『魔の山』を一緒に読もう!
圓子修平訳では、シュテール夫人の言い間違いは「ショ毒」「助っ人」「鯉口(こいぐち)」になってるけどこの訳はかなり不自然。 圓子修平訳、ハンスとクロコフスキーが最初に会った場面。 "War er zum Schluß eigentlich beleidigt?" 「結局、ぼくは彼を侮辱したことになるのだろうか?」も言い過ぎだと思う。 「彼、むっとしたかな?」ぐらいかな。 【高橋訳】(上巻42頁) 結局ご機嫌をそこねたというところかな」 【「関・望月訳】(上巻39頁) けっきょくごきげんをそこねたってわけかね?」 【高橋訳】(上巻37頁) 「消毒」 ⇒ 「調毒」(ちょうどく) 「代診」 ⇒ 「代珍」(だいちん) 「短刀」 ⇒ 「短刃」(たんじん」 【関・望月訳】(上巻35頁) 「消毒」 ⇒ 「駆黴」(くばい) 「代診」 ⇒ 「代珍」(だいちん) 「短刀」 ⇒ 「短刃」(たんじん) 【関・望月訳】(上巻40頁) ところが、道ばたにイルティス夫人が尖ったイタチ顔をして坐って、 手になにか持っていた。 【高橋訳】(上巻44頁) ところが道端に狐のような顔をしたイルティス夫人が腰をおろして、 手に何やら持っている。 伊藤白の論文、ちょっと違うんじゃないのかね。 クラウディアは美人だと思うよ。 ハンスがクラウディアに嫌われたのは 「床下手」だったからかな? 柘榴は美味しかったと思う。 女性から見た美人じゃないのかもな 俺はカーチャみたいなエキゾチックな美人だと思ってる 【高橋訳】「メインヘール・ペーペルコルン(おわり)」 (下巻581頁) 滝の高さは七メートルあるいは八メートルぐらいあって、…… 【関・望月訳】「メインヘール・ペーペルコルン氏(むすび)」 (下巻483頁) 瀑布の高さはたぶん七メートルか八メートルほどで、…… 【H.T.Lowe-Porter訳】(VINTAGE CLASSICS) (619頁) ・・・・・・,perhaps nine or ten feet high,…… 【高橋訳】(下巻601頁) 上流ロシア人席のブルガリアの学生 【関・望月訳】(下巻498頁) 一流ロシア人席のブルガリアの学生 これらは 【高橋訳】(下巻424頁) ブルガリアの若い学者 【関・望月訳】(下巻358頁) ブルガリアの若い学者 と同一人物だと思う。 『魔の山』は 詳細な描写が前後で密接に関連しているから、 読み返すのに手間と時間がかかる。 速読は不可能な文学作品。 deren Hoehe aber wohl sieben oder acht Meter betrug, だから、「おおかた7か8メートルはあって」ですね。 でもよく見つけたなぁ…。(感嘆) 慌てて書き込んだから清書します。 >>61 【高橋訳】「メインヘール・ペーペルコルン(おわり)」 (下巻581頁) 滝の高さは七メートルあるいは八メートルぐらいあって、…… 【関・望月訳】「ペーペルコルン氏(むすび)」 (下巻483頁) 瀑布の高さはたぶん七メートルか八メートルほどで、…… >>62 【H.T.Lowe-Porter訳】(VINTAGE CLASSICS) (619頁) ……,perhaps nine or ten feet high,…… >>63 9フィートや10フィートの滝じゃ低すぎだろw 読んでるときはあまり気が付かなかったけど 「ジェット教授」は間違いが多いなあ さすがに高橋訳が読みやすかったとは思わないが(とくに下巻) あの世で内田百閧ノ叱られているのかもしれないw >>70 学生に下訳させて、言い回しなんかをシャシャッと義孝節にして出来上がりなんて噂されてたからね 【高橋訳】の言い回しを『大辞林』で引いたら、 用例の出典が鴎外だった。 高橋先生は鴎外を尊敬していたらしいから当然かな。 助詞の遣い方も不安になったら、 鴎外作品を参照していたらしい。 【高橋訳】で外気温に「零下」をつけ忘れている箇所があった。 パステルナークはドイツ語ができたから、 『魔の山』を読んでいたはずだよね。 >>74 ドイツにいたときは"Buddenbrooks"は出てたよね。 ソ連に帰って引きこもってた時期にファウストとか翻訳してるから、魔の山も当然読んでるだろうな。 