疾走していったのだった。
どうでしょ? 『ダメな映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく話』
三十歳――。これから想定される孤独な十年。独り身の友は徐々に減り、共有の思い出も細りて、この黒々とした頭髪さえもおもむろに減っては細ってゆくであろう。だがしかし、ぼくの傍らにはルイーザがいる。いつも。
そう、この子はディズィーと違って、子どもっぽい夢をいつまでも持ち続けてゆく、そんな愚かさをわきまえているレイディーだった。
夜通し走りっぱなしでガタゴト悲鳴をあげていた中古のキューブが、暗い橋を渡り終えたとき、ものうげな彼女の体がぼくの肩に寄りかかってきた。
ハンドルから解放されたぼくの手を掴まえると堅く握りしめる。その、少し小さな手のひらに、すうっとぼくの胸のの淀みが溶けてゆく。
人生をフルコースで深く味わうための、いくつものスパイスが誰もに用意されていて、時には苦かったり渋く思うこともあるだろう。でも、最後のデザートを笑って食べる君のそばに、僕はいたい……
https://www.youtube.com/watch?v=ofYTAoS4LzE 日本人にとっての美しい文章は、文語で書かれたものだと個人的に思う。ベタだけど、平家物語の冒頭や枕草子等の古典は本当に素晴らしい。 しかし実際には祇園精舎に鐘なんてなかったと知ると
色あせて見える 個人的には太宰。言葉に独特の雰囲気があって、太宰の言葉は本当に美しいと思う 美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ。つまり杓子定規にきめることができないから、それで恐ろしいのだ。
美の中では両方の岸が一つに出会って、すべての矛盾が一しょに住んでいるのだ。 いまあんまり装飾過剰な文章だとむしろ美しくないと思ってしまうな
かと言って簡潔なだけの文章がいいともおもわないし 修飾の程度に限定するなら
芥川以上三島未満がちょうど良い
それに合致するのが谷崎潤一郎 谷崎は英語の文法をかなり勉強仕込んでいるから
意味が明晰だし流暢
三島の美文とレトリックは論理が通らない部分がかなり多い 村上春樹の文章が美しいだとよ
大江の方がまだましだよ 大江健三郎の文章、表現力は凄いと思うけど美しいとは思わないな。
読者が読んで、頭の中に美しい情景が浮かんでくる文章が、美しいそれ。 >読者が読んで、頭の中に美しい情景が浮かんでくる文章が、美しいそれ。
それは文章の美しさとは別のものだね。
もう少しよく考えてね。 何を美しいとするかによる
文章に作家の美意識が表れるというだけでそれは明確に定義されているものでもない
一方で美しいとされる文章にはなにか一貫性や共通点があるようにも思える 頭の中に美しい情景が浮かんでくる文章がいいなら、なにも文章など読まないで
美しい自然を見に行けばいい話。それは文学の否定以外のなにものでもない。 よくこういうことを言って「ドヤ」顔をしてるのがいるけどw
奥の細道を読んで美しい情景が浮んで、美しい文章(作品)とはこういうものだ、と思っていいじゃん。
そんなら読まずに東北観光に行け、そのほうがずっと感動する、じゃないだろよw 身も蓋もないけど、美しい文章なんて人それぞれじゃん
議論はいいけど押し付けんなよ >美しい文章なんて人それぞれ
そんなもん、まだわかっていない 分かるまでは人それぞれってことだろ
つか本当に分かるのかよ(笑)
みんな自分が良いと感じたスタイルを美しいと思い込んでるだけじゃん >奥の細道を読んで美しい情景が浮んで、美しい文章(作品)とはこういうものだ、
>と思っていいじゃん。
一生勘違いしていなさい。
どうせ、仕事をするようになったら本など読まなくなるよ、キミみたいのは。
なんにもわからないでヒマツブシに読む程度だろ、今でも。 >分かるまでは人それぞれってことだろ
美しくないなぁ 文学板ってもう少し期待してたけどこんな返ししか来ないんだな >>101
お前の下らない書き込みにお似合いのレスじゃね? ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ >>87
何をもって別のものと思うのか。詳しく述べなさい 読者との関係性において世界の理解の深度を深めてくれるような表現
ということでいいのでは 曖昧にするためにオシャレな表現をするのは二流。
明確にするためにオシャレな表現をするのが一流。 未だに読まれている昔からの作家は全員美文だろが。
現代の作家なんて足元にも及ばない。
なぜってひょっとしたらオマエらだって小説家になれるんだぜ。
一発屋ってやつだ。
だが、俺たちが漱石鴎外荷風志賀芥川谷崎三島川端太宰etc.なんかには
