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ドストエフスキーPart46 [無断転載禁止]
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0499吾輩は名無しである垢版2018/05/17(木) 01:08:57.52ID:bxhiY0s8
天才バカボンがキリーロフやカミュのシシュポスと同じとは盲点だったわw
0500吾輩は名無しである垢版2018/05/17(木) 06:27:50.44ID:RUzwxiNK
>>497

> 宮前真樹。

かなり売れそうで、それほどは売れなかった印象。
0501DJgensei artchive gemmar垢版2018/05/17(木) 07:01:16.66ID:fa7Me6Ta
人間の持っているものは端くれながらでも闘争心でしょう。
0502吾輩は名無しである垢版2018/05/17(木) 20:01:06.97ID:G05vddR9
キリーロフは昼夜逆転の生活を送っている。
夜中から朝方まで部屋を中をうろうろしながらずっと考えごとをしている
0503吾輩は名無しである垢版2018/05/17(木) 22:29:16.16ID:QeQY1KEQ
>>501
>人間の持っているものは端くれながらでも闘争心でしょう。

それをドストエフスキーは
物質的欲求に由来する「生活の闘争」と
階級や名誉に由来する価値闘争に分類している
だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する
いわゆる「地下室人間」のイメージが提示される
0504DJgensei artchive gemmar垢版2018/05/18(金) 09:26:13.82ID:ZcLO9cBJ
善と悪は一人の人格の中に共存しえないでしょう。
0505吾輩は名無しである垢版2018/05/18(金) 10:53:30.46ID:5m3hPjGj
そんなことはない。
0507吾輩は名無しである垢版2018/05/18(金) 20:32:55.45ID:6vMUdKhB
凡人に狂気は無く最も理性的な人間にこそ狂気は宿る
とはチェスタトンだったかな
ドストエフスキーも似たような事を言っていて
悪人であるには理性的でなければいけない
といったことを「未成年」でヴェルシーロフに語らせている

また、チェスタトンは
永遠について思索するよりも一瞬の決断についての方が大切だと言っているが
これと似たような事は「白痴」でも述べられている
永遠と瞬間が同期するという発想はドイツロマン主義にも見られるが
チェスタトンやドストエフスキーの瞬間というのはそういうものではない
諸瞬間で下される判断や状況の背後に潜む「秘密」について述べているわけで
それが5大長篇という一種の犯罪小説のモチーフにもなっている

トルストイが「人生論」でも述べているように
人間に自由意志は無いわけだね
0509吾輩は名無しである垢版2018/05/19(土) 00:09:50.27ID:7/q3MY+o
>>507
トルストイにこそ当てはまる気がする
本当の倫理家の精神の一部は狂人なのだろう
0510吾輩は名無しである垢版2018/05/19(土) 01:42:34.63ID:cdYacNLw
トルストイやドストエフスキーが自由意志についてどこまで自由としていたかは難しいが、ドストエフスキーについてはこの自由意志にこだわったのは確かだと思う
必然性と可能性の中でどこまで自由に意志できるかを探ってみたんじゃないかな?
そもそも自己が自由に意志するとは何なのか
そもそも自己とは何なのかを考えるとパンクするねw
0511吾輩は名無しである垢版2018/05/19(土) 01:42:49.38ID:cdYacNLw
キルケゴールは人間とは精神であり自己であるとした
自己とは自己自身に関係に関わる関係であるとし、つまりは第三者の目の介入を必要として、それを人間の尺度としている
絶望している人間の尺度とは社会であり、世界であり、人間(他者)であると言っている
もし人間が自己の尺度を神とした場合、その人間の尺度はどんなに無限にかわるのか!と
また絶望とは、神の前にして、絶望して自己自身であろうとすることとも言っている

ヴェルシーロフやイワンは最後はで自己自身であること、理性を離さないこと、それらを見放さなかった
つまり絶望者である
じゃあ彼らはどうすれば救われたのか?
分からないことだらけでヤニなるよねまったくw
0512吾輩は名無しである垢版2018/05/19(土) 02:35:05.59ID:cdYacNLw
>>511
>もし人間が自己の尺度を神とした場合、その人間の尺度はどんなに無限にかわるのか!と
訂正→その人間の自己はどんなに無限になるのか
ねようw
0513DJgensei artchive gemmar垢版2018/05/19(土) 07:03:33.75ID:MCpeMuPC
自己なんて世界の0.00無限なのに、自由意思もひっくるめて、依存しすぎだね。
0514吾輩は名無しである垢版2018/05/19(土) 14:48:06.30ID:5AgFDZ1k
「未成年」は節約生活ノウハウみたいな箇所が妙に面白いわけだが。
0515吾輩は名無しである垢版2018/05/19(土) 20:03:37.10ID:Bl2peDdJ
しかしイポリートの夢に出て来る
三叉戟のような形態の蛇蝎は何を意味しているのか?
ギリシア神話における
ネプチューンによるイポリートへの罰のことなのか

監獄のような小部屋で三叉戟状の蛇にして蠍に追い詰められが
庇護者たる母とその知人男性は無力で
5年前に死んだ筈の愛犬ノルマ(黒犬)がほぼ相討ちという形で
イポリートを死の淵から救う

この悪夢から覚めた時にムイシュキン公が現れ
イッポリートを死の部屋から救い出す
しかし、この「救済」をイポリートは欺瞞だと糾弾する
で、この夢の事をどういうわけかムイシュキンは事前に知っていた

スイス的あるいはキリスト教的ムイシュキン公による善美と博愛の思想が
ギリシア的かつ能動的ニヒリストであるイポリートによって非難される
0516糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y 垢版2018/05/19(土) 20:26:29.94ID:5EbITBsq
詩の世界のヒーロー。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/118785946

一部抜粋。
「思い出のあるコミュニティー」だけが彼女の「世界の終わり」の願いを押しとどめていた。
フランス革命、パリコミューン、ロシア革命、ハンガリー動乱に学んだ日本は中学校の恩師をなかなか異動させないようにした。
「意味のある活動」をすれば恩師は自分のことを覚えている。
「世界に終わりがきてしまえばいいのに」
そう思った時に、母校の周りをうろついた。
「思い出のあるコミュニティーがないこと」
これが全体主義の起源である。
ノスタルジーを感じることが時には人間には必要だった。
【聖地巡礼の心理学とは、世の中に終わりが来てしまえばいいのに、ということと全体主義の克服にある】
https://youtu.be/BUI5M1myqSA
0517吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 01:13:55.20ID:Vj1yFAMB
>>515
ドストエフスキーは夢に特別な意味を与えているね
自身が癲癇とかで何かそういう夢を見たのかもしれない
0518吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 09:38:25.38ID:ixM7A+Ih
ドストエフスキーは何回読んでも新たな発見がある。
長い小説だから、読んでる途中でだらけていい加減に読んでしまう箇所が何箇所かある。
その箇所が二回目三回目に読むとき、新たな発見になるわけです。
0520吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 13:10:44.53ID:7plHb8d/
>>503
> それをドストエフスキーは
> 物質的欲求に由来する「生活の闘争」と
> 階級や名誉に由来する価値闘争に分類している

