正直不快な書き込みというか無礼な(お前だの君だの弁明だの攻撃的な)書き込みが多いので、書き込みはやめます
ドストエフスキーとベンサムのフィクション論は、半世紀のずれがあるけれども同じ問題圏・問題意識に取り組んでいるゆえに少しだけ書いた

ドストエフスキーにあっては、神の不在・奇跡の不在は現実的実体(Name of real entities)を離れ、フィクション的実体(Name of fictitous entities)に移行している
神が存在しなくても、神を信じるという行為だけが残り、そこには対象は存在しない(しなくてもよい)
信じるという行為は「あらゆる生命力」や「人類の愛」や「許されないこと」を可能にする遂行的言語行為である
このgroundlessな神を汎神論やアニミズムとして矮小化することはたやすいが、ドストエフスキーの解決はそこにはない
ドストエフスキーの神はキリスト教ではない、ロシアの異教とまじりあった土着的神ではないか、などと言っても始まらない(しかしその指摘は重要である)
ドストエフスキーを読んで感動した日本人がおれも大地に口づけしよう、と思っても「これじゃない」感が否めないだろう
「ロシア人は確固としたキリスト教と大地を持っている、日本人は持っていないのだ・・・」などと嘆くのがせいぜいである
大地信仰を有するロシア人だけを対象としたそのような読解は愚かしい
ロシア人も確固としたgroundを失い、登場人物は一つの選択として大地母神信仰を選んだに過ぎない
カトリックでも、ロシア正教でも、仏教でもいいし、イスラム教であっても、無神論であってもいい