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純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何?   [転載禁止]©2ch.net
0001吾輩は名無しである2015/10/05(月) 18:06:24.39
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学

らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
  
0545吾輩は名無しである2021/04/18(日) 07:13:43.80ID:N93h4c/m
日本の純文学と大衆文学の違いは選考委員のメンツによって規定されていると言って間違いない
彼らをリスペクトした作品で有ればリスペクトした作家が選考委員している賞に与する文学
彼らを無視した作品は無視されるというね
0546吾輩は名無しである2021/12/24(金) 22:15:29.91ID:k+IvUmWV
>>14
そうだと思う
古典に通じた人が書くと純文学
中国などでいう文人が書いたもの
そうでないのが大衆文学

だからと言って、純文学が優れているわけではないけど
0547吾輩は名無しである2022/01/03(月) 11:14:46.14ID:G2ZnRTzY
問題提起をしても回答しない、読み手に任せる、伏線をはっても回収しない、読み手に委ねるのが純文学。答えは出ない、ドラマチックじゃない、完璧な人間はいない、それが現実だから。
問題提起に回答して伏線を回収するのがエンタメ。偶然の要素やご都合主義やチート設定や不幸てんこもりが多い。

 
0548吾輩は名無しである2022/01/03(月) 11:30:46.26ID:W2MXB9xg
支離滅裂なことを並べ立ててもそれが美的鑑賞に優れてるなら文学(芸術)として成り立つ
純文学はたしかに天性の才能がいるだろうけど、エンタメのほうが作業量は多くなりそう
0549吾輩は名無しである2022/01/05(水) 19:34:48.94ID:qb6/ZOIB
人間は本質的に神話と民話という2種類のタイプの物語を求める生き物だ。
世界中、あらゆる時代にこれは当てはまる。
これが現代の日本においては純文学と大衆文学として展開されている。
それだけのこと。
両者の違いはリアリティーがあることと、フィクションを前提としていること。
0550吾輩は名無しである2022/01/07(金) 19:26:36.58ID:HIVAoWtx
>>549
神話にリアリティがあって、民話がフィクションだと
あんまり説得力ないですね
0551吾輩は名無しである2022/01/09(日) 14:09:25.57ID:nsCPODeQ
>>550
チョット言い方が不味かったけど
神話は事実として語られるということ
0552吾輩は名無しである2022/01/09(日) 14:21:02.04ID:Z/FAvUmE
大衆文学と純文学を対置させるなんてまだそんな古い価値観もってんのか
0554吾輩は名無しである2022/01/09(日) 22:39:49.23ID:nsCPODeQ
>>553
民話は違うだろ
昔々あるところにって感じで
ストーリーの面白さが主眼になってる
0555吾輩は名無しである2022/01/10(月) 05:48:46.80ID:n5cycdkP
ウィキペディアで純文学を調べたら
英語版がない

これが実態
日本語にしかない概念

海外だとジャンル小説と普通小説が便宜上区別される感じかな
SFがカバーにサイエンス・フィクションとかかれ、普通小説がノベルとだけかかれるみたいな
0556吾輩は名無しである2022/01/10(月) 09:17:17.77ID:2mQwGPo5
ストーリーを書けないやつが文章は上手いでしょと自慢したがるのが純文学
というイメージだな。
0557吾輩は名無しである2022/01/10(月) 09:37:53.94ID:0kMYeCIV
物語とは関係ない文字の並びから垣間見える美しさが文学の本質だからね
0558吾輩は名無しである2022/01/10(月) 15:14:57.36ID:HQmhC/xq
>>554
世界大百科事典だとこうなってて、オイラも同様の認識:

〈民話〉には口伝えという前提があるので,創作民話という表現は,自己矛盾である。民話が含む範囲を具体的にいえば,昔話のほかに世間話,実話が多少口伝えされた伝聞実話,神話・伝説・昔話の一体となった話(沖縄などに多い),歴史的事実のようだが確認できない話などである。 小沢 俊夫
0560吾輩は名無しである2022/01/10(月) 18:54:23.94ID:ncVIJarw
>>558
小沢健二の父親なんだな
民話が専門らしから、全部入るように見えるんじゃないの
でもそれだと神話との違いが出てこない
0561吾輩は名無しである2022/01/10(月) 20:08:52.02ID:as7cKxsU
>>560
神話には権威があるんじゃね
王家の起源とか、世界、国の起源とか
一方、民話はもっと周辺とか身近な出来事が基になってるかんじで、権威なく民間の伝承ってかんじ