まずなれない。この違いだろう。
今の奴らの小説なんて小説でもなんでもねーよ。 ♪<¥
『痰歌鑑賞』お題「汚れ事務所の裏工作(粉飾小説の裏側で)」
芥川 行き着く先は カネの生(な)る FIFAズルヨシの 本屋大賞
よみびと(ロンゲ妖怪バスターズ)フルタチンコ
♪<¥ >未だに読まれている昔からの作家は全員美文だろが。
「美文」と美しい文章は違うってことがわからないやつがいるのは困るな。
「美文」というのは見かけをビラビラ飾り立てた文章のことでペジョラティフだよ。
例:〇〇のの作品は中身のない単なる美文にすぎ内藤洋子 内藤洋子リアクションするなんて、オマエいくつのジジイだよこはまたそがれ 全ての要素が目的的に用いられてる文章は美しいのではないか 今のところ簡潔なのが美しさの基本だと思っている俺は、次に何を読むべきだろう? 125だけど言葉が足りなかった。志賀直哉とかを読んで、簡潔なのは美しいと思った。
だからむしろ志賀直哉の対極にあるような天才を読んでみたい、
簡潔じゃない美しいのを読んでみたいという意味です。あと返答ありがと。 小川洋子の「博士の愛した数式」は文章がきれいだと思った。
あと、林真理子なんかも容姿はアレだけど文章はうまいね。 グロテスクリアリズムを唱える大江の文章が美しいわけがない 日本語のですます調は綺麗に書ける。特に女の子は小論文とかにもおすすめ。
作家が主役じゃない。もはや。みんな書いてる。 大江の小説は美しいな。美男美女が出て来ないし、きれいな状況も出て来ないけど美しい。 穢いだけ。ただひたすら穢いだけ。なにもかも穢いだけ。 安倍の脳内を文字にしてみれば「美しい日本」の実態がどれだけ醜いかわかるよ。「日教組、日教組」って何だよ(笑) !!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくな? ……こんなもの、さっき通ったときもあったかしら、と思いながら歩いていくと、
ちょうど星(の形をした、道をまたいでぶら下がったネオンサイン)の下をくぐったあたりで、いきなり湧きあがるようなオーケストラのひびきが聞こえた。
この時間にいったいどういうことだろう、とちょっと腹立たしい思いがあたまをよぎったとたん、
私自身がなんともふしぎな光景のなかに足を踏みいれていた。
目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。
そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、
まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、劇場のまえのゆるい傾斜の石段や、
反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱え込むようにして地面に腰をおろしていた。
あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。
何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。
劇場に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、
舞台の音が中継されているのだとはっきり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。
それほどすべてが意表をついていて、不思議な幻の世界にひき込まれたようだった。
(中略) 昼間の疲れに押し倒されるようにして、すこしとろとろとしたようだった。ふいにベッドからほうりだされるような、
からだが、無数の小さな手にささえられて宙に浮いたような感覚にゆすぶられて目がさめた。鐘。
近くの教会の鐘が、夜中のヴェネツィアにむかってなにかを声高に告げている。時計を見ると一二時だった。
とはいっても、それは、鐘楼の時計が、ただ、昨日から今日への境目としての時間を告げる、というふうではなくて、
二○○年まえのこの夜、輝かしい彼らの音楽史の一ページとして、
はじめて自分たちの歌劇場をもつことになったヴェネツィア市民の狂喜の時間をここでもういちどかみしめているような、
まるでうつつをぬかしたような鳴りかただった。そして、その鐘の音を、冬の夜、北国の森を駆けぬけるあらしのような拍手が追いかけた。
建物の内側の拍手と外側の拍手が重なりあって、家々の壁に、塔に、またそれらのかげに隠れた幾百の運河に、
しずかな谺をよびおこすのを、私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかでじっと目をとじて聴いていた。