これは「地下室」本文に書かれているのですか? 特に気になったのは、

> だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
> 名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する
> いわゆる「地下室人間」のイメージが提示される
0521吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 13:17:48.61ID:7plHb8d/
> だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
> 名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する

ぼくにはどうも そう思われない。というのは、名誉心などに起因する価値闘争は夢の世界へ
と圧迫される氣がする。夢で、あるいは仮想世界で噴出するのでは。

ともあれ、このスレについていくために必須なのは「まず自分自身が読むことだ」読みもしないで、そこに書いてある字面だけおっても空転だ。イメージの共有ができてないからだ。
0522吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 13:22:20.08ID:7plHb8d/
>>484
> 罪と罰でテレンティウスの言葉を引用するね
> 「homo sum: humani nil a me alienum puto. (TER. Heaut. 77)」
> 「我は人間。人間的なものにして我に無縁なるものはなしと思う」

レスが遅れましたが、原典まで出して頂き感謝。強力な教養を相手にひけらかす為の武器としてではなく、ドストが「古典のなにを読んでいたか」

そして「彼がその文をどう解釈し、なにを引き出したか」
0523吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 21:06:30.20ID:7Fc4cGvq
>>504

ヘルマン・ヘッセ「カラマーゾフの兄弟、ヨーロッパの没落」 (1919年)

ドストエフスキーの諸作品において、ことにもっとも強い焦点を結んで「カラマーゾフ」において、私には私が自分の用語で「ヨーロッパの没落」と呼んでいる事柄が、おどろくほどの明瞭さをもって、表現されて予言されていると思われる
ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくニーチェでもなく、じつにドストエフスキーであることは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつ
カラマーゾフの理想、古い古いアジア的な神秘の理想がヨーロッパの思潮になりはじめている
それが私がヨーロッパの没落とよぶところのものである
「アジア的」理想とは何であろう
いっさいを理解し、いっさいを肯定するために、あらゆる固定した倫理や道徳から離れるということである
長老ゾシマが第一にそれを告知し、アリョーシャがそれを実践し、ドミトリイおよびはるかにそれ以上にイワンがもっとも明瞭にそれを意識して述べたような、ひとつの新しい危険な恐ろしい神聖さを実現せんがために既存の固定した観念から離れるという方向である
イワンが物語の進行につれて、文明人からカラマーゾフ人に、ヨーロッパ人からロシア人に、形のととのった歴史的タイプから、未来のための無形式的素材になってゆく
最初彼の身をつつんでいた落ちつき、悟性、冷静、科学性の威容からずれ落ちていった、もっともぐらつきそうにもなかったカラマーゾフ族のひとりが、ヒステリー、ロシア性、カラマーゾフ的なものへ移行していった
ロシア的人間、カラマーゾフとは、殺人者であって同時にもっともデリケートなたましいの所有者である
それは申し分のない利己主義者であり、また申し分のない献身の英雄である
ヨーロッパ的な、確固たる、道徳的な、倫理的な、ドグマ的な立場から、この人間の真相をきわめることはできない
この人間のなかには外と内、善と悪、神と悪魔とが同時に存在しているのである
0524吾輩は名無しである垢版2018/05/20(日) 21:08:22.00ID:7Fc4cGvq
つづき

同時に悪魔でもある神とは、太古のデミウルク(原初的創造神)である
彼は劫初から存在した神である
彼のみが種々の対立の彼岸に立っており、昼と夜、善と悪との区別を知らない
彼は無でありまた全である
彼はわれわれには認識できない、われわれはすべて対比と対照によってのみ物を認識することができるのだから
われわれは個体であって、昼と夜、暖と冷の対立にしばりつけられており、神と悪魔の両者を必要とするのである
対立の彼岸、「無にして全」の中にはただデミウルク、善も悪も知らない全の神だけが生きているのである
ロシア的人間の本質、それは諸対立、諸特性、諸道徳から脱出しようともがく人間である
それは自己を離れ、個体化の原理という帳の背後の世界へ帰ろうとしている人間である
こういう人間はなにものをも愛せず、またすべてを愛する、なにものをも怖れず、またすべてを怖れる、なにごともなさず、またすべてをなす
こういう人間はふたたび原材料、形態のない霊的素材に戻ったのである
現行の形式では、こういう人間は生きることができない、ただ没落してゆくばかりである
この没落人、この恐ろしい幽霊をドストエフスキーは、彼の魔力をもって芸術の世界へ呼び出した
ロシア的人間はとっくにロシアの外に進出して、ヨーロッパの半ばを支配しているのである
ヨーロッパは疲れていることが明らかになったのである
ヨーロッパは故郷へ帰りたがっている、そして休息したがっている
そして創り直され、生まれ変わることを望んでいることが明らかになったのである
0525吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 01:00:42.27ID:UPtOGcn5
>>523
> ヘルマン・ヘッセ「カラマーゾフの兄弟、ヨーロッパの没落」 (1919年)

これの存在してることだけ仄聞してたが、まさか2ちゃんで引用してくれて、はじめて読むことになろうとは。ありがとう。

ヘッセは、考えてみれば、自分にとって、ドストの次に愛読した外国文学といえる。そのヘッセが、ドストエフスキーの系譜のひとりであることを感じた。

> ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくニーチェでもなく、じつにドストエフスキーであることは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつ

ひとりヨーロッパ人にかぎらず、私たち日本人にとっても特別の文豪であろう。おそらくは、中国人韓国人アフリカ人にとっても。
0526吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 01:04:05.22ID:UPtOGcn5
「まず自分自身が読むことだ」と書いておきながら、日常茶飯事に
まぎれて読めてない。

カキコの時間はあるのに。だから私は彼を尊敬するというのだ。

わたしにとってカキコは簡単だが、ヨミコは恐ろしいほどの努力が必要なんだ。
0527吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 01:45:58.88ID:gfgyi6wS
ヘッセも文学上にてまぎれもない天才だよね
彼はアベルの血だけではなくカインの血もまた肯定しようと試みて、それを人間の本性のように書いている
迸る思いのままに生きること、二元論の同時性を求め、アブラクサスを神として、善と悪の同時共有曰く全一性の本質を人間に見出そうとしたように思える
一切は無くてつまりは一切は在る、ということ
ドストエフスキーの類似性をここに見る

ヘッセは、すべて無いならば「自分を自分で支配すること」で、創造を見つけようとしているように自分には読んで思えた
ヘッセは、自己からわき出る素直な感情を大切にしたと言っても間違いにはならないだろう
0528吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 01:46:29.25ID:gfgyi6wS
ではドストエフスキーはどうか
善と悪の概念がなくなったとき、上のレスであるように、単純に精神は疲れてしまいもたなくなる
自殺という結果のみがそこにある
そこで救済を見つめなければいけなくなる
ドストエフスキーは、すべて無いならば「自分を神に支配してもらう」ことで、創造を見つけようととしたのではないだろうか
それでは言い方がまだ足りないくらいに、雀が落ちるのもすべて神の意志でありように一切を委託する

個人的読解では、ヘッセは、善と悪や創造と破壊・秩序と混沌・理性と感情などを自己の中に求めることで幸福と自己実現を求めた作家だと思うんだ
一方でドストエフスキーは、それらを自己の外に置き、それらを自己の外に求めることで幸福を実現しようとしたのではないかと思っている
ぼくもまだまだ読みとれていない部分が多いとは思うが今のところはこんな感じが持ってる感想かな
0529吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 02:49:28.69ID:UPtOGcn5
>>507
> 諸瞬間で下される判断や状況の背後に潜む「秘密」について述べているわけで
> それが5大長篇という一種の犯罪小説のモチーフにもなっている

----------------------
なんとも謎めいた表現だが、しかし「そうだ!たしかにそうだ!」

目も覚めるようなフレッシュな視点を与えてくれた。

「諸瞬間で下される判断や状況の背後に潜む「秘密」」かっ...

カラマーゾフや罪と罰の、種々の場面が想起される。
0530吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 02:59:54.08ID:UPtOGcn5
>>527
最近、スレのみんなのカキコが盛んですねえ!

ところでヘッセですが、ぼくがもっとも読み込んだのは「ガラス玉演技」中の「3つのものがたり」です。

文庫本ですが、読みすぎて、すり切れてバラバラになり、押入れかどっかにあるはず。

カラマーゾフで、アレクセイとゾシマの関係性を自分に当てはめて

読んできたように、この「3つの物語」を読んでいた時は、30代なかばで、一種の精神的危機でした。

あなたはガラス玉を読みましたか?
0531吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 03:03:14.44ID:UPtOGcn5
ひじょうにハイレベルなカキコにレスをつけるのは難しい。

また逆に、ひじょうにシンプルだが、相手の考えに自分の信念を注入せしめるのも、また困難。
0532吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 04:05:16.94ID:UPtOGcn5
>>518
> その箇所が二回目三回目に読むとき、新たな発見になるわけです。

わたしも牛のように鈍重に、同じ箇所をくりかえし反芻して
語りたい。

「信仰のうすい貴婦人」より、ゾシマと母夫人の対話の場面。

オブドールスクの客僧が、「あなたはどうしてあんなことを
思いきってなさるのですか?」と訊く。

ゾシマ「このことはもちろん、今語るべき時でありませんじゃ。
少しくらい軽くなったのは、すっかり治ってしまったのと違う
し、それにまたほかの原因から起こることもありますでな。
しかし、もし何かあったとすれば、それは誰の力でもない、
神様の思し召しじゃ。一切のことは神様から出ているのじゃ。
時にどうか本当にお訪ね下され。」
0533吾輩は名無しである垢版2018/05/21(月) 04:24:07.94ID:UPtOGcn5
時にどうか本当にお訪ね下され。」と彼は、僧に向かってつけたした。「でないと、いつでもというわけに参りませぬでな。病身のことゆえ、もう命数もかぞえ尽されておる、それはわたしも承知しておりますじゃ。」
------------------------------------------------

オブドールスクの僧は「単純ではあるが確固不抜の人生観と、深い信仰と、一種独特の頑固さを持っている」がゆえに、ひじょうに高位なゾシマに対しても、おずることなく、「たしなめるようなものものしい態度で」リーズの『治療』のことを、問いただした。

ゾシマはまったく対等な信仰の同志として対応している。

そして信仰による奇跡的な治癒を「ゾシマ自身が確信している」とわたしは解釈する。
また相手の僧の不信や猜疑に怒るということもない。なぜなれば、この
客僧の問は「礼を欠いているが」ゾシマ同様信仰への厳しい求道性に
由来する「無礼さ」であるからだ。
0535吾輩は名無しである垢版2018/05/22(火) 02:37:26.98ID:yqcs1J7T
スレチだけどトルストイの民話集読んでみたけど面白かった
話も面白かったしトルストイだなーという所もあっていい作品だった
今は、イワンのばかの最初だけれどいずれドストエフスキーとの比較でもしてみたい
0536吾輩は名無しである垢版2018/05/22(火) 10:15:09.31ID:GUp5aNKq
>>535
> スレチだけどトルストイの民話集読んでみたけど面白かった

スレチではないので、この断り書きは必要ない。トルストイとドストエフスキーは

相互に大変な影響を与え合っていたはず。
0538吾輩は名無しである垢版2018/05/23(水) 00:38:54.84ID:O3IvnlGU
>>528
哲学的、あるいは厳密性をもって、正確性で、書けない。その前置きをしておいて、

ヘッセとドストエフスキーでは、おそらくは人生で見聞したものの量が違うのではないか。

たとえば、白痴であるが、死刑囚のイメージと思考について、縷縷書かれているが、

「それらはすべて、まさに彼自身のじっさいの体験と思考」に由来している。

またたとえば、カラマーゾフで、ゾシマと民衆のやりとり、これも実在の人物じっさいの会話が下敷きにあるのではないか。
0539吾輩は名無しである垢版2018/05/23(水) 00:45:07.32ID:O3IvnlGU
>>523
>イワンが物語の進行につれて、文明人からカラマーゾフ人に、ヨーロッパ人からロシア人に、形のととのった歴史的タイプから、未来のための無形式的素材になってゆく
最初彼の身をつつんでいた落ちつき、悟性、冷静、科学性の威容からずれ落ちていった、もっともぐらつきそうにもなかったカラマーゾフ族のひとりが、ヒステリー、ロシア性、カラマーゾフ的なものへ移行していった
ロシア的人間、カラマーゾフとは、殺人者であって同時にもっともデリケートなたましいの所有者である
それは申し分のない利己主義者であり、また申し分のない献身の英雄である

イヴァンについてひとつの見地を与えてくれる。

ところでこれは、そのままラスコーリニコフにもあてはまるではないか?

そしてまた、われわれ自身にも。「カラマーゾフとは我自身のことなり。」

ロシア的人間とは、即 日本的人間なり!!
0541吾輩は名無しである垢版2018/05/23(水) 00:52:10.52ID:O3IvnlGU
>>503
> だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
> 名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する
> いわゆる「地下室人間」のイメージが提示される

最近数ページ、カラマーゾフのホフラコーヴァとゾシマの対話のところを読んだ。

そのとき、ゾシマが「ある医者の告白として」人類全体を愛するが、身近にいる具体的人間を

愛せないという、話を持ちだした。そのとき、きみのこの「「地下室人間」のイメージ」という言葉を思い出したよw ああ、これだな、と。
0544吾輩は名無しである垢版2018/05/23(水) 22:51:31.35ID:O3IvnlGU
>>543
ほんとにね。現実は、リアルは、いつもきびしいね

でもそれさえも、強い生命力があれば、乗り越えられるとおもうんだ

隣人が狂人であることの出現頻度が15%と仮定する

だとすると、職場でパワハラを受ける蓋然性は、75パーセントだろうか?

... そうだ、そうなのだ。僕達が生きてるこの世界は、そういう風にできてるのだ。

だから、ゾシマは「実践の愛」がいかに厳しいものか、説いている。

そもそも、宗教が創始され、必要とされる最大のワケは

人間関係の悩みなんだよ。もっとこれについて、書きたい気持ちもあるが、ドストエフスキーと離れるのでとめておく。
0545吾輩は名無しである垢版2018/05/25(金) 23:09:17.23ID:b5S+4Rxd
ゲーテファウストをゲット。岩波。

マシンの机に置き、手すきのときに、読んでいく心づもり。

まだ巻末の解説を読んでいるところ。

「凱歌をあげるのは止すがいい。
お前たちは人類と知識とに対して勝利を得たのではない」
0546吾輩は名無しである垢版2018/05/25(金) 23:11:59.58ID:b5S+4Rxd
Wir sehnen uns nach Offenbarung,
Die nirgends würd'ger und schöner brennt
Als in dem Neuen Testament.
Mich drängt's, den Grundtext aufzuschlagen,
Mit redlichem Gefühl einmal
Das heilige Original
(行数の都合で最初のみ)

森鴎外訳(1913年)

啓示がほしいとあこがれる。
あのどの傳よりも尊く、美しく
新約全書の中に燃えてゐる啓示がそれだ。
原本を開けて見て、
素直な感じの儘に、一遍
神聖なる本文を
好な獨逸語に譯して見たい。
かう書いてゐる。「初(はじめ)にロゴスありき。語(ことば)ありき。」
もうここで己はつかへる。誰の助(たすけ)を借りて先へ進まう。
己には語をそれ程高く値踏することが出來ぬ。
なんとか別に譯さんではなるまい。
霊の正しい示(しめし)を受けてゐるなら、それが出來よう。
かう書いてゐる。「初に意(こころ)ありき。」
軽率に筆を下さぬやうに、
初句に心を用ゐんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものが意(こころ)であらうか。
一体かう書いてある筈ではないか。「初に力ありき。」
併しかう紙に書いてゐるうちに、
どうもこれでは安心出來ないと云ふ感じが起る。
はあ。霊の助(たすけ)だ。不意に思ひ附いて、
安んじてかう書く。「初に業(わざ)ありき。」
0547吾輩は名無しである垢版2018/05/25(金) 23:15:24.65ID:b5S+4Rxd
相良守峯訳(1958年)

その啓示は、
新約聖書に示されているものほど、
貴(とおと)く美しく輝いているものは外にはない。
あの原典をひもといて、
誠実な気持でひとつ、神聖な原文を
好きなドイツ語に訳してみたくなった。
こう書いてある、「太初(はじめ)に言葉ありき。」
軽率に筆をすべらせぬよう、
第一句を慎重に考えなければならぬ。
一切のものを創り成すのは、はたして意味(こころ)であろうか。
こう書いてあるべきだ、「太初(はじめ)に力ありき。」
ところが、おれがこう書き記しているうちに、
速くもこれでは物足りないと警告するものがある。
霊の助けだ。おれは咄嗟に思いついて、
確信をもってこう書く、「太初に業(わざ)ありき。」

日本語の格調は、時代を下るごとに、落ちていくのか。或いはまた、
鴎外が別格総本山なのだろうか。
0548吾輩は名無しである垢版2018/05/25(金) 23:26:57.88ID:F8DrRvdx
聖人ともなれば周囲に煩わされたりしなくなるんですか?
例えば毎日の隣人の騒音とか
0549吾輩は名無しである垢版2018/05/25(金) 23:42:38.26ID:b5S+4Rxd
>>548
> 聖人ともなれば周囲に煩わされたりしなくなるんですか?
> 例えば毎日の隣人の騒音とか

そんなこと、ないと思いますよ?

それにいわゆる「聖人さま」などというものは、存在しない

ゾシマといえど、凡夫です。ぼくらと同じく凡夫で、隣人の騒音にもいらつくし、

逆に「ウルセーッ」って文句言われたら、ビビりますねw

ただ、われわれと違うのは、一流の人格者で、深い信仰によって鍛錬されている点です。

あなたの疑問いっさいは、カラマーゾフ本文をたんねんに読めば、一点の曇もなく氷解するでしょう
0550吾輩は名無しである垢版2018/05/26(土) 01:50:16.20ID:Mc7gFTqy
>>545
ファウスト読むのなら「時よ止まれ、お前は美しい」が何を意味するか考えて全体を読むと面白いよ
まー一つの読み方のオススメにすぎないけど
0551吾輩は名無しである垢版2018/05/26(土) 01:54:22.64ID:Mc7gFTqy
あーあと言い忘れた
ヨブ記にすごく似ているということ
ヨブ記の構想を受け継いでいるので概要だけても知ってるといいと思う
0553吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 14:06:06.15ID:QGADTz9k
>>552
> ヨブ記厨か

クズねらーかw? ドスト自身がだれよりもヨブ記厨でしょ?