どちらも何らかのもとねたはあると思う
0562吾輩は名無しである2022/01/11(火) 13:13:49.42ID:nzNZ4DWN
神話は世界観・宇宙観を叙述する神聖なもの
民話は主に話の面白さを目的とする俗的なもの
0563吾輩は名無しである2022/01/11(火) 17:53:53.55ID:i6Dkin3e
神話民話
そんなものなんの関係もない
なにトンチンカンなこと言ってるんだ
0564吾輩は名無しである2022/01/11(火) 18:17:43.66ID:nzNZ4DWN
神話的なもの民話的なものを人間は普遍的に求めるものであり
それが現代日本では純文学大衆文学に対応するのではという仮説
0565吾輩は名無しである2022/01/22(土) 09:34:13.29ID:aNIN6Pub
小説のセリフはどこか乾いた感じがする
ただの口述記録のような印象を受ける
それに比べて、ドラマは小説よりセリフに凄みがでるから感情移入しやすい気がする
文字の限界か
0566吾輩は名無しである2022/01/29(土) 00:44:06.51ID:AYg7CgnW
純文学=文學界新潮群像すばる文藝に載るもの
大衆文学=それ以外
で問題ない

例えば、三島由紀夫が週刊新潮で連載した作品は大衆文学、新潮に載せた作品は純文学、
松本清張も新潮に載せた作品は純文学、小説新潮や週刊新潮に載せた作品は大衆文学、とすればそれで良い。
0567吾輩は名無しである2022/01/29(土) 03:37:56.48ID:IOcPfB5n
純文学は売れなくても賞がとれればいい。
大衆小説は売れないと賞がとれない。
0569吾輩は名無しである2022/02/05(土) 16:17:28.42ID:9acFBNg0
サリンジャーのナインズストーリーと
スティーブンキングの刑務所のリタヘイワースをどちらも原文で読んだけど、サリンジャーの独特の雰囲気のほうが勝ってる気がした
あくまでも個人的な意見
0570吾輩は名無しである2022/02/12(土) 22:44:13.40ID:v54YW/KE
純ゲームとかはないし大衆ゲームとかもない
でも純文学と大衆文学の区別はある
時代による
0571吾輩は名無しである2022/02/13(日) 10:14:14.56ID:KNB1nZXj
文章の芸術性を求めるかどうかの違いだけだ
0572吾輩は名無しである2022/02/13(日) 10:18:01.92ID:zs5QoaK6
でも文章の芸術性を破棄してしまったら、
別に小説なんか読まずに漫画とか映画見てればいいんじゃねとは思う
0573吾輩は名無しである2022/02/13(日) 10:39:51.30ID:ixhjn3xO
今は境界は曖昧になりつつあるけど
60年代くらいの混ざりぐあいはすごいな
三島由紀夫の春の雪みたいのがある一方で、
松本清張の黒い画集なんかもあるんだからな
同時代にあったというのがすごい
0574吾輩は名無しである2022/02/13(日) 11:30:47.14ID:oFwec1ax
昔は帝大出が書く西洋化されたものが純文学
江戸からの流れのものが大衆文学だったろうから
0575吾輩は名無しである2022/02/13(日) 14:05:50.14ID:m5rPe7Th
日本は西洋的近代文明を知識として取り入れたから
明治以降小説家や文芸評論家が知識人のトップランナーの位置づけだった
純文学をありがたがるのはその時の風習
0576吾輩は名無しである2022/02/13(日) 15:13:40.51ID:oFwec1ax
>>575
だよね、オイラ的には漱石は知識も詩心も傑出してるけど、鴎外は知識だけの優等生に感じる
露伴、湖南あたりの西洋にあまり強くない人は評価されないのも残念
0577吾輩は名無しである2022/02/14(月) 23:39:20.26ID:VMkB9pvQ
純文学という言葉を最初に用いたのは北村透谷だっけ
西洋の影響は否定できないね
西洋と漢籍の両方の教養を備えていたがゆえにかえって、鷗外漱石は西洋崇拝の終わった現代でもなお読むに耐えるのは皮肉
0578吾輩は名無しである2022/02/20(日) 18:55:42.42ID:qp5FPUXP
松本清張は娯楽小説のなかに純文学的な要素をとりいれた最初の作家って書いてあったけどなるほどなと思った
0579吾輩は名無しである2022/02/20(日) 18:57:48.62ID:qp5FPUXP
人は小説のなかに物語性を求めるのと同時に、人生に関わる重いテーマや文章の芸術性も求めるという強欲ぶり
0580吾輩は名無しである2022/02/20(日) 19:30:17.83ID:lFZj3evM
>>578
清張は松本文学と言ったりする人もいるが
完全なエンターテイメントだと思う
0581吾輩は名無しである2022/02/20(日) 23:36:29.82ID:v3znac7R
江戸川乱歩も最近岩波文庫に入ったりするけど、微妙だよね
たしかに初期作品は耽美派の意味で意欲的なのもあるけど、蜘蛛男以降は完全なエンターテイメントだし
0583吾輩は名無しである2022/02/28(月) 14:52:07.87ID:g+SfVnkc
>>579