ナボコフの評 Mann, Thomas. Dislike him. Second-rate, ephemeral, puffed-up. Death in Venice. Asinine. To consider it a masterpiece is an absurd delusion. Poshlost. Mediocre, but anyway plausible. クラウディアはサナトリウムを去ったあと何年生きたのか? ロシヤ革命、欧州大戦で生きていくのも大変だったろう。 亡命ロシヤ人も多かったから助けてもらえたかもしれないけど。 ヒロインらしからぬひっそりとした退場だよね。 ハンスとひかえめに"Leb wohl"って言い合って消えていくんだっけ? まさか"Auf Nimmerwiedersehen!"じゃなかったとおもうけど。 映画『ドクトル・ジバゴ』のコマロフスキーを演じたロッド・スタイガーが 映画『魔の山』のペーペルコルンを演じている。 どちらも若いヒロインに手をつけるオヤジの役。 テレビドラマ『新刑事コロンボ』でマフィアの親分を演じていた。 小説でのペーペルコルンは偉丈夫だけれど、 ロッド・スタイガーはそうは大きくないね。 【高橋訳】で多用されることば「むろん」。 飽きてくる。 「上巻」造形的 ⇒ 「下巻」造型的。 心変わりの原因は? 【高橋訳】 (下巻636頁1行目) 「……からみ合いながら纏綿として……」 (下巻638頁8行目) 「……仰向けに横たわり、・・・・・・」 (下巻654頁8行目) 「……この何年間の間に……」 下巻にはお粗末な翻訳が多い。 【高橋訳】 (下巻636頁1行目) 「……からみ合いながら纏綿として……」 (下巻638頁8行目) 「……仰向けに横たわり、・・・・・・」 (下巻654頁8行目) 「……この何年間の間に……」 下巻にはお粗末な翻訳が多い。 下巻はもともと難しいからねー。 ファウスト二部に対応する大世界を描けているかも微妙なとこ。 何度読んでも解らない。 【高橋訳】 (下巻701頁) みなは黙ったままであった。みなは誰かがいいだすのを待っていた。 各人ともに内心ではこの数日間には自分なら何に、誰にしよう、というふうに考えていたことであろう。 しかしいざとなると、死者の帰還、すなわち死者の再現を望むということが許されるかどうかは、 ややこしい危惧の念を感じさせずにはおかない問題である。したがって、率直にいえば、 実はこのような望みは誰も持っていなかったし、それを望むのは間違いでもあるのである。 よく考えてみると、そんなことを望むのは、死者の生還というそのこと自身と同じように不可能なのである。 死者の帰還ということがいったんは不可能でなくなったとしても、 結局はこの現象が本来そうあるべきように、不可能であることがわかるのである。 私たちが死者に対して感ずる悲しみというものは、死者をこの世でふたたび見られない苦痛というよりも、 元来そういうことは望みえないのだというところからくるのであろう。 【関・望月訳】 (下巻578頁) だれも無言であった。だれもだれかがなんとかいってくれるのを待っていた。 だれも、自分がなにを、だれを呼びよせたいと思うかを、この数日のあいだ考えつづけたことだろうが、 しかし、死者の蘇生は、というよりは、蘇生はねがわしいことかどうかは、ややこしいデリケートな問題である。 ほんとうは、そして正直にいうと、それはねがわしいことではなくて、それをねがうのはまちがいであり、 よく考えてみると、そんなことをねがうのは、死者が蘇生するというそのこと自身と同じくらい不可能である。 このことは死者の蘇生が不可能でなくなってみると、なるほどとうなずけるだろう。 私たちが死を悲しむのは、死者をこの世でふたたび見ることができない悲しみというよりも それをねがってはならないという悲しみであろう。 トーマス・マンの女性の美貌に対する感覚は ロシヤ人一般のそれに似ているような気がする。 ただ、チェーホフのそれとは少々異なるような気がする。 従兄の亡霊は 鈍感になったハンスが蓄音器から流れる音楽を聴きながらみた白昼夢だったのだろうか? >>84 >>85 死者の帰還(蘇生)が可能であったとしても、住居、生活費、社会との交わりなどたちまち現実的な諸問題にぶつかって、結果誰もそれを望まなくなるということではあるまいか。 【高橋訳】 (下巻764頁) 斜めに眼の前に突きでている樅の幹にも枝にも、雪が重そうに積もっていた。 【高橋訳】 (上巻251頁) 亭々と伸びて均斉のとれたえぞ松の大木が、あるいは離ればなれに、 あるいは群れをなして、いかめしく谷間や丘に立っていたが、 その中の一本は渓流沿いの斜面に斜めに根を張り、この一幅の画中に、 奇怪な姿を斜めに突きだしていた。 「樅」なのか、「えぞ松」なのか? 【関・望月訳】も同様。 ハンスとセテムブリーニの別れの場面で、 不覚にも泣いてしまった。 ゼテムブリーニがduzenするとこだな。 確かに感動的だった。 ヴァルプルギスの夜だったかな。 ハンスに理性的であるようにお説教して、「失礼ですがSieでお呼びください」なんて言ってなかったっけ? あの伏線が効いてきてるね。 精読した。 書き込みがいっぱい。 疑問点も結構ある。 以前の描写で触れたことに再度触れる度に読み返すので疲れた。 【高橋訳】では以前の描写の該当箇所を探し出すの大変なんだよね。 訳語が違っていたりする。 【関・望月訳】のほうが見つけやすい。 >>101 「南徳高原」って「南ドイツの高原」って意味? まだ星のようなUFOを見てないのか? 世界教師マYトレーヤが現れるぞ! >>102 そうです。「南ドイツの高原」です。 ドイツは中国語で「徳国」。 よって「南徳」は南ドイツ。 アメリカは「美国」ですから 「南美」は南米。 >>104 素朴な疑問なのですが、 中国人は「南徳」を即座に「南ドイツ」と理解できるものなのですか? 『魔山』のなかの記述なので「南ドイツ」だとわかるのでしょうか? >>105 中国人がいきなり「南徳」とだけを見て必ず「南ドイツ」と理解するかどうかは わかりません。たぶんしないでしょう。おそらく中国に「南徳」という地名が あるのかなと思う人もいるはずです。やはり著作の中でこそわかるのだと 思います。 「南徳」の発音を中国人が聞いたらまず同じ発音の「難得」を思い浮かべる はずです。得難い、滅多に無い、貴重だ、という意味です。 「だんまりシスター」は「唖大姐」 教養の無いシュテール夫人が言い間違う消毒→駆黴は、消毒→笑毒。 --- 英文ですが Thomas Mann's The Magic Mountain Edited and with an Introduction by HAROLD BLOOM が示唆に富んでいます。マンの研究者にとっては物足らないはずですが、 私のような趣味でマンを読んでいる者には面白い一冊です。 >>106 ありがとうございます。 素人考えですが、 『魔の山』とロシヤ文学との関連が面白いと思っています。 クラウディア・ショーシャみたいなヒロイン、いそうでなかなかいない。 イメージとしてはやっぱりカーチャとかナスターシャ・キンスキーで脳内再生してしまう 「クラウディア・ショーシャ」の魅力を決定づけているのは「目」なんだよね。 ロシヤ人が美しいと思う目。 トーマス・マンも美しいと思っていた。 伊藤白はそれを理解していない! きょう、BS3で映画『テス』が放映されていた。 録画した。 連休にみる予定。 映画のショーシャ夫人の顔立ちは官能的だけれど トーマス・マンのイメージするものとは違うと思う。 「目」が違うと思うのだ。 高橋義孝さんは『魔の山』の翻訳は自信作だと言っている。 おれはそれほどイイ翻訳とは思えない。 新潮社もそろそろ新訳を出すべきではないのか。 NHKBSのドラマ『長閑の庭』 教授が高橋義孝さんを彷彿とさせる。 教え子に女性がいたらしいものね。 高橋義孝を名訳者と評する人はあまりいないだろう。 「魔の山」の日本語訳は圓子修平訳がベスト。 地の文がドイツ語なのに 愛の会話だけがフランス語で表現されてるのは素敵だなあと思う 「素晴らしい教授」 ・堀内 明の子孫は全員死刑 ・野島正城の子孫は全員 死刑 ・水谷 洋の子孫は全員死刑。。。。 魔の山は面白い。 特に音楽評論。取り上げられてる曲が誰もが知ってる有名作品なのがよい。 カルメンの第二幕、カルメンがカスタネットを持って踊る、それを見ていた ドン・ホセが帰営のラッパを聞いて帰ろうとする、カルメンはホセのサーベ ルを投げつけて激怒。カストルプはこの怒りは個人的なものでなく太古以来 の原理、つまり男性原理への怒りだと解釈。さすがマンの鋭い洞察だ。 「素晴らしい教授」 ・堀内 明の子孫は全員死刑 ・野島正城の子孫は全員 死刑 ・水谷 洋の子孫は全員死刑、、、、、、 read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる