純文学で評論家の言う「良い」の基準って何?
良いの基準は酔いじゃないだろか?
文学は酔わせるものだと思う。酒を飲むと酔うけれども全然酔わないこともあるしウーロン茶でも
酔えることもある。ある程度の量を飲めばどうしても酔ってしまうが、2,3合程度ではよほど雰囲気が
よくないと酔わない。文学も時間を無制限に使って読むと駄作でも十分酔えるが、やはり良い作品は
少量でも酔える。しかし最初から酔うつもりで読み始める中毒患者の場合は何を読んでも酔える。
酒のみの親父に特級酒をプレゼントしたら「水みたいやな」と不評だった。酒のみには寧ろ2級酒くらいの
方が美味しいのだろう。だから読書中毒が紹介するような本は本当は酔い本ではない。
反対に水でもウーロン茶でも酔えるような人は繊細な感覚を持っているかというとそうではない。酔う
技術に長けているというだけだ。
ワインテスターは良いワインを選定できる。しかしワインが好きかというとそうではない。良いワインを選定する
技術に長けていて繊細な感覚を持っているからこそテスターになれる。そう考えてみると彼等は覚めていて
酔わない人でなくてはならない。
文学を愛する人は文学に酔うので文学の何たるかは知らない。文学を批評する批評家だけが文学の良いを
判別できる。しかし彼らは覚めていて文学の酔いには興味がない。鋭く判別はできるが何が良いのかは
関係ない。基準があればその基準に合わせて評価はできるというだけだ。
だから私が酔える文学を彼らが何と批評しようが彼らの基準とする良いとは関係ないのだからあまり意味がない。 良さがわかるということはない。良さは決めるのであって、解ることはない。
解るのは違いが分かるということだ。 テーマ自身の価値と、その表現技術でもって測られる。
ざっくり言うと、
テーマとは、人間の根幹に関わるほど重く価値があり、些細な感情や俗物めいたものは軽くなる。
表現技術とは、文体のリズムや、メタファーの妥当さなどだ。 論者の評価軸(特に技術)に照らし合わせた上で
既読作品群の中での平均より上かどうかというだけの話ではないかと
好みではないが良いと言えるのはそういうところだろう 読んで面白かったら
すなわち「良い」という評価になる。
それ以上の理屈をつけると
逆におかしくなる。 サウナ出る時「開かない!」とか演技したらみんなビビっててわろた