どっちもあればいいじゃない
物語の中に人間も社会的テーマも入っていて面白ければいいんじゃないの?
つまらないものを純文学だと保護する意味がわからない
0585吾輩は名無しである2022/03/05(土) 14:56:32.71ID:IsUpL+j0
夏目漱石はやはりA型か
理想主義なところが彼を破滅させた
0586吾輩は名無しである2022/03/05(土) 16:08:13.79ID:u6YdDrve
そもそも神話的な物ってどんな物なのか一ミリもわからん
なんかすごい物って感じで適当に言ってね?
0587吾輩は名無しである2022/03/05(土) 16:12:57.17ID:u6YdDrve
>>585
漱石先生はおっしゃいました
文学の基礎は「善」「美」「真」「荘厳」「知的好奇心」の五つでてきてる
このうち善や知が強くなればエンタメ寄りとなり
美や真が強なれば文学寄りとなる
どんな三文小説でもその作者のものの見方を内包した文学作品であり
どんな一流文学でも読者を楽しませるために書いたエンターテイメントである
0588吾輩は名無しである2022/03/06(日) 15:04:40.32ID:5+xaq55e
今はたとえば古事記などの神話でも事実と思うやつはいないから
逆に神話という言葉の意味自体が不明確になっているのだろうが
もともとは世界の始まりとか人間の誕生とか、人間とはなんなのかとかを
シリアスに伝えるみたいなものだった
というようなことはウィキでも分かると思う
0589吾輩は名無しである2022/03/14(月) 23:59:58.21ID:tmYVLoDD
大衆文学は短期投資。今売れなくては話にならない。
純文学と言われるものは超長期投資。100年後に長く売れることが目的。
0590吾輩は名無しである2022/03/15(火) 00:18:52.42ID:XEQDutf6
短期での利益回収を目的に投資するなら大衆文学で、
超長期での利益を目的に投資するならそれは純文学となる。

ちなみに文章の芸術性やら云々というのは、超長期での利益を狙うための手段にすぎないが、これを錯覚すると本質が見えなくなる。
ちなみに短期であれ超長期であれ、利益(ベネフィット)を全く考慮に入れない「文学」が存在した例はない。
そういう「文学」が存在すると信じているのは、得てしてロマン派の錯覚であり、転倒の産物である。
0591吾輩は名無しである2022/03/15(火) 07:15:56.23ID:3xajk7nU
大衆文学は何が書かれているかが大事
純文学はどう書かれているかが大事
大衆文学は一回読んだら二度読もうと思わない
純文学はスルメのように何回でも読める
0592吾輩は名無しである2022/03/15(火) 07:17:24.43ID:3xajk7nU
だからやはり純文学は教育に向いてるし学問に近いと思う
0593吾輩は名無しである2022/03/16(水) 18:47:37.39ID:puXHqLB4
>>591
そりゃ単にあんたの好みだ
俺は大衆だろうが純文だろうが一回しか読まない
0594吾輩は名無しである2023/02/05(日) 18:42:11.06ID:1PTOmLOR
>>591
むしろ話は逆で
純文学こそ何が書かれているかが大事、大衆小説はどう書かれているかが大事ではないかと思う
大衆文学はSF・歴史・ロマンス・ミステリ・ホラー等のジャンルの枠の中に収まる題材しか書くことができない
あくまでその枠内のバリエーションでしかないから何を書くかよりどう書くかが重要になってくる
0595吾輩は名無しである2023/06/27(火) 01:37:53.44ID:IeJX/sAq
New Century New Cinema
ひとはイメージという病にかかった
2009/01/15

ロッセリーニの『不安』は女を操って浮気をした妻を脅迫する夫という話で、
この「操作する」という点が共通していて面白いんですが、
後に出てきたファスビンダーやジーバーベルクらニュージャーマン・シネマの人々は
ヒトラー時代に人々を操っていたメディアの作り出したイメージを
批判するための映像を発明しなければならなかったということがあります。
フランスはもちろんヌーヴェル・ヴァーグがそれ以前の老人の映画を攻撃して出てきたわけですが、
今のフランスの映画批評がなお芸術という領域にとどまり続けている(笑)というところに問題があると思います。

問題なのは映像を見る側がいまだに芸術とか娯楽とかの古い枠内にとどまってしまって、
映像イメージを日常のツールとして誰もが使用する時代に我々がかかった
「イメージの病」について考えることから背を向けていることです。
それは映像イメージが意図的または非意図的に人を操る能力を仮にそう呼んでみたんですが、
かつての映画が持っていて今のテレビが行使している機能のように、
イメージが世界を覆ってその外側がないかのように思わせる操作や、
あるいはカップルの間、人と人との間にも過剰なイメージというものが介在していて、
互いの見方を固定しにかかったり孤独にさせたりするということがあります。
そういった諸々の操作から、見る側がイメージ自身の成り立ちを考えることによって
解き放たれることができるようにする現代映画は、
イメージの病に対する一種の処方箋とも呼べるものなんです。
©Akasaka Daisuke
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