河出文庫「須賀敦子全集」第2巻 P.15-20. >>143 >>144
長文、ごくろうさん。で、これが美しいの? ふ〜ん。 美しい文章を楽しみたいなら新堂冬樹の小説は外せない。 如何なる星の下に生れけむ。われや世にも心よわきものなるかな。
暗にこがるゝわが胸は、風にも雨にも心にして、果敢なき思をこらすなり。花や採るべく、月や望むべし。
わが思には形なきを奈何にすべき。恋か、あらず。望か、あらず。あはれはいねはわが為にそを語りき(「わが袖の記」M30.8) 文章の羅列に美しさなど無い
しいて言うなら評論家が褒め言葉に美しいを使っただけ
勝手に価値感をこじつけたにすぎない >>148
>文章の羅列に美しさなど無い
おまえに美意識がないだけ。 越生と書いておごせという。埼玉も西の方の、山へ寄った小さな町である。
近くに梅の名所があるので、近年は人も知って新月ヶ瀬などというが、それ程の所でもない。
然し梅の咲く頃、坂戸の町からバスで越生の方へ向いて行くと、必ず秩父の方の連山が淡い紫にくっきりと見える。
町へはいって板葺の低い家並みの後ろに、裸木の雑木山が、風の無いぽかぽか日に照らされて居るのを見ると、如何にも早春らしい気がする。
町のはずれの越辺川というのに小さく橋が架かって居て、それを渡ると、弘法山という小さな山がある。
春もいくらか深くなって、そこの紅梅がむせるように匂う頃、寺の上の明るい雑木山に転がっていると、鳥がチチと啼き、日は燦々とふりそそぐ。
岩本素白(1883年8月17日 - 1961年10月2日)「素湯のような話ーお菓子に散歩に骨董屋」 太宰の文章はあんがい美しく感じる
あれだけ読点を多用しながら、読みにくさがない
むしろ引き込まれる
読点を多用したために文が醜くなっているのが小林秀雄 夢とも、現(うつつ)とも、幻とも・・・・・・目に見えるようで、口にはいえぬ――
そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりとした、しかも、清く、涼しく、悚然(ぞっ)とする、
胸を掻挘(かきむし)るような、あの、恍惚(うっとり)となるような、まあ例えて言えば、芳(かんば)しい清らかな乳を含みながら、
生れない前(さき)に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持ちの――
唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬(あこが)れて、それを聞きたいと思いますんです。
泉鏡花『草迷宮』 読点は数ではない。打ち所。リズムが悪くなる打ち方がまずいだけ。 しかし私の人生の旅は、明日こそ発とう、明日こそと思いながら、1日のばしにのばされて、
数年間というもの、一向出立のけはいもなかった。この時代こそ私にとって唯一の愉楽の時代ではなかったろうか。
不安は在っても漠としたそれにすぎず、わたしはまだ希望をもち、明日はいつも未知の青空の下に眺められた。
旅の空想、冒険の夢想、私がいつかなるであろう一人前の私の肖像、それと私のまだ見ぬ美しい花嫁の肖像、私の名声の期待、
・・・・・こうしたものが、ちょうど旅行の案内書、タオル、歯刷子と歯磨、着替えのシャツ、
穿替の靴下、ネクタイ、石鹸と謂ったもののように、旅立ちを待つトランクのなかに、きちんと調えられていたあの時代、
私にとっては戦争でさえが子供らしい歓びだった。
弾丸が当っても私なら痛くはなかろうと本気で信じる過剰な夢想が、このころも一向衰えを見せていなかった。
自分の死の予想さえ私を未知の歓びでおののかせるのであった。私は自分が全てを所有しているように感じた。
さもあろう、旅の支度に忙殺されている時ほど、われわれが旅を隅々まで完全に所有している時はないからである。
あとはただこの所有を壊す作業が残されているだけだ。それが旅というあの完全なあだごとなのである。
三島由紀夫『仮面の告白』 ……夜になって風がなく気温が零下十五度位になった時に静かに降り出す雪は特に美しかった。
真っ暗なヴェランダに出て懐中電燈を空に向けて見ると、底なしの暗い空の奥から、数知れぬ白い粉が後から後からと無限に続いて落ちて来る。
それが大体きまった大きさの螺旋形を描きながら舞って来るのである。
そして大部分のものはキラキラと電燈の光に輝いて、結晶面の完全な発達を知らせてくれる。
標高は千百米位に過ぎないが、北海道の奥地遠く人煙を離れた十勝岳の中腹では、風のない夜は全くの沈黙と暗黒の世界である。
その闇の中を頭上だけ一部分懐中電燈の光で区切って、その中を何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、
いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮く上がって行くような錯覚が起きて来る。
外に基準となる物が何も見えないのであるからそんな錯覚の起きるのは不思議ではないが、
しかしその感覚自身は実に珍しい今まで知らなかった経験であった。
中谷宇吉郎「雪」 美しいというより俺の好きな文章の一つ。
***
花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。
わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。
晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。
落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。
『墨東綺譚』 (永井荷風) ついでに、もう一つ俺の好きな文章の一つ。
***
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を揺かしにくる。
猫が何処かで痛く噛まれた米噛を日に曝して、あたゝかさうに眠つてゐる。
先刻迄で護謨風船(ごむふうせん)を揚げて騒いでゐた子供達は、
みんな連れ立つて活動写真へ行つてしまつた。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、
静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此の稿を終わるのである。
さうした後で、私は一寸肱を曲げて、此の縁側に一眠り眠る積りである。
『硝子戸の中』(夏目漱石) さらに、ついでに、もう一つ。
***
父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
(円谷幸吉の遺書) 白川静の書くものは、本人は美しく書くつもりがないのだろうけれど、どこか美しい
文体の背後に何かのロジックがある文章は美しく見えるのかな ユークリッド幾何学(諸君が高校あたりで知ったものね)の証明文は美しい。
芥川だったか誰だか忘れたが、文章を書く勉強は数学を学ぶのが良い、と書いていた。 殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く
ある名をば 叮嚀ていねいに書き
ていねいに 抹殺をして
焼きすてる心
ある女の写真の眼玉にペン先の
赤いインキを
注射して見る
この夫人をくびり殺して
捕はれてみたし
と思ふ応接間かな
わが胸に邪悪の森あり
時折りに
啄木鳥の来てたゝきやまずも 美を美人の美と考えるとかなり限定されるだろう
詩と言うのはそういう要素が大きいように思う
表現内容 リズム 言葉の選び方・置き方
しかし散文での美しいは美人の美をさらに敷衍して快を感じるということではないかと思う
そこで一番大きな快は文字が表現したい対象をいかにうまく表すことができているかではないかと思う 人は美しいと感じたとき脳内に快楽物質が出る。
文章を読んでそれが出る人と出ない人がいる。
出ない人には美しい文章は理解できない。 その理屈だとエログロ鑑賞して
ドーパミンどばどば出してる人もいると思うけど エログロを理解している人だ。
エログロを毛嫌いする人はドーパミンが出ないから理解できずに否定する。 芥川龍之介『蜜柑』
中勘助『銀の匙』
志賀直哉は美しいとは違うと思う すき透るような新しい湯は風呂いっぱいにみなぎって、輪切りの柚があたたかい波にゆらゆらと流れていた。
窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、かげろうのように立ちまよう湯気のなかに、
黄いろい木の実の強い匂いが籠っているのもこころよかった。
岡本綺堂『ゆず湯』 ぼくが極めて文学性の高い短編小説だと思ってる「かな式 まちかど」を一部抜粋して書き写す。
そもそものはじめから「て」には字分は何であるのかの確信がなかった。
ずっと「く」と似てるとか「へ」と読み間違えてしまうとか、
中には本当は「と」なのではないかという文字もいたが「て」にはそれのどれもが
正しいとは思えない。この左右非対称で今にも倒れてしまいそうな文字であるという
こと自体、何かの間違いがあったのではないかと思わずにはいられない。 「て」は「い」や「た」や「か」や「む」やその他無数に存在する線と線が離れて
いる文字が怖くてたまらない。「ふ」に至っては想像するだけで恐ろしくて
冷や汗が出てきて止まらなくなり字分の形が「で」に代わってしまうので、
慌てて汗を拭わなければならない。
