小林秀雄 その九 [無断転載禁止]©2ch.net
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291 : 吾輩は名無しである2016/02/04(木) 21:36:25.64
小谷野敦
若い頃の私は小林にかぶていて小林流の文章を書いていたが、三十五を過ぎるころから意識的にそれをやめた。
「『こころ』は本当に名作か」P163新潮新書 298 : 吾輩は名無しである2016/02/07(日) 00:06:28.20
渡部直己 カミュ、サルトル。さっきの富岡さんの埴谷じゃないけどね。構造主義に関しては非常に似たような関係があって、そんなに早くから知っているわけじゃないですよね。
で、いつどこにでもいる文学青年をやっていて、それで面白いのは一番最初に魅了されたのが詩だったのね。ことばそのもの。
三田誠広 それはフランスの詩?
渡部 いえいえ、萩原朔太郎とかね。その前は立原道造を読んで泣いたとかね。非常に軟弱な……。
富岡幸一カ いつぐらい?
渡部 高校ぐらい。そのあと一番影響されたと思うのは、やはり小林秀雄と坂口安吾かな。十八ぐらいのとき。「HELLO GOODBYE」にも書いたけど、高校三年の時に学園紛争だったのね。
その時ちょうど小林と坂口を夢中になって読んだ頃だったから、そこでノンポリきめこんじゃった。
高校ってのは小さな共同体だから、ノンポリきめこむこと自体にも割とリアクションがあって面白かったのね。それで、小林のセンで仏文に行ったという感じがあります。
三田 正統的にフランス文学を勉強したわけですね(笑)。
渡部 そうかもしれない、それは。だから大学の四年間を通しては、まあいろいろあるんだけど、卒業論文はカミュです。
三田 大学院もいったんじゃないですか(笑)。
渡部 そう、その他ドストエフスキーとかね、いわゆる小林のパラダイムの中にいましたね、まだ。
で、大学院の一年目くらいまでそうだと思うんだけども、まあその頃に紆余曲折の末、平岡(篤頼)さんのゼミをとってしまったという(笑)。これがわりと決定的でね。
「若手批評家」の現在-3- 富岡渡部三田 早稲田文学1985/3 >>3 >>4
へ〜小谷野や渡辺直己も小林に熱中した時期があったと。文学界における
はしかみたいなものか。誰でもみなかかる病気であったわけだねw 413 :考える名無しさん:2016/03/11(金) 05:45:18.73 0
絓 僕が最初に書いたもので活字になったのは、恥ずかしながら小林秀雄論なんです。十九のときなんだけどさ。
島 それは初耳です。
絓 島さんほどじゃないかもしれないけれども、もしかしたら、わりといかれていたのかもしれないですね。
島 それはぜひ読みたいですね。
絓 だけど、当時、たとえばブランショを読んでいたら、ブランショの方がすごいやと思っちゃったね。フランスと日本の違いなんか全然関係ないですよ。
寝っころがってブランショを読んでいて、五月革命でブランショがデモに行こうとしているのを知ると、ブランショの方が全然すごいと思っちゃう。僕はいまだに左翼だから。(笑)
富岡 だから、文壇に受け入れられる。(笑)
絓 あのときから、小林秀雄に興味が全然なくなっちゃったの。おれが当時読んでいたコンテクストは、小林秀雄は左翼だというコンテクストですね。
それは戦後派のコンテクストだと思うんですけれども、その捉え方は、いまだにそんなに間違っていないと思う。左翼だったらブランショの方がすごいやと、簡単に思うっちゃうわけよ。
島さんの『<感想>というジャンル』を読んでも、島さんのような秀才が、どうして小林秀雄にすっと入っちゃうんだろう。それがよくわからなかったですね。
島 [中略]僕も一回、かなりはっきり興味をなくしたことがあるんですよ。それはさっきいったことともちょっと関係しますが、英語を読むのがただ忙しいとか、
そんなことがあったり、あるいはポール・ド・マンだって、最初読んだころは、小林よりよっぽど頭がいいみたいに見えたこともありますけれどもね。
絓 頭じゃないんです。おれは、そのときブランショの方が左翼だと思ったのね。
「批評の根拠をどこに求めるか」絓秀実・島弘之・川村湊・富岡幸一郎・井口時男 群像1989/8 批評も文学として読めば、そういう作品だとしか思わない。
まあ、批評家は作家と読者の中間に位置するものとして、両サイドの便宜になるような
活動が、少なくとも読者としては、うれしい。 >>8
小説などの創作は、妄想を含めて現実を対象とする。
文芸批評は、その創作されたものを対象とする。
そんな感じかな? 小林にかぶれるって謎だわ。
だから俺は批評読むのは好きでも批評家になりたいなんて考えもしなかった理由なのかなぁ。 物語創作という形で表現するかあるいは作品解釈という形で主張するか
まあ、後者の方が自己主張はしやすいわけです。
小林は批評だから後者に属するのだけど表現のようなところがある。
これは花田にも共通することで彼らは主張者であると当時に表現者なんですね。
衒気さかんな若者(とくに文学青年)が夢中になるのはそういう所でしょう。 穿った見かたをすると、若年層には、個人の表現者に夢中になる人が少なくなってる気がする。
アイドルを追うのも、グループの一人として追いかけてる気がする。
グループが解体したら、アイドルではなくなってしまうようにも見える。
作家や評論家は、例外的には複数で個人を名のる人もいるが、やはり個人の表現だ。
個人を対象とする緊張感に耐えられないのか、グループであることの安心感からなのか。
心酔する対象がいないと、対象を乗り越える力が弱くなる気がする。 僕は現実にも心酔している人がいるし、会ったことはないけど、その人の書くものを読んで心酔するようになった人もいるよ。小林秀雄もその一人。 信仰心の足りない奴はダメだって小林秀雄は言ってたよ(笑) 乗り越えることができないやつは、もっとダメ、だろ? 浅田 ともあれ、『私小説論』は措くとしても、小林には相対的他者との偶然的関係の絶対性
という問題意識があった。『私小説論』でも、ジッドを論じながら、本当はドストエフスキー
を考えているのかもしれず、その水準では同じことが言えるかもしれない。ただ、その水準で
も、小林は最初から最後まで良かったとも言えるし悪かったとも言えると思うんです。という
のは、それを「宿命」という言葉で呼んでしまうでしょう。もちろん『様々なる意匠』で言う
通り、宿命というのは、AでもBでもCでもありえたのになぜか他ならぬAであるという相対
的な事実の絶対性ということで、その意味において他者性や社会性の認識を含んでいる。とこ
ろが次の段階で批評の話になると、作品をさまざまな角度から体系的に解析しようとした果て
に、「作者の宿命の主調低音」が響いてきて、この響きを聞いたときに自分が批評を書きだせ
る、という浪花節的な話になる。つまり、意識を超えたところで作者=作品=批評家のイマジ
ネールな同一化が生じるというわけですね。だから「宿命」というのは他者性や社会性にさら
された差異の意識でもあるけれど、同時にそれがもっとも内面的な同一性に転化できるように
なっている。 それめちゃくちゃ面白いな。どの本に載っていますか? 浅田彰の凄いところはこれだけ的確な分析を口で言える事だよな。 これが小林秀雄に対する本質的な批判でしょ。吉本隆明の小林秀雄批判がどれだけ下らないものか、これを読めばわかるよな。僕は小林秀雄を擁護したいけど。 蓮實 小林に「花の美しさなんてない、美しい花があるだけだ」という言い方がありますが、
それは「美しさ」という概念の分析記述はしまいということでしょう。その場合、保田にあって羅列であったものが、
小林では論証ぬきの断言になる。つまり内包を確定することなしに話が進むわけで、ぼくはこ
こらへんで二人が重なってくるように思えるんです。
蓮實 人は「花の美しさ」を論じうるんですよ。「美しい花」を分析=記述することでね。
その段階を踏むことなく小林的に表象性を否定することは、何も言っていないと同じなんです。 「教祖の文学」でも「言葉遊びじゃないか」って言われてたね。 柄谷も似たこと言ってたね。漱石を踏まえて文学の科学は可能であると同時に不可能なんて事実だけど何も言ってないのと同じってw そこでなぜ柄谷行人がそれでも小林秀雄を尊敬しているか、という謎が問題ですね。僕は柄谷行人が小林秀雄に憧れていたと確信している。 だって小林秀雄かっこいいじゃん。これを読めば一目瞭然ですよ。
小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061984160/ 読みすぎて真っ黒になってるよ。>>27は。電子書籍化したもの。すぐに引用出来るよ。 bootで電子書籍化した。僕は小林秀雄と坂口安吾の伝説的対談「伝統と反逆」を今度Twitterに流そうと思っている。全ての日本人が読むべき対談。 2冊目を買って、その綺麗な方を業者に送ってPDF化した。その本に書き込みがあったのでムカついている。 これはNさんも知ってる話なんだけど、僕は「伝統と反逆」を全文文字起こしして(多分全ページスキャンしてOCRにかけたやつだと思う)、当時はかなり拙い技術だったText to Speechで音声化して文学板に撒いてたよ。狂ってるでしょ。 小林の文章って何か安っぽく感じちゃって苦手だな。
あの安っぽさが逆に「大衆的文学青年」を惹きつけるのかもしれんがw てめーでそれ以上のものが書けるわけでもないのに、そのえらそうな態度は何だ?(笑 >>32
安っぽくないよ。今でも通じる金言をたくさん残している。
>>33のレスは、僕が書いたっぽいけど違うので。 金言っつーか箴言・皮肉・ジョークが作れ、安っぽくない文章が書けるなら、評論家になんかならず小説家になってるよ(笑 >>35
安吾は小林の文章は心眼を狂わせる力があるって言ってるよ。 僕は小林秀雄になりたい。なれないけど、近づきたい。 >>7
小林いわく、マイクを忘れたジャズシンガーと。
>>19
これも近代日本の批評に載ってんじゃなかった? あの本は
ほとんど小林秀雄批判でうまってるねw しかしこの批判は要するに
宿命という言葉が気に入らない、といってるだけに聞こえるねw
まあ小林にもいろいろ弱点はあるが、詩的喚起力が非常に強かったのは
今まで出てきたいろいろな証言にあるとおりなわけだねw >>43
ほんとそう。含蓄のある言葉を紡げる人だった。 それは「詩的喚起力」とはまた違うか。とにかく深い事を言える人だったよ。その深さに意味がないとポモの人たちは指摘してるわけだけど。 だから >含蓄のある言葉を紡げる とかなんてそういうものは
なんか深い意味があるんだろうと思い入れをするファンには禅問答だけど
なに口からでまかせで思いつきを言ってんだよ、の批判者にはコンニャク問答でしか無いんだって(笑 >>49
いや、で任せではないんだよね。読めばわかるよ。小林秀雄は一貫した事を言っているよ。 まあ小林が批評やって文学界におおきな影響をあたえた、支配したというのは
小林の詩的才能ゆえとひとまずいえるね。なんで小林が小説でもなく詩でもな
く批評を選んだのかという理由は、もちろん小説や詩を書く才能がなかったと
いうのも、大きな原因であるが、批評優位の時代性ということもあるわけだねw
小説というジャンルが近代文学の王道とおもわれていたが、小林はそのような
見方に非常に疑惑を抱いていたわけだねw 描写優位の小説的リアリズムは
いずれ映画に太刀打ちでなくなるだろう、小説という芸術は20世紀でほとんど
終わりともいってたわけだねw 散文は描写ではなくもっと違ったものを目指すべき
という考えで、描写によるイリュージョンよりも、もっと知的な領域を将来的に
開拓すべきという考えをもっていたわけだ。それが批評という領域であって
モデルとなるのは、ポーやヴァレリーやボードレールのような詩人にして批評家という
存在であったといえるねw バルザックが映画の時代に生きてたら、小説であんなにくどい描写するか
という問題を小林は提出したりしたねw ゾラの小説でも船の中で階段を
あがってまたさがるだけで二ページ費やしたりするわけだねw >>22
>吉本隆明の小林秀雄批判がどれだけ下らないものか
おもしろそう。
煽るわけでもないし、反批判を書きたいわけでもないから、どこが下らないのか書いてみて。
>>33
それを言ったら、批評家は成り立たないよ。 読者がどんなイメージを脳内再現してくれるか?で叙述するんでね。
丁寧にやると少々長くなるのは仕方無い。
ただ勿論、その長々しさをくどいと思わせないように書いて行く、ってのが「芸」ね。
映画が物語のメインの時代になると、映画的に読者が脳内再生するように叙述することが多くなる。
ちなみに、映画は21世紀を待たず、表現芸術としてはとうに終わっちゃったものだけど。 まあ小林の時代では、映画が小説を駆逐するだろうと思われていたが、小林も
将来的には映画もさらなる技術の進歩によって、当時の小説のように古臭いものに
なるだろう、と考えていたわけだねw まあ実際、映画の時代よりさらにテクノロジーは
進歩して、仮想現実世界の構築までいきつくわけだねw 小説的イリュージョンでは
そのようなハイテクイリュージョンには太刀打ちできないわけだねw つまり読者に
イリュージョンを与えるというやりかたでは散文芸術はもはや生き延びられないわけだねw 中原昌也のお父さんは「タオタオ」の原作者らしいですよ。
http://i.imgur.com/5NeHlTm.jpg
(中原昌也と宇川直宏の対談「絶望の淵からの挑戦状!!!!!!!!!!!!!!!!」より) そう簡単に言い切りなさんなお若いの(笑
その「小説的イリュージョン」は19世紀でもう他の表現手段に劣っている。
それでもその最悪の「小説的イリュージョン」で他の表現手段に優ろうとする人もいるかも知れない。
いるかどうかは知らないし、しようとしているのかどうかも知らないが。 >>59
他の表現手段って何? 映画? 映画は19世紀もほとんど終わりに
近づいたときに世にでたので、19世紀はまだまだ小説のほうが優位でしょ。 劇場芝居には勿論、紙芝居やマンガ、落語講談浪花節にさえ、表現手段じゃ小説は太刀打ちできないでしょ?
そういうことですよ(笑 >>65
それらには出来ないことが小説には出来ますよ。 >>65
まあ小説には印刷術という強い味方がいたわけで、これは演劇そのほかに
対する優位性といえるねw劇場や芝居小屋にいかなくても、手軽にイリュージョンが
楽しめる、それが小説のメリットであったわけだね。 >>68
印刷術が小説の発達と切り離せない近代的技術というのは、べつに評論家に
決めてもらわなくても、大方のひとが認める事実であろうw >>72
近代において小説が発達したのも、印刷技術によって手軽にイリュージョンが
楽しめるという条件があったからなわけだね。テクノロジーとイリュージョンの
結びつき、関係性というものを考えると、小説というのは演劇よりはハイテクと
いえるね。まあ演劇だって最近はいろんな凝った演出するわけで、そういうのは
高度なテクロノジーが関係してるわけだが、小説よりはローテクといえるだろう。 演劇というのは、ギリシャ時代から、それより以前から存在する
芸術形式なわけで、原始的でありローテクといえようが、やはり
どういう時代になっても、演劇というのは消滅しないわけだね。
生の人間がでるというリアリティは他では代替できないわけだね。 それについて三島スレで面白い事を書いていた人がいますよ。 表現方法が非常に原始的だってのを逆手に使うって表現もあるよね。
ただそれをやってもその方法は一人が一辺しか使えないからね。
(ニューとかアンチとかまあ前衛とかってアホのあれは別論。念のため)
ベースは結局はオーソドックスな表現技術になる。いわゆるリアリズムね。
これをどこまでやるか?どこまで捨てるか?なんだな、先ずの「芸」は。
ファンタスティックものだと、ホント苦しむ。
作者しかイメージできないもののしかし同じイメージを文章だけで読者に再現してもらうわけだから。
くどくどやっちゃいけないし、だけど細かくリアルに叙述しなくちゃいけないし、で。
創作家が批評家の言うことなんか全くバカにしかしないのは、その苦労をやってるからだよね。 推理小説みたいなもので、同じ変則的なやり方は2度は使えないから使わない。
混乱させられる楽しさ騙される楽しさってのは読者は同じものからは2度は思わない。
ポモを徹底的にアホ・バカ・コケと軽蔑だけしかしないのは連中は2度どころか終生同じことしかしてないから。 831 名前:吾輩は名無しである :2016/03/10(木) 20:34:43.17
さっき「三島の長編は実際の事件をモデルにしてることが多い」つう話が出てたけど
三島が戯曲作るのもそれと似たような動機があるんじゃないかな
それはふたつとも「現実性」を付加すること(或いは付加したと思うこと)ができるってこと
戯曲は実際の肉体を持つ俳優が演じるということで「現実性」を獲得できる
ところがいかんせん三島先生の作るものはどうにも頭の中で考えた無理な操作が入ってしまう
まあだから「現実性」が欲しかったんだろうけど >>74
たとえば源氏物語という作品がある。
中国の膨大な作品群もある。
書き留められたギリシア悲劇もギリシア神話としての叙事詩も、とても優れた作品だ。
さて、読者の数や表現形態が、単純に、作品の優劣を左右するといえるのだろうか? 戦前の私小説批判として中村光夫が改めてフローベールとモーパッサン持ち出したのは正しかったのかね。
あの時期のヨーロッパの小説って自然主義的理念は廃れてプルースト、ジョイス、セリーヌ、サルトル、ジュネとかカフカもそうかな主人公が作者を仮構したような小説ばっかじゃないか?w >>82
ショーロホフ、マン、ロラン、ローレンス、等々・・・
どうなんだろうね? 疑問を感じたのは中村光夫の谷崎潤一郎論で谷崎も私小説的なものとして批判してることだね。
作者のナスシシスティックな身辺雑記でしかないものを批判するのはわからなくはないんだけど
自然主義理論的な作者を消す方法だけ理想化するのもマズいんじゃないかと。 自然主義→私小説は日欧とも必然の流れだったのかな? >>86
日本の私小説というのは、自然主義を自分に引き寄せただけだけど、西欧で該当する作家はいるのかな? まあ、私小説の定義にもよるよね。
ただ、どの定義でも、西欧で私小説が主流の時期があったとは思えないけど。 日本の無知な評論家は、私小説というのは日本独自のものだなどと言うがそれは間違いで、ノーベル賞はわりあい私小説的なものを評価している。
『ブッデンブローク』も、自分の家の歴史を描いたものだし、ベローの『ハーツォグ』も私小説的である。
『文学賞の光と影』2012 >>89
私小説の定義を広げすぎだろ?
自分に関すること、自分がモデルになることが作品に出てくればすべて私小説、というなら、なんでも私小説になるけど。
それをいったら、漱石だって私小説作家になる。
私小説というのは、自分の経験を反芻するために書かれたもの、だろ? ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』やジュネの『泥棒日記』やセリーヌの亡命三部作は私小説? 柄谷 小林秀雄が言う「宿命」という言葉には、絶対的な他者という意味と、相対的な他者と
の関係の絶対性という意味の両義性があるといってもよいと思う。しかし、たとえ「宿命」と
いう言葉を使わなくても、「絶対性」というものはいつも危ういものではないですか。小林が
福本と似ているというのはそういうことです。
浅田 もともと相対的関係の絶対性は、ただちに絶対的関係として内面化されるようになって
いる。 自己と批評対象の合致は現状の知的構造の中でのみ可能である。
かかる意味あいにおいて自己は関係性という綾の結び目に過ぎないが
意志という自発性によって多相な現実への入射(批評)がなされる。
ここに自己と批評の可能性(能動性)を懐疑的にではあるが、確認できる。
つまり、批評とは自己という社会存在が「私」として「ある」事の異称なのである。
まあ、こういう事を小林は言っているのだと思うのだけど。
ようするにベルクソニアンによるマルクス主義的決定論批判なわけね。
こころとか思いでとか言い出すのも何となく分かる。 おいらが小林がイマイチ受け付けないのは小林のベルグソニズムの要素だな。
ドゥルーズも同様。 逆に信者はベルグソン経由の小林の発言を深いとか思うんじゃないか? チャンネル桜かよ!お前らが小林秀雄に触ると穢れるからやめろや!! https://www.youtube.com/watch?v=93IikaBVQ7A
【小川榮太郎】小林秀雄の後の二十一章[桜H27/9/10]
お子様ファンが湧いているようなので、チャンネル桜から(笑 小林秀雄が好きなら、別にチャンネル桜見ても問題ないんじゃないの?
>>99は小林を読めていないんじゃないだろうか? >>103
あなたが小林秀雄を薄汚いチャンネル桜と同じレベルで扱っていいと思っているなら、あなたは小林秀雄を何ら好きではないと言い切っていい。もしくはチャンネル桜の手先。 童貞か(笑 若いな。まあべつにいいじゃん。誰でも最初は童貞だよ。
情報発信媒体に薄汚いとか言われてもねえ…。別にかまわんぞ。
小林のコンテンツと情報発信媒体は質が違う、ってのを理解できないのか?
お前が、俺は小林が嫌いだとか桜の手先だと思っている、として、
それを表明する意味は何だ?何かの罵倒になっていると考えているのか?
よく考えてみろ。
ちなみに、俺はお前をみじんこ並にバカだと思っているぞ。
もっと毒を吐け!悪意を爆発させろ!って最近教育的指導をしている気分だな。(笑 チャンネル桜をやってる奴らが薄汚いって言ってんの。>>102は削除しとけやチャンネル桜。てめーらが文化を語るのは百年早いんだよ。 チャンネル桜には反日の在日朝鮮人とか週刊金曜日の編集長なんかも出てたぞ。
お前と同属だろうが(笑
まあ、言論弾圧はやめといたほうがいいかな。 何が「言論弾圧」だアホ。ダサいもんは要らねーって言ってんだよ。チャンネル桜は日本から消えろ。どうでもいいけど、僕は左翼じゃねーぞ。 チャンネル桜は在特会ほどではないにしろ、完全に反日放送局。 ボクってのがちょっとな。
反日の意味も笑われそうな気がする。
30点だな。 譲歩して30点あげれば自分がネトウヨじゃない事になるとでも? そもそもネトウヨってのはなんなんだ?
ネットのウヨク?日本のウヨサヨはちょっとずれている気がするしなあ。
どーでもええ。
まあ、罵倒してるつもりになっているならそれでもいいんだが。
でも、心に全然響かない言葉をいくらわめかれても無意味と思わないか?
それに愛国とか国益ってのは、普通は大前提の常識。
日本には愛国心を持ったサヨクってのが存在してない気がする。 真面目にまともな社会運動している左翼は愛国心持ってるよ。ネトウヨの5万倍はね。ただそれを言わないだけ。 5万倍な(笑
言わないのにお前は知っているという。お前が張本人以外で知っている可能性は?
まともな社会運動とはなんだ?
それに、まともな社会運動をしている左翼、とはどういう団体なんだ?
そして、その愛国心とはどういう定義なんだ?
納得できるその、まともな社会運動をしている左翼の愛国心、とやらが肯えるもの
であれば、もろ手をあげて左翼に転向してもいいんだがな(笑 >>120
例えば、日本国がファッショ化するのを防ぐような左翼は愛国者だよ。 小林は戦争の現実を受け入れた挙げ句戦後居直ったんじゃなかったっけ? >>121
お前の見方は定義が対処療法レベルだな。根本に言及できない時点でヘタレ。 >>123
まともに反論できないお前がヘタレなんじゃないの。まあ、ネトウヨはみんなヘタレだけどな。 社会運動の是非なんて具体的な例をそれぞれ判断するしかないに決まってるじゃん。 クソつまんねーから続きはここでな
なんJから来たンゴwwwwwwwwwwww [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1457881532/ 215 名前:吾輩は名無しである :2016/03/22(火) 18:59:34.62
またリハビリパンツのボケジジイがクソ自演ステマやってるw >>81
まあ作品の優劣というのは、いろいろな要素によって決まるわけだが
芸術形態の違いというのは、社会の技術的基盤によって変化するのは
明かで、それは作品個々の優劣とはひとまず切り離して論じられるわけだね。
早い話が、ギリシャ時代には近代小説も映画もなかったわけだねw
まあ小説や映画という形態のほうが、より技術的に高度であるから
進歩した形態であると断定してしまうことに問題があるというだけの話にも
おもえるね。
>>80
まあ小説というのはやはり迫真性、リアリティがあると面白いわけで
三島も現実の事件を小説にとりいれて、センセーションを狙ったわけだね。
「金閣寺」がそうだし、「宴のあと」とか「絹と明察」も、現実の事件を題材に
したわけだね。まあ現実の事件を題材にさえすれば、小説的リアリティは
十分に満たされるかというと、必ずしもそうではないので、小林秀雄などは
小説がひたすら現実に追従して読者を獲得していこうとするのは、小説的
リアリティにおける作者の想像力の貧困をむしろあらわしていると考えたり
したわけだねw 高橋昌一郎の「小林秀雄の哲学」さっそく読んでみたが、小林の収入については
骨董の売買で一時期生計をたててたという話しか見当たらなかったな。これは
本人も坂口安吾との対談で述べてたことで、有名な話だよね。 これ以外に
小林の収入源についてあの本に新情報は見当たらなかったよ。 小林と安吾も文学議論だけじゃなくて、骨董書画についての談義も対談でやってたねw
安吾が鉄斎より小川芋銭のほうがはるかに闊達だって小林の鉄斎好きに異議唱えたら
おまえは造形美術で苦労してないから、そういう甘いこというんです、なんて反論してねw >>135
>>137
引用サンキュー。俺の記憶に誤りはなかったw まあ小林の多くの対談は
記憶に焼き付くまで読んだからねえ。白鳥の対談、安吾との対談がやはり
双璧だろうが、三島と小林の対談もかなり面白かったねw まあ小林が骨董で生計たてざるえなくなったのも、明治大学の教授を公職追放で
馘首されたからだよね。 それで水道橋の駅から一升瓶かかえて落ちたんだけど
あれはやはり絶望故に身を思わずなげたということなんだろうね。 安吾は水道橋から
小林が落ちた話も攻撃して、久米仙人が選択する女の白い脛に見惚れて神通力を
失った伝説とは同日に語れる沙汰ではない、とやっつけたわけだねw コテの気持ちの悪いレスが延々と続くね・・・
現在の小林はこの程度の評価ということなんだろう。 >>141
あなた自身の小林秀雄観をここで述べて、僕らがそれに対して自分の意見を述べるという機会はこれからもあると思うよ。 最近だって、茂木とか中野とか、小林を評価する論者いたし、定期的に
評価する人間はでてきてるねw まあ小林自身は、日本の文学研究者が
小林のことばっかり研究してるなんて聞いたら、そんなレベルの低いこと
ばっかりやってたら、日本文学は進歩しない、などと毒づいたわけだがね。
吉本の「悲劇の解読」も読んだけれど、吉本は小林読み込んでたんだなあと
いうのは伝わってきたねw 特に「Xへの手紙」については五、六箇所引用して
コメントをつけていたので、つまりそれが評価のしるしであるわけだねw >>143
何回か試みたが、コテの読解力のなさと自己愛かとも思えるほどの自覚のなさに辟易した。
コテが消えたら、また書き込むこともあると思う。 Nさん、江藤淳の「小林秀雄」について、小林秀雄は納得していたんでしょ?じゃなきゃ「漱石とその時代」に小林秀雄が推薦文?を寄せるなんてあり得ないものね。 >>145
Nさんの書き込んでいる小林秀雄に関するレスはかなり確度の高いものだよ。少なくとも僕は彼が明らかに間違った事を書くのを見た事がない。 >>147
事実はともかく、意見は自己愛にしか見えないものが多い。
自分には、すべて不要だからそういう感想を書いただけ。
気にしないでくれ。 >>145
別に俺のことなんか気にせず、好きなこと書けばいいじゃないかw 俺よりも
もっとレベル高いこと書き込めるなら、よろこんで傾聴するよw
>>146
納得してたかどうかなんて知らんが、江藤は保守的な批評家としては小林の後輩であるし
推薦文寄せたってべつに不思議な話ではない。 だいたい小林についてはいろんな論者が
いろんな風に論じたが、どれも評論家が自分の都合にあわせて加工したものだという風に
考えていたわけだねw 評論家は対象を論じる都合上、対象に自分なりにいろいろ加工を
施すということは、小林秀雄自身批評家だったから、ずっと自覚的だったわけだねw
絶筆となった「正宗白鳥の作について」でも、この批評家の悪癖というのは、最後まで
自覚されてるわけだねw
>>147
まあ俺も記憶で書いてるから、間違いはあるだろうが、まったく読まずに適当なこと
いってるやつよりは確度の高いこと書いてるつもりだよw 経験論者小林秀雄を経験によって以外の方法で読み解こうとする奴は邪道。 >>149
君よりもずっとレベルの高い書き込みをしたけど、君には理解できなかったんだよw 「経験によって以外」だと経験も含むな。まあ、どうでもいいけど。 Nさんは経験に基づいて小林秀雄を論じている。そうじゃない奴は経験してから意見しろよ。 小林秀雄がランボォを経験したように小林秀雄を経験せよ >>157
そうだと思うけど、コテがらみでもあるから。
彼(彼女)の書き込みに感心する人のレベルも、見当がつく。 >>160
僕は感心というか信頼している。少なくともレス番を示さないあなたの100倍は信頼できる。 >>152
へえ〜じゃあ試しにそのレスをここに引用してみたらw 阿呆の大言壮語は
すぐに底が割れちゃうもんだけどw >>162
そういう誇大妄想の自己愛がいやなんだ。 >>162
なんでレス示してみろってのが、誇大妄想の自己愛ってことになるわけ?w
おまえのレスのほうが、よっぽど誇大妄想的で自己愛にあふれてるがねw >>163
あなたがNさんに絡んだわけじゃないなら謝りますが
>>164
いや、示せばいいじゃない。それで済む話ですよ。 僕はNさんの小林秀雄に関する書き込みは価値があるものだと思っているけど、価値がないと思っている人がいるのは何ら構わないですよ。でもなぜ価値がないの?と訊く事はできるでしょ。 >>165
アンカー自分につけちゃうほど興奮してどうするんだよw
まあ、落ち着けw
>>167
俺に関わるなと言ったはずだ。
と、ゴルゴ13のような捨て台詞を吐いておこうw そもそも小林秀雄が嫌いなひともいるし、関心のないひともいるし、そういう
ひとにとっては、俺の小林秀雄についての書き込みは無価値だろうね。
しかしここは小林秀雄スレなんだから、ここを見る人は、小林について何らかの
関心があることは前提にしてもよいだろうね。 >>169
ああ、アンカーは>>164の間違いだね。で、おまえが自分が書いたレベルの高い
レスとやらを示せないのは、いずれにせよ変わらないわけだねw >>169
>俺に関わるなと言ったはずだ。
言われてないっすけどね… >>168
いくつか書いたレスで納得できないのなら、君が理解するのは無理だよ。 >>172
そうか、言ってなかったかw
僕に絡むなよ、とは言ったんだけどね。 >>174
あなたも小林秀雄を経験するべきですよ。レッツ小林秀雄 まあここでは阿呆がよくつっかかってくるけど、だいたいがペチャンコに叩き潰されて
ほうほうおの体で逃げ出すのが毎度のお約束であるねw
>>173
じゃあ、ここでそのレスをコピペして貼り付けてみなよw 簡単だろ? >>175
その程度の理解力で、よく小林秀雄を読もうなんて思ったね。
コテに感心するぐらいだから、無理もないとは思う。 >>178
いや、僕も小林秀雄にすごく関心があるので、新しい切り口をあなたが示すならもちろん歓迎しますよ。でもあなたは今のところ、そういう事は全くしてないので、あたかもしたように語るのはハイプです。 >>177
>>168に対するレスを要求するなんて、興奮のあまり自分と他人の区別がつかなくなっちゃったのか?
それとも、自己愛の自演だったのか? >>180
傍目にはあなたが余裕をなくしている事を相手にそのまま言ってるようにしか見えないです。 >>179
だんだんコテに口調が似てきたねw
自己愛は連鎖するのかも知れないねw >>182
あなたはNさんと僕が同一人物だと思ってるのかも知れないけど、それはどう考えても無理だよ。証拠があるから。僕とNさんは数年前に渋谷で飲み会した事があるんだ。 >>181
そう?
どう感じようと、どう思おうと、君の個性だし君の自由だよ。 >>183
あ、そう。
類は友を呼ぶってことかな?
