純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学
らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
日本の純文学と大衆文学の違いは選考委員のメンツによって規定されていると言って間違いない
彼らをリスペクトした作品で有ればリスペクトした作家が選考委員している賞に与する文学
彼らを無視した作品は無視されるというね >>14
そうだと思う
古典に通じた人が書くと純文学
中国などでいう文人が書いたもの
そうでないのが大衆文学
だからと言って、純文学が優れているわけではないけど 問題提起をしても回答しない、読み手に任せる、伏線をはっても回収しない、読み手に委ねるのが純文学。答えは出ない、ドラマチックじゃない、完璧な人間はいない、それが現実だから。
問題提起に回答して伏線を回収するのがエンタメ。偶然の要素やご都合主義やチート設定や不幸てんこもりが多い。
支離滅裂なことを並べ立ててもそれが美的鑑賞に優れてるなら文学(芸術)として成り立つ
純文学はたしかに天性の才能がいるだろうけど、エンタメのほうが作業量は多くなりそう 人間は本質的に神話と民話という2種類のタイプの物語を求める生き物だ。
世界中、あらゆる時代にこれは当てはまる。
これが現代の日本においては純文学と大衆文学として展開されている。
それだけのこと。
両者の違いはリアリティーがあることと、フィクションを前提としていること。 >>549
神話にリアリティがあって、民話がフィクションだと
あんまり説得力ないですね >>550
チョット言い方が不味かったけど
神話は事実として語られるということ 大衆文学と純文学を対置させるなんてまだそんな古い価値観もってんのか >>553
民話は違うだろ
昔々あるところにって感じで
ストーリーの面白さが主眼になってる ウィキペディアで純文学を調べたら
英語版がない
これが実態
日本語にしかない概念
海外だとジャンル小説と普通小説が便宜上区別される感じかな
SFがカバーにサイエンス・フィクションとかかれ、普通小説がノベルとだけかかれるみたいな ストーリーを書けないやつが文章は上手いでしょと自慢したがるのが純文学
というイメージだな。 物語とは関係ない文字の並びから垣間見える美しさが文学の本質だからね >>554
世界大百科事典だとこうなってて、オイラも同様の認識:
〈民話〉には口伝えという前提があるので,創作民話という表現は,自己矛盾である。民話が含む範囲を具体的にいえば,昔話のほかに世間話,実話が多少口伝えされた伝聞実話,神話・伝説・昔話の一体となった話(沖縄などに多い),歴史的事実のようだが確認できない話などである。 小沢 俊夫 >>558
小沢健二の父親なんだな
民話が専門らしから、全部入るように見えるんじゃないの
でもそれだと神話との違いが出てこない >>560
神話には権威があるんじゃね
王家の起源とか、世界、国の起源とか
一方、民話はもっと周辺とか身近な出来事が基になってるかんじで、権威なく民間の伝承ってかんじ
どちらも何らかのもとねたはあると思う 神話は世界観・宇宙観を叙述する神聖なもの
民話は主に話の面白さを目的とする俗的なもの 神話民話
そんなものなんの関係もない
なにトンチンカンなこと言ってるんだ 神話的なもの民話的なものを人間は普遍的に求めるものであり
それが現代日本では純文学大衆文学に対応するのではという仮説 小説のセリフはどこか乾いた感じがする
ただの口述記録のような印象を受ける
それに比べて、ドラマは小説よりセリフに凄みがでるから感情移入しやすい気がする
文字の限界か 純文学=文學界新潮群像すばる文藝に載るもの
大衆文学=それ以外
で問題ない
例えば、三島由紀夫が週刊新潮で連載した作品は大衆文学、新潮に載せた作品は純文学、
松本清張も新潮に載せた作品は純文学、小説新潮や週刊新潮に載せた作品は大衆文学、とすればそれで良い。 純文学は売れなくても賞がとれればいい。
大衆小説は売れないと賞がとれない。 サリンジャーのナインズストーリーと
スティーブンキングの刑務所のリタヘイワースをどちらも原文で読んだけど、サリンジャーの独特の雰囲気のほうが勝ってる気がした
あくまでも個人的な意見 純ゲームとかはないし大衆ゲームとかもない
でも純文学と大衆文学の区別はある
時代による でも文章の芸術性を破棄してしまったら、
別に小説なんか読まずに漫画とか映画見てればいいんじゃねとは思う 今は境界は曖昧になりつつあるけど
60年代くらいの混ざりぐあいはすごいな
三島由紀夫の春の雪みたいのがある一方で、
松本清張の黒い画集なんかもあるんだからな
同時代にあったというのがすごい 昔は帝大出が書く西洋化されたものが純文学
江戸からの流れのものが大衆文学だったろうから 日本は西洋的近代文明を知識として取り入れたから
明治以降小説家や文芸評論家が知識人のトップランナーの位置づけだった
純文学をありがたがるのはその時の風習 >>575
だよね、オイラ的には漱石は知識も詩心も傑出してるけど、鴎外は知識だけの優等生に感じる
露伴、湖南あたりの西洋にあまり強くない人は評価されないのも残念 純文学という言葉を最初に用いたのは北村透谷だっけ
西洋の影響は否定できないね
西洋と漢籍の両方の教養を備えていたがゆえにかえって、鷗外漱石は西洋崇拝の終わった現代でもなお読むに耐えるのは皮肉 松本清張は娯楽小説のなかに純文学的な要素をとりいれた最初の作家って書いてあったけどなるほどなと思った 人は小説のなかに物語性を求めるのと同時に、人生に関わる重いテーマや文章の芸術性も求めるという強欲ぶり >>578
清張は松本文学と言ったりする人もいるが
完全なエンターテイメントだと思う 江戸川乱歩も最近岩波文庫に入ったりするけど、微妙だよね
たしかに初期作品は耽美派の意味で意欲的なのもあるけど、蜘蛛男以降は完全なエンターテイメントだし >>579
どっちもあればいいじゃない
物語の中に人間も社会的テーマも入っていて面白ければいいんじゃないの?
