あなたはわしがたいへん楽しそうな顔をしておると言われたが、そう言っていただくほど、わしにとって嬉しいことはありませんわい。

なぜといって、人は幸福《しあわせ》のために創《つく》られた者ですからな。

じゃによって、本当に仕合わせな人は、『わしはこの世で神のおしえを果たした』という資格がある。

すべての正直な人、すべての聖徒、すべての殉教者は、みなことごとく幸福であったのですじゃ」

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こういったすばらしい言葉は、長老の教えの中に宝石のように散りばめられている

ところで、こうした思想は、宗派など関係ないと考える

21世紀東アジア日本に住む我々にとって、ロシア正教もジェスイットもないのである。
かの時代に生きたドストが、現実のカトリックを批判し、正教による救いを夢見たとしても、それは

思想哲学としての優劣とは関係がないのである

宗教において大事なのは、カラマにおいて語られていくように、『民衆から遊離しないこと』であり、現実の人間の苦悩の諸課題にたいして、信仰は防波堤になるべきものである

自分の頭の中で明晰な言葉と論理で語れないが、俺の言わんとすることを汲み取ってほしい