どうでもいいよ。 >>180
>>177は>>173で>>168へのレスじゃないけど〜? なんだよ興奮して
ごまかそうっての? そんな誤魔化しは通用しないから、さっさとレベルの
高いレスってのをここで示してみてよw 足元の鉄板が熱せられて
あっちっち状態だから、そちらも興奮しちゃうわけだろうがねw その飲み会(文学板オフ会)に参加したのは、僕(ピース)、Nさん、東電さん、の三人。あれめちゃくちゃ楽しかったけど、そこにバイアスはかかってない。僕はNさんのレスを読んだ上で言っている。 あの飲み会楽しかったけど、あの東電さんがあんなことになるなんてねえ。 >>186
だからさ、あなたのそのレスで語る「類」について教えて頂きたいんですよ。実際どういう意味なんですか? >>185
また、言わなきゃならないのかな?
俺に関わるなと言ったはずだw
>>187
わかったから、もう忘れて寝ろよw
そのうち君の自己愛が静まったら、相手をしてあげてもいいよ。 >>189
ていうか、東電さん万が一の事もあるらしいです。一緒にお見舞に行きませんかNさん。 >>191
こんな見え透いた誤魔化しやる奴相手に情けは無用w >>190
日本語の理解に難がある同士、という意味だよw >>192
>俺に関わるなと言ったはずだw
いや、wマークつけて誤魔化すなよ。確かに言われたけど意味がわからないから、もう一度真剣に説明してくれよ。どういう事なの?なんで関わるべきでないの? >>193
しかし東電さんもすごい痩せちゃってるっていうしねえ。そういうのを
見られるのが嫌なひともいるわけで、見舞いにいくのが良いのかどうか
やはりちょっと躊躇うね。 >>195
ここで質問です。あなたが小林秀雄から吸収した思想を一言で言うとどんなものですか? >>197
僕らが本当に治ってほしいという気持ちは、恐らく東電さんの病気にとって悪い事ではない思います。 >>196
日本語の理解に難がある人には、そういう捨て台詞を吐くことにしてるんだw >>200
君は、やっぱり日本語の理解に難があるんだね。 >>202
あなたの日本語の理解度を小林秀雄に関する簡単な論評で示してみてくださいよ。凄いなら素直に凄いと言うから。 >>198
>>191がピースってのはわかってていったんだよ。
>>199
おまえはそれしかいうことがないのか。レベルが低いねw >>203
「なんか超深えと思った。ぶっ飛んで言葉の世界の六億光年先に意識が行ったよ」みたいな話でも全然いいんで、逃げないでほしいです。 >>204
何回も同じことを書くけど、君には理解できないよ。
コテと遊んでな。
>>205
wを付けたりつけなかったりw
興奮しすぎだよw >>201
まあそういう気持ちは俺は常にもっているよw >>206
コテとその仲間? が消えたら、いろいろ書き込むから、楽しみに待っててくれよ。 >>208
wつけなかったりつけたりはその時の気分でやってるので、べつに興奮してる
してないは関係ないねw それはともかくおまえのレベルというのは、おまえの
書き込みがすでに表してるわけだねw 単純な繰り返し表現しかできないレベルの
低い自動人形にすぎないというのが、おまえの書き込みが示すおレベルである
わけだねw >>208
>何回も同じことを書くけど、君には理解できないよ。
書かれない言葉は理解できないですね。出す必要ないと言うための言い訳ですね。
>コテと遊んでな。
Nさんは僕より優秀だよ。 >>210
最後かも知れないけど、このスレにおけるあなたのレスはどれか、一つでもいいので教えて頂きたいのですが。 高橋源一郎スレより
29 名前:吾輩は名無しである :2016/04/05(火) 03:08:27.44
すごく前に講談社の『ファウスト』に載った「名探偵小林秀雄」っていう短編の内容が
気になる。ミステリものらしい Nさん、小林秀雄の大江健三郎に対する評価を教えて下さい。 図書館でNさんが言っていた井伏鱒二編の小林秀雄の初期作品集を借りたよ。 >>217
収録されてる文庫などの題名がわかれば読んでみるんだがなあ。
>>218
大江についての小林のコメントした文章は確か、正宗白鳥の「ひとつの秘密」について
小林が書いたのを大江が読んで、あれは面白いと一緒に乗り合わせた電車のなかで
小林にむかって大江が感想を述べた、そのことについての文章だけだったね。
大江は小林に一冊の著作を(確か「ピンチランナー調書」だったかな?)送ったそうだが
小林は最初の三ページで読むのあきらめたと、大江に返事したそうな。
大江のほうは小林について「小林秀雄『本居宣長』を読む」という感想文をものしているね。
大江は、十七、十八の頃に小林の全集を読んだそうで、十七十八くらいで小林の全集
全部読んだというのはさすがであるねw 大江の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、小林の「本居宣長」をレヴィ=ストロースと
ロシア=フォルマリズムにもとづいて読み解こうとする感想文で、当時の大江の関心が
那辺にあったかを知れば、さもありなんだね。 青春の小林秀雄 大江健三郎
高校の教師にすすめられて小林秀雄の文章をひとつ読み、思いさだめた作家、思想家の全集を読めと書いてあったので、まず小林秀雄全集の全体を読んだ。
そして私の文学的青春が始まった。
初期、中期の作品を神話化して、口真似までする人も多いけれど、私はそうしない。小林秀雄は、新しい作品ごとに、直前までの弱さを摘出し乗り越える人だ。
そこでつねに新鮮で、前に向かっている。それが『本居宣長』まで続いたから、私の文学的青春は長持ちした。
小林秀雄の後継者たちが、いずれも文学の批評をやめて、文化伝統や国権のウツロな擁護者となり、保守政治家の代言人になり下がりさえするのはなぜだろうか?
かれらが乗り越えるスタイルでないからだ。
小林秀雄の全体を受容し乗り越える、新しい人が現れるまで、私はその人に手渡すつもりの、小林さんにあずかった宣長の書をしまっておく。 気に入った作家の全集全部読め、そうすればその作家の人なりがわかるってのは
小林が繰り返し言ってたことで、大江もそれを読んで実践したということだねw しかし高校の教師にすすめられて小林の文章をよみ、それがきっかけで
全部小林の文章読んでしまうと言うのは、いかにも秀才の大江らしい出会いかた
であるねw 吉本などとは全然出会い方が違うね。 俺も小林読み出したのは
確か高校のころだが、きっかけは教科書に載ってる小林の文章を読んだことで
ずいぶん他のひとと違う変わった文章書くひとだというのが、第一印象だったわけだねw 大江健三郎は1935年生まれだから1950-53年に出会っているはず
昭和25年(1950) 48歳
第一次小林秀雄全集(創元社版)刊行。
昭和30年(1955) 53歳
第二次小林秀雄全集(新潮社版)刊行。
おそらく第一次小林秀雄全集(全8巻)を読んだのだろうね
誤解を招くと申し訳ないので 大江健三郎はデビュー5年目くらいには確信犯的なパクリ始めてるし
70年代以降はパクリと自己模倣の繰り返し
80年代に入ると、更に昔の名前で出ていますが加わってきた。
それ以降は新曲だし続けるナツメロ歌手になるんだけど。
小林との共通点は晦渋、意味不な表現で特権性維持しようと腐心したところ。 >>221-225
教えて下さってどうもありがとうございます。大変勉強になりました。 >>226
8巻か。
ページ数にもよるけど、そのくらいの分量なら、文学好きの高校生は誰かしらのものを読んでるんじゃないかな?
太宰だったり、漱石だったり、理屈が好きな高校生なら、マルクスとか吉本とか。 小林秀雄がいつから神様扱いされだしたのか知らないけど
しまいにゃ池田大作か朝鮮労働党の親玉みたいな持ち上げられ方してたよね。
なんであんなふうになっちゃうのか。
酒が入ると目がトロンとしてきて、酒飲み見て来た人は、これはそうとう悪質な酒乱
だと一目でわかったそうだけど。
その酒乱がオダあげてるのが、ブンガク関係者の手にかかると「酒席での壮絶なカラミ」なんて
伝説化されるんだから恐れ入るほかない。
ドスFスキーやゴッホについて書いたものも、パクリと壊れた蓄音機みたいな
繰り返しでひどいもんだ。 志賀直哉が夢殿救世観音持ち出した欺瞞的文章引っ張ってきた
「志賀直哉」あたりから、すでに変な傾向性表れてるよね。
新興宗教の教祖のご託宣みたいな。 文化勲章みたいなものに授かるには、小林秀雄の評論が決め手になる。
そうすると作家の名誉を小林が決めるので、文壇の神様扱いされる。
読者からはどうでもいい存在でも、国家的な賞を受賞するかどうかは
小林の評価が大事で、年金の無い作家にとって褒章は、
書けなくなった老後の大事な生活費になるので、それだけ目の色が変わり
小林にひれ伏す。 大江健三郎は小林秀雄に直接詰められて号泣した事があるらしいよ(笑) >>235
もしそれが事実なら、大江というのはやっぱり日本最高の知性ということになる。
そして、小林は>>232の指摘どおりの人間ということになる。 >>238
それは、どうかな?
逃げの小林、攻めの大江、という感じだけどね。 大江は小林一派からのけものにされたので、左翼支持者の強力な後押しでノーベル文学賞となった。 >>239
大江は口喧嘩が得意じゃないんだよね。
>>240
世界認識がシンプルすぎるだろ… >>240
誰がいるのか知らないけど、小林一派、からノーベル賞出すのは無理じゃない? >>241
世界に対しては、小林は逃げ続けたし、大江は攻め続けてるよね。 「小林一派」の江藤淳も初期大江を評価していたけど、途中で決別するんだよね。 >>243
まあ、その指摘はある意味で正しいのかも知れない。 小林は世界基準では批評家とは言い難い。
評論をネタにした自己陶酔の「純文学」と言った方が適切だろう。 むしろ批評が純文学になり得るという前例を作ったのは小林秀雄でしょ。彼より前にはそんな人はいない。あなたは小林の反動性が嫌いみたいだけど、柄谷行人も浅田彰も小林秀雄の批評は当時海外で主流だった批評と較べても決してひけをとらないと認めているよ。 >>247
西欧には随筆の長い歴史があるからね。
日本でも、平安時代からある。
小林のころの批評の主流というと、文学理論系かな?
小林では、ちょっと太刀打ちできそうもないかな。 >>248
>小林のころの批評の主流というと、文学理論系かな?
ここらへんはNさんにお任せします。僕はわからないです。 小林の時代ってことでNRFとかを本流と見るなら
河上徹太郎なんかのほうがよっぽど近いだろうよ NRFとかの事を指してるんだろうね。「小林秀雄対話集」における大岡昇平との対談でカミュとサルトルを批判していた。NRFが何かを僕はそもそもよくわかってないけど。 小林は福本和夫のまねしてやたら意味不の文章書いてたら受けたんで
その線で邁進してたのはいいけど、自分でも以前書いた物をどういうつもりで
書いたのかわからなくなって往生しまくってた。
その代表が「私小説論」の末尾で
本人も懺悔のつもりか後年、娘まで持ち出して私の文章は意味不明と書いてたな。
それでやたら昔の文章に手入れるんだけど、元々わからないんだからますます意味不明になるという。 小林が「政治と文学」論争を児戯に類する論戦と言ったはいいけど
自分が大真面目にやった思想と実生活論戦なんてものが
今や噴飯物のそれこそ昔の夢となってテーマそのものが淡雪の如く消え去った
その意味で時代に踊らされたと言える。それは勿論小林だけじゃないが。 >>227
まあ意味不明なこといってるのは、この板にもキチガイ病院にも
大勢いるので、意味不明なこといえさえすれば特権が得られるかと
いうとそんなことはないよねw
>>232
まあ「文学の神様」って評は他がいいだしたので、小林自身は神様って
呼ばれるの非常に嫌がってたそうだねw
小林秀雄を「文学の神様」と呼んだのは、ものの本によれば草柳大蔵だそうで
”神様”は本人が望んでなるものはなく、社会の方が”神様”を感じて、仕立てて
しまう存在であると草柳は述べているねw つまり小林が文学の神様になった
として、それは社会が本人の意思とは無関係に勝手にやったことなわけだねw
草柳によれば「神様」の条件は四つあり
第一 神秘性が感じられること
第二 御託宣に威力があり、それを触れるものに対して活殺の効力をもっていること
第三 神主や氏子がおおいこと
第四 仕事や行動はそれほど目立たないのに、いつまでも影響力をもちうること。
この四つの条件が神様の条件なわけで、酔っ払ってクダを巻くだけなら、小林秀雄で
なくても、その辺のアル中でもやってるわけだねw >>233
志賀の夢殿観音について、自分は先輩作家がたどり着いたそのような境地を軽蔑しない
自分はそのような境地を羨望しないだけであると述べていたね。これも確か初期文芸論集に
載ってたね。
>>235
本当に? どこで聞いたのそれ。
小林の酒席のからみったら、当時の文壇における名物だったってね。 中村光夫も
さんざんにやられたそうだが、中村本人は小林に罵倒されつくしているように見えても
そこから一年仕事やれるための凄いエネルギーもらってた、などと述べていたねw
>>248
小林は枕草子や徒然草や方丈記についても一家言もってたからねw 池田亀鑑など
当時の一流古典学者ともつきあいがあったわけで、そのあたりは現代の批評家とは
雲泥の違いがあるねw >>250
小林と河上は友人であったが、小林のやらないことを河上がやって、河上の
やらないことを小林がやり、文学的には互いに補う関係だったってね。
河上のほうがNRFにはより関心があったかもしれん。 まあNRFの編集長
だったジャック・リヴィエールにも一時期小林は夢中になったそうだが、後から
全然つまらないという風にいってるね。このあたりは小林のジイドへの関心と
通じるものがあるね。
>>252
小林が福本の真似したとか初耳なんだけど、なんら根拠ない話だろうそれはw
>>252
小林本人が自分の文章読み返しても意味わからないといってたのは事実だな。
当時の近代文学界というのは、いろんな新語が次々に登場して、その新語の
意味も非常に曖昧であり、言語的環境はとても悪かったので、そのような悪条件の
もとで悪戦苦闘した小林の記録というのは、やはり面白いわけだねw >>255
まあ小林の時代の文壇では、プロ文、社会主義リアリズムが勢力を
のばして、既存の近代文学派、芸術派がそれに抵抗するというのが
おおまかな図式だったねw プロ文というのはやがて弾圧されて壊滅
するわけだが、戦後の文学界の歴史みても、プロ文、社会主義文芸が
主流とはとてもいえないわけで、現在プロ文が主流とはいえず、むしろ
ほとんど忘れられた存在になってるわけだね。そうなると社会主義
リアリズムが常に主流だったとはいえないわけだねw 小林は福本読んでたかすら怪しいね。初期文芸時評には大森義太郎とか平林初之輔とか
三木清など当時マルクス主義に関心があった知識人の名前はいくつもでてくるが
福本の名前があがったのは見たことがないからねえ。 小林は当時マルクス主義には
相応の関心をもっていたので、戸坂潤に誘われて、唯物論研究会のメンバーにもなっていたね。 >>256
そのテキストと「教祖の文学」はどちらが先に出たの? NRFとは何かわからないひとのために解説をひいておくと
>『新フランス評論』(しんフランスひょうろん、La Nouvelle Revue Francaise)は、フランスの文芸雑誌。
>1908年創刊。2度の大戦時の休刊を経て、今に続く。初期は同人誌だったが、現在は総合出版の
>大手ガリマール出版社が発行している。多くの作家を育てた。N.R.F.、NRF、nrf、とも書かれる。
>その片仮名は、エヌエルエフである
初期の小林は「私小説論」においてジイドをフランスの代表的小説家としてひいていることから
わかるとおり、ジイドに大きな関心をもっていたね。ジイドはNRFとは深い関係があった作家と
いえるね。 >>257
>本当に? どこで聞いたのそれ。
文学板だった気がする。小林に大江が「渡辺一夫はキチガイだった」みたいな事を言われて、大江が後年「そして僕は号泣するに至ったのだ」みたいな事を書いていた、と。真偽は不明です。 >>261
草柳の評がいつでたのかは書いてないが、安吾の「教祖の文学」のほうが
先にでたのは、ほぼ間違いないだろうね。 >>263
大江の師匠は渡辺一夫だからねえ。大江が書いた「小林秀雄『本居宣長』を読む」の
なかに、渡辺一夫が亡くなったとき、新潮社のパーティーで小林から渡辺一夫について
いろいろ話を聞いてるうちに涕泣したと、大江は書いてるので、その話のことだろう。
小林が何を話したのか大江は具体的には書いてないね。 >>266
つまり>>263の話は脚色されたデマなのかな(笑)江藤淳の「小林秀雄」を図書館で借りた事は書きましたっけ。Nさんは読みましたか? >>259
もう少し社会主義リアリズムを勉強しておこうね。
売れる売れないが主流の基準なら、文学の主流は推理小説だ。 僕がこのスレで「社会主義リアリズム」と聞いた時にその言葉を知らなくて、プロレタリア文学の事なのかな?と思ったんだけど、「社会主義リアリズム」は世界的な潮流だったの? Nさんの言う還元主義とは要素還元主義のことですかね? あれ? 小林秀雄スレが復活してる。このあいだの板落ちのあと、このスレだけ
復活しなくて、なんでだろ〜?って思ってたんだが。ツールか何か使って落としたような
形跡もあったね。このスレが見られないときに専ブラでこのスレみたら、このスレ
なぜか1000まで埋まってて。
>>263
まあ小林が大江との話で「大江はキチガイだ」といった可能性はあるが、それだけで
大江が泣くかねえ? 追悼パーティーでの会話なんだから、小林が大江にむかって
故人の渡辺を罵倒しつくしたなんて考えにくいんだが。つまりもうちょっとしみじみした
逸話を語られて、大江は泣いたのではないか。「渡辺はキチガイ」と小林がいったという
話もどっかで聞いたことあるが、それは渡辺の追悼パーティーとは別の場所での話で
ふたつの話がひとつになってゴッチャになったとも考えられるね。
>>270
売れる売れないだけを基準にしなくたって、戦後の主要な文学賞の
歴史を概括すれば、プロ文が戦後の主流だったとはとても思えないよね。 >>274
ありがとうございます。具体的な出典が判明するまでは、>>263は疑わしい情報だと考えておく事にします。 >>271
俺もプロレタリア文学と社会主義リアリズムの区別はよくわからなくて
だいたい両者は似たようなものだと思ってるねw 詳しいひとがいたら
解説をお願いしたいところだねw
荒俣宏の「プロレタリア文学はものすごい」を読んでも、プロレタリア文学という
ジャンルは過去形で語るしかない、それが証拠に現存してる数々の作家のうち
自分はプロレタリア作家だと主張してるひとはほとんどいないようにみえる、と
述べているね。作家の主流がプロレタリア作家でないなら、文学の主流も
プロレタリア文学とはいえないのは自明の理といえるね。
>>273
まあそう思ってくれて結構だね。小林は科学的分析を要素還元主義とみなして
それにたいして芸術的直観、芸術の鑑賞や受容というのは、要素還元主義では
説明できないと考えたわけだねw これはベルクソン直伝の思考といえるね。 そもそもプロレタリア文学って当時の世界的な潮流ではあったの? まあプロレタリア文学が日本では一時期一大勢力をもっていたことは間違いないね。
世界的にプロレタリア文学が一世を風靡したかといえると、これはどうなのかと疑問符が
つくね。ロシア革命後のソ連では、ソビエト共産党が文学をも完全支配して、社会主義
リアリズムこそが唯一の正当な文学形式であるとされ、ロシアの多くの作家が沈黙したり
亡命したりせざるえなくなったわけだね。マヤコフスキーなんかは自殺したりしたわけだね。
しかしスターリン批判のあとは、ソ連の文学界も多少雪解けムードがでて、性の問題が
扱われるようになったりした、などと小林秀雄は英国の雑誌の批評をひいて語っていたね。
まあヨーロッパでは、ジイドやロマン・ロランがソ連シンパになったりしたが、思想上の
シンパシーであって、ジイドやロマン・ロランが社会主義リアリズム作家であったとは
いえないよね。 >>274のレスの上から五行目
大江はキチガイだ」というのは、「渡辺はキチガイだ」の間違いね。 要するにプロ文というのは、あらゆる芸術は階級の解放に奉仕すべきものであって
そうでない文学は暇文学だという当然といえば当然な論理的帰結の産物なのだ。
「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。
『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない
↑
今読むと基地外だよね。
それで小林は及び腰ながら「マルクスの悟達」なんか書いたわけだが、別にプロ文否定したわけじゃない。
土壌といえばこういう土壌だからこそ「芸術と実生活」論争なんてものも成立した ネットで見つけた一節だけど、さすがだと思ったから貼っておこう。
「(本質の解明への道という)この点については、人間学の達人である小林秀雄といえども、もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ、一歩をゆずらざるをえないのである。」
(吉本隆明『擬制の終焉』) 吉本のそれ、小林を褒めてるようにしか見えないw 人間学の達人なんて
評してるし。小林のプロ文学者に対する批評とは比べものにならんね。 >>282
褒めてないよw
吉本は小林のことを、鋭いけど無意味な批評といってるんだから。 吉本隆明の言ってる事も大概意味わかんない僕は特殊なのかな? >>284
特殊かもしれない。
どこがわからないの? 論理展開がわからない事が多い。「転向論」とかはわかるけど。 >>283
吉本の>>281は、「一歩譲らざるえない」といってるので、これは相対的な比較に
すぎず、プロレタリア文学者の文学に絶対的価値があり、小林秀雄は無価値という
デジタル的価値判断やってるわけではなく、相対的な価値判断であるね。
つまり小林は無価値という評価は、どう逆立ちしたって>>281からは出てこないと
いえるねw
「本質の解明への道」というのは、これまたどうとでも取れる言葉であって、その
本質なるものが人間知の領域に属するとして、小林は相対的にプロレタリア文学者に
及ばないところがあるならば、一応インテリには属するプロレタリア文学者といえど
文学についてまったく無知なその辺のうら若き女性に人間知において及ばないと
いうことがあるわけで、つまり人間知なる曖昧な評価基準のもとでは、ピラミッド的
絶対評価はなりたたず、小林より相対的に優れているはずのプロレタリア文学者も
また相対的には劣等という話になって、全体の構造はクラインの壺的形態へと
収束していき、小林はプロ文より劣等という発言もピラミッドの頂点にたつ真理では
なくなってしまうといえるねw >>287
「一歩をゆずらざるをえない」の前に、「もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ」とあるのは無視?
長くなるけど、その前も引用しとく。
「人間を唯一の真実を所有するさまざまな人間にばらまいているのは、ただひとつのおなじ現実だということに驚かなかったため、現実の解析へ、その本質の解明への道はうまれなかった。この点については、」
人間学の・・・ とつづく。
小林は現実を見ようとしていない、と指摘している。
つまり、相対評価ではなく、絶対評価なんだ。 >>288
無視してないよ〜?
>小林は相対的にプロレタリア文学者に及ばないところがあるならば、一応インテリには
>属するプロレタリア文学者といえど文学についてまったく無知なその辺のうら若き女性に
>人間知において及ばないということがあるわけで
これ読めた?
>>288
現実の本質の解明なんて吉本ですら出来たかどうかあやしいのに、それを小林には
要求できんでしょw 小林を「人間学の達人」と認めてしまってる以上、評価はどうしたって
相対的評価になるね。「人間学の達人」というのが無価値でない限りはね。 >>289
もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりでも、「その辺のうら若き女性に人間知において及ばないということ」はない、ということなんだよ。
現実を見る力という意味でね。
逆にいえば、現実を解析するためには、「人間学」(人間知?)に意味はないと吉本はいってるんだ。
その意味で吉本は、小林の「人間学」が「うら若き女性」の「人間知」に及ばないと指摘しているともいえる。
吉本の志向する批評にとっては、「人間学の達人」は無価値なんだ。
批評は個人の感想や相対評価であってはいけない、絶対評価を可能とする基準が必要だ、というのが、吉本の考え方なんだよ。 >>290
そりゃ芸術や文学の絶対的評価が必要というのは、吉本のみならず
プロレタリア文学全盛期のプロレタリア文学者、プロレタリア文学の
理論家もみんないってたけどね。
しかしまあみんな理論倒れだったわけで、絶対的に現実を照明する理論は
プロ文の理論もつくれなかったわけだねw 吉本だって、プロ文の理論家同様
絶対的現実を解明することを希望していたろうが、彼の理論が現実を解明する
唯一絶対の理論とはいえないので、吉本と君の希望は別にして、小林に
くらべて理論的に絶対的に優れているとはいえないわけだねw 絶対的現実の
解明に吉本が成功して、唯一正しい文学理論として吉本の理論が認められた
ということがない限りはね。 >>291
社会主義リアリズムも、『言語にとって美とはなにか』も立派な文学理論だよ。
小林には文学理論そのものがない、ということなんだよ。
文学に基準は要らないというなら、それはそれだけのこと。
あとは好みの問題になるだけだけど、自分が好む根拠を考えたければ理論を追及する。 >>291
小林に芸術理論ないなんてことはないよw 小林の芸術理論はもっぱらベルクソンの
芸術理論にもとづいているんで、小林に理論がないなんて、大いなる誤解といえるねw
他にもいろんな哲学者や文学者の芸術理論を吸収して、自らの著作に反映させて
いるので、そのあたりは吉本と変わらないね。 まあ理論的貢献という面でいえば
小林が独自の芸術理論をうちたてたかというと、そういうことはないといえるねw >>293
感情をイメージへ発展させ、言葉へと生育させて、感情を読み取れるようにする。
『時間と自由』の一節を要約してみたけど、こんなところが、ベルクソンの芸術論になるのかな?
小林はどうなんだろう?
なかなか思いつかないな。 >>294
「私の人生観」という講演のなかで、小林はベルクソンの芸術理論について最も
詳しく述べているので、それ読まないと小林の芸術理論はわからないね。 >>296
活字になってるよ。俺はそれを読んだわけ。 >>295
小林の場合は芸術理論というより、強烈な自己肯定の理由づけだね。 >>298
んなことないよ、芸術の目的は「知覚の拡大」にあるというベルクソンの芸術理論は
メルロ=ポンティにも影響を与えていたね。ベルクソンの芸術理論への影響は
小林にとどまらず、フランスにおいてはかなりの影響があったわけで、ドゥルーズに
までその影響は及んでいるといえるね。 >>300
君の最大の欠点は、シッタカするところ。
それがなければ、君の知識が少しは生きる。 >>301
メルロポンティにベルクソンの影響が大きいのは一般常識だろうよw ドゥルーズだって
「ベルクソンの哲学」って本書いてるからね。俺はごく一般的な紋切り型の説明してる
だけであるねw
>メルロ=ポンティは、ベルクソンが純粋記憶と純粋知覚、即ち空間的ひろがりのない「心」の在り方と
>時間的持続のない「物」の在り方とを二者択一的に対比して、その両項の問を動揺しながら、両者の
>交差点として身体を捉える考え方を批判しているのである。彼によれば、身体は、主体(心)としての
>意識存在性と客体(物)としての物質存在性という両義的存在性格を分割しがたい形で受肉化したものである。
>メルロ=ポンティはベルクソンを批判するが、しかし湯浅泰雄が適切に指摘するように、彼の考え方には
>ベルクソンの影響が大きいと言わざるをえない。ベルクソンは、「知覚と行動の統一性」の故に、身体を
>「感覚一運動過程」(processus sensori-moteurs)として捉えて、身体のメカニズムを習慣化させる
>「運動的図式」(le scheme moteur)を想定した。メルロ=ポンティは、これに対して表層的な身体即ち
>「現勢的身体」(1e corps actuel)を「感覚一運動回路」(un circuitsensori-moteur)として捉えて、その
>基底に深層的な身体即ち「習慣的身体」(le corps habituel)を想定し、その「習慣的身体」は身体の
>メカニズムを習慣化させる「身体的図式」(schema corporel)によって可能になるものとする。
ドゥルーズと小林については、ドゥルーズのベルクソン論を小林が読んで、「こいつは優秀」といったという
その方面ではそれなりに知られた逸話があるねw >>303
それを、シッタカというんだよw
他人の意見を理解もせずに受け売り。
メルロ=ポンティやドゥルーズの主著を1冊でも読んでから書かないとね。 >>304
じゃあ、俺のいってることは間違いで、メルロポンティにもドゥルーズにも
ベルクソンの影響はないって論証してみろよw 知ったかだろうと何だろうと
1+1=2と考えたら、俺はそれを口にするわけでねw まあ知ったかだろうと何だろうと、相手が反証できなけりゃ勝ちですなw >>305
メルロ=ポンティやドゥルーズにベルクソンの影響があるかないかが問題なんじゃないだろ?
小林に芸術理論があるかないかを話題にしてる。
言い換えれば、小林が批評の客観的な基準を考えようとしたかしないか、ということだ。
シッタカしてないで、自分で確かめながら考えないといけないよ。 >>306
勝ちとか負けとか、そんなことが気になるなら、散歩でもして頭を冷やしておいで。 >>307
>>300について知ったかだという意見がついたので、>>300はベルクソン哲学の
影響についての話なんだから、俺のいうことがただの知ったかかどうかは
>>300の内容について検討すべきといえるねw 小林の「私の人生観」に
ついては俺はきっちり読んでるわけで、明らかに知ったかとは非難できない
わけだねw >>308
いややれない言い訳だろうそれはw
>>309
頭を冷やした方がいいのは君の方だろうw まあ君の頭が
熱くなってるのが、こっちにも伝わってくるよw >>310>>311
君のは、人の意見の受け売りなんだから、シッタカそのものだよw
君は、自分がシッタカじゃないのは、「私の人生観」についてだけ、と自分で言ってるんだよ?
ベルクソンが誰にどういう影響を与えたかなんてことは、「私の人生観」とは無関係だしね。
おまけで指摘しとくと、君が1冊も読んでないベルクソンやメルロ=ポンティやドゥルーズについて、なにをどう書けば君が理解できると思うんだ? >>312
ベルクソンもメルロポンティもドゥルーズも俺が一冊も読んだことないというのは間違いだねw 少なくとも各著者の著作一冊は読んでるからね。
一冊も該当著者の本読んだないなら何もいえないというなら、一冊読めば何かいえるということに、論理的帰結としてなるねw
他に哲学者による解説本も読んだことあるし、それらの知識に基づいて>>300の判断したわけで、それが間違いというなら、根拠に基づき反証すればいいわけだねw >>312
ベルクソンは「創造的進化」と「道徳と宗教の二源泉」、メルロポンティは「ヒューマニズムとテロル」
ドゥルーズは「ベルグソンの哲学」「ニーチェ」「哲学とは何か」あたりだね。 >>315
ベルクソンは主著読んでるよ。 ドゥルーズも主著読むったら、それだけ非常に
手間かかるからねえ。とりあえずベルクソンに関係あるものを読んだのさ。
メルロポンティも手をだすの大変だし、そっちはもっぱら解説書頼みだね。 >>317
では、あらためて「小林の芸術理論」がどういうものかを説明してみてね。
ベルクソンの芸術理論についてでもいいよ。
社会主義リアリズムや吉本の文学理論に対して、小林の理論がひけを取らないというところを説明して欲しいな。 >>318
とりあえず「私の人生観」読めとしかいいようがないんだが。今日はもう時間ないし
また今度な。 それとさあ、吉本の文学理論がそんなに優れてるなら、その優れてる
ところの所以を簡潔明快に説明してほしいものだね。そっちが小林の理論について
説明を要求するならば、こっちも要求はだすからね。 まあ柄谷などはさすがに小林の拠ってたつところを理解していたので
小林はベルクソン=デカルト主義であるといってるね。「私の人生観」で
論じられている西欧の哲学者はもっぱらベルクソンで、1 あ、途中でうっかり書き込んじゃった。続きね。「常識について」では
デカルトが中心的に論じられるわけであるね。 >>319
ああ、吉本の理論を知らずに「小林にくらべて理論的に絶対的に優れているとはいえない」なんて書いたの?
それなら、シッタカといわれてもしょうがないんじゃないか?
君がほんとうに吉本の理論を知らずにそう書いてたんなら、ちゃんと説明してあげるけど?
