> 重要なのは、神の秩序がなくなったところで「踏み越える」とは何を踏み越えるのか
> 連続するところには踏み越える線がない、しかしすでに踏み越えてしまっていること
> つねに踏み越えた線は後から自覚される
> 前もって罪と罰を提示するのが罪刑法定主義であり、なにをすればどのように罰せられるかを可視化するのがベンサム法学
> 悲劇においては常に「罪」は前もって提示されず、後から自覚される(罰を予想して罪を犯す人間は、小物なのだ)
> そこには苦痛の最小化によって一元化しようとするねがいが存在する
> 同性愛を擁護し、動物愛護を唱え、奴隷解放を唱え、しかしその根拠を決して神という「論理の誤謬」に頼らなかったベンサムはドストエフスキーに至極近い

「根拠を決して神という「論理の誤謬」に頼らなかったベンサムはドストエフスキーに至極近い」この一文がよくわからない。
おれはキリスト教徒でないから、キリスト教の唯一神やキリスト教的世界観をもちろん信じていない。しかし信仰の重要性は自明と思っている。
前にも引用した
「人類から不死の信仰を滅ぼしてしまったならば、人類の愛がたちどころに
枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けていくために必要な、
あらゆる生命力を失ってしまう。のみならず、その場合に不道徳というものは
全然なくなって、どんなことをしても許される、人肉嗜食《アンスロポファジイ》さえ
許されるようになるというのです。
まだ、そればかりではなく、現在のわれわれのように、神もおのれの不死をも信じない
各個人にとって、自然の道徳律がこれまでの宗教的なものは全然正反対になって、
悪行と言い得るほどの利己主義が人間に許されるのみならず、かえってそういう状態に
おいては避けることのできない、最も合理的なしかも高尚な行為としてすら認められるだろう、
という断定をもって結論とされたのであります。」