383つづき

 とこう書いてしまえば「小林など読む価値ない」と言いたがっているかの
ようだがそうではなく、しかし俺などが一時期「いいな」と思っていた
ほどのものは実は小林にはなかったと、今さらのように気が付きだした。
俺の誤読もあった。こうまでテキストの中で停滞した「常識」に留まっている
批評家だとは正直気がつかなかった。

 小林の戦前書いてる「文芸批評の科学性」についても、前レスに書いた
ようにお得意の言葉の魔術で纏め上げて、あれで吉本の『言語にとって
美とは何か』の意義が決まるとでも思う人間がいたとしたら苦笑する
しかなくなる。小林は言い換えればそこでも「ありのまま」に留まり
新しい基準が構築され得る可能性を放棄する。そこでも「悟達」しちゃって
るわけだwこれはいま読み返すと到底頷けるもんじゃない。というか、
こういう姿勢に留まっていること自体はもう吉本の論考で「読むことの
一段階」として位置づけされている。無論そこに留まることも「読むこと」
としてはありだ。「俺にはこの作品はこうなんだ。それで十分だ」に
留まることはありだ。自己の感覚にあくまでも拘ることはありだ。それを
吉本が否定するわけじゃない。しかしそこに留まらないことも可能だという
ことを吉本は示してみせたと思っている。そこが小林の批評から出発しな
がら吉本が到達してみせた力業であって、「小林秀雄とは違う批評は可能か」
をそこでやり切ったと俺には見える。