ちなみに、僕が小林に理論がないと書いたのはこんな一節に不満を持ったからなんだ。
「言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。」
(「美を求める心」)
美は美しいものに宿っているというプラトンを飾り付けただけに見えるんだよね。 >>322
そっちだって、小林に芸術理論あるのしらずに、「小林に理論はない」なんて書いてたんだから
似たようなもんだよねw まあ「近代日本の批評」って本のなかで、浅田彰などは、吉本の
いってることはまったく意味不明っていってたわけで、そういう批判が仮に正しいとすれば
吉本の文学理論は無価値って話になるわけだねw 浅田は当代最高のインテリとして評価
されてるから、浅田の評価の影響ってかなり大きいわけで、吉本も浅田のこと罵倒してたが
罵倒だけじゃあまり説得力がないよね。そういう評価があるなら、吉本の文学理論しらないのは
非常識という話には必ずしもならないよねw まあ柄谷蓮實浅田のなかじゃ、蓮實が吉本の事
一番評価してたが、その評価も理論家としてのものというよりは、もっぱら詩人としての評価で
あったね。 世界的知識人として名が知られていたフーコーと吉本の対談で通訳をつとめたのも
蓮實だそうであるが、フーコーは吉本の文章よんで、この文章は何言ってるか意味わからないって
いったんだってね。そういう噂の影響力を打ち消すためには、やはり吉本の文学理論の意義に
ついて語るのが有益ではないかと思うわけだねw >>324
知らないんじゃなくて、小林のは「芸術理論」じゃない、と言ってるんだよ。
理論というのは基準を設定するものだが、小林は個人の主観が大切だと言ってるだけだ。
それは理論としての基準にはならない。
君はいつも他人の評価を自分の評価にしてる。
解説や評論は、評価を鵜呑みにするんじゃなくて、内容を理解するための参考にしないといけない。
ちなみに、手紙の噂に事実が含まれていたとしても、フーコーは日本語が読めないから、蓮實(あるいは他の人)が訳した文章が理解できなかったということになることぐらいには気がつくべきだと思う。
蓮實は吉本から新3バカの一人とまで罵倒されていたのに(これは噂じゃなくて事実)、翻訳を引き受けたのは善意であるかどうかはわからない。
仮に悪意があれば(これは推測)、公開されない手紙まで丁寧に訳すことはないかもしれないし、そもそも蓮實(あるいは翻訳者)自身が吉本の論考を理解していたとも思えない。
そうしたことはともかく、君が「私の人生観」を推薦して、もう一人のコテが読んでみると言ってるのだから、しばらく「私の人生観」を軸に意見を交換したいと思うがどうだろう?
よければ、その中で吉本の文学理論も紹介していこうと思うが。 >>325
文学においては主観が重要というのは客観的事実であるといえるねw 吉本は
文学鑑賞の客観的基準を作ろうと努力したわけだろうが、たとえば吉本の
源氏物語論みても、他の源氏研究に比べてむしろ主観的な研究であるといえるね。
>君はいつも他人の評価を自分の評価にしてる。
知ってることなら自分の評価でやれるが、知らないことを知るためには他人の評価を
あてにしなくてはならないことはよくあるわけでねw 早い話がおまえの小林評価に
しても、小林の主要著作みんな読んで評価してるわけではなく、吉本という他人の
評価によりかかっているにすぎないわけだねw
>しばらく「私の人生観」を軸に意見を交換したいと思うがどうだろう?
それは別に問題ないね。ピースは「私の人生観」買ったそうだが、もう読んだのかな?
人生観を語るようになった小林などもうダメだ!と、それで小林を離れた読者もいた
ので、ピースは「Xへの手紙」読めても、こっちを読めるかどうかはわからないね。 >>326
>文学においては主観が重要というのは客観的事実であるといえる
その根拠を示さないといけない。
客観的というのは、根拠があること。
>吉本という他人の評価によりかかっている
それは君の下種の勘繰り。
吉本は、小林は個人の主観が大切だと言ってるだけ、だなんてどこにも書いてない。
>こっちを読めるかどうかはわからない
そんなこと言うのは、その人に失礼じゃないかな?
親しき仲にも礼儀あり、ってね。
そもそも、君自身が「読めてる」かどうか、怪しいもんだよ?
だいたい、君の知らない〈噂の真相〉?まで教えてあげたのに、お礼も言えない礼儀知らずじゃ小林を読む資格にも疑問がついちゃうなw
読書会は、もう一人のコテが了承して、準備ができたら始めよう。 >>327
>その根拠を示さないといけない。客観的というのは、根拠があること。
ひとによってどんな小説が面白いか、その評価は全然違うわけだし
吉本の文学だって、ひとによって評価は全然違うというのは既に示した
事実であるね。文学の評価が客観的であるならば、吉本の評価は誰もが
一致する共通の価値があるはずだが、現実には評価は人によって大幅に
違っているわけだね。これすなわち、文学的評価において主観が重要と
いう証拠といえるねw
>吉本は、小林は個人の主観が大切だと言ってるだけ、だなんてどこにも書いてない。
まあ自然主義文学者ゾラは当時発達していた客観科学にもとづいた小説を
書こうとしたわけだが、できあがった小説は小林曰く「奇怪な夢の塊」だった
わけだね。吉本の文学理論もそのようなものに見えるねw
>そんなこと言うのは、その人に失礼じゃないかな?
まあピースのことはおまえよりはよく知ってるので、余計なお世話だよ。 >>328
>誰もが一致する共通の価値があるはずだ
全員一致じゃないから客観性がない?
全体主義国家なら、全員一致の評価基準になるんだろうけどね。
「わしは、こう思う」「ハイル・ヒトラー!」
>吉本の文学理論もそのようなものに見える
見えてもねえw
『言語にとって美とはなにか』を読んでから、とは言わないけど、せめて吉本の文学理論の骨格ぐらいは把握してからにしなよ。
>余計なお世話
君が「読めて」るか「読めて」ないかは、余計なお世話じゃないと思うよ。
あまりにバカバカしくなってきたから、もう僕はこの手のやり取りには応じない。
君はなにか言い返したいなら、言い返せばいい。
具体的な話題になったら、またレスするよ。 >>329
1+1=2は理性ある人間なら否定しないので、これは明白な客観的真理といえるねw
小説の評価は1+1=2ほど明白に客観的とはいえないので、これはどちらかといえば
主観的なわけだね。 1+1=2は全体主義だ!ファシズムだ!などというのは、馬鹿馬鹿しい
抗弁といえるねw
>『言語にとって美とはなにか』を読んでから、とは言わないけど、せめて吉本の文学理論の骨格ぐらいは把握してからにしなよ。
小林に文芸理論はないなどたいして小林を読んでもいなくて、小林の思想の概要も把握してない
そっちに、あれこれいわれる筋合いはないよねえw 神保町の青空古本市で『小林秀雄対談集』(講談社 昭和45年 第5刷)
を100円でGet.保存状態も良く書きこみも棒線もなし。何となくお得感があ
った。
>>325
>そもそも蓮實(あるいは翻訳者)自身が吉本の論考を理解していたとも
>思えない。
ここは同意だね。
そもそも吉本の幻想論には吉本による当初の解説の仕方からして問題が
あった。彼は「マルクスの「ドイツ・イデオロギー」における「共同の
幻想体」からとった」としていたが、そののちに90年代のインタビューでは
、「〈幻想〉というタームは共同の場合には〈錯覚〉と取っても良いが、
対幻想や個人幻想の場合、〈錯覚〉では妄想のようになって、意味が違って
くる」と説明し直している。結局対や個人では、いわゆるハイデガー的な
〈有る〉の繋辞のようにとるべきであって、対や個人の領域での存在論
すなわち「〜である」「〜がある」という現象や判断一般を指すととるべき
ということだろう。しかしこれを吉本が説明し直したのは90年代半ばであ
って、これは山本哲士らとのインタビューで言われたのだが、吉本による
重要な訂正であるにもかかわらず、皆もう興味が半減していたのか
さほど俎上にも上がらなかった。 331つづき
また問題のフーコーとの対談では蓮実による〈幻想〉翻訳語はfantasme
になっている。これはフーコーの死後に編纂された『Dits et Ecrits V
1976-1979』(Gallimard)所収のフーコー&吉本対談でも確認することができ
る。fantasmeでは死霊や空想という意味で、これでは共同幻想は勿論
個人幻想の訳としては不十分。
この対談について後に吉本は「あそこはfantasmeではなくてillusionだ
と思う」と言っていたが、私見ではillusionは「錯覚、妄想、空想」などで、
これも共同幻想訳としては良いが個人幻想訳としては意味が違ってくる。
意味が違ってくる、というのは、「錯覚、妄想」では個人幻想の幻想とし
てしては意味が違ってくる、と吉本本人が語っている。
むしろ、個人幻想訳としてはindividu etre 個人の領域での「有る」
とした方が吉本が後に訂正した仕方に意味が通じる。ついでに対幻想訳
としてはやはりetreを使ってpaire etreとするのがフランス語としては
正しいと思う。
吉本本人が「個人幻想では〈幻想〉は相応しくなかったかもしれない」
と誤解を生む表現であったことを認めているのだから、そこも難点だったし、
蓮実が共同幻想をfantasme collectifとしたことも既に問題だった。 >>331
さすがに、「ハイデガー的な〈有る〉」とは繋がらないんじゃないか?
と指摘したいとこだけど、スレ違いなので、吉本スレでやろうよ。 >>333
>さすがに、「ハイデガー的な〈有る〉」とは繋がらないんじゃないか?
いいや繋がるよ。吉本自身による個人幻想論は文芸批評理論の確立を
意図した『言語にとって美とは何か』から始まりでは起因している。そして
文芸作品とはその作家による〈〜がある〉〈〜である〉という繋辞を駆使
した世界の表明のことだ。〈ある〉は個人幻想を内側から
現し、世界を意味する。〈ある〉が個人史における意識に先行する像に
拘束されていく、すなわち世界は原-像、先行-像すなわち本人が意図しない
うちに形成された像に支配されるとしている。
ところで吉本は80年代後半の太宰治論では資質、文学史での意味、太宰
文学の特質に踏み込んでいくが、そこで太宰が生まれてすぐに乳母に預け
られる、また、思春期に家の女中から性的な悪戯をされる。すべてこれら
が太宰において「生と死を超え易い資質」を形成したとしている。すなわち
ハイデガー的な原-像、先行-像に太宰が苦しんだことをここで表明してる。
吉本がハイデガーを参照したことは語られてはいないが、両者の思索は偶然
同じ角度から個人や作家に照明を当てている。読んでいれば分かるよ。 334つづき
で、あと>>328でN氏によってこう書かれている。
>現実には評価は人によって大幅に
>違っているわけだね。これすなわち、文学的評価において主観が重要と
>いう証拠といえるね
吉本が文芸作品における価値評価を確立したといえるのは、たとえば
ある作品を100人が読めば100通りの読み方、価値、好き嫌いが出てくる。
じゃあもう一回その100人に読んでもらうとする。さらにもう一回…さらに
…と無限に読み返すうちに、その100人は同じ地点に到達する筈である、
という。すなわち作家個人の歴史性とその超え方、その生まれ育った風土や
同時代の 社会、そこでその同時代が抱え込んだ諸々の風景や問題と作家個人
の資質や歴史性との交点が。また文芸史で何を付加しえたかが。吉本の言葉
でいえば自己表出からみられた言語表現の全体の構造が文学の価値である。
或いは自己表現と指示表現の交錯する表現意識の相乗空間の時間の流れに
確定される、となる。
どちらにしても100人100通りの嗜好は最終的には止揚されるとしている。
『言語にとって美とは何か』での文芸作品への価値論とはこのように主観に、
好き嫌いに留まる価値論からは距離を置いている。そこだけは言っておか
なければならないと思えたので書かせていただいた。 >>335
そういう風にすべての文学作品の評価価値が止揚される時空間というのは
この世の終わるときであろうね。 つまり現在の評価でそれをあてにはできないね。
最後の審判の日がくるまでのあいだは、みんな主観で評価しなくてはならんわけだ。 >>334
だからさ、吉本スレでやろうよ。
君がよければ、>>331>>332>>334を吉本スレに転記しとくけど?
>>335は、そのままここで議論すればいいと思うけど。
ハイデガーとか吉本とかフーコーとか、ここのコテの人たちにはなじみのない哲学だと思うよ。 >>323
キター。40年前の本とは思えない。状態に何の問題もない。小林秀雄「私の人生観」(角川文庫・1975年版・定価:180円)
http://i.imgur.com/0lZuLSL.jpg >>326
>それは別に問題ないね。ピースは「私の人生観」買ったそうだが、もう読んだのかな?
これから読みます。でも、先に図書館から借りたの読まなきゃです。
>人生観を語るようになった小林などもうダメだ!と、それで小林を離れた読者もいた
>ので、ピースは「Xへの手紙」読めても、こっちを読めるかどうかはわからないね。
「Xへの手紙」だって人生観を語ってると思います。 >>327
>読書会は、もう一人のコテが了承して、準備ができたら始めよう。
リアルタイムでは追いつけそうにないから、先にやってて下さい。興味があります。 >>328
>まあピースのことはおまえよりはよく知ってるので、余計なお世話だよ。
その通りDEF!! 文学とは畢竟己の人生観を懐疑的に語る事ではないのか! >>340
もう一人のコテは、相手の話を咀嚼しないで、すぐ捻くれたり罵倒したりするから、良識のありそうな君を待ってるよ。
自分好みの意見しか受け付けないみたいだ。
相手は僕ではないけど、>>336がいい例だよ。 >>343
こういう事を書くと不自然につるんでると思われるのは嫌だけど、僕はNさんを信頼してますよ。あなたが真剣に書いた分だけ真剣にレスをしてくれると思います。試してみるといいですよ。 >>338
本当に四十年前? 俺の本よりはるかに綺麗だなあ。俺のは第三十二版だ。
>>339
そりゃそうだ、図書館で借りた奴を先に読まないとな。物事には優先順位というのがある。
>「Xへの手紙」だって人生観を語ってると思います。
それはそうだ。
>>340
なんかねえ、これ以上は吉本スレでやればいいんじゃないかって
意見もでてるよね。 >>345
>本当に四十年前? 俺の本よりはるかに綺麗だなあ。俺のは第三十二版だ。
http://i.imgur.com/eOEsTvq.jpg
>そりゃそうだ、図書館で借りた奴を先に読まないとな。物事には優先順位というのがある。
あざす!ベルンハルトの「消去」の下巻を借りたんですけど、めちゃくちゃ読みたいのに文學界と新潮が邪魔をする(泣) 本当は「伯爵夫人」を読みたいのに、最果タヒのクソくだらない小説もどきが邪魔をするんです(笑)
>なんかねえ、これ以上は吉本スレでやればいいんじゃないかって
>意見もでてるよね。
これ吉本スレなんすか(笑)
思想家の小谷野敦さんが2代目吉本隆明を襲名
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1331980000/ >>346
俺のは昭和四十二年七月二十日第二十二版発行、昭和六十年に改版
第三十二版発行だね。
まあ一番読みたいのを先に読むのが正しいねw そういう場合は。 >>346
哲学板の吉本スレだろう、やるなら。
吉本隆明 1924-2012 その3 [転載禁止](c)2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1447062523/
ここも読んだけど、ホステスの人生相談に吉本がのったとか
女性に一方的にストーカーされたとか、それは吉本の「良い人ぶり」の
表れという話が面白かったねw とりあえず、「私の人生観」でベルクソンの理論について語ってるのは
p.126からp.127までだから、小林の芸術凜音について知りたければ、そこだけ
読めばいいよw >>347
>まあ一番読みたいのを先に読むのが正しいねw そういう場合は。
本来はもちろんそうなんですけど、僕は純文学5誌スレで「最果タヒの十代に共感する奴は嘘つき」を読むと公言してしまったんですよね。本気で苦痛を感じています。まあ、自業自得なんですけど(笑)
>>348
なるほど(>_<)後日読んでみます
>>349
今読みます これ、講演録なの?その場で理解した人は相当のインテリだな(笑) 僕は「前後の文脈がわからないと読めないから後で読む」と言って逃げておく(笑) 議論の端緒になったんじゃないでしょうか。>>352が。 >>353
講演録だろうが、後から手をずいぶんいれてるね。小林は講演については
講演録にするときに、ぜんぶ後から手を加えて直すっていってたね。
ここだけ読んでわかんないなら、後回しだな、「私の人生観」読むのは。 いや、わかんないとは言わないですよNさん。印象で語っていいなら語りますけど、この議論の流れを僕は把握してないから、話を振られない限り僕は黙っておきます(笑) 小林秀雄が著作に後で手を入れるのがどーたらこーたらって書いてたのは福田和也より柄谷行人の方が先だと思うけど、柄谷行人だってめちゃくちゃ手を入れてるじゃん。 >>360の認識はそもそも間違っているのかもな。無視していいです。 >>359
まあ要するに小林に芸術理論があるのかないのかって議論になってるわけだね。
で、俺はそこのページに書いてあるベルクソンに負っている小林の考え方というのが
小林の最も根本的な芸術理論と考えているわけだね。哲学者ベルクソンに負ってる
考えと言うんだから、これは哲学的な芸術理論であると、俺は考えてるのさ。 >>360
柄谷も小林のテキストは後から徹底的に改稿するって書いてたね。
まあ俺は改稿されてるのかどうかなんて、ほとんど気にしたことはないがね。 >>362
めちゃくちゃ興味深いです。ベルクソンの事を何も知らないけど。小林秀雄がサルトルに反感を持ってたのも、ベルクソンに関する理解について異論があったのかな。
>>363
むしろ「残されたテクストが全て」だと本気で思ってる気がして好感持てますね。 >>364
まあ小林はサルトルもカミュも気にしてはいたね。サルトルについては対談で
触れてるけど、サルトル読んでもドストエフスキー読んだときみたいな感動は
得られないんじゃ無いかっていってたね。 あとは「考えるヒント」にある「読者」
ってエッセイでサルトルに触れてるが、それほど反感を押し出してはいないねw
ガブリエル・マルセルって哲学者と小林が対談したとき、サルトルが空港で
新聞記者たちの前で「諸君! 神は死んだ!」って見えきったって話を
マルセルがして、サルトルはそんな奴ですか、みたいなこと小林がいったら
マルセルは頷いたとか、そういう話もあったね。 >>364
小林がサルトルに反感あったとして、それはベルクソンの解釈とは
まず関係ないとおもわれるね。サルトル、カミュ、メルロポンティのなかでは
小林はメルロポンティを一番評価してたらしいが、小林は一行もメルロポンティに
ついて書いてないから、どのように評価してたかはわからないね。 >>365
>まあ小林はサルトルもカミュも気にしてはいたね。サルトルについては対談で
>触れてるけど、サルトル読んでもドストエフスキー読んだときみたいな感動は
>得られないんじゃ無いかっていってたね。
中村光夫と福田恆存との鼎談でしょうか?
>あとは「考えるヒント」にある「読者」ってエッセイでサルトルに触れてるが、それほど反感を押し出してはいないねw
僕はNさんから「考えるヒント3」を貰ったけど、それは載ってない(笑)
>ガブリエル・マルセルって哲学者と小林が対談したとき、サルトルが空港で
>新聞記者たちの前で「諸君! 神は死んだ!」って見えきったって話を
>マルセルがして、サルトルはそんな奴ですか、みたいなこと小林がいったら
>マルセルは頷いたとか、そういう話もあったね。
サルトルのそれ、どのタイミングですか? >>366
>小林がサルトルに反感あったとして、それはベルクソンの解釈とは
>まず関係ないとおもわれるね。
そうなんですね。サルトルもベルクソンにものすごく影響受けている人でしょう。よく知らないけど。そこらへんで思うところはなかったのかなあ。 小林秀雄はサルトルに対して対抗意識があったよね。先に挙げた大岡昇平との対談を読めばわかる。その対談をまとめてアップしたいんだよな。iPhoneから。良い方法知ってる人は教えて下さい。スクショで全文抑えてあるので、それを一つのURLで読めるようにしたい。 >>367
>中村光夫と福田恆存との鼎談でしょうか?
あ、そうそう、対談じゃ無くて鼎談。
>僕はNさんから「考えるヒント3」を貰ったけど、それは載ってない(笑)
一番最初の「考えるヒント」だからね。
>サルトルのそれ、どのタイミングですか?
いや、それは忘れた。
>サルトルもベルクソンにものすごく影響受けている人でしょう。
これが違うんだな〜サルトルはベルクソンには直接的にはほとんど
影響うけてないね。フッサールとかハイデガーとかあの辺だね、サルトルに
哲学的影響があったのは。 柄谷が確か書いてたと思うが、第二次大戦後のフランス思想界はドイツから
輸入された実存主義に制圧された、という話と、サルトルがハイデガーや
フッサールの影響をもっぱら受けてたという話は付合するわけだね。 >>336
>そういう風にすべての文学作品の評価価値が止揚される時空間
ではなくって私的嗜好によって文学作品の価値が決められる時空間といって
もいい。私的好み、嗜好、素材主義、主題主義だけではない価値評価は何か、
という問題意識で『言語にとって美とは何か』は書かれている。そしてこの
問題というのはかつて小林が「マルクスの悟達」冒頭で文芸批評の科学性
についての論争を書いた時点(もっとも小林の結論は文芸批評がこれまで
連綿と続いてきた事実がそも文芸批評の科学性を論証する、という小林お得意
の言葉の魔術のようなものだ)とも繋がっている。
>>337
>ハイデガーとか吉本とかフーコーとか、ここのコテの人たちにはなじみ
>のない哲学
だとしたら逆にどういうことかね。木田元はハイデガーと小林に同じものを
感じたというし、実際両者は〈宿命〉という用語を生体験の本質、個体の
歴史性の本質のように使う。「馴染みのない」というのは単に「疎い」という
意味ではないのかね。 372つづき
小林がサルトルを意識していたという議論が出てきてるが、サルトルの
ような先鋭な政治的意識は小林にはないね。ないし、共産党に或る時期の
サルトルのように希望をかける、ということもなかった。また小林は
「マルクスの悟達」を書いてるが、しかしそこでの読み方は『資本論』
についてニーチェを語るグウルモン引用しながら、「気違いのように常識を
説いた」とし、そこでサルトルがマルクス読解で抗議したような、資本に
包摂されながら〈他者(自己とは別のもの)〉〈集列体(数列のように記号
化されていくもの)〉〈実践的=惰性態(生産行為に入って行く中で、物を
加工し、そこで加工された物が逆に人間を惰性的に拘束し、物化していく
反転)〉のようなマルクスを読んでいく中で新たに編み出した概念で読み
直す、という力業に及ぶこともない。
まず小林は初期の「様々なる意匠」「マルクスの悟達」などで度々マルクス
に言及してはいる。しかしそこで語られるマルクスは「この世はありのまま
にある」を説いた、とされ或いはニーチェを語ったグウルモンを引用しながら
「気違いのように常識を説いた」とこれまた気の利いた言いまわしで語られて
しまう。「マルクスが説いた理論は大衆にとっては常識である」とも言ってい
る。 373つづき
サルトルが膨大なるマルクス読解で労働者の苦渋の日々を描き切ったのを
読み、その眼で小林のマルクス読解を読むと、こんな流麗な文体とレトリック
で「世の労働者にとっては常識」などと片付けられてはたまったものでは
ない、という感じがしてくる。
マルクス読解の一事をもっても、小林のマルクスは「小林秀雄の悟達」
を描いても、マルクスの描いた労働者の苦渋は故意にか触れないでいる
のが分かる。そういう手つきでマルクスを語り、澄ましているのが俺には
不審にみえてきた。かつては俺は「小林のマルクスは良いね」などと
思ったことがあったが、近年ここでも話題のサルトルの書いたマルクス論を
読み、小林のマルクスってのはとんでもない代物だと違う眼でみるように
なった。小林は日本の批評界の重鎮。サルトルはフランスの重鎮。しかし
手つきは相当違う。サルトルは小林のような流麗なレトリックで「悟達」
に入って澄ましているなどということはしない。 >>370
>これが違うんだな〜サルトルはベルクソンには直接的にはほとんど
>影響うけてないね。フッサールとかハイデガーとかあの辺だね、サルトルに
>哲学的影響があったのは。
そうなんだorz やっぱり僕はこの議論に参加できるレベルにないな(笑) >>372
>(もっとも小林の結論は文芸批評がこれまで連綿と続いてきた事実がそも文芸批評の
>科学性を論証する、という小林お得意の言葉の魔術のようなものだ)
「ある批評家が少なくとも一人の読者を持ち得た事情は批評の一般科学性を孕む」というのが
「マルクスの悟達」において小林が文芸批評の科学性について主張したことで、「文芸批評が
これまで連綿と続いてきた事実」というのは、その主張を導出するための前提であるね。
文芸批評が連綿と続いてきた事実そのもので、文芸批評の科学性を論証しようというのは
いくら小林だって無理だね。
>だとしたら逆にどういうことかね。木田元はハイデガーと小林に同じものを
>感じたというし
俺もハイデガーやメルロポンティについて理解するために木田元をよく参照してるね。
木田元自身、小林秀雄の影響は大きかったって自分で書いてて「何もかも小林秀雄に
教わった」って本を書いてるね >>373
>「マルクスの悟達」を書いてるが、しかしそこでの読み方は『資本論』
>についてニーチェを語るグウルモン引用しながら、「気違いのように常識を
>説いた」
ん〜と、「マルクスの悟達」にはニーチェもグウルモンも出てこないので、それは「様々なる
意匠」に出てきた話であるね。まあ「様々なる意匠」において小林のマルクス主義文学批評に
対する姿勢のアウトラインは既に定まっているので、それを表しているのは柄谷も着目した
以下の一節であるね。
>諸君の脳中においてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に
>貫かれた理論でもなくなっているではないか。正に商品の一形態となって商品の魔術を
>ふるっているではないか。商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス
>主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この
>変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。 >マルクスを読んでいく中で新たに編み出した概念で読み直す
結局マルクスの読み直しって、そういう風に新たな概念を導入することによる再解釈が
中心ってことになるんかねえ。護経論的マルクス主義が、官僚化、硬直化していくプロセスに
あったならば、それに対抗してマルクスの再生を図るためには、天才的な個人による新たな
概念の投入、マルクスのテキストに対する斬新な再解釈、読み直しが必要であるという
ストーリーね。柄谷もマルクスのテキストの新たな再解釈をこころみたし、そのような
マルクスのテキスト再解釈の果てに到達にしたのが、アルチュセールではあるまいかと
俺は想像してるわけだねw >>374
>サルトルが膨大なるマルクス読解で労働者の苦渋の日々を描き切ったのを読み、その眼で
>小林のマルクス読解を読むと、こんな流麗な文体とレトリックで「世の労働者にとっては常識」
>などと片付けられてはたまったものではない、という感じがしてくる。
そういう苦渋を小林が書いたのを読みたいなら、小林のドストエフスキー論を読まないとねw
一般労働者よりももっと酷い苦渋を強いられている人類社会最低辺の監獄の囚人たちの苦悩の
日々については、マルクス論ではなくドストエフスキー論で小林は書いたといえるねw
「マルクスの悟達」でも、ドストエフスキーとマルクスは対称的な二人の天才として描かれているね。
そういえばサルトルもドストエフスキーは相当読んでたって話で、小林はサルトルよんで
サルトルが相当ドストエフスキー読み込んでたことがわかるっていってたねw
まあサルトルは共産党にちかづいて、それでカミュやメルロポンティと論争して
決裂するわけで、小林はサルトルよりかっていうと、カミュやメルロポンティのほうに
より近いと言えるね。 しかしまあ吉本の「悲劇の読解」における小林秀雄論でとりあげられた作品みても
「一ツの脳髄」からヴァレリイ「テスト氏との一夜」「Xへの手紙」「当麻」「平家物語」
そして「本居宣長」と、小林を観念的自意識の怪物として位置づけようという趣が
明白であるね。「マルクスの悟達」について吉本はふれてないので、そこに着目した
柄谷とは着目したポイントが大きく違うと言えるね。 >>379
サルトルは「労働者の苦渋と疎外とむなしさ」(というのは俺の受け取り方
が入ってるんだが)を描いたしもっと具体的に言えば稀少なる価値や地位や
財をめぐって互いに敵対性に入って行く。またたえず順列化としてしか
生きられない社会に順応することを迫られていく。
言い換えれば人間はそこでは互いに理解しあえる契機をたえず失くすよう
強いられ、秘密主義によって悪に染まることを強いられ、しかもそれは
物化として、惰性として人間を浸食する。
サルトルはこれらを「いつか乗り越えられる日が来るだろうと信じ」
あの膨大なる著作を興奮剤を飲みながら寝ないで書き続けたらしい。この
人のあのマルクス論を読むと、知性の闘いによって歴史を更新できると
いう信念を感じる。今読んでもだからそこには驚きと感動がある。
一方小林のマルクスはどうかといえば、「労働者にとっての常識を描いた」
ことになり、>>377にあるような思想の魔術に変わり、これ
だって謂ってみれば、思想を商品に擬え、それはいいがマルクスの真意を
汲み取る作業は為されないまま、思想が流通する様相をただ眺めていく
に留まる。そこでそれがどこまで有効なのか、
我々の日常にどう関係するのか、歴史は変えられるのか、というまさに
マルクスを革命的思想として読む作業は放擲されてしまう。 381つづき
つまり小林の発想というものはあくまでもそこでは「意匠」に或いは
「教養」にまたは「達人の悟達」に留まってしまう。
吉本が貴方の言うように「観念的自意識の怪物」として描くのは、
謂ってみればそこにしか今、読める箇所はないからであって、別の
小林論で吉本が語っているように、小林にとっての「世界」の問題と云うのは
ドストエフスキー論で終わりだ、「世界」について考えようとするならば
小林では役に立たない。また教えてはくれない。なので自分で考えようと
するしかなかったとね。
吉本はそう言うが、俺に言わせれば「世の中はありのままにある」ことを
訴えたのがマルクスであるかのように小林が言ってのける時に、この批評家
の(マルクスではない小林の!)それは「悟達」に過ぎず、マルクスを
その手の「達人讃歌」でまとめられてはマルクスは浮かばれんだろうという
気しか今はないね。言い換えれば小林のように悟ってしまって堂に入る
ことをマルクスは求めてはいないし元気な間は著述だけではない政治活動で
駆けずり回った人間だ。「悟達」など言われてマルクスがどういう顔を
するか、一度小林は考えてみた方が良かった。答えは簡単だ。「俺はあんた
の言うような悟達などしたことはない」とでも言われるのがオチだ。 382つづき
また、貴方は小林はサルトルよりかカミュに近かった、と言ってるが。
カミュの小説『ペスト』は絶望的状況にたいし、たえず闘いを挑む、
そして斃れていく人間を描いたものだろう。このような小説が小林に
描けるかといえば描かないと俺は思うわけだ。小林にできるのは「悟達」に
入るか、その「悟達」を無理矢理「天才」にみつけて「讃歌」すること
だけだ。
加えて言えば、木田元は小林とハイデガーに類似を感じ、それは確かに
皆無ではないし同じ用語を使ってはいるが、ハイデガーのような、新しい
用語を駆使し、また哲学史の中で忘却されていった問題を抉りだし、
それらによって我々の生のリアリティに到達しようまた人類の知の歴史を
総括しようと言う遠大なる作業は小林には無理だし、ましてやナチスの
希望をかけて加担するなんてことは「芸術家批評」がお得意な批評家のやる
ことじゃない。謂い方変えればその思索の深度とスケールが、また行動の
スケールが、その間違い方も含めて、違いすぎる感じがある。俺なら
木田元の言う類似よりか今は差異をみるね。 >>381
サルトルのマルクス読解ってもっぱらどの著作でおこなわれたのさ?
マルクシズムを扱ったようにみえる著書は、サルトルの主著では
みあたらないし。「存在と無」にしても、マルクス哲学の書というよりは
現象学的な哲学書といえるし。
>>383
まあ、小林は小説書けないから批評やったわけだが、小林のカミュ論も
なかなか興味深いものといえるねw 小林はサルトルよりはカミュに近いと
いえるが、それは政治的立場の問題で、やはり考え方は大きく違うね。
小林が依拠したデカルトにしろ、ベルクソンにしろ、哲学的問題を論じるに
あたっては日常用語で十分というなので、新概念の創造など無用と
いうのが小林の立場といえるねw 383つづき
とこう書いてしまえば「小林など読む価値ない」と言いたがっているかの
ようだがそうではなく、しかし俺などが一時期「いいな」と思っていた
ほどのものは実は小林にはなかったと、今さらのように気が付きだした。
俺の誤読もあった。こうまでテキストの中で停滞した「常識」に留まっている
批評家だとは正直気がつかなかった。
小林の戦前書いてる「文芸批評の科学性」についても、前レスに書いた
ようにお得意の言葉の魔術で纏め上げて、あれで吉本の『言語にとって
美とは何か』の意義が決まるとでも思う人間がいたとしたら苦笑する
しかなくなる。小林は言い換えればそこでも「ありのまま」に留まり
新しい基準が構築され得る可能性を放棄する。そこでも「悟達」しちゃって
るわけだwこれはいま読み返すと到底頷けるもんじゃない。というか、
こういう姿勢に留まっていること自体はもう吉本の論考で「読むことの
一段階」として位置づけされている。無論そこに留まることも「読むこと」
としてはありだ。「俺にはこの作品はこうなんだ。それで十分だ」に
留まることはありだ。自己の感覚にあくまでも拘ることはありだ。それを
吉本が否定するわけじゃない。しかしそこに留まらないことも可能だという
ことを吉本は示してみせたと思っている。そこが小林の批評から出発しな
がら吉本が到達してみせた力業であって、「小林秀雄とは違う批評は可能か」
をそこでやり切ったと俺には見える。 >>384
>サルトルのマルクス読解ってもっぱらどの著作でおこなわれたのさ?