わしらジャップには関係ないけどもおWWWWWWW
0554吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 14:11:01.90ID:QGADTz9k
ヨブ記は読んだことないんだけども
前に、
------------------------------------------------
ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜい沢に遊び暮らしていた。ところが、
ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その
食卓から落ちる物で飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬が来て彼のでき物をなめていた。
この貧しい人がついに死に、御使い達に連れられてアブラハムのふところに送られた。
金持ちも死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら、目を上げると、アブラハム
とその懐にいるラザロとが、はるかに見えた。
そこで彼は声を上げて言った、『父アブラハムよ、私を哀れんでください。ラザロをお遣わし
になって、その指先を水で濡らし、私の舌を冷やさせてください。私はこの火炎の中で苦しみ
もだえています』。
 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前良いものを受け、ラザロの
方は悪いものを受けた。しかし、今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとあなたがたとの間には大きな深遠が置いてあって、こちらからあなた
方のほうへ渡ろうと思ってもできないし、そちらから私たちの方へ越えて来ることも出来ない』
そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。私の父の家へラザロをお遣わしください。
私に5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告して頂き
たいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者がある。これに聞くが良かろう』。
金持ちが言った、『いいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟達の所へ行ってく
れましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみ
がえって来る者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

------------------------------------------------
はそのイメージの鮮烈さに感動した。

こうした背景を知らずに、カラマーゾフ読んでいたことは、少しもったいなかった。
0555吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 14:51:13.18ID:RX3jslBc
聖書では創世記が重要である
創世記には、兄弟の争いがたくさん出てくる
ぜひ読んでおくべきは、カインとアベル、ヤコブとエサウ、ヨセフとその兄弟たちのところである
どれも兄弟たちは、親の愛と財産をめぐって争う
どれもカラマーゾフの兄弟に出てくる
0556吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 20:27:20.36ID:X0luJpuD
トルストイのイワンのばか・人はなんで生きるか、が読み終わったよ
トルストイ民話は、まるで子供の時に読んでいた童話のような世界になっていて楽しくてとても読みやすかった
それでいて主題は、どう生きるべきか、人間に与えられているものは何か、与えられていないものは何か、など哲学的な内容も含んでいてとてもよかった
0557吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 20:29:13.62ID:X0luJpuD
ドストエフスキーとトルストイの比較について思ったことは、両者とも「許し」について敏感であったという事がある
トルストイのこれらの民話では一番の主題がある
それは聖書の一つの聖句からきている、曰く、

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
(マタイによる福音書十八章)

トルストイならではの、少し極端とも言える徹底した主張を感じた
やはり文豪だね
0558吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 20:29:25.72ID:X0luJpuD
トルストイを読んでいて、ドストエフスキー愛好家の自分としてまず思い出したのは悪霊だった
ステパン氏の言葉であった
他の作者を読んでいても、こういう風に頭の中で思考が繋がっていくから読書は面白いね

「まずすべての人を、常に赦しましょう……そして、ぼくらも赦してもらえるという希望をもちましょう。そうですよ、だれでもみなおたがいに罪を犯しているものですものね。万人が罪人(つみびと)なのですから!……」(悪霊ステパン氏)
0559吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 21:52:01.74ID:QGADTz9k
>>557
> トルストイのこれらの民話では一番の主題がある
> それは聖書の一つの聖句からきている、曰く、
>
> 「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
> イエスは言われた。
> 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
> (マタイによる福音書十八章)
>

これは君の文にしてはめずらしく論旨不明確だ。聖書のきわめて有名な箇所であり、たいへんに重要性を含んでる核心的思想であるが


> トルストイならではの、少し極端とも言える徹底した主張を感じた
> やはり文豪だね

トルストイが「どうそれを表現したか?」書かれていない。
0560吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 21:59:41.30ID:QGADTz9k
>>555
> 聖書では創世記が重要である
> 創世記には、兄弟の争いがたくさん出てくる
> ぜひ読んでおくべきは、カインとアベル、ヤコブとエサウ、ヨセフとその兄弟たちのところである
> どれも兄弟たちは、親の愛と財産をめぐって争う
> どれもカラマーゾフの兄弟に出てくる

おっしゃるとおり、でしょう。... しかし私どもの信仰では「ぜったいに聖書等の外道の典籍を読んではいけない」という核心的教えがある。

それは、文化的狭量さなどではなく「なにが正しくなにが劣っているか」この世界と宇宙を明確に説明し、
行動しゆく規範なんです。

ふうつ一般人にはとうてい信ぜられぬが、もしこれを犯せば、想像もできないほどの罰がある。

ではなぜ?「君はカラマーゾフなどを読むんだい?」と問われれば、ここにもうひとつ秘密がありまして、

「開く」という義があり、それは生命の一瞬のあり方次第なんです。「カラマーゾフであれ、なんであれ、

仏法の眼(まなこ)から拝読している。」
0561吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 22:04:24.16ID:QGADTz9k
> 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

なぜなのか?

ぼくは「人間はすべて幼子(おさなご)だから」だと思う。
0562吾輩は名無しである垢版2018/05/27(日) 22:12:42.16ID:QGADTz9k
教えの表面だけ見れば、日蓮仏法とキリスト教はぜんぜん別物に見える。

前者は、厳しく父の愛と言われる。悪人は(この場合の悪人とは、たとえば世間一般の殺人犯などではない

そのような世俗の善悪ではないのだ。もちろん世間一般の常識的なふるまいとして、「良く生きる」ことを

きびしく大聖人はすすめる)「殺」せよ、という部分もある。

後者は、一見して優しく「母の愛」に見える。ところが.... つまるところは一緒なのだ!

ところが、なぜいっしょなのか?については、ぼくごときの筆力で伝えられるはずがない。

これこそ、まさに「実践の愛」「信仰実践」によってしか体得できない。
0563吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 00:11:57.25ID:/G3A30h2
>>559
感想をアバウトに書いてしまったね、わるい
具体的にいうと、民話の中に「火を粗末にすると消せなくなる」という物語があるんだ

主人公イワンは農家で鶏を飼育していて、ある時その家畜が卵を産む
ただし産んだのが隣の家の庭であったため所有権で争いに発展してしまう
最後には放火されてしまうまで争いは拡大してしまう
イワンには年老いた父がいて、彼はこういう
「火ははじめのうちに消さなくてはならない、燃え上がってしまったらどうすることもできない」、「面倒なことがあっても心穏やかでいるためには何でも許してあげなければいけない」と
最後にイワンは火をつけられても黙って何もしないでいる
そうすると憎い心がお互いに消えてしまい、結局は仲直りする物語になっておわる
0564吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 00:15:10.57ID:/G3A30h2
つづき

