>>784
>ラスコリニコフは最後まで思想をかえずに自首する
>彼の思想では人殺しは罪にならない、もちろん罰もない

これは彼の思想では人殺しはsinにならないということで、crimeにならないことではない、ということ
彼は自分の人殺しが犯罪crimeであることは知っている、だからこそ隠蔽をする
crimeというのは社会が功利のために作り上げた法体系であり、「凡人が犯罪を起こさないために」必要なものである
なぜなら凡人による犯罪は社会全体の幸福を減らしてしまうからであり、非凡人は社会全体の幸福を増幅させるものである

この思想は、社会全体の厚生を「幸福関数」として捉える
スピノザ思想は善悪は存在しない、「関係を破壊するものを悪い」「関係を増進するものを良い」とこの二つしかない、と考えた
絶対的な善悪が存在しない「世界に尺度が存在しない」ならば、「良い」犯罪行為は存在する

しかしこの思想は間違っている、とひとまず断言してみる
ドストエフスキーはこの思想を、小説内で直接に否定していないからといって、彼が本当にそう考えていたと捉える必然性はない
(そんなことを彼が信じていたとは思わない、とも付け加えてみる)

この小説は神が存在していると信じられないからsinが存在せず、犯罪と刑罰しか存在しない、という冒頭の主人公の思想をそのまま正当化するものではない
にもかかわらず、罪sinが追いかけてくる
法律の外にいる主権者・決定者(シュミット的例外者)がかつてなく身近になった時代でもあり、しかしそれは否定する作家がドストエフスキーのたくさんの要素
共苦する、という特質は否定できない
ジェレミー・ベンサムは最大多数の幸福、ではなく「最少の苦痛と最大の幸福」「あらゆる生命体は同じ苦痛を覚える性質を持つ」という原則を持っていた
ラスコーリニコフは自分が知っていると思っていたベンサムの「苦痛」を自覚していく
ベンサムは決してラスコリニコフの犯罪を許さない
同じく、スピノザも許さない、許すと思われるのはベンサマイトとスピノツィストという、彼らから「共苦」と「神」を引っぺがした独りよがりの思想だけだ、と思う