『弁証法的理性批判』(1960年)があるじゃないの。アレは全編マルクス
思想の読解と言って良い。『経済学・哲学草稿』から『資本論』に到るまで
のね。
それらを読み砕いてサルトルは新たに書き直してみせた。マルクス唯物論
からみた歴史とは何かという主題でね。
今では古書店でしか入手できないし、読みづらいので俺は何度か放棄
したが。(ちなみに俺みたいに途中放棄した人間は数多いらしく、古書店では
結構出回ってるよw)近年読み返して、ここまで我々の日常の苦渋を、物化
を、遣り切れなさを、精神の汚泥を、これでもかと描き切っていたという
ことを改めて知った。そこからどういう革命が可能かも彼なりに描こうと
している。思っていた以上の良い作品だよ。
サルトルは晩年のインタビューで自分の作品でどれを後世まで残って欲しい
か訊かれ、『弁証法的理性批判』と『家の馬鹿息子(フローベール論)』
『シチュアシオン』を挙げている。俺も全読してるわけではないが、たしかに
ここに彼が挙げている作品は俺が読んだだけでも良い作品だと思える。 386つづき
『存在と無』というのは晩年のインタビューで自分で色んな角度から
否定してみせている。「アンガージュマンは二者択一かのように書いたが
それは間違いだった。あの時代はナチスへの抵抗運動があって。捉えられた
抵抗者が、仲間の居場所を拷問で言わされそうになり、謂うくらいなら死を
選ぶ、というのが英雄的行為として伝説化されていた。ああいうアンガージ
ュマンの考え方になるのは仕方なかったんだ。傲慢だった」
またこうも言う。「自己の浄化的反省が完璧に為されるかのように書いたが
、それは生涯かけて為されるかという問題だ。自己との共犯はだから
ほとんど避けられないとも言える」
このように『存在と無』での考え方に晩年では異議を唱えていた。実際
後半書き続けたフローベール論ではほとんど政治的活動などない皮肉屋の
フローベールにたいし、やはりこれもまた生体験としては尊重されるべき
と言いたげに膨大な論考を書いてる。
サルトルのスレみたいになったけどまあ勘弁を。 >>385
要するに「言語美」は凄い、言語美を読めと、単純にいえばそういう話ね。
「言語美」についてアマゾンのレビューみると、いろいろ書いてあるね。世界に
類例のない独創的な文学理論の書という評価もあれば、あと一歩で古典に
なれるのにとか、ちょっと不親切なところがあるという評価もあるね。
浅田彰に依拠したまったく読解不能という評もあるね。小谷野敦ってあの
文芸批評家の小野野のことならば、彼もまた「天下の愚書」という評価を
くだしているねw このレビュー読んでるだけでも、結構おもしろいね。
ところで君は君の愛する「言語美」の絶賛レビューをアマゾンに書いたりしたの?
「弁証法的理性批判」はもってないし、今日ではそれを評価する評者、ほとんど
みかけたことないね。というわけで読むこともできず、誰もあまり関心持たない
書物については、俺も人並みに素通りしてしまうわけだ。
「家の馬鹿息子」は蓮實がとりあげて、最近ちょっとまた関心をあつめたものだね。
読みたいと思ってるんだが、なかなか手が出ない。 ところでピースがせっかく>>352でアップしてくれた小林の「私の人生観」における
ベルクソン論、小林に理論はないとかいうから、小林の理論と俺が考えるものを
提示したわけだが、読んでないのか、読めなくて理解できなかったのか、理解した
うえで無価値と判断したのか、なんの反応もないね。 >>389
それは僕への誘いかな?
君と>>387の議論が始まったから途中で邪魔したくなかったし、>>375でPコテ君が事実上不参加を表明したから、静観しているんだけどね。
おまけの話だけど、君がPコテ君に「考えるヒント3」をあげたというのもおもしろかった。
あの本には「私の人生観」が入ってるのに、Pコテ君は買っちゃったんだな、と。
どこにどんな文章が入っているかなんて、誰でも忘れちゃうだろうけど、たまたま話題になってる文章を二人とも忘れちゃったんだね。
小林に理論があるかないかなんて、自分でこれを引用して「無い」と宣言してるんだけどね。
「懐疑は、恐らくは叡智の始めかも知れない、然し、叡智の始る処に芸術は終るのだ。(アンドレ・ジイド)」
(「様々な意匠」) >>390
確認してみたら確かに入ってた…僕はこれちゃんと読んでないな(笑)読みたいの沢山入ってるから良いよ。でも、Nさんは確実に読んでるよ。真っ黒だったもん。 サルトルが「私はもはやマルクス主義者ではない」と言ったのが1977年だね。 >>392
その言葉は知らないんだが、一般的に、言葉には背景や隠れた意味があることが多いから、短い言葉は鵜呑みにしないほうがいいと思う。
マルクス本人ですら、自分はマルクス主義者ではない、と語ったと言われてるぐらいだから。 「存在と無」の続編を放棄したサルトルは「マルクス主義に転向した」と語っています。たぶん1945年くらいの話。"I am no longer a Marxist."はフランス語で何と言ったのか不明だけど、サルトルが急進的な政治運動に絶望した際の言葉だと言われていますね。
まあ、入門書に書いてあったんだけど(笑) imgurで複数アップロードできるんだな。途中1ページ抜けてるけど、読みたい人は講談社文芸文庫の「小林秀雄対話集」買って読んで欲しい。
小林秀雄と大岡昇平の対談「現代文学とは何か」
https://imgur.com/a/hemVg >>389
いやまあ、小林に理論はないって議論やってる最中に、ピースがせっかく小林の文を
アップしてくれたのに、誰も反応ないから、誰でもいいから反応してよって話。
君でもいいし、君の前のひとでもいいってこと。
考えるヒント3をあげたのは、とても昔の話だし、「私の人生観」入ってるかどうかなんて
すっかり忘れてたよ。最近は考えるヒント3そんなに読み返してないし、やはり忘れていくものは
忘れてしまうね。
>「懐疑は、恐らくは叡智の始めかも知れない、然し、叡智の始る処に芸術は終るのだ。(アンドレ・ジイド)」
「様々な意匠」から「私小説論」を書いたあたりまでは、小林はジイド好きだったのかもしれないが
後からジイドは嫌いっていってるんで、「様々な意匠」を書いたころには理論なかったのかもしれないが
>>352の頃には理論もってたとも考えられるねw まあしかし小林に理論がなかったとしても、鋭い
直観をもっていたなら、それで十分といえるね。理論があっても勘の鈍い批評家と、理論がなくても
勘の鋭い批評家なら、俺は勘の鋭いほうを頼りにするわけだねw 理論があったって盆暗の批評家ってのは確かにいるんでねw
小林の鋭さは天下一品で盆暗批評家とはやはりいえないね。 まあそれに小林に文学理論がなくたって、文学理論ってのは他に沢山あるわけで
アリストテレスの詩学の理論以来、文学理論は汗牛充棟で、読み切れないくらい
沢山あるわけだねw サイードの本読んだって、アメリカの文学界批評界において
どれだけ多くの文学理論が流通しているかはわかるわけで、ニュー・クリティシズム
精神分析的批評理論、フェミニズム批評理論、脱構築的批評理論、アーノルドの
試金石理論、ノースロップ・フライの物語論、このリストはまだまだ伸ばせるわけだが
そのうえに小林の理論をつけくわえたところで、世界の文学批評理論界になにかしら
重大な変動がおきるとはおもえないし、他の理論家の理論にしてもやはり似たり
よったりであると考えられるわけだねw >>388
>要するに「言語美」は凄い、言語美を読めと
>「言語美」についてアマゾンのレビューみると
>浅田彰に依拠したまったく読解不能という評もあるね
貴方は単純だなw『言語美』を読めば足りる等思ってはいないが、
吉本の批評を読んできて、たとえば88年の講演での太宰治論とか、或いは
三木成夫を引用した胎児論など、人間論として震撼させるものがある。1999
年に出た本で『詩人・評論家・作家のための言語論』て本がある。吉本の
言語論の進化した姿があって、感心させられた。少なくとも小林の批評の
まま停まっているよりはこういうのを読んでみた方が良いのではと思える
がね。
俺は浅田彰の批評は彼が柄谷や蓮実とやった『近代日本の批評』を
読んだ時から完全な眉唾としか見てないので、当てにしたことはないね。
あの本で花田清輝をやたら世界に通用するかのごとく持ちあげているんだが。
日本の戦時中の国家総動員体制とソ連の疑似社会主義体制の区別も
ついているようには視えず、戦時中は右翼団体に寄生。戦後は日本共産党
に寄生する。ソ連に行った作家ジイドがそこで労働者に会って実情を知った
逸話について、「ソ連を知るなら官僚に訊くしかない」と言い切るところ。
不逞な嘘がつけるかどうかが革命家の決め手であるかのように言い切る
ところ。集列の一個になれるかどうかが革命家の決め手であるかのように
言い切るところ。これらは花田の全集で読めるし、他にもこの手の瞠目する
思考は花田の場合あっちこっちに遺されてあるが、
この手の花田のような批評家が「世界に通用する」かどうかは俺にはどう
でもよく、何故なら「世界」を舐めている男じゃなきゃそういう花田評価が
出る訳がないからだ。で、この手の評価を下す浅田のことも苦笑ものの秀才
としか見えなくなった。 400つづき
俺はアマゾンのレビューを当てにしたことはないね。「センスがない」
としばしば感じることがある。なので読んではいるが当てにはしない。
『弁証法的理性批判』についてもアマゾンではレビューすら載っては居ない
。ここで当然アマゾンのレビューを当てにする御仁には打つ手がなくなる
わけでwお気の毒というしかないが、俺は直感であの本にたいして
「此処には何かがある」と感じてきたし、だから歯が立たなくとも、
何度か放棄しても、捨てることも古書店に売り飛ばすこともせず、
(もっとも売ったところで今はたいしたカネにもならず、買ってくれる
かどうかも今は難しいだろう。古書店も売れるかどうかには厳しいから)
諦めることなく挑戦してきた。近年やっと歯が立つようになり凄さが
見えてくるようになってきた。諦めなくて良かったと今さらのように感じ
てるよ。
そういう読書の体験は貴方にはないのかな。それはまあ「人並」としか
言いようがないが。自分の触覚で選び読んでいく癖をつける、歯が立たな
くとも触覚が動く限り諦めない。そういう癖をつけておくことをお奨めする
ね。それがあれば「人並」を少しは超えられるんじゃないの?w
偉そうで申し訳ないがね。 400つづき
俺はアマゾンのレビューを当てにしたことはないね。「センスがない」
としばしば感じることがある。なので読んではいるが当てにはしない。
『弁証法的理性批判』についてもアマゾンではレビューすら載っては居ない
。ここで当然アマゾンのレビューを当てにする御仁には打つ手がなくなる
わけでwお気の毒というしかないが、俺は直感であの本にたいして
「此処には何かがある」と感じてきたし、だから歯が立たなくとも、
何度か放棄しても、捨てることも古書店に売り飛ばすこともせず、
(もっとも売ったところで今はたいしたカネにもならず、買ってくれる
かどうかも今は難しいだろう。古書店も売れるかどうかには厳しいから)
諦めることなく挑戦してきた。近年やっと歯が立つようになり凄さが
見えてくるようになってきた。諦めなくて良かったと今さらのように感じ
てるよ。
そういう読書の体験は貴方にはないのかな。それはまあ「人並」としか
言いようがないが。自分の触覚で選び読んでいく癖をつける、歯が立たな
くとも触覚が動く限り諦めない。そういう癖をつけておくことをお奨めする
ね。それがあれば「人並」を少しは超えられるんじゃないの?w
偉そうで申し訳ないがね。 >>400
いや別に吉本の批評よまなくたって、小林以外の批評理論よみたけりゃ
>>399にやまほどあるんでね。吉本の批評理論必ず読まなきゃいけないと
いうことはないよねw 太宰論とか三木論っていっても、そもそも太宰に
それほど熱い興味あるわけじゃないし、吉本がうまく論じてるのは、君の
言をみるかぎり日本の作家や詩人ばっかりだよね。やはりサイードの批評
理論のほうが世界的な広がりがあるわけで、だから俺は小林の次に
サイードを選んだわけだね。
まあ、浅田は花田清輝すきそうだし、吉本花田論争では明らかに花田側だろうね。
ってことは浅田の吉本評価は私的な評価がはいってるという見方もできるね。 まあ君は
吉本花田論争では吉本側なんだろうが、外野からみればどっちもどっちであるわけだねw >>401
「弁証法的理性批判」は誰もレビューつけてないので、それは
今日においてはあまりひとがその著作に関心もってないということを
示していると言えるね。まあアマレビュー書いてるのは、ほとんどが
普通の一般社会人であるわけで、一般社会人の評価をしるうえでは
もっとも参考になるサイトといえるね。
>俺は直感であの本にたいして「此処には何かがある」と感じてきた
そうかい、その直感があたってるといいねw まあ直感で判断するのは
主観的判断といえるので、君のその判断が主観的ということは自覚して
おいたほうがいいねw 君が盆暗でないなら、その直感には意味が
あるわけで、君が盆暗でないことを、君のために祈っておくことにするよw 『近代日本の批評』で花田がもちあげられているのは気に入らないって
あの本にはいろんな文学者や批評家がとりあげられてるので、花田
評価がおかしいといって全否定することもないだろうと思うけどねw
俺だっていきなり福本和夫が高評価になってて、なんだこれって
思ったりしたが、いろいろ参考にはなったねあの本は。 >>405
>>401の「自分の触覚で選び読んでいく癖をつける、歯が立たなくとも触覚が動く限り諦めない。」というのは、小林が言ってることと同じだよ?
そして、それが「直感」(知覚、感性)を磨く、とも言っている。
それを罵ったら、君自身の小林体験を罵ることになるよ?
横だけど、君がどこまで小林を読んでるのか心配になってきたw >>407
直感をみがくことは必要だろうが、磨かれた直感だろうと基本的には主観的なものには
違いないんでねw つまり批評において直感が重要ということは、批評においては主観が
重要ということをそのまま意味してるのさ。 君は直感が主観的なものとは思わないの?
それを答えてね? >>407
俺はもう君なんぞよりはるかに小林読んでる自信あるしw 君はどうせ「本居宣長」も
吉本の評価だけが頼りで、原本は読んでないだろうw >>408-409
とりあえず、いまの議論を続けろよw
横から茶々入れた僕も悪いんだが・・・
それとも、彼には歯が立たないから、逃げたくなってるのかな?
確かに、君が反論するのは無理な相手に見えるな。 >>410
茶々なんかつけてないよ? ちゃんとストレートに>>407に返してるよ〜?
俺に歯が断たなくて逃げ出したのが、俺にむかって逃げ出したくなったの?
とか、ちゃんちゃらおかしくって笑えるんだけどw >>411
読み違えるのも、相手の口真似するのも、自分に自信がなくなって狼狽えたことの現れだね。
なにしろ、「茶々を入れた」のは僕で、君じゃないw >>412
ああ、どうも御親切に間違い指摘ありがとうねw まあいずれにせよ君が
俺に歯が立たなくて逃げ出したことには違いないねw >>413
幼稚なのはくだらない揚げ足取りとって勝ったつもりになってる君であるねw >>415は>>414あての間違いね。 まあこんなくだらない揚げ足取りやってる暇が
あったら、本筋での反論を期待したいところなんだが、まず無理だろうねこのぶんじゃ。 猫ふんじゃった♪猫ふんじゃった♪
猫ふんだ〜ふんだ〜ふんじゃった♪
猫ふんじゃった♪猫ふんじゃった♪
猫ふんだ〜ふんだ〜ふんじゃった♪ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」って言うのって、結局はあなたの吉本隆明に対する偏愛が強い動機になっているようにしか見えないんだけどな。 N氏が俺に色々言ってるが、とにかく全部根拠のない誰々よりは誰々…
AもBも似たようなもの…的な話ばかりで、話が具体的じゃないし
まさしく「主観的な感想」ばかりで、自己の意見の具体的根拠や引用がなく、
この書き方自体が問題じゃないかと思ったがね。
『弁証法的理性批判』にしても、直感で挑戦し続けたが、最終的に良い本
だ、と思わなければ推しはしないわけだ。稀少性の概念で人間同士に悪が
生まれる、秘密が生まれること、政治や戦争状態が生まれること、
物を加工し生産するなかで、生産される商品が自律的になり、生産者は
集列の渦に入って行き惰性化していく。内面性は否定はされないが、
この集列性や惰性に同化させられていき、同化させられていくことは
内面的に自明化させられていく。我々の日常の自明性を抉ったのは
マルクスがそうだがサルトルのこの本はマルクスよりもより徹底的に
自明性の内実を抉って見せている。その抉り方が素晴らしいのだよ。
なので>>405が俺の一文を取り上げて「直感が当たってるといいね」
とか書いてるが、俺はそこで停まってる気はないわけだ。また直感での
話しをいつまでもしてても意味はない。上に書いたように、あの本での
記述はマルクスにおける資本主義の疎外理論をより詳細に展開してみせた
力業だ。サルトルなりの用語を創造し、新たに展開してみせている。
マルクス研究は多多あるが、ここまでやってるのは中々ない。素晴らしい
というしかない。 420つづき
「一般社会人」の評価はこの本の凄さとまず関係ないし、「一般社会人」
のアマゾン・レビューがこの本を取り上げないこと自体、アマゾン・レビュー
に独自な眼をもった読者のいない証明だよ。
花田清輝についても俺は一応この人のどこが下らないかについて、挙げて
みせているけどね。具体的にね。具体的な話がされずに批評の良い悪いの
評価などできないのさ。浅田が吉本の論敵だとか、それはそうだが
ただそれだけの理由で下らないとか言ってるわけではない。俺なりに
花田の全集は読んでる。この人の人間観や革命観の中で。人間を
集合の要素に還元したり、革命家は正直ではあってはいけないとか見なして
いたり、嘘の上手になることが革命の第一前提なように言いくるめていたり
たとえばサルトルからすると革命の前提としてあるべき素直さ、正直さ。
透明さを全部政治的狡知から否定している文章がある。これは吉本を
出すまでもなくこういう革命理論に未来はないと言わざるを得ない訳だ。
こういう政治的狡知優先という側面をみて、花田のような理論は駄目だ
、そういう革命は先が知れてると言ってる訳だ。 421つづき
小林の批評についても同じで、あくまでも具体的にしか俺は論じる気はない
。どっちがどう、という結論に性急に行くのではなく根拠を引用し、
出すべきだね。小林の「様々なる意匠」は好きな作品だし、作家の作家たる
運命や書くことに到る宿命をあげている箇所は好きだが、吉本は小林の
こういう批評の提示を継承してみせている。吉本の太宰論や
三島論に乳児期から掘り起こし辿って行く手法があって、ああいうところを
みると吉本は小林が提示した作家の「血球の流れ」を生誕史や生涯史として
書いたと分かるよ。しかもそこでどっちも生涯を生きながらえることが
できないで自死を選んだ悲劇を描いて見せている。作家論として素晴らしいし
人間学としても良い。小林が「様々なる意匠」で提示した方法の継承でも
ある。色んな意味で吉本の作家論は良いよ。
P氏がやはり「花田を持ち上げたから浅田が駄目だと言ってるのだろう」
とか書いてるが、これまたP氏は浅田の批評、花田の批評について、
具体的に語って見せるのが礼儀ではないかな。その上で、「貴方が言う
ほど花田の批評も浅田の批評も悪くはない」とやるべきじゃないかね?
貴方はそもそも 花田の書いたものを読んだことはあるのだろうか?なけれ
ば俺の花田論 に反論し、その根拠を提示することは出来ないだろう。
それができないから単なる勘繰りに(「貴方は〜ファンだから」的見方)
なってるように見えるのだよ。そうならないようどうか頑張ってください。 >>420
俺はきわめて単純な質問しただけで、君が直感で「弁証法的理性批判」には
なにかあると判断したというから、直感とは主観的なものか客観的なものか
問うただけさ。
もう一回聞くけど、直感とは主観的なものか、客観的なものか、どっちだと
思うの?
花田吉本論争については、吉本が花田を「東方会の下郎」とよんで、それが
結構花田にとっては痛手で、それから花田はあまり書けなくなったって話を
聞いたことあるねえ。 たまたま花田吉本論争についてまとめた本である
「真昼の決闘」って本を手に入れたので、これを読んで、論争の概要をとりあえず
把握するわ。 浅田はこの「東方会の下郎」という表現をして、「よくこんなルサンチマンに満ちた
うそ寒い表現ができるものだ」といったわけで、どっち側もかなり感情的になってるとは
いえるねw >>423
ああそうwそういうことが気になってるの。
読んで字のごとしで直感とは直な感ですよ。主観というのが私の観方だ
とすれば、直感とは観方でさえもない感ですよ。
ちなみに俺は直感と書いたっけな。触覚と書いてなかったかな?
これも主観のような観方でさえもない感覚のことです。昆虫のようなね。
あと、貴方が挙げている本を書いた好村富士彦という人は花田の側の人
で、そもそも『真昼の決闘』という映画じみた題名からして映画好き、西部劇
好きの花田の継承。またガンマン同士の決闘シーンによくあるような、
片方が撃たれて倒れたかのようにみえて、実は勝った方がバタリと倒れる。
実は最初撃たれたかのように見えた方が勝っていた、というのは
花田=吉本論争へのこの筆者の見方で、これまた花田寄りだと分かるのね。
結局吉本が勝ったように見えているが、この論争の後、吉本はそれまで
の反体制運動の芽を潰して回ったわけで、結果、よくない時代が来た。
なので負けたように見えている花田は勝っていたのである。そういう結論
なんです。
ただこの本の良いところはあの論争の全経過が書かれている。それは
この本の意義であって、持っておく意味はあると思う。
貴方はこういう本を読むだけではなく、実際の両者のテキストを入手
して並行して読むのが良いと思うけどね。ついでに絓 秀実の『花田清輝』
『吉本隆明の時代』も花田寄り。これまた俺なりに読んだが先の
『真昼の決闘』を数ケタ上回る、偏向著しい本だ。
無論貴方は貴方の読み方をするだろうし、俺の見方でしかないが
。どっちにしろいずれは実際のテキストを読まなければ分からない箇所が
出てくる。なら最初っから実際のテキストにあたるのが実は良いと思う
んですけどね。 >>425
直感とは主観的なものでも客観的なものでもないと、なるほど。
批評というのも、客観的でなければ主観的という二分法で裁断できる
ばかりとは限らなそうだねw
さすがに吉本ファンだけあって、ずいぶんと花田吉本論争には詳しいねw
まああの論争でどっちが勝ちだろうと、俺にとってはどうでもよいことだが
論争の中身についてはほとんど知らないから、論争の内容についての提示
があれば、中身の把握はできるわけね。
しかし結局「東方会の下郎」という表現をどうとらえるかということに最終的に
収束するような予感もするがねw まあ何というか、小林いうところの党派根性に満ちた論争にも
みえるし、それほど深くかかずらう意義はないのかもねw >>427
>それほど深くかかずらう意義はないのかもね
あの論争の提示していた最も難しい問いてのは花田という人の戦前から戦中
・戦後の至る思想的な遍歴。戦前はマルクス主義。これが戦中は右翼団体。
戦後は日本共産党。と変貌するが、これが花田の思想としては、一貫性が
あったのではないか。
というのは日本の戦中の国家社会てのは当然天皇
が絶対的な権力をもち、他国に進出、陰謀を弄しながら拡大して行く政策だ。
政府と独占資本が癒着し、国家総動員法によって国民には貧乏を強い、
思想統制を行い、暗黒の時代を作りだす。
一方ソビエト連邦も、思想統制を行い、一部官僚と党が利権を独占し、
国民には貧乏を強い、戦争で他国に進出する政策をとる。他国からの侵略を
防止するという名目で進出する。人類史上初の共産主義国家という名目だが
、内実は全体主義の戦争好きだ。
つまりどっちも国家が思想を統制し、利権を独占し、天皇神権を、共産主義
護持を理由に国民に貧乏を強い、ロクでもないことをやるわけだが、ところが、
この時代、花田のような思想家にとって、二つの国家は互換可能とみえた。
そういう可能性がある。だから花田は右翼団体から日本共産党へ寄生先を
簡単に変えられたし、花田のように戦争中は右翼。戦後は労働組合の
ボスに収まる男が実は結構いたのではないか、と吉本は指摘している。 428つづき
この問題はさらにマルクス主義をどうとらえるかという問題につながる。
花田にとって戦中日本国家社会と共産主義国家が互換しえたとすれば。そして
互換可能だからこそ彼はさほどの苦労はなく行き来できたとすれば。
ヌエのように形を変えて生き残った政治的人間花田の思想遍歴をどう
考えるかは、マルクス主義をどう捉えるかという問いに直結する。そこでの
党派をまた共産党が利権を独占し自由を統制する国家をどうとらえるかに
直結する。
これがあの論争の、論争自体では発展しなかったが潜在していた問題
だ。で、論争では発展はしなかったがその後、吉本はこの問題をずっと
考えてきた。それが吉本の思想的根幹の問いとなったと俺などは捉えている。
だから潜在していた問題としては深刻である。ところがこれが浅田彰
や柄谷らではまたスガ秀実では一切顧みられることがない。そしてひたすら
に花田讃歌になっていく。連中が思想的なセンスが乏しいと俺などが
考える理由だよ。俺はあの論争の意義をそう捉えている。
まあ小林秀雄愛読者には興味がないかもだけどね。 まあ小林だって転向の問題はそれなりに考えていたわけで
小林の場合は林房雄という転向者のサンプルが身近にいた
から、それを基準に転向者の問題を考えていたといえるね。
吉本は少年時代は軍国主義少年だったそうだが、敗戦のショックで
考え方が完全にかわったそうで、ある意味転向者ともいえるねw
吉本が執拗に転向の問題をあつかったのも、敗戦の衝撃が
原因と言えよう。
小林は戦後の座談会で「俺は一切反省しない」という有名な啖呵を
きったわけだが、小林の場合は戦前戦時中戦後と考え方の大幅な
断絶はみられず、吉本はそこも評価していたね確か。 戦時中の
文学者のなかで、もっとも傷が少なかったのは小林といってるね。
なにしろ戦時中は戦争を翼賛してたのが、戦後は一転して民主主義
万歳になった例はたくさんあって、そういうのは吉本にとっては
嫌悪の対象だったろうからねw >>431
あまり語ってはいないが、エッセイの「林房雄」かなあ。
林房雄自身が「転向に就いて」という文を書いてるそうで、それに
対する感想も書いてあるね。林の「転向に就いて」も一緒に読んだほうが
よいかもしれない。 >>432
ありがとう。
林房雄の「転向について」は読んだことがある。
駄文としか思えないが、盟友の駄文を小林がどう扱っているのか、とても興味がある。
読んだら感想を書くよ。 >>430
>吉本は少年時代は軍国主義少年だったそうだが、敗戦のショックで
>考え方が完全にかわったそうで
そこのところは実際の発言・回想とは異なるね。終戦の玉音放送の後、
吉本はショックで、海に無意識に泳ぎに出て泳ぎながら泣き、下宿先に
帰ってもまだ泣いていて、おばさんに慰められる。この時まだ吉本は
「負けた」ことを認める気にならず、一部でも日本軍の内でまだ戦うと
いう人があれば自分も加わり戦争を続ける気になっていた。
ところが日本軍の兵隊は次々戦地から戻ってくるのみで、まだ戦う、
戦争は終わっていない、という声など一向に起きない。そこで初めて、
自分のような愛国人間が少数に過ぎなかったこと、ほとんどの日本人大衆に
とっては愛国心や誇りよりも生活の方が優先すること、お上の一声によって
姿かたちなど簡単に豹変すること、を知った。
そうこうするうちに、東京裁判が始まり、自分が誇りに思い、赤紙がく
れば号令1下で討ち死にでもする気でいた日本軍が異国の大衆にどんなこと
をしていたか、初めて知ることになった。日本軍にたいする夢も潰えた。
その辺から吉本の内部で葛藤が始まり、自分は当時いっぱしのインテリ
でいるつもりだったが、何一つ世界も社会も知ってはいなかった、無知
であったことに到った。 434つづき
大衆とは何か、国家とは何か、社会とは何か。考えることになった。
そこから彼の戦後は始まったと言っている。
ちなみに敗戦後、吉本は戦中に敬愛していた文学者の一人、小林秀雄に
ついて、この人には文学を学んだけども、しかし世界とは社会とは何か
、吉本の言葉で言えば、「向こう側からくるもの」いわゆる
彼岸性、自意識の問題に解消されないもの、については何一つ教えては
くれなかった、言い換えれば彼岸性の問題については小林にはなかった、
それを自覚するようになった。
それに関連して、小林のマルクス論について言えば、「達人」の「達観」
となり、意識と存在の相克となり、思想とその商品化の問題、となり
それは鋭利ではあるが、反面、社会とは何か、どうあるべきなのか、どう
変えていくべきなのか、労働者の窮乏や疎外をどうするのか、という
まさしくマルクスの出した問題には触れられることはない。
吉本は数年前に『小林秀雄全集』が再編集された際のインタビューで、
「小林はマルクスを良く読みこんでいた」と評価している、とWikipedia
にあったが、それは上に書いたような、自意識に収まる「達観」「達人」
としてのマルクスに過ぎないという限定が付いてる。吉本がそこでそこまで
言ってはいないとしても、悪いが俺には分かるのでね。吉本の小林論を
一つではなく辿った人間としてはね。 >>422
>貴方はそもそも 花田の書いたものを読んだことはあるのだろうか?なけれ
>ば俺の花田論 に反論し、その根拠を提示することは出来ないだろう。
>それができないから単なる勘繰りに(「貴方は〜ファンだから」的見方)
>なってるように見えるのだよ。そうならないようどうか頑張ってください。
ハッキリ言って僕は花田の著作を一冊も読んだ事ないけれど、あなたの返信を読む限り、僕の指摘はかなり核心をついているのではないかと思うんだけどな。全く的はずれなの? >>436
貴方が言ってるのは>>419に貴方が
>「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」って言うのって、結局は
>あなたの吉本隆明に対する偏愛が強い動機になっているようにしか見えない
>んだけどな。
と書いたことにたいして>>422のように俺が書いたことに関するものだね。
「偏愛」があろうがなかろうが、そういうところだけでこっちは書いている
のではないわけで、そこが読めないならそういう御仁自体、目が悪いまた
ちょっと怠慢に見えるんだがな。
この部分に関しては「花田清輝を持ち上げたから浅田彰はダメ」といった
無根拠な言い方はしてませんよ。>>400の後半また>>428>>429をもう一度
読んで欲しいんだが。そこで花田清輝という思想家がどういう問題を秘めてい
たのか。そして特に80年代からの花田清輝再評価の渦中で、ここで挙げてる
ような、問題が看過されていたこと。
言ってみれば労働者の真の解放、疎外の、搾取の止揚とは何か、
という問題。それが花田にはなくてしかもソビエト連邦ではそれが為されて
るという風聞は徐々に欺瞞であり反対に収容所列島であることが明らかに
なったという歴史。花田がそれらに口をつぐむ人間だったこと。
それらに蓋をした上での花田清輝評価にすぎないということ。花田清輝が
生涯変わらぬソ連信奉者であったことは全集を開けば一目瞭然なのだし、
花田清輝のそういう一面にたいし、遣り切れない感情のない花田讃歌などに
価値があるとは俺には視えないわけだ。 437つづき
もっと言わせてもらえば「ソ連の真実など言わなくても良い」式の情報
操作も花田が肯定していた
ことも頁からみえる。具体的に挙げてみれば『全集第3巻 二つの世界』を
開いてみると良い。ソビエトを訪問し、民衆の反応に嘘を感じたという
、「私だけの真実」にこだわるジイドにたいし不快感をあらわにし、ワイルド
の言を借りて「私は君の唇が面白くない。一度も嘘をついたことのないその
唇が」などと凄んでみせ、どこか「革命は正直者には無理」かのように
書いて見せる。これは同書所収「目の鱗」というエッセイに書かれている。
俺はこういう思想の持ち主、政治的篭略をしか信じきれない人間が
主導する「政治のプロの論理」に期待する気には一切なれないのだよ。で、
この手の思想家を持ち上げてる一連のグループもまた不審なわけだ。
今一度ご質問に答えると、俺は貴方が言うほどに感情的にのみつまり
「あいつは吉本と論争した花田を持ち上げたから駄目だ」くらいの
単純さ、無根拠さで書いてるわけではないぜ。必要な読書は省いていない。
「この人は〜派だから」というところで論争なら論争を主張をみるのは
ありがちだが、それだけでは論争の内実は無論分からないし、
あくまでもテキストの実態を自分の目で確かめることだ。でなきゃ
自分の判断等無理だ。せいぜい三面記事的分類にしかならない。
頑張ってください。 僕があなたの議論を矮小化したところが気にくわないわけだね。ごめんなさい。もっと頑張るようにする。では話の続きをどうぞ。 Pくん、レスどうもです。
小林の予言かなと思ったのは、以下の文章です。
>私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したろうか。私小説は又新しい形で現われて来るだろう。
>フロオベルの「マダム・ボヴァリィは私だ」という有名な図式が亡びないかぎりは。
西村憲太の私小説かな、と。
「北町貫太は私だ」という図式が生きているから。 >>433
俺も初めて読んだとき、こういう褒め方もあるのか?!とビックリしたからねえw
>>434
>この時まだ吉本は「負けた」ことを認める気にならず、一部でも日本軍の内で
>まだ戦うという人があれば自分も加わり戦争を続ける気になっていた。
つまり吉本は軍国主義少年だったってことやん。
>その辺から吉本の内部で葛藤が始まり、自分は当時いっぱしのインテリ
>でいるつもりだったが、何一つ世界も社会も知ってはいなかった、無知
>であったことに到った。
そのような葛藤にいたった原因は、玉音放送であり、敗戦であり、東京裁判で
あったわけで、つまり敗戦の衝撃といって何ら問題ないだろうw >>435
>労働者の窮乏や疎外をどうするのか、というまさしくマルクスの出した問題には
>触れられることはない。
小林だって人類最低辺の呪われた人々に対する関心は吉本なみにはあったと
いえるねw ソ連なんかマルクスの理論にもとづいて作られた国家であると
喧伝されてたわけで、ソビエトについても小林はいろいろ考えてたといえるねw
吉本だって労働者の窮乏を吉本の力でどうにかできたわけはないので
80年代にはコムデギャルソン着たりして、大衆消費社会について肯定的に
なってたわけで、結局時代の流れには誰もさからえないといえるねw >>440
まあ結論は常識的にまとめたわけだが、その結論の導出過程には
いささか飛躍があるように見えて、結構強引なオチのつけかたであるねw 八十年代の一般大衆がコムデギャルソン着られるようになったのは
吉本やマルクスの理論のおかげかというと、これは明らかに違うと
いえるよねw >>440
僕どちら(ボヴァリー夫人・西村賢太)も読んでないからわからないです😭 参考までに柄谷行人が私小説を定義しているテキストを貼りますね。彼も私小説について否定的ですね。
http://i.imgur.com/ppaQbtO.jpg
http://i.imgur.com/Jy2cVCl.jpg >>447
この柄谷の議論はちょっと私小説一般に敷衍できるかどうか疑問の余地なしと
しないね。 私小説が何なのか僕もよくわかってないところがあります。たぶんここで柄谷行人が念頭に置いているのは、「私小説としての中上健次」なんじゃないですか。あれは一人称が私ではないけど。 中上健次は中上健次が被差別部落出身者だという文脈を取り払っても素晴らしい小説として読めるでしょう。そういう事が言いたいんじゃないかしら。 そうなの?固有名は柳美里しか出てきてないようだが。 僕はそう思います。柄谷行人の文学論はすべて中上健次が念頭に置かれていると思っています。まだ「漱石論集成」を読んでないから、それに関しては語れないけど… 村上龍が芥川賞選考委員長に就任した時に「中上健次の岬を標準にして評価する」とかほざいたでしょう。めちゃくちゃナンセンスな話だと思うけど、あれは完全に柄谷行人の影響ですね。まあ、妄想と言われても仕方ないけど(笑) 柄谷行人が「私は深読みしているかも知れないが、私は深読みできないような小説には興味が持てないのである」とか文芸時評で言ってて、それを読んで以来、柄谷行人は深読みする事にしています。もしかしたらハメられてるのかも知れないけど(笑) 小林秀雄の話をしましょう(笑)住人Bに新潮文庫の「Xへの手紙・私小説論」を勧めたけど、僕が読みまくってるのは「Xへの手紙」なんですよね。マジで何回読んだかわからないです。僕はこのテクストを徹底的に深読みしている。 「Xへの手紙」が当時の文士の潜在意識に影響を与えていたという可能性も考えている。やはり妄想なのかなあ。 「Xは自分かも知れない」と考えている文士はいたと思うよ。坂口安吾は考えていたと思う。 「新人Xへの手紙」というテクストもその文庫に含まれているけど、そちらは何回も読んでない。あまり興味がもてなかった。ワナビとしての自意識が希薄だからなのかな。 「徹底的に深読みしている」というのは嘘だな。僕よりも更に深読みする余地は充分あると思っている。だから魅力を感じるのかな。 三島由紀夫はどう考えても「Xへの手紙」の「君」になろうとしてたよね。対談を読んだ限りの感想だけど(笑)しかも、書かれた年を考えると、「X」が三島であるはずがないのだけど。 まとめてうpするか。講談社文芸文庫の著作権を侵害するか。ごめんなさい。でも僕は「小林秀雄対話集」を既に3冊買ってるから、ゆるしてくれ。 自分の理想の彼方にある人格を書けるかどうかって、文学者にとってすごく重要なんじゃないかなあ。ドストエフスキーがアリョーシャを書いたというのは本当に驚くべき事だ、みたいな事が小林秀雄と坂口安吾の対談で語られてなかった? 844 名前:N ◆.a7VUr.VD. [sage] :2016/04/25(月) 19:03:00.25
坂口安吾など、小林に向かって、なんでお前は文学やらせりゃ日本一偉いのに、音楽や絵について書くんだなどと絡んでたね。
私小説論については、蓮實が理解できないっていってたけど、その評価にも半分同意するねw
フランスの現代文学と日本の私小説を比較して、私小説をよりユニバーサルに理解しようという野心はあるが
目標がうまく達成されたかというと、それほど完璧に標的に命中した批評とは思えないな。 これはどの本で読めますか?
849 名前:N ◆.a7VUr.VD. [sage] :2016/04/25(月) 19:18:09.82
小林は晩年の「正宗白鳥の作について」で、もう一度私小説について論じるわけで、こっちのほうが「私小説論」より出来がいいと思ったね。 小林秀雄全作品〈別巻2〉感想(下)
雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルグソン論…。著者の遺志の告知のために、特に別巻として収録する。
併せて最晩年の雑誌連載、未完の正宗白鳥論―。 ちなみに新潮で連載してる前田英樹『批評の魂』は、正宗白鳥と小林秀雄の絡み合いメイン マジだ。Nさんに貰った新潮5月号のタイトル「小林秀雄」やんけ。 Nさん、このスレで小林秀雄の文学理論について語って欲しいと言われているので、今度語って下さい♪
文学理論 8 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1456876313/ 文学理論について語るなら、小林の理論のみならず、もっと広範囲の
文学理論について語りたいねえ。 >>443
>つまり敗戦の衝撃といって何ら問題ないだろう
単に「敗戦のショック」というではなく、自分の何が駄目だったかに
思いが至った、というのが吉本にとっての「敗戦」だったわけで。そこから
彼の戦後が始まった。内省が始まったということが決定的な要因だと言える。
「敗戦のショックで」「転向」という言い方だと、単なる鞍替えにも視える
し、実際そういう鞍替えに過ぎない思考変更した日本人もいたろうから、
上に挙げた花田清輝のようにね。なので貴方の言い回しだと誤解を生むし
簡略化しすぎてると思う。
貴方は元々乏しい知識で頑張って話してるのかwどうも言葉に曖昧さが
あるね。
>>444
>吉本だって労働者の窮乏を吉本の力でどうにかできたわけはない
それは分かるが彼は労働者にとっての暮らしの窮乏や向上やをずっと
考え、だからこそカップヌードルのような手軽で安価な食品の登場を歓迎し
、また女性がファッション雑誌に見入るような風潮を生活の余裕として
歓迎したわけだ。労働者が明日の食事にも困るまた食費にカネが吸い取られ、
他には何も買えないような生活が変わって行ったことを歓迎していたのだ。 477つづき
窮乏についての意識があったからこそ、80年代に自分が中流だという
意識が広まって行ったことも歓迎した。経済分析で個人消費があがらなければ
景気はよくならないという分析までしている。
たえず大衆の生活と窮乏については頭にあって発言し続けている。時代を
変えてみせるてのは大変なことで、そうやすやすとやれることではないが、
それでも精一杯のことは言論人として終生やってみせている。「日本の
大衆の運命」という語彙もたびたび使っている。「こういう思想が先導する
大衆の運命を考えると絶望的になる」のような言い方でね。
貴方は無知だなあ(苦笑)小林の愛読者ってこういうもんか、てのが
俺の感想だな。だが小林に大衆の窮乏をどうする、という意識がなかった
としても、仕様がないと言うかwあれはそういう思想家じゃないでしょう。
考えてみたら小林の書くことじゃないと思うね。小林は優雅に友人たちと
文壇ゴルフに出かけて華麗なスイングを披露wまたは出版社の用意した
高級料亭で一杯やりながら友人たちと文学談義にでもうつつを抜かしてる
のが似合ってる。
汚い労働者や学生のやってる闘争など彼の頭にはないですよ。w
>>459
>「新人Xへの手紙」というテクストもその文庫に含まれているけど
小林秀雄の「新人Xへの手紙」てのはなくて「新人Xへ」のことだろうね。 >>477
>貴方は元々乏しい知識で頑張って話してるのかwどうも言葉に曖昧さがあるね。
君の話にはまったく具体性が欠けてるけどねw 吉本の話を分析してる
わけでもないし。
>>478
>貴方は無知だなあ(苦笑)
君の話にもなんら知識の開示らしいものはないし、なんか一方的上から目線で
知ったかぶりしてるだけという印象しか受けないねw
花田、吉本論争をあつかった「真昼の決闘」を読んだが、著者は確かに花田より
であるね。だが花田よりの著者の目から見ても、花田はろくに吉本に反撃できなかった
と書いてあるから、論争は誰が見ても吉本の勝ちに見えたんだろうw
花田は「負けるが勝ち」で吉本にわざと勝ちを譲ったというんだが、これはかなり
アクロバティックな擁護といえるねw まあしかしこの本を読むと、花田にも小林の
影響はそれなりにあったというのがわかって、それは収穫だったね。
まあ今までよりも随分反論に時間がかかった印象だが、その割には内容の無い
反論で、吉本信者のレベルというのはしょせんこの程度かと思ったことであったよw 「真昼の決闘」でも、吉本のコムでギャルソン、アンアンへの出演が吉本の
知的退廃のもっとも明らかな例としてあげられてるねw 埴谷が吉本を
批判したと書いてあるね。まあ吉本以外の左翼からみれば、これは吉本の
知的退廃以外の何物でもないんだろうが、当時の社会の雰囲気しってれば
吉本がそういう風なふるまいしたのも、時代の空気というものであって
俺は吉本の態度が知的退廃の極みなどとは非難しないよw >>479>>480
『真昼の決闘』読んだんですか。これは御苦労さま。
たしかにあの本には花田への小林秀雄の影響が語られてる。小林の
エッセイ「オリンピア」で砲丸投げの選手を小林が語っているのに
絡み、「批評家はむしろ、砲丸を生みだすのでなければならない」と
する。自分の流儀を小林と対照で控えめに声明してみせている。
「達人を語るのが好きだったがそのうち自分が達人になってしまった」
として敬意も払いながら自分とに違いにも言及している。
具体的には花田の『全集第1巻 復興期の精神』(講談社)所収の
エッセイ「太刀先の見切り」で書かれている。これは短いエッセイで確かに
小林の存在を大きく、自分にとっては乗り越え難い存在として意識している
ことが感じられる。俺が把握している花田の小林論はこれくらいだね。他にも
あるのかもしれないが。
しかし「影響」というほどのものは花田からは感じないけどね。一応
花田は小林を読んでは居るのだろうし意識もしたのかもしれないが。何よりも
小林は花田のような組織への寄生はしない人間でしょう。組織を守るための
嘘など不要だと切り捨てるでしょう。倫理的態度がまるで違う。無論
小林の方が毅然としてるしさっぱりしてる。 481つづき
>今までよりも随分反論に時間がかかった印象だが
とあるが。反論に時間などかけていませんよ。ここでのやり取りにばかり
時間かけてることはないし。好きな本読んでる時間が最も大事です
から。俺は2ch.読んでて吉本を語っている人で感心した人は取り敢えず
皆無だし、まともにやり合う気にもなりません。そのうちこちらが
講釈垂れてるようになって、一方的になってしまい、結局こちらほど
は相手は読んでないし興味もないと分かってくる。
吉本にまともに衝撃うけた、または読みこんだと感じられる人を2ch.で
見かけたことはないね。
じゃあ2ch.以外ではというと、数年前に『吉本隆明のDNA』という本が
出て、愛読したっていう人数人の話が掲載されてたけど。そこにいた人達
の話読んでも、俺ほどの深さは感じられなかった人もいたのだね。分かって
るなあって人もいた半面。
言論界でもかつて熟読し、今でもまともに読んでる人は今や少数に視える。
居ることは居るけども。
たしかにかつて過激派の時代には「教祖」とか呼ばれたらしいけど、
実はそう読まれてはいなくて、読まれなくても雰囲気で語られる人って
いるから。「こういう人」だって。だが大抵そういうのは外れてるのね。
吉本の場合に限らず読まなくてはまず分からない。ましてや80年代以降は
読まれなくなっていった。読まれなくなって、デマゴギーと偏見の対象に
されていった。90年代以降はますますその傾向に拍車がかかっていった。
というのが見たところ吉本の周辺の「愛読者」の傾向ですね。
貴方への「反論」というより、言葉の中身をはっきりさせた、と思ってます
けどね。曖昧な言葉遣いで、これはまずいと思えたのでね。 >>481
失礼。訂正です。ここにあげた文献、正確には『花田清輝全集第二巻
復興期の精神』(講談社)です。宜しく。 河出のムックには花田による別の小林論ありますね。全集では何巻かわかりませんが。
小林秀雄 はじめての/来るべき読者のために
[発行所] 河出書房新社 [シリーズ] 文藝別冊 KAWADE夢ムック
レトロスペクティブ 小林秀雄
●小林秀雄論から
花田清輝 聖アウガスチンの感傷 伝記作者・小林秀雄 >>482
そんなに自信があるなら、吉本スレにおいでよ。
楽しく語り合おうよ。
このスレのコテなんか相手にしても、吉本についてはおろか、小林についてだってまともな話はできないんだからさ。
ま、吉本スレでも、君「ほどは相手は読んでないし興味もないと分かってくる」かも知れないけどさ。 >>486
ほうほう♪それは歓迎です。吉本スレで何か振ってくれたのを見つけたら
また参加させてもらいます♪ >>487
なにを振ればいい?
主要著作関係?
身辺雑記は趣味じゃないな。 >>487
とりあえず、順番でいくと「言語にとって美とはなにか」かな?
吉本スレに論題?を書いてみるね。
簡単に書いとくから、ひとつずつ簡潔に対応してくれることを期待してる。 >>489
ううんwただねえ、吉本の本て(誰の本でも同じだろうけど)入り方が
あって。ただ一般教養として読んでいくてのは無味乾燥でしかない。論じるに
してもね。
俺にしても、アンチ吉本の時代を経ている。ただ他のアンチと違うのは、
アンチだからと言って、知ったかぶりで叩くことはしなかった。ただ
嫌いなだけだった。小田実シンパだったのでね。アンガージュマンの
サルトルとかにも入れ上げた。それもよく分かってないうちにね。
吉本を見直すきっかけは就職して、こんな厭な世界があったのかって
思い到ったこと。そこで読んだ吉本の詩に感動したこと。労働社会にたいする
絶望感に彼の詩は彩られてるから。心から感動することになった。
詩に共感すると、不思議と批評や思想の方も抵抗なく読めるようになった。
そういう経緯があるから、独自な経緯で吉本本に入ってきた。で、
教科書的に語ることには興味がわかないんだな。困ったもんでw >>481
まあ花田ったら、小林からまるで影響受けてないようなイメージが
あったし、批評の書き方も小林と全然正反対っていうイメージがあった
からね。実はそれなりに影響あったとわかったら、花田へのイメージも
変わるわけね。 吉本と花田にしても全然書き方は似ていないって
イメージがあるが、どっちも小林から影響受けてたといえるねw
>>482
まあ小林についての論は、現在の文芸誌その外でも毎年見かけるけど
吉本論は確かにあまり見かけないね。 この間読んだ文芸誌でも
小林についての論は三つくらい載ってたが、吉本論ってほとんどないし
吉本を評価してる文学者、理論家もほとんど見かけないね。吉本が
「試行」やってたころは、吉本の弟子がそこに集っていたようだが
あまり名を挙げたのはいないようにみえるし。 吉本についての現代の
文学界、批評界の評価は低調であるといえるねw 吉本再評価の
動きがでてくるならば、やはり吉本を十分読み込んだものからしか
出てこないと思われるし、俺は今更吉本を読み込むなんて無理だから
そっちが日本で一番吉本を読み込んでる自信があるなら、君が吉本
再評価やってみるしかないんじゃないの? 吉本論を論文にまとめて
どっかに投稿してさ。 >>490
まあ吉本はインキ会社や町工場に勤めてた経験があるから、似たような
経験があると、やはり吉本は理解しやすいんだろうねw 小林は工場に
勤めたこととかないから、工場勤めや会社勤めやったことがあるなら、吉本の
ほうが感情移入しやすいということはあるだろうよw まあしかしそれは小林の
批評と吉本の批評の本質的価値であるとまでは断言することが憚られるねw まあしかし吉本はインキ工場につとめながらも、小林そのほかの文学者の
文章読んでたわけで、インキ工場での経験を詩文章、文学を学んで昇華させ
表現したという風にいえそうだねw 花田清輝の経歴みると、工場などに
勤めた経験はほどんどなくて、ジャーナリズムを遊泳してきた根っからの
ジャーナリスト、批評家にみえて、軌跡はずいぶんと違っているように見えるねw
しかしどちらも小林という釈迦の手のひらで争っていたという風に、やはり
小林秀雄スレにおいてはまとめてしまうわけであるねw >>490
それは残念だ。
関心のある所は、人それぞれだからしかたがない。
なにかの機会に、また。 >>491
まあ、吉本が論じられなくなることに関しては「もっと読むべきだ」とか
いう熱望とかもないんだなあ。どうも特に2ch.あたりで論じてる輩はまず
一般教養として誇示したい人が目立つ。心から必要で読み進んだ人じゃない。
講釈垂れてる人にしても、或いは講釈して欲しい人も、結局教養人で、
それ以上のものじゃない。
吉本には生体験を悲劇として生きて死んだ文学者や思想家への視線が
ある。また思想にしても、視えないでいる精神の苦闘を探り当てる手法
がある。彼が文学者や思想家を論ずる場合、そういう視線がたえずある。
吉本自身の読書自体、受験生的な、または学校教師的な、あるいは
教養主義的なものとは異なっている。
その吉本を一般教養として纏める手法自体に俺には異和感がある。そして
特に2ch.ではそうした教養人による講釈以外は見られない。 495つづき
昔ハイデガーの講義を読んでたら、彼も「学校哲学」という名称で、
「あそこには人間にたいする真の問いかけはない。一緒にされては困る」
と疑問と否定を投げ、「一緒ではない所以をこれからお見せしましょう。
根本的に問いかけるということがどういうことかお見せしましょう」
と、そこまで言いはしないが現にやっていたのはそういう精神の問いかけ
だったわけで。気概と言葉の迫力があった。聴いてるのは学生だが、彼らに
たいし、どうやら自己の本来性を探ることこそが人間の務めと言いたげな
講義だった。スタンスがよく理解できた。これはただの講壇哲学ではない。
そういう迫力と気概のある書き手が俺は好きなのだ。
吉本の話に戻れば、吉本の仕事が一般教養にジャーナリズムに取りこ
まれる必要は感じないし、俺のようにどっかで感受した人が勝手に読んで
いればいい。
かつてのマルクス、ハイデガー、サルトルなどに匹敵する深度とスケール
を併せ持つ著述家は吉本だけと思ってるし、雑誌に取り上げられなくなる
という辺りは、元々俺は吉本論はあまり読まないので。これまで読んだもの
では強引な纏め方だったりするのが結構あり、偏見評論とかね。あまり
期待もしないのだね。俺が読んでるほどの深度も精度もないようでは
知れてるわけで。
問題は〈この私〉がどう読むかしかないのだ。小林にしても吉本にしても。
そうではないのかな?ジャーナリズムなど気にせぬが良いよ。 >>495
まあ吉本には一般教養に収まらない深度があるったって、具体的な
引用によってそれを示す手続きがないと、他の読者にその深度が
伝わらないねw
>>496
まあ君ひとりで吉本を背負ってる自信があるんならそれはそれでいいが
いろんな論があれば、いろんな角度からの見方が得られるわけで
そういう様々な視点からの評価というのは、再評価に伴う余禄といえるねw
まあ、吉本はマルクス、ハイデガー、サルトルに匹敵する総合的知識人
というのはかなりの評価といえるが、吉本はハイデガーやサルトルを
そんなに読んでたようには思えないけど、そのあたりはどうなの?
「言語美」や「共同幻想論」にどのくらいマルクスについての言及があるのか
表題からしてマルクスに大幅に依拠した理論書にも見えないしね。 >>497
たとえばハイデガーを読んでいれば、彼が人間の精神の歴史にたいし
疑問符を投げ、どこでどういう欠損を歪み生じたのか、知の歴史を一個一個
掘り崩していく手法がある。彼が哲学史家でもあり遡行するのは有の意味
が消えていく中で客観性信仰が台頭し、同時に主体性の根本が見失われていっ
た。有の意味は主体に収斂されていった過程を示したかったからだ。
彼の『有と時』ってそういう書物だよあれは。
そこで人間の精神・知の歴史全体を問い直す視線が生まれてくる。
吉本の心的現象論を紐解けば、人間の内部に人間以外の植物や魚類、
鳥類、爬虫類の精神が宿っていることが解剖学を引用し謂われている。
同時にここには人間を理性や合理性に同値する思想への反命題がある。
人類史を相対化する視線が上の両者にはある。 >>498
>人間の内部に人間以外の植物や魚類、鳥類、爬虫類の精神が
>宿っていることが解剖学を引用し謂われている。
へ〜ユングの元型論みたいだな。ユングの元型論も人間精神の基底に
おける進化論的基礎を明らかにしようとした試みであるが、魚類、鳥類
爬虫類の精神というのは、なにかオカルトめいて、ユングの理論は
非科学的とされたが、吉本の理論にもそのような危険性があるように
見えるねw 498つづき
同時に両者には理性や合理性に収斂する人間への反命題としての脱理性への
視線がある。ハイデガーでは1930年代中期の草稿で理性的動物をどう超えられ
るのかという問いをし、有は拒絶として底無しの深淵を開く、慣れ親しま
れた振る舞いから退去する、それは畏怖と驚愕をもたらす。しかしそれは
有にとっては窮迫からの防衛である、とする。
また吉本では親鸞論で造悪論を論じ、悪をやればやるほど浄土に近くなる
という思想をオウムのサリン事件と関連付けて論じている。人間的な徳や
知や善やに価値を置くべきではないという思想であって、これまた人間存在
にたいする根本的な視線変更が為されている。
両者ともに学校教育的な知からはみ出す過激さと深度を保有している。
吉本はサルトルもハイデガーも相当読んでるし心的現象論では批判的な
引用も屡されてるぞ。
マルクスについては60年代中期にまとまった論考を書いてる。
しかもその読解は消化した上で出てくる。〈共同幻想〉
というのは『ドイツ・イデオロギー』の一節に出てくる〈幻想的な共同性〉
から取ってる。十分読み込んで消化しそこから新しい展開をしている。
あれは民話や神話や漱石の分析は入ってるが、始まりはヘーゲルとマルクス
の思想だ。ヘーゲルとマルクスとの関係が気になって考えていたという
のは吉本とフーコーとの対談で自身が説明しているところだ。 500つづき
それと具体的な言及がなければ「読んでたように視えない」、というのは
余りにも浅はかだなあw俺は読んでてがっかりしたよ。たとえばフーコーは
ハイデガーについてはまとまった論考は遺さなかった。しかし、彼の論を
読んでいればハイデガー有論のいわゆる外堀としての制度・理性の牢獄を
描きたかったことは後期に発表した「主体と権力」で、人間を主体に
変え、服従させていく力こそ権力であり、制度であり理性の実体である。
それを言いたがっていたと分かるし、それはハイデガー有論からすれば
外堀に該当すると分かる。
フーコーはハイデガーについては自分の有名な論考の中で名前は出さない。
死の直前のインタビューで若いときに相当読み込んでノートを作ったことを
告白しているだけだ。
著述家が名前を出さないからと言って読んでないとか影響されてないとか
言えないはずだが。
貴方は読書家な割には読み方が浅はかだなあw まあ小林はすくなくともサルトルはフランス語で読んでると思うが
吉本は文献はほとんど日本語で読んでたわけかいな? 吉本が
フランス語やドイツ語できたとも思えないし。 翻訳通じてもそれなりに
深い読みはできるというのは、俺も認めるけどねw
吉本が誰かのことを「翻訳業者」と罵倒していたことをふと思い出したねw
小林もハイデガーはそれほど読んでないだろうが、マルクスやサルトルは
それなりに読んでたわけで、マルクスやサルトル読んでれば総合的
知識人といえるなら、小林も総合的知識人といえるねw Nさんはいろいろ読んでるんだけど、自分の問題意識のない単なるディレッタントなだけだと思う。
悪いことではないと思うし。だから他人の評判でしか価値判断できない。
全然小林的じゃないけど。 >>501
こっちは吉本ほとんど読んでない以上、読みの深さ浅さ以前の話で
吉本について単に知らないだけでねw そっちは吉本はよく読んでるんだろうが
小林については俺ほどは読み込んでないだろうから、小林については
こっちにアドバンテージがあるわけさw >>503
俺は小林は自分の評価で読んでるわけでねw 別に他人の評価に
たよって小林を読み進めたわけじゃないんでねw 君の勘違いに
すぎないねそれはw まあ小林読むのが面白いから読んでただけで、面白いから読むのがディレッタント
というならば、俺はディレッタントで十分だけどねw つまらなくて退屈なものを
読まなければいけないのは苦痛であるし、小林読んでる間は退屈しなかったのでねw フーコーがハイデガー読んでたってのは、理解できるけどね〜
戦後のフランス哲学にハイデガーが与えた影響は大きいからねw >>506
>まあ小林読むのが面白いから読んでただけで
>小林読んでる間は退屈しなかったのでね
それを言うならこの世には面白い、退屈させない本はほかにもありますと
いうことね。無論小林の書くものは面白いし、ハマるのもわかるんだけどw
それと、小林は確かに面白いんだけど、同じ「宿命」といっても、
ハイデガーも同じタームは使うし、より構造的に「宿命」を浮かび上がらせる
手法がある。また作品と読者の実存の邂逅を謳歌するのが小林の批評の眼目
だったという気がするが、実存そのものの解明はやらないでもいい。
作家が作品を誕生させ、読者である小林と出会う、その偶然にたいする
驚異への視線はあるけども。じゃあ実存とは、一個の人間が何を求めて
生きていくのかという問いを構造的普遍的に問うことはしない。
小林の流儀ではそこまで突っ込む必要もない。何故そこで差異が
出てくるのかというのが重要だと思う。
小林の批評は面白いが、あれは一種の批評という名前の美。作品であるし
、批評という形式の美であり詩であり作品である、という特徴は
美点でもあればそこから先へは行けないでいた行き止まりでもあったことを
意味している。
だからあれはあれで完結しているし、読ませるし感服させるが、発展性は
なく、「批評家という名前の作家」という評価が妥当だと思いますね。
彼の独自性もそこにあった。彼にハマッた読者に停滞感が匂うのもそのせい
だろうと思っていますね。 小林の批評を高く評価する人もいるが、僕はその中に下品さを見るだけだな。
自分の思い付きを強い言葉で断定する。
たまに見聞きする中小企業のオヤジと同じ下品さだ。
小林が一時期骨董品で商売していたというのも、本当かも知れない。
「これは贋物です」
「贋作でも真作に劣らぬ力があるじゃないか。お前にはそれがわからないのか」
「力はわかりませんが、お金にはなりません」
「ばかやろう、このど素人が!」
安吾の競輪事件もこんな感じだっただろうな。
酒を呑み、オダあげてクダを巻く。
そんな光景も真実の姿に近いのだろう。
断定の強さは、心の弱さかもしれない。
開戦の報に触れたときのふやけた文章を読者は忘れるべきではない。 批判だけじゃなく小林の残した文章で心に残ったものも挙げておきたいの
で。
小品だが三島由紀夫自決の際に書かれた「感想」ってのがある。『新潮
1971年2月号臨時増刊』に掲載されてるんだが。この雑誌は今でも文学
関係の古書店で出回ってるし、探して読むのは容易だと思うが。たった2頁
の文章で、出版社からの電話に答えたかのような体裁で、談話のように
書かれている。
三島が内省では飛びぬけていただろうにもかかわらず、全てが視えていた
わけではなかろう、やはり自分でも良く分からぬ運命とともに生きたのだ、
「謹んでお悔やみ申し上げる」というような決まり文句が昔から人の死に
さいしては言われるが、死に際して人が感ずる謎がいつもあるからだろう。
自分が三島さんの死に対して右翼とか、そういう政治的意味で受け取る
ことはない。ひどく孤独なものを感ずるからだ。
というのはその後、胎児論や乳児論で吉本も取り上げた三島の生育史を
予感させる。この時点で小林が三島の生育史を知っていた訳ではなかろう
から、直感的感想だとしても素晴らしいし、三島への哀悼の句としていまだに
胸に迫るものがある。 >>511
小林はもう死んじゃったから、小林の批評はあれでいきどまりだが
読者がそれ読んで参考にする分には、未来への発展性はあると
いえるねw そもそも作者が死んだ後誰も読者がいなければ、作品に
しろ批評にしろ、生きながらえることはできないわけでねw 誰か
読者をあらたに獲得する旅に、作品というのは再生するわけさw >>511
中小企業の親父については偶に見聞きするだけで、あまり
知らないようだが、中小企業の親父たって、いろんな性格のが
いるわけでねw 俺が知ってる中小企業の親父と小林はほとんど
似てないねw
開戦の報に触れたときの小林の文章は、小林のすべての文章の
なかで一番グダってる文書ではあると思うが、他の連中は開戦の
ときにもっと勇ましいこといってたわけで、あそこでグダったのは
小林の良さをむしろ示しているといえるねw 戦後の発言のほうが
むしろグダってなくぶれてないので、そこは吉本も評価してたねw
周りが勇ましいときはグダり、周りがグダってるときはハッキリもの
いう、これが小林の反時代的流儀といえるねw あの開戦についての文章のグダりかたは、確か橋本治が分析してたね。
吉本隆明はあの小林の開戦の文章にはそれほど感銘受けなかったのでは
ないか?あれだけグダってる文章ならば。むしろ高村光太郎などに影響
受けたのではないかと想像されるねw >>512
小林と三島といえば、その「感想」と、小林と三島の対談、それと小林と
江藤との対談において出た三島についての話、この三点がメインといえるねw
まあこの三つがあれば、小林の三島観については大まかな見取り図が書けると
いえるねw >>513
実存的であるということと、実存を解析するということ。また言い換えて、
己の実存に居座るということと、実存的とは何かを解析しうること。
実存的というのは内省はしない。自己解析はしない。解析した末に普遍ま
で行きつくことをしない。
天才の作法や作品、達人の流儀や生涯を知る〈私〉の感動と生体験。
対象にぶち当たる自己意識のナマな体験。
小林の批評は同じところに留まって発展はしない、対象にぶち当たった
〈私〉、天才の秘密に行きあたった自己に湧きおこる感動。
知的営為があることはあるが、作品や作者に没入した〈私〉における
〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上
の価値は見出せないという理念があったと思える。
よって「様々なる意匠」では邂逅の末に〈私〉の内部で沸き起こる詩に
批評の理念が見出されている。小林の批評の意味はここで宣言され、
そしてそのまま動かずにいた。
これは「死んでしまったからもう先へは行けない」という決まり文句で
掴まれるようなものではない。死ぬ前から上記の場所で止まっていたし、
それで本人は何ら不自由はしてなかった、此処以外の批評の場所はないと
されていたという意味だから。 517つづき
小林の批評にあるいつも漂ってくる、小林に紡がれていく詩とは、
上記のような、邂逅の詩であり、思想や作品の根底にある秘密に行きあたった
〈私〉が紡ぐ詩である。秘密に行きあたるまで知的な直感が突き進む。
行きあったところで〈私〉の詩が始まる。
これは「様々なる意匠」での宣言と同じであり考えてみれば三島の死に
たいして語られた追悼文「感想」は、小林の批評の理念そのままの様式で
語られた典型的な小林秀雄批評。隠れた代表作だ。しかしそこでの三島の
死を悼む方法は「様々なる意匠」での宣言そのままなのだ。
1970年の時点でまだあの宣言のままの批評を駆使し、そしてしかも感動的な
批評を小品だが書ける。しかしそこには自己の方法的発展は相変わらずない
。しかし同時に三島の生涯の秘密に行きあたった〈私〉における詩はある。
詩の感動はある。
だからあの「感想」は三島の追悼をしながら奇しくも小林の批評の典型を
露わにもしてみせていた。変わらない、または変われない方法を露わに
してみせていたと言える。 518つづき
死ぬまで変わらない方法を理念を駆使した批評家はそれはそれとして
措いといて。しかしそれに後続する批評家が同じことをしても意味はない。
後続した吉本や柄谷の意識としてはそうだったはずだ。小林と同じことを
しても意味はない。小林が出来なかったことをやるしかない。二人の
方法をみてるとその意識は色濃くみえる。そこに批評の歴史がみえる。
目を転じて文学愛好家は小林の批評に惹かれ易い。何をみても自己の内部
に沸き起こる生体験と詩情を書ける批評家は魅力的だ。同時にしかし
その愛好家と小林の関係には入り難いものがある。蓮実重彦ならば
「文学という制度」と言ったかもしれないが、小林の批評にある方法には
盲目なまま愛好家に留まる事の中にはそれもまた停滞しかないし、
発展性はない。それこそが文学だと言うなら、それはやはり文学の囲い込み、
制度化というしかない。 図とかにしてくれるとわかりやすいんだが、パワーポイントとか使えますか? 出来ないというなら、それを文章で示す力も「文学」を構成している力の中に含まれると思いますよ。 >>517
まあ結局、吉本の図式的理解をこえるものは何一つないわけで
ピースが図にしてくれるとわかりやすいといったが、図式的理解
なんだから、図解すれば確かにわかりやすくなるだろうねw
インプリンティングという現象があって、ひな鳥は生まれて最初に
見た動くものを親と思い込んでついていくという現象なのだが
文学の解釈でも似たようなことはあって、最初に与えられた解釈から
抜け出る読みをするというのは、大抵の場合無理なわけだねw
つまり吉本の解釈が最初にあって、その解釈にあうように小林を
読んでいくだけだから、結局どこまでいっても図式的理解の枠内に
とどまる解釈しかできないわけだねw まあ刷り込みされた図式に
逆らう読みなど大抵は不可能なわけで、こちらも不可能なことは
そちらに要求しても意味は無いと達観してるわけだねw まあ吉本の図式的読解をこえる読解をするためには、吉本以外の多くの
ひとの小林論を読んでみるのが有益と言えようが、小林の本文以外に
多くの小林論にも目を通すというのは、小林ファンにしかできないわけで
つまり他の読者にそのようなことは要求し得ないというアポリアにぶつかる
わけであるねw 結局、江藤淳「小林秀雄」は読めなかった😭
図書館に一旦返却して、また借りてきます。 無常といふ事 にある「一見魅力ある様々な手管めいたもの」とはどういうことでしょうか?誰か解説お願いします・・・! >>527
>歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきり逃れるのが、以前には
>大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを
>備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と
>映って来るばかりであった。
魅力ある手管を備えているのは、「歴史の新しい見方とか新しい解釈という思想」であって
歴史の新しい見方や新しい解釈が魅力的に見えたから、そのような思想が備えている
「手管」も自分にとって魅力的に映ったと、そういうことだよね。 ここでいう「歴史の新しい
見方」というのは、もっぱらマルクス主義による歴史の新たな解釈のことを指しているのでは
ないかと思われるね。まあトレルチなどの新カント的な歴史哲学、ヘーゲルの歴史哲学も
おそらくは含まれているのだろうね。 >>524
困るな。勝手に「吉本のコピー」みたいに決めつけるのは。
俺は>>517>>518では吉本の小林論など引用もしてなければコピー
もしてないぞ。あれが吉本の小林論なら俺はちゃんとそう書いてるよ。
貴方の勘繰りに過ぎない。というかあれくらいのことならば小林の批評
をいくつか辿っていれば視えてくることだろう。吉本の論を援用するまで
もなく。「刷り込み」されるほど読むなら大変なものだが生憎そこまでは
読みこんではいないなあ残念ながらw
俺は吉本の小林論は読んでるが、それに全面的に依拠してここでは
書いてるわけではない。また小林については柄谷行人も書いたり喋ったり
もしている。貴方がどれだけ知ってるか知らないが、小林批判においては
柄谷や蓮実や浅田あたりのほうが吉本よりも峻烈だ手厳しいぞ。
柄谷はかつて中上健次と『小林秀雄を超えて』という対談集まで出して
おり、ちなみにこれははっきりまるごと駄目だしのための一冊だ。よって
全編手厳しい批判で埋め尽くされている。
小林にたいする駄目だしは吉本だけではないし、むしろ吉本は柄谷たち
に比べれば一部批判しながらもかつての愛読者としての思い入れのこもった
論をいつも展開している。比べてみれば分かるよ。 >>528
御丁寧にありがとうごさいます・・・!