問題はこの物語の冒頭は(マタイによる福音書十八章)から始まるということ

思うにトルストイが言いたかったことは、「火を小さい時に消す=争いは小さい時になくす」ではなくて、聖句をわざわざ持ってきた理由にこそあるんだと思うんだ
要するに徹底した無抵抗主義
七の七十倍とは限りなくということ
火をつけられて奪われてしまうなら奪われてしまえばいいということ
もっと言えば、これがトルストイのいう「人間に与えられていないもの、すなわち自分に何が必要なのか人間は知ることはできないから何でも放っとけばいいということ(神に任せてればいいという自我の完全放棄を現実に遂行する)」
まるで狂人の発想のごとく端的な主張だとは思わないだろうか?
0565吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 00:22:32.40ID:pH6Xa/dz
ヨブ記が明らかにするものは神と人間との関係であり、
信仰とはどういうものか?ということ
どんなに行いが正しくて慎み深い人でも酷い目にあうことがある
しかし、それでも神を信じなければならない
というのは神を信じるということは世俗的利益とは無関係の
人間の本質にかかわることだから

そういう意味では逆境に陥った惨苦の果てに真の信仰が獲得できるという
ドストエフスキーの人生観の根拠たるテキストでもある
しかしけっこう悲惨な末路をたどる人物が多いのも
ドストエフスキー作品の特徴であり
彼らが悲惨なのは信心が足りないからなのだ、
とは言い切れないので悩み深くくなる
0566吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 00:30:30.09ID:/G3A30h2
>>565
>しかしけっこう悲惨な末路をたどる人物が多いのも
>ドストエフスキー作品の特徴であり
>彼らが悲惨なのは信心が足りないからなのだ、
>とは言い切れないので悩み深くくなる

書こうと思ってたことを書かれてしまった
ここがトルストイ物語とドストエフスキーの物語の違いだと思う
トルストイはどこかで正しい人は現実でも報われなけれならないと思っているのがひしひしと分かる
ドストエフスキーは悲劇的な結果の方が現実的と思っているのがひしひしと感じられる
0567吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 01:17:35.35ID:HUuuzoIM
>>565
> ヨブ記が明らかにするものは神と人間との関係であり、
> 信仰とはどういうものか?ということ
> そういう意味では逆境に陥った惨苦の果てに真の信仰が獲得できるという

日蓮でいえば開目抄に相当する書ですね。

> どんなに行いが正しくて慎み深い人でも酷い目にあうことがある

とがなくして、死ぬる。古来からすべての日本人の宿命です。眼前の東日本大震災を見よ。

法律や社会システム、カネでは、解決できない。ぜんぜんちがう。

無辜の民が、またわれわれが苦難にあう。どんなに激しい信仰を貫いていても。いや、
信心強きものこそ、とうぜん大難雨あられのごとし。

ではなぜなのか? イヴァンが考えたように、幼女だってむごく死ぬ。そこには、この宇宙の背景を貫く秘密のシステムがある。そこを解明しきって説明しきっていく。信仰によって。

>>563
我こそ支離滅裂だねw
0568吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 02:17:58.95ID:/G3A30h2
あと同時に今読んでいる1864年のメモが数ページで読み終わる
子孫繁栄を否定していたり、地下室の原型があったりとすごく詭激で賛否ありそうな内容なのであとでまた勝手に載せてみるよ
いい加減寝なくてわ
0569吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 19:19:34.94ID:pH6Xa/dz
>>567
>そこには、この宇宙の背景を貫く秘密のシステムがある。


たとえば「白痴」の第4篇では
エリザヴェータ夫人が愛娘であるアグラーヤとムイシュキン公の仲について
煩悶するくだりがある
夫人はムイシュキンの人となりには好感を持ちながらも
娘の将来や名誉、利益という極めて世俗的な理由から否定しようとする

しかし胸の奥底に「うごめくもの」に抗うことはできない
これは理知をこえた感情であり
現代風に言えば一種の深層心理とも言い得るものだからだ
この「深いところ」から沸き起こる感情こそが人間行為の原泉であり
神や信仰をめぐる秘密でもある、とうのがドストエフスキーの考えだろう

理知よりも感情(とその深層)に神秘を見出す
ドストエフスキー流のグノーシス主義なのだ、ともいえる
ただ、これをフロイト風の精神分析学的に受け取って
「父殺し」と解釈すると作品を読み間違う
フロイトよりもユング、あるいは仏教思想における阿頼耶識システム
のようなものと考えた方が分かりやすいのだと思う

ナスターシャはロゴージンの情熱の奥底に悪魔的なものを見出す
この悪魔的なものとはレーベジェフによると人知を超えた「偉大な力」と定義される
狂女ナスターシャがアグラーヤに送った3通の手紙では
自身を犠牲にしてこの秘密の一端を「天使」アグラーヤに開示することを予言して
物語は破滅的な終局へと向かう
0570吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 19:37:37.51ID:l4DZMSd8
>>569

> 夫人はムイシュキンの人となりには好感を持ちながらも
> 娘の将来や名誉、利益という極めて世俗的な理由から否定しようとする


なんだかんだ言ってもムイシュキンは公爵なのだから
それほど悲惨なことにはならないような気もするのだが、どうなんだろ?
0571吾輩は名無しである垢版2018/05/28(月) 22:53:21.78ID:HUuuzoIM
一体詩人はなんでみんなの胸を波立たせるのです。
なんで地水火風に打ち勝つのです。
その胸から迫り出て、全世界をその胸に
畳み込ませる諧調でないでしょうか。

自然は無際限なる長さの糸に、
意味もなく縒を掛けて紡錘に巻くに過ぎない。
万物の雑然たる群は
不精々々に互に響を合せているに過ぎない。

そのいつも一様に流れて行く列を、
節奏が附いて動くように、賑やかに句切るのは誰ですか。
一つ一つに離れたものを総ての秩序に呼び入れて、
調子が美しく合うようにするのは誰ですか。
誰が怒罵号泣の暴風を吹き荒ませるのです。

夕映を意味深い色に染め出すのです。
誰が恋中の二人が歩む道のゆく手に
美しい春の花を蒔くのです。
誰が種々の功を立てた人のために
見栄のしない青葉を誉の輪飾に編むのです。

誰がオリンポスの山を崩さずに置いて、神々を集わせるのです。
人間の力が詩人によって啓示せられるのではありませんか。
0572吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 00:22:11.88ID:lUXTHLw0
>>569
>理知よりも感情(とその深層)に神秘を見出す
キルケゴールを連想した
0573吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 00:32:53.08ID:lUXTHLw0
人間の最終目標は個性の最高度の発達であった
しかしそれが示すものは人類の発達の無意味性であった
1864年のメモはドストエフスキーの心理がとてもあらわれていると感じられた
ウンザリするほどレスが長くなるが、意味を取り違えないために、そのまま載せてみる
0574吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 00:35:31.16ID:lUXTHLw0
マーシャは台の上に横たわっている。
マーシャと再会できるだろうか?キリストの教えに従って、人を自分自身のごとく愛することは、不可能である。地上の個性の法則に縛られる。われ が妨げる。キリストだけが出来た。
しかしキリストは太古からの人間の理想であり、人間がそれをめざし、自然の法則からいってもめざさざるをえない理想である。
しかしながら、肉体に宿った人間の理想としてのキリストが出現して以来、白昼のごとく明らかになったのは、個性の最高度の最終的な発達は、まさしく次の点にまで(発達の極限、目標到達の最終地点で)達しなければならないということだ。
すなわち、人間が自分の個性、自分のわれの完全な発達に基づいて出来る最高の行為は、そのわれを滅却し、万人と個々の人に差別なく、献身的に自分を完全に捧げることであると悟り、自覚し、自分の本性のすべてをかけてそう確信することである。

これこそ最大の幸福である。このようにして自我の法則はヒューマニズムの法則と合流し、この両者の合流のなかで、相互に敵対しあうわれも万人も(一見して、極端に対立しあうこの二つが)、同時に各々の発達の最高目標を実現する。
これこそキリストの天国にほかならない。」
0575吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 00:36:05.67ID:lUXTHLw0
「しかし、もしこれが人類の最終目標(それが実現されれば、人類は発達する必要がなくなる。
すなわち実現の努力も闘争も、自分の堕落の時に理想に目覚める必要も、永久にそれをめざす必要もなくなる―とすれば生きる必要がなくなる)であるとすれば、当然、人間がこの目標を実現せんとする暁には、自分の地上的な存在も終わりを告げることになる。
だから、人間は地上においてはひたすら発達の過程にある存在であって、従って、完結的な存在ではなく、過度的な存在である。

しかし私の考えでは、この大目標に到達すると同時に、すべてが消失、消滅するとしたら、すなわち目標の実現とともに人間の生活がなくなるとしたら、このような目標に到達することはまったく無意味である。だからこそ、未来の、天国の生活があるのだ。」
0577吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 18:28:43.24ID:t9guOB2Y
>>569
> ただ、これをフロイト風の精神分析学的に受け取って
> 「父殺し」と解釈すると作品を読み間違う
> フロイトよりもユング、あるいは仏教思想における阿頼耶識システム
> のようなものと考えた方が分かりやすいのだと思う

フロイトが天才なのか、否なのかも、わからない。彼のドスト批評も。ユングや阿頼耶識が、実相をとらえているのかも、もちろんわからない。おれごときには。わかるのは、文学としてのドストエフスキーのすばらしさのみ。もっとも難解にしてもっとも簡易なる。

>
> ナスターシャはロゴージンの情熱の奥底に悪魔的なものを見出す
> この悪魔的なものとはレーベジェフによると人知を超えた「偉大な力」と定義される

もししからば、我の如き薬物中毒者の、曇りきった精神の奥底にも、人知を超えた「偉大な力」が眠りおるか。
0578吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 18:45:21.93ID:t9guOB2Y
>>563

トルストイは比類なき大文豪です。これは「戦争と平和」を読んだ人ならだれでも認めること。

その大前提を忘失ぜずに、「トルストイの民話」を未読のぼくが、あえてあなたのカキコだけを読んだ印象を書くと、

>まるで狂人の発想のごとく端的な主張だとは思わないだろうか?

狂人というより、端的に「偽善」。また「現実錯誤」に感じられる。

ところが、「偽善」と「そんなはずがない」というのは、信仰の世界の内側にいるものと、外では、まったくちがうのだ。
0579吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 18:57:33.77ID:t9guOB2Y
狂人の発想のごとく端的な主張

---------------------------------------------
たる、根本原因は、その「実行不可能性」にある。

トルストイをまともに読んだこともないのに、不遜の誹りを免れないが。

ですから、とにかく代表作を読まないとダメです。あれを読みました。薬物で思い出せんのです。タイトルを。
裁判官が...「。。。。の死」という題名。あの作品は、ドストエフスキーですら、書けないでしょう。

まさにトルストイこそ、悪魔的イメージ創出力であり、「人知を超えた偉大な力」をもっている。

トルストイの思想を切り文で、説明はむずかしい。知らない人が聴いたら「しょーもな!」でおわる。
0580吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 19:03:20.88ID:t9guOB2Y
キリスト教文学のヴァリアントとして、(カッコつけて難しい言葉ばかりつかうけど、誤用してたらゴメンネww)
ドストエフスキー、トルストイを比較すれば、(後者は比較できるほど読んでないけど)

ドストのゾシマ長老の思想や、カラマーゾフこそ、最高度の到達点ではないか?
0581吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 19:28:05.25ID:t9guOB2Y
>>574

例によってあなたの引用文のみによって、ドストエフスキーに対して、ぼくがコメントをつける。

> キリストの教えに従って、人を自分自身のごとく愛することは、不可能である。地上の個性の法則に縛られる。われ が妨げる。キリストだけが出来た。

おいドスト! 「キリストだけが出来た。」ってなんやねん?そんなのキリスト教徒だけの感想やろ。

> しかしキリストは太古からの人間の理想であり、人間がそれをめざし、自然の法則からいってもめざさざるをえない理想である。

ハァ?

> しかしながら、肉体に宿った人間の理想としてのキリストが出現して以来、白昼のごとく明らかになったのは、個性の最高度の最終的な発達は、まさしく次の点にまで(発達の極限、目標到達の最終地点で)達しなければならないということだ。
> すなわち、人間が自分の個性、自分のわれの完全な発達に基づいて出来る最高の行為は、そのわれを滅却し、
「われを滅却 」って原始仏教みたいだな。

万人と個々の人に差別なく、献身的に自分を完全に捧げることであると悟り、自覚し、自分の本性のすべてをかけてそう確信することである。
>
> これこそ最大の幸福である。このようにして自我の法則はヒューマニズムの法則と合流し、この両者の合流のなかで、相互に敵対しあうわれも万人も(一見して、極端に対立しあうこの二つが)、同時に各々の発達の最高目標を実現する。
> これこそキリストの天国にほかならない。」

思想が... 生硬な形で表白されている。アレクセイがまとめあげたゾシマの言行録と連続しており、ドストの青年期から暖めてきた思想と信仰であることがわかる。

もちろん彼独自の思想ではない。無数の民衆から聖人までが、古代から考えぬき、目指しぬいてきた、希望と理想を、詩人の力によって「文」として、この地上にあらわれた。

そうしてそれを、そのまま「寸分も違わず」読み共有することが可能なのだ。すべては受け取るこちら次第だ。
0582吾輩は名無しである垢版2018/05/29(火) 19:42:38.01ID:t9guOB2Y
ひとつ口実を書かせてください。

わたしは、仮にもドスト、ゲーテ、ダンテ、シェークスピア、トルストイを「目を通したことがある」

文学愛好家です。

ですから、彼らが「世界歴史になにゆえ名を残したか?」その一分を知っています。

つまりぼくの批評ごときは、屁のつっぱりにもならん、ハエの足についてるバイキンみたいなレベルです。

たとえばトルストイなら「偽善」と言われることなど、百も承知で彼は書いてるということです。

また、ドストエフスキーを山に例えるなら、k2 でしょう。(しったかw)

登山に成功したものは16人、生きて帰ってきたものは4人という世界です。

いいじゃないですかっ!! ここは2ちゃんなんだから
0583吾輩は名無しである垢版2018/05/30(水) 01:21:23.74ID:r91/ZLZI
>>581
仏教とキリスト教を同列には語るのは難しいんじゃないかな
仏教は仏に「なる」ことを目指すとするならば、キリスト教(ユダヤでもイスラム)は神にどう「跪拝」するか、どこまでひれ伏すかを目指すものになる
キリスト者が神と同じに「なる」なんていったら冒涜になってしまうよ(まるでニーチェのように)
だからこの場合の自我の滅却は、仏教でいう滅却とは本質が異なると自分は理解している

もちろん仏教について無知だから誤解かもしれないけどね
0584吾輩は名無しである垢版2018/05/30(水) 02:09:57.51ID:eBLOCtuv
>>583
> 仏教とキリスト教を同列には語るのは難しいんじゃないかな
> 仏教は仏に「なる」ことを目指すとするならば、キリスト教(ユダヤでもイスラム)は神にどう「跪拝」するか、どこまでひれ伏すかを目指すものになる
> キリスト者が神と同じに「なる」なんていったら冒涜になってしまうよ(まるでニーチェのように)
> だからこの場合の自我の滅却は、仏教でいう滅却とは本質が異なると自分は理解している
----------------------

これに対するぼくの答えは

「1864年のメモ」を読む。しかも君以上の集中性と真剣味をもって。
0586吾輩は名無しである垢版2018/05/30(水) 18:08:20.67ID:eBLOCtuv
>>585
読んだよ。直後の印象として「このテキストについて考えることを放棄して」

カラマーゾフのゾシマの口を借りて出る文を元に、思索したほうがよい。
0588吾輩は名無しである垢版2018/05/30(水) 21:53:48.41ID:nBO/9Q3F
「未成年」は中途半端に面白いと思うんだが。

処世術のノウハウを感じる。
0589吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 00:42:10.26ID:Aug9bf3i
>>583
>仏教は仏に「なる」ことを目指すとするならば、
>キリスト教(ユダヤでもイスラム)は神にどう「跪拝」するか、
>どこまでひれ伏すかを目指すものになる

成仏する(悟りを開く)ことを求める者を仏教では菩薩という
その段階において僧院内でも厳然たる階層秩序が存在する
これはカソリックや東方教会内でも似たようなもので
教団には聖人というものがやはり存在する
たとえば東方教会では仏教の様な曼陀羅風の図像がある

人間が悟りを開く(凡我一如)/唯一絶対神に跪拝する
という教義上の違いがあっても
教団内の階層秩序や運営方式がどういうわけか似てしまうのは
結局、仏や神ならざる人間の事情で存在する宗教だから
ドストエフスキー作品では神や信仰はもちろん
この聖人の説法も問題になる
たとえばチホンやゾシマとかね

というのはこの存在こそが神と人間の中間項であり
上述の信仰上の問題(つまり人間そのもの)を示す良いテスターだから
信仰は基本的に人間の事情に過ぎないのだけど
そんなのは神様の知ったことではないので
0590吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 01:58:47.28ID:tAXuXNXm
>マーシャはテーブルの上に横たわっている。私はマーシャとまた会えるだろうか?

ドストエフスキーは、どういう心で、このメモを書いたのだろうか?

同じ一文、同じひとことでも「その瞬間のどういう生命で」表出されたか。そこを見ぬかなければならぬ。
0591吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 02:09:57.24ID:tAXuXNXm
>ただキリストのみが、それを為し得た。しかしキリストとは、太古から人間がそれを目指してきた、また自然の法則によっても当然目指すべき、永遠の理想である。

今、ファウストのごとく、窓からま〜るい月天子が、タイプしてる俺を、優しく眺めている。

俺はお前に語りかける。こよい、真実の言葉を書かせておくれ、と。虚飾や、ウソはたくさんだと。

... 信仰とは、このように「まず、こうだと決めて」そこからスタートするのだ。わたしたちは迷う。

しかし「俺はこうだ」と決められる一点があるはずだ。それは北極星のように昏く、見えたり見えなかったりするかもしれない。
0592吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 02:21:17.61ID:5uMJt3oY
>>589
厳密にいうと(というより選ぶべき言葉を間違った、ごめんよ色々と言葉の背反を思惟させてしまった)、キリスト教ではなく「あのキリストの教えでは」と理解してもらいたい
キリスト教という組織では、なくすべき階級や役職や権力の繁栄がどうしてもあるし、世俗的な聖人を求めようとする、またそうしてきたし今もそうしているのかもしれない
いいわるいではなく、組織である以上において、機械的にも有機的にも人間がそこに実存する以上は世俗で力を可視化させる必要がある、役職とかのようにね
でも、ドストエフスキーはこいうのも批判的ではなかっただろうか

ここからは個人的感想ではあるけど、ドストエフスキーはキリスト教会の教えではなくてキリストの教えの方をうったえたかったのではないかと思っているよ
0593吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 02:25:11.47ID:5uMJt3oY
>>590
アリョーシャの言葉はドストエフスキーの心の叫びだったかもしれないね
「きっとまたみんな会えます!」
0594吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 02:26:36.33ID:5uMJt3oY
>>588
>処世術のノウハウを感じる。
ムイシュキン以外はみんなかなりしたたかだもんねw
0595吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 08:24:46.59ID:CZIIFvPj
>>594

でもムイシュキンは劉禅や今川氏真みたいに最後まで生き残るんじゃないかという気はするね。

天寿はまっとうできるタイプとみる。
0596吾輩は名無しである垢版2018/05/31(木) 08:25:13.73ID:CZIIFvPj
あと「未成年」にはムイシュキンは登場しないっす。
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