アンナ・カレーニナは今で言うNetflixのメロドラマくらいのものだと思う

わざわざアンナ・カレーニナを大衆文学と言い張るつもりはないけど、そこからの連想として言えるのは
大衆文学でも当時を知る資料になりさえすれば個人的かつ陳腐な美学の発露程度の純文学くらいなら軽く通りこして古典と称される可能性があるってことなんだよね

一方で現代の純文学や大衆文学と呼ばれるものに妙な垣根のなさを感じることがある
それを支える要素のひとつに通信機器の普及や変遷があると思う
「既読無視マヂムカつく」というセリフのある小説があったとして
それが世代、時代、時間のどれに強く属しているか計る術がなく、現代人が現代作品を古典に認定できない以上、この現象は後世の学者の選別眼の中にしかない

国会図書館って偉大だね