助かりました よって
>>525にあるような>吉本の「図式的読解」などあるのかどうかも記憶にないし、
吉本の小林論よんだときに「図式的」など感じた事はないし、また元々
いちいち参照になどしてはおらぬし、変な
勘繰りもほどほどにしてもらいたい気がするんだがな。
>吉本以外の多くのひとの小林論
は上記のようにとっくに読んでいるよ。読んでて俺の方が「あんたらの言う
ほど小林の批評はひどくはない」と思う事も屡ある。
柄谷行人や浅田彰が昔やっていた『批評空間』には小林秀雄研究家が
結構いたし、のちにあの雑誌休刊後に小林論で一冊出した山城つぐみなども
いただろう。悪いが俺はそれは読んでないが。
あなたはどうも都合の悪い論は勘繰りで済ましてしまう悪癖があるん
じゃないかね。これも勘繰りには違いないがw
>多くの小林論にも目を通す
作業は「ファン」でもないがやっているし。 >>529
>小林の批評は同じところに留まって発展はしない、対象にぶち当たった
>〈私〉、天才の秘密に行きあたった自己に湧きおこる感動。
>知的営為があることはあるが、作品や作者に没入した〈私〉における
>〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上
>の価値は見出せないという理念があったと思える。
これなんか全面的に吉本のコピーにしか見えないけどねw 小林の
批評は同じ所にとどまって発展しないとか、<私>と作品や作者の感動的
邂逅という以上の意味は小林にはないとか、やはり吉本のコピーでしか
ないねw
なんか哲学板のマルクススレにサルトルの「弁証法的理性批判」を評価
すべきって書いてるようだが、やはりそう簡単に賛同は得られなくて
「今更?」っていわれちゃってるねw まあ世の中そんなに甘くは無いという
ことだねw >>532
横だけど、引用の5行は、誰それのというより、誰でも感じる小林に対する普通の感想じゃないの?
小林好きな人はどう読んでるの? >>532
あ、それから、「弁証法的理性批判」読んでないのに批判しちゃまずいんじゃない?
それとも読んでるの? >>533
まあ多くのひとが小林について感じる感想といえばそのとおりであるが、別様に
書いてある感想もあるね。「同じ所にとどまって発展しない」という表現をやってるのは
やはり吉本と柄谷で、ふたりの小林についての問題意識には同じようなところが
あったと推察されるねw
>>534
マルクスのスレの住人だって、「弁証法理性批判」読まずに、サルトルのマルクス解釈に
もとづく、>>529の批判やってるわけで、別に弁証法理性批判よまずとも、批判は可能と
いえるねw マルクス読んでるやつなら、サルトルはしらずとも、マルクス解釈についての
批判はできるわけだろうからねw >>535
>多くのひとが小林について感じる感想
それなら、「吉本のコピー」とか決めつけるのは変だろ?
>サルトルはしらずとも、マルクス解釈についての批判はできる
できてもできなくても、おまえとは関係ないんじゃないの?
「今更?」というのはあまえの判断じゃないんだろ?
世の中が甘いとか辛いとかとなにか関係があるの? サルトルの「弁証法的理性批判」はマルクスのテキストをサルトルが読んで
その解釈をおこなったわけだが、マルクスの解釈学というのは別にサルトル
だけがやってるわけではなく、柄谷もやってるね。 まあサイードにおいて
マルキシズムの新たなる解釈をなした批評家としてあげられているのは
ルカーチ、グラムシ、アルチュセールであって、サルトルのマルクスの解釈に
ついては目下海外においてもあまり評価はされてないといえるねw >>536
書いた本人は吉本を非常に評価してて、吉本信者といえるくらいであり
それでその小林の評価が吉本にそっくりならば、吉本のコピーと
いったって、何もおかしくないよねw
「今更?」って書いたのは俺じゃ無くて、マルクススレの住人でねw
これが第三者による評価といえるねw 俺は哲学板でも名無しでは
書かないんでねw 単にマルクススレにあった名無しの書き込みを
こちらに転載したまでのこと。 小林秀雄のアシルと亀の子なんか読むと、この男は一体全体誰に向かって
書いているんだろうかとクビかしげるような文章なのである。
曰く、どいつもこいつも通俗小説ばかり書いている、しかし小林の批評そのものが
通俗的な啖呵とハッタリで埋め尽くされているのである
今でいう毒舌タレントなんだろうね。 >>538
吉本は>>532の引用5行みたいなことを書いているのか?
書いてるなら、その部分を引用してみてくれよ。
おまえの論敵が「第三者」に批判されてるのを見て、ざまあみろって言ってるのか?
おかしいんじゃないか? >>532
困ったなwまあ貴方がどうしても吉本のコピーだと言いたいならいいがね。
問題はそれが誰の論かじゃなく当たっているかだと思うしね。貴方は
当たっていると認めているわけだから。
>サルトルの「弁証法的理性批判」を評価
>「今更?」っていわれちゃってるね
「今更」どころかアレを読んだこことのある輩などあのスレには居ないわ。
レス読んでいればすぐ分かる。何も知らないと。マルクスについては護教的
なことしか言えないし。ここでも小林の護教が居座って…いや失敬w
とにかく「甘くない」もヘチマもない。甘くない読書を日頃してるのは
俺なんだから。「無知が栄えたためしはない」。 >>539
「アシルと亀の子」ではいろんな作家や批評家をまな板にあげてるので
誰に向かって書いてるかと言えば、とりあげられた作家や批評家、および
読者といえるねw
>>540
んじゃあ、吉本の「『本居宣長』を読む」からひいてみようか?
>小林は宿痾を再発させているともいえる。じぶんの経験に還元できるだけが
>思想だ、伝統生活の是認、体認に回帰する思想だけが不易な実理だという
>主張が繰り返しあらわれる。そして読者はいいようのない停滞感におかれる。
>私は宣長にも、それに追従し「訓詁」する小林にも哀しい盲点をみつけだす。
>日本の学問、芸術がついにすわりよく落ち着いた果てにいつも陥るあの
>普遍的な迷蒙の場所を感じる。そこは抽象・論理。原理を確立することの
>おそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。「凡庸」な歴史家たちや
>文学史家たちや文芸批評家たちが、ほんとうの意味で論理を軽蔑したあげく
>原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路に
>小林も陥ち込んでいるとしかおもえない。 >>541
まあお互い護教者ということは認めざるえないかもねw
日本におけるサルトル読解の現在の第一人者ったら、一般的には
海老坂武じゃないかと思うが、海老坂だってサルトルのマルクス解釈には
ほとんど触れてないようであるしねえ。もっぱら実存主義者として
扱ってるね。 やはりサルトルは戦後フランスの激動期にフランスにおいて
ある思想的方向性を示した思想家であって、原理のひとというよりは
状況のひとに思えるねw
まあ吉本の小林評価については>>542で主たる評価を示したが、もちろん
俺はこの評価に全面的には同意しないし、吉本の小林についての考え方も
変化してるわけで、いずれにせよ俺の小林評価には吉本の考え方は
それほど影響はないわけだねw まあ唯物論者だろうとテキストの解釈はやはりやらざるえないわけで
当然唯物論者が解釈学的循環におちいることもあるといえるねw >>542
吉本の文と>>532で引用しているレスの内容を同じにしか読めないのが、おまえの浅薄なところだ。
>作品や作者に没入した〈私〉における〈震撼〉がすべてであり、作品や作者の歴史と〈私〉という歴史の邂逅以上の価値は見出せないという理念
>じぶんの経験に還元できるだけが思想だ、伝統生活の是認、体認に回帰する思想だけが不易な実理だという主張
この違いが解らないなら、なにを読んでも無駄だ。
まあ、なにを対象にしても浅い理解しかできないところは、おまえの論敵も同じだけどなw
横から出てきて悪かったな。
好一対の二人で楽しく語り合ってるといい。 >>548
偉そうにするのが好きだから。
冗談ではなく、そのまんまだと思う。 平民ですね。町工場の息子じゃなかった?Nさんに訊いてみよう。 白洲次郎とかしょーもないけど、徹ちゃんはイイじゃん。 ふう、ずいぶんとレスが遅くなったが一応レスしておこうw
>>545
そりゃ吉本の感想は否定的だし、君の感想は吉本のよりは肯定的って
違いはあるがね。小林の批評は同じところにとどまって発展しないという
基本モチーフは共通してるといえるねw 吉本における「経験に還元できる思想」や
「体認」や「是認」というのは、結局のところ、作品や作者との出会い、邂逅が
もたらす感動というのは否定できないわけで、やはり見取り図はほぼ一致
してるといえるねw
俺の相手してたのは、ふたりとも吉本ファンだとおもってたが、数少ない吉本ファン
同士なのに、頭が悪いって一方的に同好の士を切り捨てるとは、これは吉本の
将来の読者が増えることは期待できないといえるねw >>548
偉そうかいなそんなに? 俺はあまり感じないけどねw
偉そうといえば、正宗白鳥が小林相手に島崎藤村は実に偉そうな
態度の男で結構嫌われていたという話をしていたのを思い出したねw
しかし白鳥は、島崎の偉そうな態度はうまれつきで仕方ない、島崎
文学の価値とは関係ないと述べていたねw まあだから偉そうな
態度だからといって、文学的価値がないということにはならんわけだ。
>>551
系図を見ると、小林の親父は元々農家の生まれだったが、下級藩士の
家に養子にはいったそうな。 >>553
小林は親父のこと、職人だといっていたねw ベルギーでダイヤモンド研磨技術を
学び、日本で初めてダイヤモンド研磨会社を設立したんだそうな。 >>556
読んだよ。小林本人はセザンヌ論が一番できがいいといってるが
俺は他のもそんな悪くないと思ったよ。 まあ専門の美術評論家で
いろいろ小林の問題点指摘してるのはいるけどねw >>559
なら、僕が書いた話だいたい合ってた(笑) >>559
全部嘘らしいよ
裏が取れない
まあ先祖や自分の幼年時代捏造しるのは皆やってるけど >>562
裏をとれないというのは、裏をとろうとした人間がいうことであって
そもそも一切裏をとってない人間がいえる言葉ではないねw
日本ダイヤモンド株式会社
http://www.nippondiamond.co.jp/profile.html
大正06年(1917) 東京銀座に資本金50万円にて小林豊造が創業
宝石加工とダイヤ工具(ダイス、ドレッサ、バイト等)の開発に着手
日本ダイヤモンド(株)のページにも小林豊造が創業って書いてあるんでね。
裏がとれなかったというからには、日本ダイヤモンド鰍ノ電話くらい
したんだろうねw そんなこともせずに全部嘘だなどというのは、おまえが
嘘つきのデマ野郎ということだねw 小林の戦前戦後の発言の変遷について:
…たとえば、戦争ということでも、これは非常時に大きな政策であるが、けっして巧い政策とは言えない。
しかし、この拙い政策でも、招来実際の平和を実現するために行なわねばならぬとあれば、行なわねばならぬ。
…戦いが始まった以上、いつ銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国のために銃を取るだろう…
(「文学と自分」と題する「文芸銃後運動」のために行われた小林秀雄による講演 1940年11月)
…僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した…僕は無智だから反省なぞしない。
(「近代文学」(二号、1946年2月号)の「小林秀雄を囲んで」という座談会) >>566
言い訳はするけど、反省はしない、か。
ハイデガーと同じだな。 小林秀雄の全集ダンボールでもらったんだが、なにから読めばいい? >>569
開戦時の感想。
何巻に入っていたかは忘れた。 坂口安吾 文人囲碁会
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42831_26848.html
蓮實重彦スレに貼ってあった。「教祖の文学」と同じことが書いてあるけど、初めて読んで面白かった。 文学者の戦争責任は重大だ
国家が存亡の危機のときに、反戦とか共産主義とかとんでもない。 小林秀雄の評論の中では実朝が一番好き
何回も読んだし、これからも読み続けると思う。 >>575
僕は共産主義とかよくわからないけど、歴史をひもとく限り、共産主義に対する弾圧からファシズムが始まるんだけどね。 それで先の大戦で日本は滅びかけたんだよな。それに対する小林秀雄の責任はもちろんあるよ。 >>578
俺は不勉強なので最近日本が 追い込まれて
仕方なく戦争を始めたということを知った。
ハルノートを承諾すれば国内で何百万何千万という餓死者
が出るということだったらしい
そもそもハルノートを承諾できるわけないし、承諾すれば暴動が起きただろう
小林秀雄が言うように言わば振って沸いた災害みたいなものだ
だから勝たねばならないーーーと彼は言っているがそのとうりだと思う。
日本国民として戦意の高揚に役目を果たすのは文学者としても当然のことと思う。 >>579
ここまでの文学板における僕のレスを読めばわかると思いますが、僕はそれを知った上で小林秀雄はかっこいいと言っています。 >>577
> >>575
> 歴史をひもとく限り、共産主義に対する弾圧からファシズムが始まるんだけどね。
(* ̄- ̄)ふ〜ん
怪しいもんだね。 ナチスも大日本帝國も共産主義を弾圧した、という知識しかないけど(笑) 小林秀雄が「亡国の徒」だった事は確か。でもそれで彼の文章が無価値になるわけではもちろんないと僕は言っている。セリーヌの小説に間違いなく文学的価値があるのと同じ。 >>579
侵略した地域から撤退して餓死者が出るなら、現在の日本に餓死者がいないのは奇跡ということになる。
たんなる財閥利権の拡大を日本の利益と言い張る右翼の世迷言だ。
小林も、その他の多くの文学者も、その冷静な視点をもてない教養のない知識人というに過ぎない。
社会を見ることができないというところが、小林の生涯変わらなかった大きな欠点だ。 小林秀雄が語ってる「社会」というのは結局男女関係の非対称性という部分に集約されるんだけど、まあ乱暴であるのは確かだな。 でも、それが本質的でないとは言えないよ。やはり慧眼だとは思うよ。 >>583
アメリカもレッドパージ(赤狩り)といって
盛大に共産主義弾圧してるんだけど…
それで自由の国アメリカがファシズムになったかというと別になってない >>588
うん、それはそうだな。子ブッシュ政権とかファシズムだったと僕は思っているけど。 178 名前:住人B ◆04IPYV3Pv6 :2016/06/07(火) 22:24:22.53
小林が「読書について」で助言している。
5カ条書かれてあるけど、特に気になったのは以下の助言。
【つねに一流作品のみを読め】
文芸誌を読み続けるのはいかにって悶々とする。 小林は読んでも分けわからんことが多いよ。
極められることはないだろう。
ただ、触れられてる作品の8割は読みたくなる。
「Xへの手紙・私小説論」「小林秀雄集 井伏鱒二編」は読んだ。
他に「考えるヒント1〜3」「人生について」「ドストエフスキイの生活」
を読んだら解脱しようと思う。
俺がいくら小林読んでも無駄な部分もあると解かるからなw うん、小林秀雄だけ読むのもよくないよね。僕は「Xへの手紙」を印刷・製本して真っ赤になるまで注釈をつけたノートを持ってるけど、まあ読み返す気はしないよな(笑) 他に、小林は「これはという作家を見つけたら、全集で読め」と助言している。
あああ、全集で誰かの作品読んだことない。
来年、誰かの全集買います! まあ、常に一流作品だけ読むったって、それは現実には難しいし、小林
だって文芸時評やってたときは、そんなこといってられなかったわけでね。
理想と現実はやはり違うね。 小説というのは現代小説に限るって、小林は
別のところではいってるわけで、現代を描いた小説に価値があるなら
小説読者は一流ばかりは選んでられないといえるねw 小説というのは現代小説に限るって
そんなこと言っているのか
ドストエフスキー、トルストイは現代小説でないと思うが ドストエフスキーやトルストイは19世紀末に19世紀末を活写しているから「現代小説」という事? 「徒然草」の「批評家は批評家らしい偶像を作るのに忙しい」とはどういうことでしょうか?解説お願いします! 小林秀雄は稀有の批評家だが、
文の調子を整えるために、結構いいかげんな表現をすることがある
一つ一つの意味を、まじめに考えても時間の無駄なのだ。
物事の本質を見抜けずに、あれこれわかったようなことを言う
似非批評家が多いということだと思う >>595
白鳥との対談でいってるよ。ドストやトルストイが一流小説家というのは
これはまた別の話。
文芸作品における唯一の価値は後世に残ること、歴史的評価のふるいに
かけられることだといったのはオーウェルであるが、一流の作品、古典と
いうのは歴史的評価のふるいにかけられたものだといえるね。みんなが
あんまり古典を読まないのに小林はいらだって、読むなら一流の作品を
読めといったまでで、これも発言の背景を考えないと、表面的な矛盾に
ばかり足をとられてしまうといえるねw >>597
その文は単独で文章ぬきだしてあれこれ解釈してもあまり意味ないね。
その前の文章からの流れのなかで意味をとらないと。その前の文章では
西欧から近代的な批評理論が導入されて、多くの批評家が批評文の精緻を
競う有様になったが、彼らの性根を見れば皆おめでたいのである、と
書いてあるわけで、「批評家の偶像」というのは、精緻な批評文を書くための
理論であろうと、ひとまずいえるねw
かの荻生徂徠も本居宣長も文章の読み方について指南を述べているが
わからないところは最初から全部理解しようとしてはいけないと述べているねw 栗りんが、小林についての評論の連載が、新潮で2本、文学界で1本あるってことは、
小林で評論は終わったってwマジっすか?
>言の背景を考えないと、表面的な矛盾に
>ばかり足をとられてしまう
関連書籍を読まないと言質に迫れないだろうと思ったよ。
やっかいだぞ、小林は。 そーだ、分からないことがあったらここで聞けばいいんだな。 >>601
それってネットの影響でしょう
後マスメディア ドーダの人、小林秀雄 新刊
鹿島 茂 (著)
2,160円
発売日:2016/07/20 出版社:朝日新聞出版 ISBN:978-4-02-251391-5
「ドーダ」とは「自己愛に源を発するすべての表現行為」である。作家はそれぞれ「ドーダ」を表現欲として書き続けてきた。
小林秀雄の文章は難解である。「なぜ、小林秀雄は分かりづらいのか」。そこから本書はスタートし、小林のコンプレックスを突き止め、偉大な文学者の本質を軽やかに衝く。
難解な小林秀雄の文章が身近に感じられる、読みはじめたら止まらない文学論、かつ、コンプレックスにがんじがらめになった小林を身近に感じ、苦手意識が薄らぐ、読み応えのある小林秀雄論。【本の内容】 栗原裕一郎
@y_kurihara
あ、鹿島茂の小林秀雄論『ドーダの人』ついに出るのか!
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4:36 - 2016年6月9日
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樫原辰郎 @tatsurokashi 2 時間2 時間前
@y_kurihara これを機に、小林秀雄にまつわる全てを終わらせましょう!いない方が良かったという方向で…
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栗原裕一郎 @y_kurihara 2 時間2 時間前
小林に限らず悟性といより信仰に近い問題なのでなかなか難しいでしょうね… @tatsurokashi
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樫原辰郎 @tatsurokashi 2 時間2 時間前
@y_kurihara 野蛮で土俗的な信仰ですねぇ。どうやって博物館にしまい込めば良いのやら。 ドーダの人、小林秀雄 鹿島 茂は連載終了
新潮 2016年7月号
批評の魂[第七回]/前田英樹
小林秀雄[第三十四回]/大澤信亮
文学界 2016年7月号
若松英輔 美しい花 小林秀雄 第十七回 正宗白鳥と「架空の国」
三田文学No.125(2016年春季号)
小林秀雄と河上徹太郎 [十] 坂本忠雄
月刊誌「祖国と青年」
甦る歴史のいのち 小林秀雄ノート 占部 賢志 >>601
日本の文学批評家というのは、俺について書いてばかりいるそうじゃないか。
そんなレベルの低いことでは駄目だ、俺のことなど乗り越えていかないと、と
生前に小林は語っていたそうだが、どうも日本の文芸批評というのも、あまり
小林のときからそれほど進歩発展してないようであるねw 小林について
書くことは日本の文芸批評の進歩に寄与しない、というのは、これもひとつの
パラドックスであるから、俺も小林についてあれこれ書くときは、どうしても
このパラドックスにたびたびぶつかってしまうんだね。
まあ「徒然草」について書かれたエッセイ読んで、読者が「徒然草」を読みたい気に
なったら、小林の企みは成功したといえるねw まあエッセイごとにテーマとなった
作品を読んでたら確かに大変であるね。 日本の文学批評家のトップは小林秀雄でこれには異論はないが、
世界だと誰にんるんだ
ティボーデとかサントブーブ、スタイナーとかいるが 小林秀雄は同時代のフランスの批評家を撃っていたけど、彼らではダメなの? 609です
撃っていたって攻撃とか批判したって意味?
たとえば誰ですか
その人は小林さんに匹敵する人ですか サルトルは、たしかにbignameだし、文芸評論でも大きい仕事をしているらしいが、
ガチの無神論者(最晩年は変わったかも)で、ドストエフスキーの中心命題である
神の存在がどうのこうのというは、一笑に付しただろうと思う
さらに、小林秀雄の実朝のような磨きぬかれた美しさを彼の評論に期待することは
できないのではないか(読んだことはないが) サルトルと小林秀雄とでは視野も才能の大きさも違い過ぎる
一時蓮実重彦が盛んに小林を滑稽と言っていたが、適切の評言であるな ずば抜けて頭は良かったがやっぱりベルグソンが躓きの石だったとしか思えない。
なんでベルグソンなんかにハマったのか? >>615
頭が悪いからだろ?
もっとも、ベルクソン自体はとても優れた考察を残しているとは思うが。 小林ってやっぱり難解なんだね。
悪漢と密偵
@BaddieBeagle
"「ドーダ」とは「自己愛に源を発するすべての表現行為」である。
作家はそれぞれ「ドーダ」を表現欲として書き続けてきた":鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』
honto.jp/netstore/pd-bo…
23:13 - 2016年6月8日
悪漢と密偵
@BaddieBeagle
"小林秀雄の文章は難解である。「なぜ、小林秀雄は分かりづらいのか」。
そこから本書はスタートし、小林のコンプレックスを突き止め、偉大な文学者の本質を軽やかに衝く"
23:14 - 2016年6月8日
悪漢と密偵
@BaddieBeagle
"難解な小林秀雄の文章が身近に感じられる、読みはじめたら止まらない文学論、
かつ、コンプレックスにがんじがらめになった小林を身近に感じ、
苦手意識が薄らぐ、読み応えのある小林秀雄論"
23:14 - 2016年6月8日 蓮實も小林も東大受験に一度失敗している
つまり東大受験に失敗するのが批評家になる条件だ >>609
まあクリエイターである小説家や詩人については、創造者のオーラと
後光がさすが、文学界においてはどちらかといえば寄生的で賤しい
身分とされる批評家という存在は本来日陰の存在であるなんて
意見も昔から根強いから、みんな最高の批評家は誰かなんて話には
あまり熱心にならないわけだね。このようなことをいったのは、これまた
文芸批評家のサイードであったね。
>615
小林がベルクソンにはまったのはかなり早い時期からだよ。
>>617
小林本人も人からしょっちゅうおまえの文章は難しいって文句いわれるって
ある講演で述べていたねw で、それに対する小林の答えが、易しい文章
なんてものはないってものだったねw 文章の奥にあるそれを書いた作者
人間に到達しようとすると、どんな文章もたちまち難しくなるという、これまた
小林的レトリックの一例といえるね。 小林秀雄につぃての小さな発見で本を書き、千部売れますかね。
保守勢力からの強い要請があるんだろうが。
大局的に言って、小林の文学的な評価の復活はあり得ないから、書かされる方は辛いだろう。
蓮実の小林批判は、現代の美術批評家や美術史家から見れば、発想が古臭すぎるし、むしろ小林の意外な現代性に俺は気付くが、蓮実にはまるで分からない。 >>625
「小林の意外な現代性」ってどんなこと? >>626
それはやはり、蓮実や柄谷、岡崎らが批判した部分でしょう。 >>628
具体的に書くことは、原稿料の問題が出てくる罠。 >>630
これ以上、具体的に掲示板で発言する程、お人好しな人はいないだろう。 秀坊は簡単なことを難解な文章にすることが得意なただのおっさん。 感性を研ぎ澄ますと難解な文になるんだ、なんて持ち上げる人もいるみたいだよ。
小林の文章を難しいと思う人は、感性が鈍いんだってさ。 >>634
そんなこと言ってかっこつけてる奴も理解できない奴のひとりだろ。 浅田や岡ア、蓮実、柄谷を通じて小林を理解することは取りあえず不可能なんだから、他のルートを探せば良い。
西洋の美術史の中では小林の言うことは、そんなに難しくも、変わってる訳でもない。
小林が理解されない大きな理由の一つは、日本にまともな美術史家が存在したことがなかったということが理由としてあげられる。 栗原のような無才は、下読みという特権を利用すれば、他人のアイデアなど簡単にただで手に入れられると思ってやがるが、それは栗原の大きな勘違いだ。 小林は難解じゃないだろ
答えを言わないで自分で考えろって感じの文だけど >>636
小林は理解されないんじゃなくて、同意されないんじゃない?
日本の美術史家という人たちについては、まるで知らないけど。 鹿島茂
@office_kashima
【新刊案内】
鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版・2016年7月20日発売)
「一冊の本」2008年1月〜2015年12月長期連載の「ドーダの文学史」より、小林秀雄分の書籍化です。 わかりやすく書こうと思えば書けるけど、書きたくないんじゃないの。小林秀雄は。 社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。
口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。
そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。
本田宗一郎 >>646
昔の日本人は、古人の教えを学ぶことが社会を安定させる礎だと考えていた。
それが、時代にそぐわないとみるか、時代を超えて守るべき人間の知恵とみるか、ということだろう。
資本主義社会で利益を追求するには、古人の教えは邪魔になる。
ごく一部の金儲けに都合のいい教えを強調する人はいるが。 ドーダの人、小林秀雄読んだよ、八重洲ブックセンターで平積で普通に売ってて手に入ったがどーもフライングみたいだな
小林秀雄のドーダの例
・ランボーとか外からの権威でドーダ、外ドーダ
・大した内容じゃないことを飛躍的なレトリックでついてこれないものを切り捨てるバッサリドーダ
・ほんとは小賢しい知識人より何も語らない市世の人のが偉いんだよの内ドーダ
内容はドーダを駆使した小林秀雄の文章は、若者のパーセントの多かった戦前戦後を絶頂に、
若者を中心としたドーダを必要とした時代、高度成長期までの日本には必要だったが故にこそ絶対の力を持ち、
現実のランボー、モーツァルト、ゴッホとは違うが可能性としてのランボーらを確かに再現したが故にこそ時代を呪縛した
しかし、サブカルチャーでパルコでおいしい生活以降のフラットな文化では権威に基づく小林秀雄的ドーダに意味がなくなった
更にその後の停滞や高齢化社会ではドーダ自体が陰にこもり意味をなさなくなった
ドーダ自体がなくなることはないがドーダの人が突出する小林秀雄のような例はなくなった
しかし、テロや貧富の差の劇的な拡大のありうる現在、小林秀雄的なものの再来はありうる 小林秀雄の元ネタはサント・ブーヴでだからユゴーを寝とるように中原から寝とったと
また詩や小説に行かないで批評に行ったのもユゴーがいたブーヴと同じだと 鹿島茂の本によると小林秀雄のランボー訳はランボーが色々な口真似しているところを、
わけもわからずにそのまま訳しているところが多いらしい
竹中直人がブルース・リーや松田優作や色々な有名人が降臨しているのに活字起こして、
それを松田優作達を知らない外国人が訳している
そういうものらしい
篠沢秀夫曰く、地獄での一季節はボシュエの説教を思わせる信仰の炎のように語るかと思うと、
卑語をまじえて教会を嘲笑う。
フランス文学科に在籍したばかりの日本人の学生でキリスト教に馴染んだ
フランス人が読めば容易に読み取れるシニフィアンの変化などわかるわけがなかった で、全てを平板化して俺が俺がのドーダの詩にしてしまったが故にこそ、
読者の心を鷲掴みにして時代を作ってしまった
訳としては誤訳もいいところだけど時代の中でランボーに求められていた、
インパクトをそのまま維持し加速できたのは小林秀雄だけであり、
単なる間違いと切って捨てられないある現象だった
ランボーもモーツァルトもドストエフスキーもゴッホも
小林の扱ったものは皆そういうものだ そろそろ小林秀雄を神様に祭り上げた日本の文壇、言論出版界の特殊な利権構造を
解説した本が出てもいいんだが。 そもそも、小林秀雄なんて昔からなんの影響力もないだろ?
亀井勝一郎と好一対の人世論者に過ぎない、というのが普通の評価なんだから。 でも小林秀雄も輝いていた時代があったわけで、
鹿島の本もそうだが、その真骨頂、一番の存在意義を見落としている
プロレタリア文学や左翼が文壇を制覇しようとした時に、
特に批評で一人で対抗できてたのが小林秀雄なわけで
(小説とかなら老大家がいくらでもいたが批評ではいなかった)
マルクスとフランス象徴主義を混ぜて、文学はそんな一元的決定論じゃないんだ、
存在が意識を決定しているんであって、お前ら薄っぺらい左翼みたいに、
イデオロギーで意識で現実を決定できると思うなよ
そんなしょうもないイデオロギー先行文学など下らない
お前らマルクスも読めてないのかとやった、やれたのは小林秀雄だけだから
存在意義があったのはその時だけで左翼文学自体が弾圧で消失したが
それでも小林秀雄はその他の批評家とは違う
鹿島茂は河上徹太郎と比較してるが比べられない
その一瞬の真骨頂の時代除けば確かにただの人生論の人だが
小林秀雄の真価はなめられてはいけない 柄谷や蓮実並に理論的に突出してた輝いてた時代があったわけで
柄谷たちがどう凄いか今はぼやけてよくわからないように
吉本隆明が教条的左翼全盛時代に、左翼前衛やスターリニストよくたばれ、
お前らは大衆の原像を見失っている、社会がその時になるまで害毒だ
自力本願の前衛どもよ死ねやとやって時代を鷲掴みにしたように
その自体を体験していないものには吉本隆明なんかただの爺にすぎない
批評家には役割があって役割終わったら殆どゴミだが、
それで評価したら可愛そうだ >>655-656
小林秀雄の価値を論じるのはいいと思うよ。
それが見当違いでも。
でも、吉本隆明の価値を論じるのは、スレ違いだよ。
見当違いでもあるし。 自分にとって気にくわないだけだろw
小林と吉本隆明との立ち位置の類似論じてるだけで、
吉本が主題じゃないことは一目瞭然で無視すりゃいいのに
馬鹿なのww 戦前の一時期マルクスとサンボリズムで左翼に一人対峙した小林秀雄と、
戦後の一時期自力本願否定や転向論で左翼前衛主義に立ち向かった、
吉本隆明との明確な類似性に何をケチつけてるんだか
わからんw
思想的には全然違うが批評家としての役割機能は良く似てた >>658
そう?
それなら、その主旨自体が見当違い、って指摘したほうが良かった? >>659
まったく、似てないよ?
小林は、自分の感覚だけを頼りに、というより、自分の感覚の正しさを確認したかっただけ。
吉本は、客観的な基準を求めることに全生涯を費やした。
社会的な役割も、それぞれの方向性も真逆といえる。 批評家として決定論的マルクス主義に一人対峙した、
立ち位置が似ているという話が読めない文盲なのか 何から何まで違う小林と吉本の立ち位置が重なってしまっているのが
面白いという話なのにな
何に噛みついているんだか >>662
小林が?
それとも、小林も吉本も?
決定論的マルクス主義ってなに?
もう少し、きちんとした文を書いて欲しいな。 >>663
たとえば、戦前のマルクス主義は日陰の思想だし、戦後の日本共産党に対しては、左右を問わず反対する批評家はとても多かった。
小林と吉本の日本共産党に対する立場など、その中の一つに過ぎないし、特に根源的というわけでもない。 そりゃ右ががった奴等とかマルクス主義をずっと叩いていたよ
相手にはされてなかったが
指導的批評家で大衆にも影響与えうる人間で、
有効なマルクス主義批判とか前衛批判やったのが、大衆に届かせたのが、
戦前では小林、戦後は吉本なのも歴史的事実だろ
宮本顕治とかが弾圧の中で非転向だったから誰も頭上がらない中で、
あいつらは大衆の現実無視した転向者だとやって度肝を抜いたのが、
吉本だし 小林だって相手にされないような小物ならともかく、
文壇の主流が左翼に牛耳られそうな一時期、一人気を吐いたのが小林だった、
そういった時が確かにあったわけで
その後、左翼は弾圧されて小林のやってたことが何が何だか、
よくわからなくなったけど 小林の話に戻すと
小林がマルクスやヴァレリー引っ張って存在が意識を決定するんで、
意識が現実を決めるんじゃない、
サンボリズムの詩は現実の多様さを表そうと試みている、
社会性、存在の多様さを再現できない困難を克服しようとしている
お前ら教条的マルクス主義者の描く文学みたいなイデオロギーの押しつけじゃない、
文学は多様なんだ、お前らは未熟なんだとやった時は、
柄谷のゲーデルみたいなもんで理論的にとんがってて最先端だったわけ
何が何だか凄いと
柄谷自身が言ってることだけどな 今の時代に小林秀雄の価値はゼロ
他人の物を批評するってのはそういうこと
だから知識人は今の時代には誰もいない 柄谷のデリダの脱構築の形式化理解も蓮実の表層批評も、
吉本の自力本願の前衛による指導への徹底批判も、
単純マルクス主義の経済決定論への文学への適用への批判がある
それは小林がヴァレリーからパクったサンボリズム理解と同型で、
立ち位置は重なる >>666
戦前は右翼全盛だ。
共産党関係者というだけで、太宰も投獄されたし、多喜二は惨殺された。
小林も当初はマルクスに頼ろうとしていたが、時代の空気に流されて非マルクスへと転向していった。
ことさら反共産党だったともいえない。
有効なマルクス主義批判なるものも見たことがない。
宮本顕治が非転向であろうとなかろうと、崇拝者はごく一部だ。
戦後の近代文学派でも宮本などを評価しているわけではないし、多くの左翼的な批評家が反共産党だ。
花田清輝でさえ、共産党一辺倒というほど単純ではない。
吉本の共産党批判は、政治的には、すでにある反共産党の流れの中での一部に過ぎない。
具体的には、黒田寛一、梅本克己、岩田弘などの共産党批判が前衛党のあり方をめぐっての批判であるのに対して、吉本は組織自体を否定したということになる。
どれも効果がなかったことは、現在の政治状況によく現れている。
小林秀雄は、たんなる風見鶏だから、戦前も戦後もちょっと気の利いたことを言っているだけだ。
政治的にも文学的にも、当時も現在も、社会的にはまったく影響を与えていないといえる。
それが、批評家としては、仲間褒めに終始している印象を振りまいている原因だ。 柄谷が小林秀雄の最良な部分はマルクスとサンボリズムを合体して、
プロレタリア文学に対抗したころと評価してる
それはほんの一時期だったことはさんざん書いてるだろ
マルクスとサンボリズムをそう読み込めたのは世界でも最先端だった
吉本隆明は関係の絶対性、転向論、大衆の原像、最後の親鸞と、
前衛左翼が大衆を引っ張り指導することを全否定し続けた人間だろ
自力本願の否定で首尾一貫してる
前衛左翼の否定で徹頭徹尾貫いている
それで大批評家になり偶像になった人間だ
何でそれを否定するかな >>672
めんどくさいから、間違いだけ指摘しとく。
小林秀雄はマルクスとサンボリズムを合体なんかしていない。
そもそもマルクスには、文学に触れた著作がない。
吉本隆明は、むしろ「自立」という、実存主義的な批評家だ。
「前衛左翼の否定で」「大批評家になり偶像になった」わけでもない。
吉本隆明の価値と評価は、学術的な3部作にある。 三部作だってあれは左翼決定論文学批判だぞ
それがわかってなかったから噛みついてたのか
なるほど
共同幻想論も幻想領域は独立している、
プロレタリア文学の想定する単純決定論には還元できないと言う話
言語美も心的現象論も同じ
理論的著作とか自分の主テーマの補完するためのもので、
だからこそがんばって書いてるのに
吉本の意図が読めてないなら話が食い違うはずだ
マルクスは文学論は書いていないのに勝手に文学論押しつける奴等に、
存在が意識を規定するんだとかましたのが小林秀雄の格好良さじゃないの?
更にそれが宿命に繋がっていく
宿命の人生論テーマがマルクスと繋がっているのが小林のねじくれた、
面白さだろ
単なる反動ウヨじゃないと主張できるのが小林の強み >>674
>三部作だってあれは左翼決定論文学批判
吉本スレでもないのに書くのは気が引けるが、読んでないなら、君が読み終わるまで待つから、読んでから書き込んでくれ。
まったく見当違いだということがわかるだろうから。
>存在が意識を規定するんだとかましたのが小林秀雄の格好良さ
なに言ってるのかわからないな。
「存在が意識を規定する」というのは、マルクス主義(文学)のテーマだぞ? 共同幻想論序
はっきりさせるために逆にいいますと、経済的諸範疇を取り扱う場合には幻想領域は捨象することができる。中略
ところが、幻想的範疇をその構造において取り扱う場合には、少なくとも反映とか模写じゃなくて、
ある構造を介して関係があるというところまでには経済的範疇というものはしりぞけることができる。
理論三部作の一貫した立場でマルクス主義文学や政治思想の単純な反映や模写を批判するために書いた
小林秀雄も同じでプロレタリア文学理論の単なる反映や模写じゃなくて、
そこには収まらない多様な文学を擁護するためにマルクスを利用した
モデルはサンボリズムであれは存在が意識を規定し、
貧しいプロレタリア文学のような反映や模写じよない、
多様な現実を表現するための苦闘の果てと捉えた
貧しいマルクス主義文学の否定を行った
プロレタリア文学に圧迫されている日本の老大家の作品を擁護するためなどに使った
マルクスとサンボリズムを結びつけた
それが初期小林の立場だよ 吉本隆明が序文で書いているのに読み飛ばしたのかね
よくわからないが >>676>>677
だからさ、『共同幻想論』を最後まで読んでから書き込んでくれよ。
序文でも、「単純な反映や模写を批判するために」なんて貧しいことが書いてあるわけではないよ。
負けず嫌いはいいけど、基本的な読解力は必要だ。
プロレタリア文学だと、同じものを見た人は同じことを感じると書いてあるとでも思う?
そもそも、そうじゃないから、文学に思想を導入すべきというのが、プロレタリア文学なんだよ?
反共のために書き込んでるんだろうが、つまらない視点からは、つまらない結論しか見えてこないんだ。 普通に小林秀雄がマルクス主義に対抗してた、する必要があった、
マルクスを読みながらマルクス主義批判に逆用してた時機があったのも、
鹿島茂の本にだって書いてある
吉本隆明が左翼前衛叩きをしてたことがあるのもわかるはずだけどな
それが似てるという話で事実なんだからどうしょうもない
最後の親鸞とかの自力本願批判とか転向論とか何だと思ってるんだ?
ある部分で似た立ち位置と言っただけで、それは事実だから仕方ない
それが小林や吉本の全てだとは言ってないのに何で噛みつくのかわからない >>679
>それが小林や吉本の全てだとは言ってない
それなら、僕のレスの趣旨も少しは理解できるだろう。
そこだけ取り上げても、その他大勢の左翼批判者との区別はできない。
必要なのは、なにをどう批判したかということと、その批評家がどういう価値を社会に提出したか、ということ。 共同幻想論とかなんでも幻想とか言って解決しようってしてるのか
そんなくだらない思想が流行るわけない 別に小林秀雄の評価として、柄谷や吉本と立ち位置を比較してるだけで、
そんな本格的な分析とかではないんだが
事実の指摘でそういう側面もあるなという話だろ
小林秀雄の一面を指摘しているので、
小林秀雄論でも吉本隆明論でもないんだが
よくわからない
何でそこまで噛みついてくるんだ
本格的な小林や吉本論をする場でもする気もないんだが
よくわからない 小林秀雄の評価の一環として、
吉本や柄谷とかのある側面の事実の指摘が何で悪いんだか、
さっぱりわからない
そういう側面は事実だからあるよねで終わり
それ以上は吉本スレとかでやれよ >>682>>683
反共宣伝のために、つまらないことを書き込むからだよw 小林秀雄にも吉本隆明にも左翼にもそんな興味はないよ
反共とか何言ってんだ?
小林がマルクス主義に吉本が左翼前衛に対抗したのは事実で、
そのこと以外に大して興味はない
反共宣伝とか何言ってんだ? 小林秀雄が右翼の大物で吉本隆明が左翼の指導層に対抗してたんだから、
そのことに基づいて書いてたら反共宣伝になるのか
わけがわからない
もういいから吉本でも共産スレでもそっちにいけよ >>685
だからさ、小林はマルクス主義に対抗なんかしてないし、できてない。
そして吉本は左翼前衛を否定したけど、むしろ根源的な左翼というべき思想家。
両者に共通点なんかないんだよ。
無理やり反共(反共産党)で結び付けるのが見当違いということ。 >>686
小林秀雄は右翼の大物でもないし、吉本隆明は左翼の指導層に対抗なんかしていない、というより、日本共産党は左翼の指導層であったのは吉本の登場以前。
どこまでも見当違い。 左翼に対抗した右翼の小林と、
左翼に対抗した左翼の吉本の類似性の指摘が何でいけないんだ
いいからスレから出ていけよ
小林秀雄と関係ないだろ
左翼批判の射程がどうこうは
こちらは一般大衆含めた社会的機能の話しているので
小林秀雄が左翼に対抗する立場だったのも、
吉本隆明が左翼指導層の、全否定で喝采浴びたのも
批評家の社会的機能としてそうだったんだし、
大衆に受け入れられたんだから否定されることではない >>689
関係ない話を始めたのは君だからw
そもそも、戦後の小林は、左翼を嫌ってはいても対抗なんかしていない。
吉本は左翼指導層(?)を全否定などしていない。
共産同も大学紛争の指導者たちも、左翼の指導層だ。
小林も吉本も、大衆に受け入れられたとは、とてもいえない。
君自身も受け入れてないし、大衆も受け入れていないことぐらいは知っておこう。 言葉遊びだろ
小林も吉本も人気ある評論家だったし、
それまでの指導層を否定したのに
受け入れられてないとか指導層を否定してないとか難癖もいいところだろ 鹿島茂の本読んだから全く小林秀雄のこととか忘れてたのに来たんだがな
ランボーとかの話したかった
全く静まりかえってるから冷やかしにネタを投入したら何なんだ
ウヨサヨが絡むとこんなになるんだな
全くそんな気はなかったんだが 反共とか妄想垂れ流す左翼は始末に負えないな
小林秀雄は対抗しきれてないとか、いいじゃないか、
小林のスレだから、ここは
そんなのは左翼のスレで小林の総括でもしててくれ 小林秀雄なり吉本隆明なり立ち向かわなければならなかった重要なテーマとして、
どっちかと言うと持ち上げすぎ気味に書いてるつもりだったのにな
国民レベル一般レベルだと失敗した完全に終わったもんだろ
護教者に絡まれるとわけがわからないことになる >>691-694
いつまでも愚痴ってろよ。
小林には、「立ち向かわなければならなかった重要なテーマ」などなかったんだよ。
戦後の小林は、戦争に精神を翻弄されたまま、生き返ることはなかった。
吉本についてはもう書いたし、スレ違いだからこれ以上は書かない。 マルクスとサンボリズムをそれなりに昇華した、
小林秀雄をそれなりに位置付けてやろうという話なのにな
怖い怖い
馬鹿はこれだから 小林秀雄のマルクス理解
ヴァレリーのパクりなんだろうが柄谷の言うように目のつけどころはいいわけで
そんなどこに注目できる奴はあの時代にいなかった 治安維持法 1925年(大正14年) 『様々なる意匠』 1929年(昭和4年)
小林秀雄は戦前も戦後も、一貫して権力に従っている。
だから、戦争賛美への反省などしない。
吉本隆明と比較したいなら、吉本が自身は徴兵回避のために工業学校へ進学しながら、徴兵回避の意志について一言も触れなかったことと対応させることが適切かもしれない。
たしかに両者とも、本質的な反権力を実践したことはなく、社会的には権力の補完として機能していた。
吉本の著作からは、小林の言い草が雨後の筍のごとく現れる。
吉本の3部作はとてもすばらしい論考だが、徹底しきれない甘さの理由は、実社会を捨てるという小林的な感性から逃れきれなかったところにあるのだろう。
このふたりが、日本の知識人の悲しい姿を象徴しているように思えてならない。 治安維持法は大正デモクラシーの補完として出て来たんだな
で藩閥から権力を奪ったブルジョワがその下のプロレタリアを
押さえ込もうとして、その対立から反動としてファシズムが出てくると 治安警察法 明治33年(1900年)
政治活動と労働運動の規制のために、言論・出版・表現・集会・結社の自由を制限。
治安維持法 大正14年(1925年)
組織的な活動だけではなく、個人も処罰の対象とした。
「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
治安維持法 昭和3年(1928年)改正
「国体変革」に死刑を適用。
組織に参加していない協力者にも適用。
治安維持法 昭和16年(1941年)改正
取締範囲の拡大、予防拘禁の適用、重罰化。
刑事手続の簡素化による自由な検挙・処罰。 昭和8年(1933年)2月、警視庁特高が小林 多喜二を虐殺。 >>703
小林秀雄が登場する時代背景を確認するとキモいのか?
意味がわからん・・・ >>705
ただの事実を書くのが、君にとってはキチガイサヨなのか?
君は、一度カウンセリングを受けたほうがいい。
あまり変な妄想に憑りつかれていると、日常生活にも支障をきたすし、なにより周囲の人に迷惑をかけることになる。
戦前の日本が、左翼運動を徹底的に弾圧し、そして戦争にのめり込んでいったというのは、右翼であろうと左翼であろうと、すべての人が認める事実だ。
そうした社会情勢の中で、どういう立ち位置を取ったのか、あるいは取らざるを得なかったのか、ということは、小林秀雄の批評家としての根幹にかかわる問題だ。
他人の情念を斟酌するより、君自身の情念を変なところで発散しないように気をつけたほうがいい。 戦前の左翼って今でいうと在特会みたいなもんだろ
で小林は体制派なのは間違いないから宮根とかテリーみたいな感じか 右翼による要人テロが頻発し、一説によると昭和天皇廃位をもくろんだ2.26事件まで起こった。
その後、内乱を抑え込んだ平沼騏一郎や湯浅倉平による内務省独裁ともいうべき粛清劇が始まり、
左右両陣営ともに民間政治団体が壊滅させられた。
が、史上最大の悪手ともいうべき日独伊三国同盟を機に
平沼の失脚、湯浅の変死、近衛体制の崩壊が相次ぎ
一気に戦争に突入する。
皇弟秩父宮や貴族院議長の反対の中、
何故か松岡洋右、中野正剛という右派政治家の意見を汲むかたちで
昭和天皇が独断した結果、そうなった。
得体のしれない連中による暗躍が国政を動かし、
この連中との抗争が東條政権下でも行われていた。
天皇の意向を受けた東条英機がもっとも力を入れたのが
在野勢力の粛清であり、それは民間右派に対して苛烈だった。
で、小林が執筆を止めるのはこの時期なんだな。 小林秀雄とは関係ないよ
キチガイ荒らし
吉本隆明が真正左翼だあたりから全く荒らしでしかない >>709-710
小林秀雄の思考というのは、社会から隔絶されてて、社会情勢の影響なんか受けないってことかな?
まあ、そういう読み方をするのもいいけど、あまりに幼稚じゃないかな? 小林秀雄の思想におけるマルクスの影響について、ここで詳しく論じられているよ
近代日本の批評1 昭和篇(上) (講談社文芸文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/406197582X/ なんて言えばいいんだよ(笑)もうやめようよ不毛だから(笑) 麻薬礼賛者は去れよ。
相模原みたいな事件を起こさないことだけに注意して、くだらない妄想から離れろ。 >>721
大麻と相模原の事件に因果関係があると思ってんの? >>722
ほう・・・
大麻に関して、一家言を持ってると見えるw 一応言っておくけど、>>726はギャグな。自分でも何を言ってるかわかんねえ。 何をどう誤魔化してんだよ?大麻があの事件を引き起こしたというエビデンス出せ。 >>729
これはひどい
その発言はここだからしてるんだろ? 小林の文章は、言葉を言葉通りに受け取れない人には、読み取れない仕掛けになってる
この人は、説明しようとしなかった
言葉の力に総てを託し、言葉自体に語らせようとした
「意は似せ易く、姿は似せ難し」 >>736
他人にものを頼む態度じゃないなw
麻薬の影響か? >>737
お手数をおかけして申し訳ないですけど、貼っていただけると大変助かります。 では僕が代わりに貼ろうか。
ttps://www.youtube.com/playlist?list=PLzkL6ceAw9P8XhqAJTAQZv9xy32NLpsB5
小林秀雄講演集のプレイ・リスト。 新書関係
源氏物語論 (洋泉社MC新書)
甦るヴェイユ (洋泉社MC新書)
「情況への発言」全集成〈1〉1962~1975 (洋泉社MC新書)
「情況への発言」全集成〈2〉1976~1983 (洋泉社MC新書)
「情況への発言」全集成〈3〉1984~1997 (洋泉社MC新書)
吉本隆明のメディアを疑え (青春新書インテリジェンス)
吉本隆明の下町の愉しみ (青春新書インテリジェンス)
老いの幸福論 (青春新書インテリジェンス)
今に生きる親鸞 (講談社+α新書)
生涯現役 (新書y)洋泉社
詩とはなにか―世界を凍らせる言葉 (詩の森文庫)
際限のない詩魂―わが出会いの詩人たち (詩の森文庫) 口喧嘩最強だね。現代思想について2で学生との口喧嘩(!)が聞ける 何やらこれだという信念があって、なにを論じるにもそれに回帰するような物言いをするよね、この人は
それがびたっとハマるときはいいけど、ハマらないときは頓珍漢なことを言ってるね 小林秀雄の頭の中には、まず警句があるんだよね。文章ではそれを直接書かないけど、対談とかではそのまんま言ってたりする。だから彼の対談は面白いんだよ。 >>747
嫌いなところは、敗戦における文学者の責任についての総括をまともにやらなかった事かな。
>>748
別にやってる人は嫌いじゃないけど、個人的にウンザリしたから僕はやらない。 そういうんじゃないんだよなあ
応えが鈍いよ応えが
好きなら好きなりの嫌いなところ言えよ うーん、そう言われると嫌いなところはないかも知れない。声は好きじゃないな。 小林秀雄のほか、評論を芸術作品として書けた人いる? 文体があるから、論じる対象があっても批評それ自体が創作であり、芸術やと思うからでござんす >>754
その意味でなら、創作ではない批評なんてないだろ?
書評だって文体のある創作だ。
文体って、その人の個性的な見方や書き方、ぐらいの意味だと思うけど、違う定義で書いてる? >>752
柄谷行人かなあ。「芸術として」というより「文学として」だけど。小林秀雄もそうでした。 三島の言う文体の定義に概ね賛成して、それを文体として読んでます >>756>>758
三島の言う文体の定義ってなに? 文章が個性的なものだとすれば、文体は普遍的なものですから、文章が個性的なのは当たり前のことです
文章が個性的である、というだけでそれが芸術や創作だという考え方はたしかに日本においては蔓延していて、きちんと方法論とわけて考えるということは教育として教わりません
ここでいう文体とは、もっと理念的なものです >>760
小説読本という本を読まれるといいかと思います >>760
谷崎の言うように、人には文章の美味い不味いを感じるのが鈍い方もいるようで、あなたはそちら側の方のように思います
誰が書いてもそれが独創的で芸術作品と成り得るなんてことは、本当に優れた作品を読めばどれだけ馬鹿げたことを言っているかわかるはずです >>762
めんどくさいから、君が要約してくれよ。
>>763
では聞くが、芸術の定義とはなに? >>761
文体が普遍的って、それじゃただの文法じゃないか。
文体は理念でかつ普遍的、意味不明だな。 >>765
理解できないと思います
できる人は言葉に敏感な人でしょうし、あなたはそうじゃないと思うので >>764
調べたらそれらしいものがいくつか落ちてるのでみてきたらどうでしょうか >>766
なんだ、説明できなくて逃げちゃうのかw
>>767
他人の定義ではなく、君が咀嚼した定義を聞いてるんだけど? >>768
上に書いたままですよ、定義は
あなたもきちんと読みとれてます
文体と文章は異なるもので、文章はその場で書かれたそれをさし、文体とはもっと理念的で普遍的な論としての言葉です 芸術の定義は、いくらでもできると思いますが、ただの観念でしょうね
本来、具象化されるべきでない人間の中にあるものを具象化するにあたって生み出された観念としての言葉だと思います >>768
咀嚼という言葉の使い方もなっていないので、いろいろとお勉強された方がよいと思います
何やらおつむのレベルが低いようですので >>765
こうして、意味不明だな、なんて言うのは思考停止以外の何ものでもなく、自分は馬鹿ですと言うようなもので、あげく自分の理解力が足りないことを、人のせいにする、こういう馬鹿は本当に醜いわ >>769
>文体とはもっと理念的で普遍的な論としての言葉
それじゃ、文章になってないよ。
理念的とかいうのはかろうじて文章の説明になるけど、文章について普遍的といっても、ただ文法に則ってる以上のものにはならない。
どちらにしても文体の説明にはまったくなっていない。
>>770
人間の表出、ということを言いたいのなら、それ以外の文章があるわけはない、ということにもなる。
人が文章を書くということは、それ自体がその人の観念の表出だから。
>>771
結局、なにも説明できずに、「おまえのかーちゃん、でーべそー」で終わりかいなw
相手を罵倒しても、君が利口になれるわけじゃないよ。 >>774
よくわからんけど、君アホにみえるからもうやめとき >>772
文体が理念で普遍的なんて言葉から、なにをどう理解すればいいの?
それで、文体とはこれだ、ってわかる人がいたら、人間とは思えないなw >>775
なぜ?
答えられない質問をされたときは、質問者をアホとみなせばそれで満足なの? >>776
文章と文体を分けてっていってるし、三島の定義を借りてるんだからそれでいいんじゃないの
勝手に質問ばっかりして、わからんわからん言うのはフェアじゃないとはたから見て思うよ
まあ関係ないから他所でやってくださいな >>777
たとえば鴎外と鏡花の文体同じだと思うの? >>778
その文体とは、どういう意味で使ってるのか、と聞いている。
フェアもフェアじゃないもないよw
自分でも理解できていない舌足らずの言葉で、誤魔化そうとしてはいけない。
僕は、>>755で「文体って、その人の個性的な見方や書き方、ぐらいの意味だと思う」と書いた。 >>779
ずいぶん違うと思うよ。
もちろん、時期や題材によって、それぞれの文体も一律ではないことは当然だが。 >>780
だからそれが文章だって言ってんじゃないの? >>781
じゃあ文章は同じだと思う?
もしお前が文体と文章混同してたらそれで終いじゃんか 三島の定義を借りたのがいけなかったですね、ここまで理解されないとは思いませんでしたが、たしかに普段文章やら文体を意識されない人にとっては飛躍した物言いになるかもしれないですし
私も中学生に説明できるくらいの言葉をつかえたらいいんですが、なかなか難しいもんですね >>782
文体の話をしてるんだけど?
>>783
文章は書かれた言葉のすべてだよ?
文体というのは、その文章の書き方、書かれ方。
>>784
三島の定義を借りるのは構わないが、なにをどう借りたのかの説明を求めてるんだよ?
中学生に説明できないなら、学者にも説明できないだろうな。
できないなら、それは君自身が理解していないということじゃないかな? よくもまあ三島も読まずに小林秀雄のスレに来たな
夏休みなんだろうけど、はよ寝ろよ
それとこの話終わりね、文体もわからん馬鹿のせいでイライラするからもう終わり >>786
三島が文体論の大家だと思ってるのかい?
『文章読本』は、たぶん読んだことがあるけど、文体論についての印象は残ってない。
たぶん、というのは、三島の文庫はほとんど読んでいるから。
文庫以外は読んでないがw
三島の評論はどれも面白いけど、思い付きを斜に構えた〈文体〉で書いただけのもの。
別にありがたがるほどのものではないよ。
君は、自分が文体とはなにかをまったく理解していないことを、他人のせいにしてはいけない。
まして、相手を罵倒したからといって、君が文体を理解することは出来ないよw >>790
この話題のはじめのころに、>>755に「その人の個性的な見方や書き方、ぐらいの意味だと思う」と書いといたよ。
それを否定する人がいたから、では、文体とはなに、と聞いてるんだ。 文体そのものと、その文体によって書かれた文章の内容とは関連があるものだろうか? >>792
僕の定義では、文体というのは、書く人の視点や表現方法のことだから、文章の内容の根幹になる。
他に人の場合は知らない。 >>791
どうして自分の考える文体は正しいと思って話を進められるのか
お前の考える文体はそうだとして、人の考える文体は、わからんわからん!
子どもじゃないんだから >>791
読み返すと否定じゃなくて、定義だろ
お前が勝手に程度の低い定義付けしてワンワンいってるようにしか見えんぞ >>794
君は誰?
文体とは理念と普遍性だと書いた人?
それとも三島の定義を使うと書いた人?
理念と普遍では、文体の定義になりようがないという僕の意見に反論してね。
三島の文体の定義の人なら、三島の文体の定義ってなんなのか説明してね。
僕は、三島が文体の定義を書いているとは思ってないから。
>>795
どのレスが文体の定義なの?