「あんなふうに線と線が離れているのにひとつの文字だというのはいったい
どんな気分なんだろうか。彼らには字我とか字己の同一性などというものがあるのだろうか。
彼らは本当に一文字なんだろうか」 趣味で書いているのだという「ふ」の小説「一筆書きの幸福」を読んで以来
「と」は一筆書きができない字分の体形が歯がゆくて仕方ない。もうすこし右上の
斜めの線が上にずれていれば、いともたやすく一筆で書けるだろうにと思うと、
字分の運命を恨むこともある。 初めての相手は「う」だった。「う」の上の点やその下にある魅力的な曲線は
「て」とつながることでうまく「そ」になるはずだと思われたからだ。
ぬぐい去ることのできない「う」への恐怖心を抑え、実際にベッドの上で試してみると
「う」の下の曲線は「て」の上の直線とあまりにもだらしなくつながり
「そ」というより「うそ」に似ていなくもないが、もはや文字というにははばかられる
ような形にしかならなかった。 ときどき「わ」は字分が「れ」なのか「わ」なのか分からなくなる。
違いといえば左の線端が右にねじれているか左にねじれているかだけであり、
それくらいなら普段道を歩くだけで右左右左といれかわるのであり、
そのとき「わ」は「れ」になったり「わ」に戻ったりしているはずで、
だから「れ」も「わ」も本当は同じ一つの文字なのではないだろうか。
「わ」はそのように考え、その考えに熱中するあまり無意識に左の
線端をひねって「れ」になる。
「れ」は突然字分が道を歩いていることに驚く。そして一歩進むと字分が
「わ」に変わり、そして「わ」がまた一歩進むと「れ」に戻り、このように
「れ」と「わ」を繰り返していることに気づいて唖然とする。
字分は気が狂ってしまったのだろうか。これはすべて幻覚なのだろうか。 「し」は不安をまぎらわすために「じ」になってふらふら町をさまよう。
あまり長時間「じ」になりつづけていると元に戻れなくなるから気をつけなさいと
注意されているのだが、不安はつのるばかりでやめられなくなっている。
どれだけさまよっただろうか「し」が疲れて木の根元に座り込んでいると
同じように疲れきった表情の「つ」がやってきて隣に座り込んだ。
「君もか:
「ああ、君もか」
どちらともなく、言葉をかける。
「う」にはあったかい」
「いや会っていない」
「「う」がいうんだ。字分が存在しているかどうか悩んでいるということは、
その悩んでいる字分は存在しているということだろうな、てな」
「なんだそれは。詭弁だな」
「そうだ。でも、それ以上の保証は何一つないんだよ、俺たちに」
「そうだろうな」
「文字なのかな、俺たち」
「文字じゃないのかな」
「もう疲れたよ」
「俺もだ」
そういってふたつの文字は重なりあうように倒れた。
その姿は、どことなく「い」に似てはいたが、勿論「い」になることはなかった。 趣味で小説を書いているだけでおかしなやつだと思われている「ふ」は、
画数も多くゆがんだ形をしているため、初めて会った相手からは必ず怖がられる。
怖がられていることにすぐに気づきそれを不快に思う「ふ」はいつからか
ほとんど字分の部屋から出なくなってしまった。
外に出なくなった「ふ」は小説を書くことにさらに夢中になり、
休むこともなく新しい小説を書き続けている。だが、ときどき、書く画を止めては。
過去の作品について考える。
(略)
何作目だったか忘れたが「書き順も忘れられた告発」は忘れられない作品だ。
これは何か非常につらい事件があったため思い出したくもない作品なのだが、
そのせいで内容については何ひとつ思い出せない。思い出せない以上、
文字通りその作品のことを忘れることなどできはしない。
その小説は永遠に忘れられない小説のひとつだ。 文章を美しい、と形容するのが妥当だ、とすれば、
美しい文章、ってのは現代の日本語の文章だと、川端康成の雪國のような文章。
古典まで含めれば、ほとんどすべての古典の文章が美しい文章。
と、日本人なら、そう考えなければならない。
この場合、>1 は、美しい、と言ふ言葉を定義して始めなければならないのに、
バカなのでそれを怠っているから、議論にならないし、つまらない。 川端康成なんかより、料理屋で必死に書いてるポエムのがよっぽどか名文だよ。 そういったポエムや、ホテルなどの落書き帳に書かれた言葉、エロサイトの宣伝文句、
相田みつおを対象に色々と考察した「夜露死苦現代詩」って本は面白かった。 まあ、文学というよりはサブカルチャーの範疇に入るかもだが。
さっき述べたエロサイトのくだりなど、くだらなさ過ぎて爆笑したよ。
無駄な文章力の高さ。そのサイトの管理者に取材しようとしたら、いたずらと
間違えられて、マトモに相手にされなかったという挿話もいい味出してる。 美的センスは時代と共に変遷する。美しい文章もまたしかり。つまり何をもって美しいと感じるかは世代によって異なる。川端康成を美しいという人間は、古い。 「美しい文章」があるのならば「美しくない文章」があるのか。
「美しい」ということを判断するのは誰なのか。
「文章」とはなんのことなのか。これも判断されるものなのか。
いろいろと問題があっても、それを都合のいいように解釈する。
それが「美しい」ことなのか。
「読み手」としての「あなた」が「美しい」かどうかによって「すべて」が決まったりはしないのか。
そもそも「美しい」とはどういうことなのか。一種の性的衝動を生じさせるものなのか。 美しい容器は中身を美しいと誤認させる。
文章は容器なのか中身なのか。
容器として機能している文章もあれば裸の文章もあるのだろう。
記号列としてみれば依り代なのかもしれない。
多重装甲されていて重装であってもそこに美しさをみいだすことは可能だ。
みいだすということを先送りすれば「美しさ」は客観的に定義できるかもしれない。
しかしながら読み手側にゆだねられる問題でもある。
真に美しい文章は中身が無く、それゆえに美しくない。
美しい文章など存在しない。美しいと感じる文章なら存在する。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ ネット上で熟語や慣用句の誤用に関する議論を観察したり、自分も参加したりするのが好きなんですが
他人の誤用を批判している人と言葉を交わしていると、批判側の方が逆に知識が浅く、語学力が低いと感じることがまれによくあります。
そうした人達がよく他人を批判するのに振り回しているのが辞書なのですが、
そもそも辞書というのはざっくりとした調べ物に使うもので、日本で使われている言葉が全て載っているわけでもなく、また一つの言葉にある程度幅広い用法がある場合その全てが載っているとも限らず、
同じ言葉でも出版社によって意味の解釈が違ったりとその実ビミョーにアテにならない存在なのです(て言うかそういう注意書き、辞書の凡例のとことかに書いてません?)
辞書自体が間違っている場合も稀にはありますし、足りない記述から実際の使い方の正誤を判断するのが難しい場合もあります。
最近では「爆笑が大勢で一斉に笑う事だという辞書の記述が完全な間違いだった」という事を古い書物を多数引用して証明したかなり詳細な研究結果が公開されていますね。
同じ笑いでは、「失笑」に関して「あざ笑うイメージではなく、本当におかしくて自然と笑いが吹き出すシーンに用いるのが正解」などと書いてあるブログ等もありますが、恐らく間違いかと思われます。
元々失笑とは笑ってはいけない場面で笑う事であり、他人をあざ笑う事自体が礼儀に反する「やってはいけない笑い」である事を考えると
「馬鹿にしたようにふっと笑う」事も辞書に書いてある「失笑」の意味の範囲内に充分含まれ、昔から正しい使い方だったと考えて良いでしょう。 この他の近年の誤用系トピックとしては「敷居が高い」に関して、ネット上ではずっと誤用だとされていた「貧乏人には敷居が高い高級店」的な用法が正しいものとして2017年から辞書に載り始めたというものがありますが
実はこれも当然の事で、そもそも敷居が高いとは「そこに入りたくないという思いがあると、簡単にまたげる筈の敷居がまたげない程高く感じる」という心理的な比喩表現であり、
不義理云々は一部の辞書で「不義理など」と敷居が高くなる原因の例として挙げられていただけで、
元々「不義理が原因の場合にしか敷居が高いを使わない」などという話は昔から誰もしていなかったのです。
(要するに時代の変化で意味が変わったんじゃなくて、
あなたみたいな辞書しか読めないピーが間違った日本語知識を撒き散らすから辞書側が対策とったんだと思いますよ、コピーバノさん!) 追伸…「言葉の意味は時代によって変わる」ってセリフ、
世間では誤用をしていた人の言い訳というイメージがあるかもしれませんが、議論を何度もやった自分の経験から言えば
浅薄な知識で他人の言葉遣いを批判する
↓
『いや、昔からこの意味であってるけど?』
と反撃される
という目にあったtrollは高確率で
「言葉の意味は時代によって変わるって言いますからね、ジャッ!」
って話をウヤムヤにして逃げようとします コンパクトに主張をまとめる苦行を経てない気がいたします。
短文にまとめられる。それがスキルです。 男は美学もいいけど ヴィーナスみたいなのを言葉紡いで語るんだよ。
エロサイド やタナサイトだけじゃあね。 デウラー とか マテスとかね、でも教授や講義者、事務方の方がもう時代はいいんだよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています