【漱石】「坊ちゃん」を改めて考える【ごめん】 [無断転載禁止]©2ch.net
坊ちゃんはよく分からん。
DJあおるが言ってる様に文学的価値は低いような気がする。
http://tinpoji.blogo.jp/archives/6758258.html
そもそも清はいるの? キヨは坊っちゃんを甘ったれにした張本人。万死に値する。 >>4
普通の小説のように読んでるんだけど
いまいち良さが分からない。
だって坊ちゃんって物語に変化がなくて、
終わった後も「え?終わり?」って気分になる。
教師に向いていなかった男が、赴任先でそれを思い知らされる話としか受け取れない。
坊ちゃんを最初読み終わった時どう思った?
>>5
wik見たら漱石の研究本めちゃ出してるw
機会があったら読んでみるわ。 我が輩も坊ちゃんも娯楽作品だろ
テレビの学園ドラマと同じじゃん 会社勤めをしたことのない人間には絶対理解できない物語、それが「坊っちゃん」 石原千秋という、頭の悪い人の本を頭の良い人は読んじゃいけない。 >>8
サラリーマンだと坊ちゃんの行為にスカッとするのか?
>>9
経歴見たら成城大学出てた!かしこいじゃん! 坊ちゃんのろくでもない軽薄さがわかるようになれば面白いですよ
志賀直哉の「正義派」もすすめておこう >>11
ろくでもない軽薄さ?
山嵐と坊ちゃんが善で、赤シャツが悪って感覚で読んでたけど
そもそもそれが間違いだったのかな。
正義派のあらすじ見たけど面白そうだ。
ラストどうなるか気になる。 今の日本は正直物が損をする愚かな国に成り下がってしまったしな。
今や坊ちゃんは痛快でもなんでもない、オロカモノそのもの。
この国はどこまで沈むのだろうか???
俺には興味の無いことではあるが。 >>14
坊ちゃんはかの時代も愚か者だったんじゃないのかな。
もし坊ちゃんのラストが赤シャツを追放して、
うらなりが幸せになったのなら痛快話として成り立つと思う。
でも、坊ちゃんは故郷に帰って教師を辞め、違う仕事をして終わりじゃ
やっぱり「?」になってしまう。 漱石は「猫」と「坊ちゃん」を読み込むだけで、偉大さがわかる。
「猫」は二版を含む古書、「坊ちゃん」は番町書房の復刻原稿を購入
し、愛読してます。
「坊ちゃん」の原稿の復刻は、文庫でも出てるのでおすすめ。
最後の一行で、清の墓が「小石川」→「小日向」・・・なんて、実筆で
読めて、感動もの。
今年になって、坊ちゃん列車製作
→http://i.imgur.com/t7d3tbO.jpg
マドンナも乗ってるよ。 本を読むのがメンドーな人へ。
原作とはかけ離れているが、昔の雰囲気の映画でもいかが!?
見たこと無い俳優たちだが・・・。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=Ygrhk4mJhXY 江戸っ子や旗本後家人の当時の気分というのは、実際こんなようだったの
だろうなあと思います。たんにオトナとコドモ時代の衝突を描いたと
いうだけでない、失われた時代や美徳価値観を懐かしむさびしいさびしい
心持ちがあらわれていて、読むたびにしみじみとしてしまう。
で、わかっているはずなのに最後は必ず泣く♪ 世の中が一新してしまって、幕臣の裔たる「おれ」を坊っちゃんと呼んで
旧時代の使用人の一途さで愛してくれるのは、広い世界に清ひとりしかありません。
新時代の教育界や社会にとって「俺」は、分別もなく見識もしらぬ
「生意気なる某」でしかない。
おそらく、おれは何も一新のために成り上がった人々の出たことを嘆いて
いるわけじゃない。服を着替えるように合理主義に模様替えして、今まで
馴染んでいたはずの情義や、旧弊にも確かにあったはずの美徳が、古いと
いうただそればかりのために愚かで馬鹿げたものみたいに棄てて顧みられない
ことへのやるせない怒りがあったのだと思う。
同時にコドモでもあったおれは、明治オトナ社会から一旦逃げ出して、
昔の日本の象徴たる清のもとへ逃げ帰ります。
そのご街鉄の技手となって明治社会で生活者として生きた俺が、最後に
清を看取ったとき、かれはまだ跳ねっ返りで融通の利かない江戸時代の
「坊っちゃん」だったでしょうか。私はそうは思わない。
ただ、守護者にして盟友だった清との別れは、どんなにか寂しく心細いもの
だったでしょう。自分を坊っちゃんと呼んで、愚かしくも無条件の愛情を
注いでくれる女性は、江戸時代に遅れること暫くにして、とうとうこの地上から
いなくなってしまったのですから。
物語は終わっても俺の生活はまだまだ続きます。いつか寿命の尽きて、
清のいる墓に入るその日まで、精神的に孤立無援な新時代をひとりで
生きなければならないのです。 サリンザーのらい麦畑で〜から着想をえてるんじゃないかな
偽善な大人に対してはき捨てるような主人公の独白調がなんか共通するものを感じる …それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。
どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。…
すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。…
いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。
卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。
そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
おれは単簡に当分うちは持たない。
田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。
あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と慰めてやった。…
清の事を話すのを忘れていた――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、
革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、
早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、
もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、
家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが
気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。
死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、
坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。
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墓ってのは血縁が大前提。他人を入れるのは夫婦関係にあるものだけ。
夫婦は二世の縁、と言って現世と来世の縁。
坊ちゃんってのは面白おかしいユーモア部分と有情諧謔の意味のユーモア部分が
輻輳して描かれている。有情のほうは上記のように一種のラブ・ストーリーだ。
昨今のように毎日売春婦もどきの露出を見せられてうんざりだけれど、例えば葉隠の
忍ぶ恋や、この坊ちゃんのような、恋とは言えないような沁みて来る関係もありうる。
愛とか恋が、ズッコンバッコンやるだけじゃ、犬猫と変わらん
九十夜から抜粋 このラストを読むと、わかっているのに最後の行を読んだ瞬間に
ドバーっと涙が出ます。新書版全集では、この段落がちょうど左下ピッタリで
終わってて、それが三巻の収録作品のケツなんですよね。涙をボタボタ落とし、
鼻をすすりながら本を閉じるので、この巻の解説をいつまでも読めない。
この全集を買って30年以上ですが、いまだに解説を読んでいない♪
次こそは読も…いやダメかもしんない。 愚劣の意味がわからないが、キミの言う、愚劣でない人間関係とはいかなるものかね。 ↑挨拶の意味もわからない子供は来るんじゃありません 坊ちゃんって短すぎるよね
もっといろんなエピソード詰め込んで3倍くらいにすれば読み応えあるのに
マドンナだって散々騒いでおいてワンシーンしか出てこないしw >>31
文学を含む「芸術」って奴は「何か感想を持つ」ンじゃなくて、「感じる」
だけで良いんだと思う。 お感じの無い奴は二度とタッチしなくて良い。
目や耳からの情報が脳(心)にビンビン響いて来る快感に身をゆだねる。
・・・これに尽きる。
漱石に関して言えば、文学的には「猫と坊ちゃん」が至高だと思われ
何度でも読みたくなる。
高校生くらいにでもなれば、当然猫や坊ちゃんは読んでいるって暗黙の了解でこころを読ませるのはありかも
知れないと思うんだけど、はじめて読むのがこころってのは、漱石を誤解させそうな気がする。 >>33
高校生じゃあー「猫、坊ちゃん」の面白さは無理でしょ。
ジュブナイルとか言って、コンサイス版を小中校生に読ませるのは無意味。
返って「もう読んだよ」となってしまって、勿体ない。
「心」でビンビン来る人は、スゲーなとは思うが残念な人生を歩むと思われる。
>>26や小生等は幸福だとも思う。 >>34
たしか猫は新聞連載。評判がよかったんで連載化したわけで。
明治の代物といっても、ムリってことはないでしょう。
ルビもふってあるものがあるんだし。 >>35
「猫」ハ 「ホトトギス」
昔は知らんが、戦後の17〜18才の脳みそじゃあ「猫、坊ちゃん」の描く
世界は想像出来ないと思う。
早熟なら可能性は有るが、これもその後の人生は不幸カモ。
高校生はクラブ活動でクタクタ、勉強は二の次が吉。
読書何ぞするのは凶。 36です。 連投スマソ。
小生19で大学生になり。 なんか本よまにゃー、とヘッセの文庫本を
薄い奴から始めて全部読んだ・・・が「ガラス玉演戯」でGIVE UP。
さっぱり分からんかった。
・・・で「猫、坊ちゃん」に出会い、初めて「この世が生きるカイのある物」と
感じられ、生きるのが楽しいと思えた。
あれが青年期だったと、後で分かった。 >>36
あ、そうだっか。ありがと。
読書の考え方なんだけど、基本的に面白いってことが重要だ。
自分にとっては面白いものもあればつまんないと思うものもある。
特に多作な作家だと、中にはつまらないと思うものがあるのはむしろ当然で、しょうがない。
漱石はあまりトーンが変わらないので、いくつか読んで見て面白いと思ったら、大体は当りになる気はする。 虎造「石松金比羅代参」で、三ヶ月の道中酒を飲むなというならこの使いは
わっちにゃつとまらないから断りますよと口返答した石松に、次郎長がカッとなり、
「生かしておいて為にならねえ。命はもらった。覚悟しろ!」と長脇差の
鞘を払うと、面白がった石松が唄いだします。
「親兄弟に見放され…てんだい、…赤の他人のお前はんの……てんだ♪
…乾分になったのはね、わっちはあんたに惚れて乾分になったんだ…」
落語講談浪曲を聞かなかったり、習い事をしなかったり、むかしのお話を
読まない人ってのは、この「赤の他人のお前はん」云々を知りません。
この続きは何なんだろう…とネットで探しても出てこないのではないかしら。
ところが、現代平成の若者でも、「猫」を読んでる人は、虎造のこれを
聞いただけで続きがわかる。赤の他人のおまはんに…
「かわいがらりょうはずもない」
これ、虎造好きな人でも意外に知らなかったりするんです。でも猫を読んだ
人はちゃんとわかる。
漱石だって役に立つことはあるんです♪ 浪曲は聞いたことがないけれど、
「親兄弟…」を聞いてあああれか、と思うなら、それは角兵衛を見たからだろう。
猫にはそのまんま引用されているから、「親兄弟…、とある以上は」と書かれて入れば、
ああ、なんらかの、周知されている、そういうフレーズが存在するのね、
ってことまでは、日本語が読めればわかるはず。
それで一応文字面の理解はできているわけだから、猫を読んだと言えるだろう。
歌舞伎や浄瑠璃の趣味がなくても、猫は楽しめるけれど、知っていると理解の巾が広がる(かも知れない。
助六を見た事があれば、駒子の台詞もああ、あれかと思うのと一緒だ。
伝統文化に接すると、外国もそうかも知れないけれど、奥行きや深みを感じざるを得ない。
だから伝統文化、特に日本の文化は多岐にわたっていて、すばらしいものがある。
まあ、漱石と同じ素養がなければ、以上のような意味で作品に肉薄できるはずもないわけだから、
学問とか向上って意味では、永遠に勉強だね。 >>33
調べたら、「こころ」が高校の教科書にのってた(今でも?)らしい。
文科省・出版社もアホとしか思えん。
もしかしたら、中学では「坊ちゃん」?
ウーーーーーーン。 国語、現代文の教科は無くても良いんじゃないのか?
なんか教えようとすると、漱石くらいしか無いんだろうナー。
小生の高校時代で記憶に残って居るのは、「漢文」。面白かった。(今でも漢詩好き)
少年期最終盤の「漢文」は時宜を得てると思う。 国語で文学作品、ってのは定番のような先入主があるけれど、
科学の啓蒙書や、産経新聞、八重山日報など、あまり赤くない新聞、通常出くわす日本語の文章、などを題材にする
のもいいかも知れない。
どうしても文学、と言うなら、
村上春樹は取り扱い説明書レベルに表現が浅い(無論いい意味で)から、ああいうのもいいかも知れない。
漱石、谷崎、三島、なんてのはレベルが高いヤツが読めばいいんで、未熟者に読ませても役にたたない。
まして、川端なんて、ほとんど無駄だろう。
太宰は自殺者を増やすから不可。 以下私見。
文学って奴は何がしか読者に感銘・人生指針を与える物と定義出来、
喜怒哀楽を含み、涙し、大声で笑える物で無くてはならん。
この意味で>>39 ,>>40氏の「浪曲(浪花節)」に近いものがある。
坊ちゃん以降(漱石の著作も含め)文学と言える著作物は「無い」と思う。
田山、谷崎、三島、太宰、芥川・・・・。 読む気もしない。
ヘッセもヘミングウェーも勘弁。 笑えそうに無いから!
海外物で今後長く残るのは、シェークスピアとマーク・トウェイン位だろう。
芥川賞、ノーベル文学賞・・いい加減辞めた方が良いと思う。
駄文小説の出版はやめろとは言わないが、学生さんには古典良書
が有る事を教えた方が良い。
国語じゃなく「文学」を! ・・・「現代文」は不要! 他者の視点から眺めて「人間一般」「存在あれこれ」に触れる、てのが
読物文芸をコドモに鑑賞させる値うちのひとつだと思うんです。
報道論説における正確さや、算術計算的の確実さとは少し違う
感覚的なぶぶんでの推論。
学習能力や社会的成熟度、国語能力の発達発揮はコドモそれぞれで
違うものですけれど、坊っちゃんのような一見単純合理的の青年と
学校世界のオトナたちというものがたり要素は、読解への意欲を引き出し
やすいのだろうなって気はしますね。
擬人化した身近な畜獣である猫というのも、まんがや寓話にふれて育った
コドモにとっては感情移入がしやすかろうと思われる。
わがこく人民の平均的なコドモたちが、全国教室でひとしく読むものとしては
ちょっと他を思いつかないくらいもってこいな材料だと思いますよ。