つまらないものを純文学だと保護する意味がわからない 夏目漱石はやはりA型か
理想主義なところが彼を破滅させた そもそも神話的な物ってどんな物なのか一ミリもわからん
なんかすごい物って感じで適当に言ってね? >>585
漱石先生はおっしゃいました
文学の基礎は「善」「美」「真」「荘厳」「知的好奇心」の五つでてきてる
このうち善や知が強くなればエンタメ寄りとなり
美や真が強なれば文学寄りとなる
どんな三文小説でもその作者のものの見方を内包した文学作品であり
どんな一流文学でも読者を楽しませるために書いたエンターテイメントである 今はたとえば古事記などの神話でも事実と思うやつはいないから
逆に神話という言葉の意味自体が不明確になっているのだろうが
もともとは世界の始まりとか人間の誕生とか、人間とはなんなのかとかを
シリアスに伝えるみたいなものだった
というようなことはウィキでも分かると思う 大衆文学は短期投資。今売れなくては話にならない。
純文学と言われるものは超長期投資。100年後に長く売れることが目的。 短期での利益回収を目的に投資するなら大衆文学で、
超長期での利益を目的に投資するならそれは純文学となる。
ちなみに文章の芸術性やら云々というのは、超長期での利益を狙うための手段にすぎないが、これを錯覚すると本質が見えなくなる。
ちなみに短期であれ超長期であれ、利益(ベネフィット)を全く考慮に入れない「文学」が存在した例はない。
そういう「文学」が存在すると信じているのは、得てしてロマン派の錯覚であり、転倒の産物である。 大衆文学は何が書かれているかが大事
純文学はどう書かれているかが大事
大衆文学は一回読んだら二度読もうと思わない
純文学はスルメのように何回でも読める だからやはり純文学は教育に向いてるし学問に近いと思う >>591
そりゃ単にあんたの好みだ
俺は大衆だろうが純文だろうが一回しか読まない >>591
むしろ話は逆で
純文学こそ何が書かれているかが大事、大衆小説はどう書かれているかが大事ではないかと思う
大衆文学はSF・歴史・ロマンス・ミステリ・ホラー等のジャンルの枠の中に収まる題材しか書くことができない
あくまでその枠内のバリエーションでしかないから何を書くかよりどう書くかが重要になってくる New Century New Cinema
ひとはイメージという病にかかった
2009/01/15
ロッセリーニの『不安』は女を操って浮気をした妻を脅迫する夫という話で、
この「操作する」という点が共通していて面白いんですが、
後に出てきたファスビンダーやジーバーベルクらニュージャーマン・シネマの人々は
ヒトラー時代に人々を操っていたメディアの作り出したイメージを
批判するための映像を発明しなければならなかったということがあります。
フランスはもちろんヌーヴェル・ヴァーグがそれ以前の老人の映画を攻撃して出てきたわけですが、
今のフランスの映画批評がなお芸術という領域にとどまり続けている(笑)というところに問題があると思います。
問題なのは映像を見る側がいまだに芸術とか娯楽とかの古い枠内にとどまってしまって、
映像イメージを日常のツールとして誰もが使用する時代に我々がかかった
「イメージの病」について考えることから背を向けていることです。
それは映像イメージが意図的または非意図的に人を操る能力を仮にそう呼んでみたんですが、
かつての映画が持っていて今のテレビが行使している機能のように、
イメージが世界を覆ってその外側がないかのように思わせる操作や、
あるいはカップルの間、人と人との間にも過剰なイメージというものが介在していて、
互いの見方を固定しにかかったり孤独にさせたりするということがあります。
そういった諸々の操作から、見る側がイメージ自身の成り立ちを考えることによって
解き放たれることができるようにする現代映画は、
イメージの病に対する一種の処方箋とも呼べるものなんです。
©Akasaka Daisuke