理念と普遍では意味をなさないよ? 本当にね、頭悪すぎて、書いてる文章読んでるだけで頭いたくなる
馬鹿っているんだね >>797>>798
前にも書いたけど、僕を罵倒しても君が利口になるわけじゃないよ。
少しは考える習慣を身に付けなさいね。 わかったから、誰にも言い返さなくていいから静かにしろよ >>800
君が荒らさなければすむこと。
荒らしはやめろ。 柄谷行人というと漱石のイメージが強いけど、名作はなんでしょうか。 >>804
あれは心の中で論破しまくった
全然漱石について分かってない >>807
普通に何年も前の本の内容なんて覚えてないわ >>808
なんでキレ気味やねん
お前もうどっかいけや 江藤淳の漱石論は、事実を丁寧に集めながら、突如として主観的な見解に移っていく。
事実を集めない方法に変えればそのまま小林秀雄だ、ともいえないが、思い付きに自分を預けてしまうところはよく似ている。 >>811
じゃあそもそも答えんなよ
病気かよお前 小林秀雄より面白い評論書く人おらんのですか、皆さんの好みを聞きとうございます >>814
面白い評論といえば、吉本隆明に尽きるね。
文体(w)は、小林秀雄に似ている(真似している)が、事実の掘り下げ方は天下一品だ。
わけのわからないことを書いて面白く読ませるのは、埴谷雄高。
文体はまるで違うが、内容は小林的だともいえる。 いいねえ、小林秀雄好きの好きな評論家ってのは非常に興味あるな なじみがないかも知れないけれど、坂口安吾の評論は絶品。確か評論集が出ていたと思う。
小説はちょっとアレなんだけど、評論は面白いよ。歴史関連も文庫が出ていて、こいつも面白い。
最近話題に出なくても、文学史関連の書物を当たると、好みのものにぶち当たる。
発掘は醍醐味のある作業。自分で見出すのも一興。 そんなドヤ顔で言われても、、、
むしろ小林より有名やんけ 安吾の評論集がそんなに売れているとは知らなかったな(笑 >>821
これを参考にしたら?
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1095.html
雑多な関心事に口を挟むところが小林と似てるかも。
たぶん安吾で一番有名なのは、「堕落論」。 安吾を「発掘」してきたとはすごいな。
まさに醍醐味にあふれる「作業」でしたろう。敬礼! >>819
堕落論や日本文化私観は文庫の売れ筋ランキング常連のロングセラー。
小林のことを書いた「教祖の文学」も超有名(堕落論に収録されているし)。 >>825
「教祖の文学」は、もっとも優れた小林秀雄論であるとともに、第一級の文学論でもあるね。
安吾の炯眼に感服する。 評論っていうより随筆でしょ、ほとんど。
戯文というか。
安吾は文章力が確かなのと、サービス精神が旺盛なので随筆類が今でも
面白く読め、若い読者も多いようです。
ただ、安吾の本領は圧倒的に小説にあるのに、小説は未熟な読者には
やや敷居が高く、かえって手すさびないし原稿料かせぎで書いた随筆の
ほうが読まれてしまう。
太宰がうらやましいと草葉の陰で安吾さん、嘆いているかも。 「教祖の文学」が話題になった頃、安吾と小林が対談してるんだよね。
これが面白いというかつまんないというか、仲良くやっている(笑 >>817
新潮文庫の「堕落論」でいいんじゃない。 >>829
あの対談。こういう瞬間あったよね。
坂口:結局あんたは文学の問題から逃げて美術や音楽の方に行ったんだよ。
小林:何言ってやがる!
坂口の歯に衣着せぬ物言いが本領発揮した対談だったね。 その対談、僕OCRで文字起こしして、当時は一般的でなかったtext to speechのソフトを使って音声ファイルを作って文学板にアップしたことある。「伝統と反逆」 >>831
まあ、自分が読んだものだけの知識しかないんだから、それはそれでいいんじゃない(笑 >>835
入門編として最適やんけ?安価で手に入りやすいしさ。他にベターな選択肢あるなら出してくれ。 ちなみに「何言ってやがる!」は確かにそういう文脈だけど、「だから純粋じゃないと言うんだ」という安吾の発言に対してですね。 下らないレスしてないで、>>836にもアンカー付ければいいのに。 >>842
くだらないのはお前だよ。
麻薬礼賛の犯罪者予備軍。
それとも、もう前科があるのか? 反論できなくなるとヒステリー起こすんだよな。やれやれだわ。 >>844
お前が麻薬礼賛の反論でもすればいいんじゃね?
通報しといてやるよw >>846
麻薬の話を逸らしたくて必死だなw
お前みたいな麻薬礼賛者が相手にされると思ってるのか?
麻薬礼賛のクズは消えろ。 麻薬を無条件で礼賛してないし、スレ違いの話題で絡んでんのお前じゃん。 麻薬を必要以上に美しく書くのも、必要以上に醜く書くのも間違ってるね。でも、この話まったく小林秀雄と関係ないよな(笑)小林秀雄が褒めている坂口安吾の文章(>>832 )に普通に「ヒロポン」が出てくるのはご愛嬌だけど(笑) >>850>>851
麻薬撲滅に条件は不要。
麻薬礼賛者はどう言い訳しようが醜い。
麻薬を礼賛する社会の害悪は、消えろ。 >>853
だから礼賛してないって。日本語読めるの? >>854
条件付きで麻薬を礼賛してると書いたのは、お前自身だ。
必要な範囲で麻薬を美化すると書いたのも、お前。 酒、煙草、珈琲、紅茶
なんかもグレイゾーンだね。
だから、麻薬ってのは、単なる名称に過ぎないんだよ。
ルールを作って規制してるだけ。
有害か無害かは、個人の特性による。
俺んちは三代にわたってヘビーなスモーカーだけど、癌にかかったのはいない。
まあ、それと規則を守るかどうか、ってのは別の話。
法律で規制されているなら従うのがまともな人間のすること。 >>855
まあ、医学的な意味で価値があるものもあると思うよ。医療用大麻だってそうだし、海外ではPTSDの治療にドラッグが用いられる事もある。そういう認識はそもそも「礼賛」じゃないでしょ。あなたの言葉を引用して「無条件で礼賛してない」って言っただけでさ。 >>857
お前は素人なんだから医学を騙るな。
お前は麻薬を否定しない社会の害悪。 だから「麻薬と文学」みたいな話がどうしてもしたいなら、>>848でやろうよ。 >>859
麻薬と文学など関係ない。
社会の害悪、麻薬礼賛者は消えろ。 タバコも麻薬の仲間に入れて発売禁止にしたらいいと思う。
財務省の大馬鹿は税収しか目にはいらない。
国民の健康なんてどうでもいいと思ってる。 わかったから、雑談スレでやろうよ。小林秀雄と関係ないでしょ。 麻薬は社会の害悪。
それを認めない奴は、徹底的に非難されなければならない。 じゃあドラッグを題材にして文学作品を書いたバロウズは徹底的に非難されてるの? いや、日本語でまともに会話できない人がインターネット掲示板に偉そうな意見を書く方が間違ってると思うよ。端的に言って10年早いだろ。 麻薬礼賛者の言い訳は見苦しい。
まさか、麻薬の常習者じゃないだろうな? だから、僕は麻薬やってないよ。それもスレ違いだから是非も含めて>>848で議論しようって言ってるじゃん。君のやってる事はどう見ても荒らしなんだって。 >>872
ほっとけ、そいつは文体の話でもしょうもない絡みをしていた脳に欠陥があるカスだから。 >>874
お前はPコテの仲間か?
Pコテの仲間には、麻薬常習者がいるんだってな。
まだ捕まってないのか? >>877
麻薬常習者の友達なんて一人もいないよ。デマ流すなアホ。 >>878
自分で書いてたんだから隠すなよ。
オフ会のメンバーに麻薬経験者だけど尊敬してる人がいるとか書いてただろ?
誰かが、お前が他のスレで自分も犯罪の経験があるとか書いたことも発掘してた。
なにがデマだ? >>880
麻薬礼賛者はカスだが、ほっとくわけにはいかない。
麻薬は、社会から葬り去るべきもの。 >>881
お前の脳内では「常習者」=「経験者」なのかよ。どうなっちゃってんだよ?(笑) このスレ、麻薬中毒者に変更した方がいいんじゃないか >>883
常習じゃなきゃいいとでも思ってるのかよw
麻薬に関しては、常習も経験も同じだ。
お前は自分で書いたことを覚えておけ。
麻薬犯罪者はもちろん、麻薬を擁護する奴も社会の敵だ。 新説いただきました。
「麻薬に関しては、常習も経験も同じだ」 草吸った事ある人はどうなんの?街でボブ・マーリーがかかったら、お前は不快になるの? >>887>>888
麻薬及び向精神薬取締法
何人も、輸入し、輸出し、製造し、製剤し、小分けし、譲り渡し、譲り受け、交付し、施用し、所持し、又は廃棄してはならない。
未遂罪は、罰する。
常習も経験も同じ。 >>889
それ>>888に対する答えになってない笑笑笑 大麻取締法
大麻取扱者でなければ大麻を所持し、栽培し、譲り受け、譲り渡し、又は研究のため使用してはならない。
未遂罪は、罰する。 それが答えになってると思っているとしたら、本当にすごい。悪い意味で。 小林秀雄の話を雑談スレでずっとしてたけど、流れが早すぎるので誰も読んでいないだろう。 分断というものがカッコとしてあった時代の仲間褒めででっちあげられた人です
昔の分団はひどかったらしいね、川端なんか寝たきりで体調悪いかみさんのところに深田の原稿
頼みに行って、体は気遣っても告発しようとは全然思わなかったらしいから、
小林も同じ、今の梨園みたいな閉鎖的な世界だった 井伏は初期の段階で小林秀雄に賞賛されてたらしいよ。 いかに井伏が文章家として素晴らしいか、というような事を真剣に書いていた気がする。 これがそれである。
https://www.amazon.co.jp/直観を磨くもの-小林秀雄対話集-新潮文庫-小林-秀雄/dp/4101007098 これが入ってないなんて
小林秀雄と坂口安吾の対談「伝統と反逆」
https://imgur.com/gallery/II1d7 >>907>>908
教えてくれたのに、読みもしないでケチをつけるとか、どういう神経なんだろう?
個人的には対話集はとてもつまらなかったし、安吾も薬やって競輪に発狂するような異常性を差し引けば、ただの進歩親父だ。
人の好みはそれぞれだけど、読まずに自己宣伝はいただけない。 被りがありそうだね。永井龍男、河上徹太郎、大岡昇平との対談は同じものが収録されてるの? >>910
同じものではないね。
・『小林秀雄対話集』(講談社)
永井龍男×小林秀雄「批評について」昭和29年NHK教養大学(ラジオ放送と
思われる)
河上徹太郎×小林秀雄「美の行脚」『芸術新潮』(新潮社 昭和30年4月号)
大岡昇平×小林秀雄「現代文学とは何か」『文学界』(文芸春秋)
昭和26年6月号
・『直観を磨くもの』(新潮文庫)
永井龍男×小林秀雄「芸について」『婦人公論』(中央公論社
昭和42年4月)
河上徹太郎×小林秀雄「歴史について」『文学界』(文芸春秋
昭和54年11月)
大岡昇平×小林秀雄「文学の40年」『日本の文学 43 小林秀雄』
(月報 中央公論社 昭和40年11月) 911つづき
ちなみに『小林秀雄対話集』(講談社)は本の背帯に「自選全一巻」
と書いてある。小林自身が選んだ対談という意味。『直観を磨くもの』
(新潮文庫)は前者に載って居ないものから新潮社が選んだものでしょう。
また前者における坂口安吾との対談では坂口の「教祖の文学」の後に
企画された対談であり、坂口に拠る小林批判が激しかった頃のもの。
坂口からは戦後の小林の重要な特徴についても批判されている。小林が戦後、
画家や音楽家へ批評を拡げた事にかんして「あんたは文学でやらなきゃ」
「純粋じゃないんだよ」と云われ「何云ってやがる!」と激高する場面が
ある。
坂口「小林さんはモオツァルトは書いたけど音楽を知らんよ」(小林は
文学者としてモオツァルトを書いたのではないと言う意味)
小林「(知らないことにぶつかって)冒険することは面白いことだ」
坂口「詰まらないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつ
かるのが険しい道だと思ってる」 912つづき
坂口「一番間違っているのはこういうことだと思うんだよ。文学の批評の
専門家だからね。その専門以外のものに未知であるがゆえに惹かれているん
だろうと思うんだよ」
小林「無論そうだ。未知だから惹かれる」
坂口「だから純粋じゃないと言うんだ」
小林「何言ってやがる!」
坂口「小林さんは弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、
どっちかですよ。小林さんは中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は
芸術すべてがクリティックだという気概が小林さんにはなくなったんじゃ
ないかという気がするんだよ」
坂口のここでの批判は戦後の小林の根幹に触れている。その意味で貴重
だし、自選対談集にこれを入れた小林もここでの坂口に感心していた
からこそ自選対談集に入れたのではと俺には思える。 >>914
どういたしまして。お役に立ったなら何よりです♪ 2017年になってから書き込みが無いな
ってことで若干今更問をあえて
小林秀雄は実際の所何が凄くて、何が唯一無二だったのだろう?
そして何故今も新刊が出るのか?本当に今も若い人に読まれているのか? セクハラの親父の本なんて読まないでカイエでも読んでなさい。
女子は女子モノ男子のモノなら
同い年か年下の男性のなんかを読むといいよ女性は。
男子は年増女性ばかりでOK。年寄り男性もものちょっとは。
年下の本は読まないこと。 性差 歳の差を考ええて 本によるセクハラをされないようにね。 「様々なる意匠」において小林は《バルザックは己のあるがままを写さん
として「人間喜劇」を書き、マルクスは同様に書いた。何ら異なることはない。
ただ二人は己の異なる宿命を生きたに過ぎない》と述べている。
小林が〈宿命〉と云う時にそれは芸術家のみにいう概念ではなく理論家や
哲学者についても云っている。これは甚だ異様な認識でありこういう
ことを云う人は少ない。「マルクスはただ客観的に書いた。主観ではない」
が多くのマルクス読者の認識だろう。しかしそこに小林は与して居ない。
たとえば宮台真司などはここ2年くらい、〈終わりなき日常の終わらなさ〉
を例証する試みとして小林の「様々なる意匠」を
引き合いに出し、《日本ではあらゆる言説はモード化される。小林の
「様々なる意匠」と同じ》と問題化する。のみならず宮台は現在日本に
蔓延するポストモダン化として、《あらゆる超越的言説が〈自己の問題〉に
変換され脱臼させられる。「こう言う奴が自分が面白くないから云ってる
だけ」になる》とも述べている。
しかし実は「様々なる意匠」とは、「こういう奴が言っている」的な
理論と主観の問題は最初から考慮に入れ、むしろ言説と宿命の相関とし、
むしろ、だからといってそこで為されていく研究が無であるわけではなく、
また主観に還元されてしまうわけではない、ただマルクスは「己のあるがまま
」を書いたに過ぎないとする。
つまり宮台が言う意味での「ポストモダン」は小林においては最初から
考慮に入れられている。また、だからといって研究や理論が無に帰すわけ
ではないことも前提されている。小林のいう〈宿命〉という概念の意味
を宮台は読めては居なかった。
今になって上記のことを言いだし〈終わりなき日常の終わらなさ〉だと
する宮台よりも、テキストとは何かという問いに於いて、当時の小林の
方がよほど徹底して考え抜いていると云わなければならない。 821つづき
再論すれば。「様々なる意匠」が日本と云う風土における「あらゆる超越的
言説のモード化」を訴えたのではないということ、言説における宿命の介在を
考慮し、己の批評をそこに据えることを表明したものであること。すなわち
言説には必ずや分野の系譜史と発話者の体現する個体史(血球の流れ)が
介在するということ。これがあの時点での「様々なる意匠」が表明すること
である。
ここで宮台の批評の方法に言及すれば。リアリティを微分し概念化
することで宮台の批評は成り立つが、そこに系譜学はあっても〈個体の体現
する血球の流れ〉という視線はない。宮台の大きな批評『サブカルチャー神
話解体』にしてからがサブカル系譜学ではあるが、表現を考える上での
もう一つの柱である〈自己史〉という概念は巧妙に奪胎してある。ただ
社会において他者とコミュニケートする点としての〈私〉が設定されている
のみに過ぎない。しかしそれは自意識としても存在し自己内で対話する
〈自己〉ではない。
これは何故宮台の批評の特徴であるが、60-70年代現代思想の継承点でも
ある。同時に彼の批評をどこか胡散臭くもさせている点である。何故なら
個体史をまったく奪胎して人間を歴史を語り得るとは俺には思えないから
である。 >>922
失礼。
>821つづき
ではなく921つづきです。よろしく。 小林秀雄がね、とうまを…
ん?とうま?たいまだろ
いや、麻薬じゃないんだよ、能の話
だから、たいまだろって…
わかんねーやつだな!
どっちが! >>925
能では「たえま」と言われてるんだってね。
誰と誰の言い合いか知らないけど、ふたりとも違うみたいだ。 とうま、はダメだけど、たいま、はありでしょ。
たえま、か、たいま、どちらか。
ちなみに、中央公論ではたいま
新潮文庫ではたえま
たぶん小林は、当該文章から、当麻寺(たいまでら)を重く見たんだろうね。 >>927
能の作品としては、「たえま」。
当麻寺の読み方が新しいだけだろう。
「たいま」でいいなら、「とうま」でもいいことになる。
「たいま」が小林の発言、表記であるなら、文化人としての底の浅さかな? >>928
>「たいま」でいいなら、「とうま」でもいいことになる。
とうまでら、じゃなくて、たいまでら、だから、とうまでもいい、ってことにはならんでしょう。
それから、とうまでら、は7世紀創建
能のとうま、はとうまでら、に取材しているわけだから、寺を主に考えるのはあたりまえ。
そもそも、能って言葉は、猿楽が転じて江戸時代にできた言葉だから、とうまでらよりあたらしいのが能のほう。
小林を底の浅いとか(笑 >>929
当麻寺の読みは関係ないよ。
世阿弥に近い読み方が、現代まで続いているのが「たえま」。
あくまでも、能でどう読むかということが文化としての知識。
当麻寺の読みにしても、呉音であれば「とうめ」、漢音なら「とうば」、慣用的にはどちらでも「とうま」と読むようだ。
建立当時から「たいま」と読まれていたかどうかも、実はわからない。
だから、「たいま」でも「とうま」でも同じだといってる。 >>931
作者がつけたタイトルを否定してどうするんだよw >>933
>麻薬じゃないんだよ、能の話
能の話だから、「たえま」だろ? >>933
もしかしたら、文庫には「当麻」に「たえま」とルビがふってあることをいってるのか?
ルビは編集者が付けただけで、小林は知らないのかもしれないぞ? >>935
新潮と中央公論でルビが違っている
出版前にゲラは読む
つまり、たいまでもたえまでもどっちでもいい
ってこと。
憶測書いて何か意味あんのか? >>936
なにが憶測?
能では、「たえま」しか読みはないんだよ。
能の話をするなら、「たえま」。
麻薬の話じゃないからw >>938
まるで意味がわからないんだが、なにをごまかしてると?
ルビの話?
出版社によってルビが違うのは、どちらも、そのルビを小林本人が指定した可能性がとても低い、ということだぞ?
>>925の会話から判断する限り、この二人は能のことを話していながら、能の「当麻」の読み方を知らなかった。
小林は、「当麻」の感想を書いていながら、「当麻」の読みすら指定していない。
「俺には俺に読み方がある」というなら、その読み方のルビを指定しただろう。
読み方などに関心がないのか、うろ覚えのまま確かめなかったのか、中央公論の編集者が手を抜いたのか、どれであっても、小林の読み方の正当性を見出すことはできない。
なにが言いたいの? >>939
小林が出稿ゲラを読まなかった、なんて証拠でもあるの? >>940
読んでいるなら、ルビが二種類あるのはどう説明する?
あの小林秀雄が、どっちでもいいから両方とも了承している、と?
それこそ意味不明だろ?
そんなことより、>>938は、どういう意味? 新潮の直観を磨くもの面白い
湯川さんの話は少し難しいけど しかし、2chは過疎ってるなあ…。
はやっているのはニュースくらいなのでは?
昨日、2chのコンテンツを整形しているサイトにぶち当たったけど、
こぎれいにまとめる精力を、コンテンツそのものの向上にあてるべきだろう。
入れ物がよくなっても、中身が運子じゃ近寄らんわな。
最近、レスがツイッタの挨拶みたいに空虚になっている。
レス伸ばすのも一文字ですますとか。
充実してるのはNG文字くらいか(笑
黒丸二つ書いたら警告とか、有りえね〜馬鹿さ加減。
もう2chも終わりかな。 文学評論なんて架空のフィクションに近いから、
フィクション世代だよな。ノンフィクションの方が割と好きだ。
イスラム世界とか。 「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患
者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。(中略)その為に僕等の空費した時間は莫
大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したので
ある。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。
何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭
を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比
類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。そ
れは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つ
たりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。
僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子そのこ(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。
強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹いぶきを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
こんなのもあるよ。
文章としては、こっちの方がずっと上手い。 http://goo.gl/RQMz9Z
私はフランツ・カフカも海辺のカフカも好きなもので、このカフカと名乗る青年実業家の始めたビジネスに妙な縁を感じ、彼のビジネスパートナーとなりました。
結果、今ではいつでも好きな場所で生活できる経済力と、自由な時間を手に入れました。最初のインスピレーションを信じることって結構大事なんだな、と思いました。
文学好きの皆さん。
ハワイのビーチでピニャ コラーダを飲みながら、あるいは雪深い山奥の別荘で暖炉の火に照らされながら、思う存分読書に耽りたいと思いませんか?
このビジネスで結果を出せば、そんな生活が夢ではなくなります。 酒を飲んでクダを巻いて、声がでかければ勝ち。
小林が酒を飲みだすと、知識人はすぐ恐れ入っちゃうw こないだたまたま小林の声初めて聞いたけどなんか意外だったな… 新潮文庫版の「学生との対話」を読むと
物質が精神に影響を及ぼすことはない、と断言して
学生から「本当にそんなことはあるんですか?」と突っ込まれて
慌てていたけどね
いや、私が言ったのはベルクソン流の心理主義に基づく唯物論批判であって
君はベルクソンを読んでいないのか?読みたまえ!
と言い逃れていた
これに限らず「精神」「魂」「物自体」といった
哲学用語の使い方や理解がけっこう適当
そういうことを突っ込まれても反省が無いからね
この人と議論しても無益だね
まあ、喧嘩は上手いんだけど
ただ、それだけ 昔のやりかたを踏襲することはない。だけど武器も消費しないと
いけないなんて行動律あるのかなあ? レベルがひくいな
。東大は。四国にあった東大の方がいいんじゃないの。本物そう。 帝みかどレベルだけのこして、インフラ出版出世止めさせた方が。 >>953
小林に論理も知性もないのは確かだが、「哲学用語」なるものがあると思うのもどうかと思う。
「精神」も「魂」も「物自体」も、なにか厳密な概念規定があるわけではない。
だから「哲学」からの反論もできなかったし、小林もベルクソンの恣意的で感情的に利用することもできた。
ちなみに、小林の強い影響を受けながら、その無限定さを徹底的に否定しようとしたのが吉本隆明。 >>960
>「精神」も「魂」も「物自体」も、なにか厳密な概念規定があるわけではない。
まあ、そうだともいえるし
それゆえ「物自体」とはなにか?とアディケスあたりが問題視をしている
カントは形而上学批判にあたってはまず「物」や「空間」を証明し
これによって世界を可知と不可知の領域に分割したうえで
可知の領域のみを論理によって把捉し得るとしている
これがカントの悟性哲学の基本方針
しかし、これは形而上学を棚上げしただけで
時間や認識活動の持続性についてのきちんとした解答は出していない
このあたりがベルクソンによるカント批判の中心なのだけど
全集を読破したと豪語するわりにはきちんと読みこなしてはいない
それと小林は形而上に属するであろう「精神」と「魂」が混同
する形で使用されていている
たとえば哲学界隈ではウイリアム・ジェイムズが
どうやらベルクソンは諸個人の実在をこえたところに「精神」を設定しているようだ
とベルクソン哲学の宗教的傾向に疑問符を呈しているのだけど
この種の問題点を小林は「魂」と混同する形で認めてしまっている
つまり神秘主義あるいは形而上学としてベルクソンを評価しているわけだ
批評家以前に読書人としての基本的読解力があるかどうかも疑われるレベル 「哲学にいちばん欠けているのは正確さである。哲学の諸体系は私たちが生きている現実の寸法に合っていない。現実よりも大きすぎるのである。」
(ベルクソン『思考と動き』序論第一部 原章二訳)
訳者による言い回しだけど、まるで小林の文章みたい。
でも、小林の批評に対する批判として、そのまま通用してしまいそうだ。
小林の場合は、「現実よりも大きすぎる」のではなく、現実よりも小さすぎるというべきだが。
もっとも、ベルクソン自身が正確に現実を捉えていたかといえば、それはそれで大きな疑問だ。
小林がベルクソンに傾倒したのは、その不正確さと現実乖離の故ではないのかと、揶揄したくなってしまう。 小林くらい頭のいいやつはいないよ。純粋な頭の良さを初めて金に換えた野郎なんだよ 小林が何で食ってたかってのは今も謎のままだって吉本隆明が言ってた。パトロンがいたんだろうと思うよ。それでいいじゃん ベルクソンって読んでて眠くなるくらい真っ当
論理的飛躍を凄んで誤魔化す誰かとは違う 色々批判も書かれているが、にもかかわらず死後数十年経過した現在でも読める、しかも
多大な刺激がある、それはレトリックも含めてだが、そういう批評家として君臨しているのも
確かである。
やはり初期の代表作である「様々なる意匠」、「批評の科学性について」、「マルクスの悟達」
などを読み返すと、〈作家の宿命〉〈血球に流れ〉という批評概念にせよ、〈マルクスもバルザ
ックもただありのままに書いた〉というレトリックにせよ、考えこませる力があるし、彼の全集が
年月を経て何回も再編集されていくというのは必然だしそれだけの力と才能を感じさせるね。
個人的には三島由紀夫が自決した翌年初頭に出た『新潮臨時増刊 三島由紀夫読本』に
書かれた「感想」が好きだね。三島の死について書かれているんだが、初期の「様々なる意匠」
で宣言した〈作家の宿命〉〈血球の流れ〉という概念を語彙を変えてそのまま三島の死に
当て嵌めている。「三島さんは反省的意識にかけては大家だっただろうが、あの人にとって
も、自分自身が透明だった筈はないだろう。やはり運命といった暗い力と一緒にいたのだよ」
という言い回し。これは「様々なる意匠」における批評宣言の焼きまわしであり、あの批評
の根底にあった作家への眼差しが、三島の死という事件に際して、改めて甦った、
独自な視線がある。そして三島の死に際した書かれた幾多の文章の中でも小林の
「感想」は、政治的な問題には一切触れずただ、三島という現存在に照明をあてたもの
として、その一点で書いたものとして、彼にしか書けなかったこれも名文だと思う。 たとえば岡潔との対談で時間概念を物理的時間と社会的時間に分けて
ベルクソンの時間概念は後者の方だ、と弁護していたけれどそれは違うね
ベルクソンはカントの空間の実在→人間の認識装置の制約→論証性
という論立てに対して
視覚中心の空間認識に依存していると批判しているわけだから
とうぜん物理学的批判も引き受けざるを得ない
だからアインシュタインの批判に対して自説をひっこめたと思うけどね
小林のように時間を歴史に、歴史を個人の思い出に、個人の思い出を心に
心を魂や神にスライドしていくようなトンデモ議論じゃないんだよ
それでこの神様もパスカルの唯一絶対神の話をしていたかと思えば
宣長風の八百万の神という風にコロコロ変わり
そのくせ湯川秀樹が非局所性の議論で空間の不安定さを指摘したら
「ニヒリズムだ」「虚無だ」と的外れなことを言い出す
この人の若い頃の小説は狂気と隣接したようなところがあるのだけど
それは若い頃だけの話では無いと思う
しかしその狂気はフロイト的なヒステリー気質のものに過ぎないような気もする 小林は簡単なことを文章をひねくり回して難解な文章にしてたタダのオッサン >>968
ほんとうに小さな思い付きを培養して文章化する能力と、無意味なことを考え続ける能力というのは、他の追随を許さない。
否定してるんじゃなくて、それが人間の精神というものだ、という意味なんだが。 小林か、僕はあまり読んでないけど、東大、京大とかの出版物が多すぎることと
関係のあることをあさってみないとなあ。 最近、小林秀雄の「歴史について」が妙なところで影響を与えているのを視た。小林の「歴史
について」は読んだ方にはお分かりのように、「一度起こってしまったことは二度と取り返し
はつかぬ」というところにポイントを置いている。歴史は二度と帰らぬということである。
これがどうもハイデッガーの本来的存在了解のことだと思いこんでいる研究者を視た。彼は
こう書いている。
《今も見たように、存在者の存在は、元来、周囲の存在者との関係の内にはめ込まれ、また
そのようなものとして、周囲の状況に応じて刻一刻と変化する。しかし他方で、われわれは
存在者をそうした関係性から切り離し、実体化して捉えてしまうという避けがたい傾向を
持っている。これが存在了解という観点から捉えた場合の、本来性と非本来性それぞれの
意味なのだが、》
このテキストは2017年7月に出た「ハイデガー『存在と時間』入門」(轟孝夫 講談社現代
新書)という本の48頁で、この研究者の言によれば、存在者を周囲の状況との移り変わる
時間と切り離してそれだけを捉えることが頽落的な存在了解、そうでなく周囲の状況と
ひとつになった、一回性のことと捉えるのが本来的な存在了解だとしている。
実はハイデッガーのいう本来性の問いにこのような議論が入ってくることはなく、負い目
の中で良心の呼び声に応え自己の経歴から見出す自立的自己-性、「善きもの」、没-交渉的
存在が本来性である。
この研究者はどういうわけか、小林秀雄の歴史意識を本来的存在了解だと捉えて書いて
しまっている。
ハイデッガーのテキストから読みとれなくて苦慮した結果こういうところに助けを求めた
のか、誤った連結をしてくれている。
たしかに木田元などがハイデッガーと小林秀雄の思想的酷似について話してもいるが、
だからといってテキストにもない連結をしていいわけではない。しかし、小林の「歴史について
」がこういうところに現出して、たとえ誤読というか誤連結にせよ、ハイデッガー読解に使用
されているのが興味深くもあった。 国立連合より相手への待遇が先。学歴は夜の世界でカモられろよ。 国立の書体も信仰を吸うからもっと書き直し編みなおした方がいいよ。 救済の書見たいのが若いうちは多いじゃん。変死した作家とか。 講談社といえば群像、群像といえば柄谷行人。
柄谷行人といえば、関係性の中にある個=単独性、とした人。
その研究者は、柄谷行人の単独性の線で、ハイデガーのいう存在そのものを読んだ、ということじゃないか。 >>978
柄谷の影響があると言われればそう感じるところもあるね。もともと『探究U』
のなかで小林の「歴史について」を引用もし、意識してみせているしね。
単独性は関係性の中でというより、関係の非対称性として、というほうが
適っているのではないかな。「教える-学ぶ」における関係。 小林秀雄 美しい花2017/12/8 若松英輔
新しい小説のために2017/10/26佐々木 敦
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震災後の日本で戦争を引きうける: 吉本隆明『共同幻想論』を読み直す (いま読む!名著)2017/2/15田中和生
批評の熱度 体験的吉本隆明論2017/1/20大井浩一
吉本隆明と『共同幻想論』2016/12/20山本哲士
吉本隆明という「共同幻想」 (ちくま文庫)2016/12/22呉智英
吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書)2016/9/12合田正人
中沢新一と吉本隆明―亡きグルのためのパヴァーヌ2016/9/1土井淑平
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吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書)2016/9/12合田正人
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吉本隆明の言葉と「望みなきとき」のわたしたち (飢餓陣営叢書)2012/9/14瀬尾育生、 佐藤幹夫
原発と御用学者―湯川秀樹から吉本隆明まで― (さんいちブックレット008)2012/9/6土井淑平、 TETSUYA
吉本隆明の帰郷2012/8/25石関善治郎
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「語る人」吉本隆明の一念2012/7/19松崎之貞
宿業の思想を超えて―吉本隆明の親鸞 (Psycho Critique)2012/7/1芹沢俊介
次の時代のための吉本隆明の読み方 (飢餓陣営叢書)2012/5/29村瀬学 ランボーの翻訳が小林の最高傑作だろう
「もう秋か。―それにしても、何故に、永遠の太陽を惜むのか、
俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、
―季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。」 >>984
この詩は知らないんだけど、つまらない詩だねw >>985
そもそもお前に詩がわかるとは思えないんだがw >>986
ごめんごめんw
どこがいいのか教えてよ。 韻文の翻訳って難しいよな。
俺もどこがいいのかわからんw 詩の良さがさっぱりわからない人間が大半だろうね
小説的な物語の面白さしかわからない人が >>991
詩は感じるものだから、教えてわかるものではない
お前には無理だから、理解しなくてよろしい この俺、嘗ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思つた俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。 韻文を翻訳で読んで
わかるもわからんもないだろ
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