ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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19世紀で文学は終わった。終わらせた象徴としての存在はドストエーフスキー!でしょうか、
アインシュタインではないにしても「世界はまだまだドストエーフスキーに追いついていない!」。
芥川、阿部公房、太宰、三島……等々、
処女作や出世作死ぬ直前の作品に重要な場面で
ドストエーフスキーの名前が挙がっていますね。
では^^ 利根川進さんの自叙伝「旅人」で本人学生時代「いわん」という
あだ名で呼ばれていたエピソードも多分ワーニカを意味しているのでしょうし。
>>931 P ◆.uKag/vUmY さん、自分はキリスト教に詳しいですよー。
約3年程、プロテスタント福音派の教会に顔出ししていました。
今でも牧師さん、友人なのです。
ところで仏陀をディスっていた東電さん、昇天したのですか。
記憶さんは、無事退院したみいでお目出度い〜!
では♪ (-^ ^-) 悪霊が名作すぎて、今のところカラマーゾフにはハマってないが
まずはさいごまで読んでみようと思う むしろカラマーゾフの兄弟読んでキリスト教に興味がでた
そういう人も結構いるんじゃない?
それにしてもカラマーゾフがベストセラーだったというのは驚き
買って最後まで読んだ人はどれだけいるんだろうw >>143
キリスト教に興味持つだけでこの小説の価値はあるわ読破するのも大切だが日本人にはキリスト教は理解出来ないよ >>136
>キリスト教の部分が意味不明www
というかロシア史やロシア文化についての基礎知識が必要だと思う
聖女ワルワーラや聖人アレクセイといったロシア人なら誰でも知っているような
殉教者名やアレゴリカルな地名、人名が日本人だとピンとこない
たとえばスメルジャコフ(臭い男くらいの意味)の部屋の窓には
「悪霊」のスタヴローギンがマトリョーシャの自殺を見届けた時と同じように
ゼラニウムの鉢が置かれていたが
ゼラニウムの花言葉とは“ムハマンドの知恵”であり、
異教的な意味合いを持っている
イワンのとの対決後にマトリョーシャ同様スメルジャコフは自殺してしまう
マトリョーシャの場合はスタヴローギンの誘惑による
信仰の喪失と絶望が自殺原因だったが
スメルジャコフの場合は「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフ的虚無に近い
しかしムハマンド的「知恵」が背景にあることは間違いなく
この賢しらな「知恵」がキリスト教的信仰心によって批判される ドストエフスキーの解説本が手元にあるだけでもだいぶ違うよ
amazonでいくつかあるはず 死の家の記録が一番馴染みやすいわ
あとは罪と罰
カラ兄は最も難解であります >>141
東電さんについてそういう風に茶化すのは不愉快だな。 >>144
ドストエフスキーもキリスト教徒と自称するくらいだから、それで読者にキリスト教に興味を持たせたなら本望だったろうね
トルストイほど直球の普及活動はしてないけど
>>146
ムハンマドの知恵って興味あるなあ
ググったけど出てこなかった
覚えている限りだと、悪霊でキリーロフ が癲癇についてシャートフに語る場面でムハンマドの事も出てきたのがあったはず
ムハンマドにも癲癇の毛があったみたいな
ドストエフスキー自身が癲癇だったみたいだけどね >>147
解説本でオススメとかある?
ネットだとめっちゃ出てくるんだけど 毎日、毎時、毎刻、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように気をつけ
なければならない。例えば、幼い子共の傍らを通り過ぎる時、憎々しそうな様子をして、口
汚い言葉を放ち、腹立たしい心を抱いていたら、たとえ自分の方では子供に気がつかぬとし
ても、子供はちゃんと見てとるに違いない。そうしてその醜い汚れた姿が頼りない子供の胸
に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。つまり自分の方では気もつかぬ間に、子供の
心に悪い種子を投げたことになる。そうしてその種子が次第に大きくなってゆくのである。
それというのも、子供の前で慎しみを忘れたからである、用心ぶかい実行的な愛を自己の中
に培わなかったからである。
-------------------------
ドストエフスキー は、ゾシマは「実行的な愛」という言葉を、こうした意味で書いている。
この身の振る舞いこそが究極であることを。それこそが信仰の目的でさえあることを。
そうしてそれが、きわめて困難であることを。 諸師よ、愛は教師である。しかし、これを獲得する方法を講じなければならない。なぜならば
、愛の獲得はきわめて困難であって、高い価を払い長い間の努力をもってようやく贖われるも
のだからである。実際、愛は瞬間的のものでなく、長いあいだ持続するものでなければならない。 私の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これは全然無意味なようであるが、しかし実際は正しい
ことなのである。
何故かと言うと、一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。
たとえ小鳥に赦しを乞うのが気ちがいじみているとしても、もし人が現在のままよりほんの
少しばかりでも美しくなったら、小鳥や子供やその他のすべての動物は、それだけ心持ちが
軽くなるに違いない。
くりかえしていうが、一切のものは大海のようである。もしこれを悟ったなら、人は宇宙的
な愛の悩みを感じながら、――なんともいえぬ歓喜の情を抱きながら、小鳥に向かって祈祷
するようになるだろう。小鳥に向かって自分の罪を赦してくれと、祈るようになるだろう。
たとえほかの人の目にはいかに無意味に見えようとも、この歓喜の情を尊重しなければならない。
----------------------
わたしはネコに許しを請うた。それは小学4年のときに飼っていた猫であった。わたしの初めての猫であった。ある日、激しく吐くようになった。父と母はダンボール箱とガムテープで無理やり猫を
箱に詰めようとしていた。幼いわたしはその異様な光景を見て、必死でダンボール箱にしがみつき
猫を助けようとした。父は「ビニール袋かなにかを飲み込んだのだ。もう助かることはない。
死なせてやらないと可哀相だ」と。 長いこと忘れていた、この猫への悲しみと、激しい雨にけぶる荒川の真っ黒な水面と。
その水面をゆっくりと流れていくダンボール箱。
そして今は亡き父と母と。貧乏で動物病院へ連れていくカネはなかった。
強くなれ...厳しくなれ。こうした不幸を、二度と繰り返してはならない。
いっそう強く父と母へ回向をした。そしてまた、あの猫だけではない、自分が幸せにできなかった
ものたち。この心の中に「一切のものが大海のごとく、ことごとく相合流し相接触しながら、存在してるではないか」
そしてまた、自分の悲しみと すまなかったというこの気持ちも、全宇宙へと遍満してるではないか。 >>155
文学は時に自分の経験とつながることがある
ゾシマの兄にはキッカケにがあった
彼の場合は死が近づいたことがキッカケになったけど
きみにはきみの経験がとある本の内容を体験する瞬間があったんだね
この自分の体験が読んでいた本に繋がる瞬間、これも読書の意義なのかもしれないね
むしろ共感キモなのかもしれないけど 永遠の夫、って誤訳だよな
やっぱ、万年亭主のがしっくりくる >>151
俺が持ってるのは「すらすら読めるドストエフスキー」って本 埴谷雄高ドストエフスキー全論集ってむやみに分厚い本が古本屋にあったけどどうよ? >>159
その名前もみたことあるけど実際は誰がいいんだろうね
本屋でドストエフスキーの名前を目にすると気になっちゃうよね
名前ばかり覚えていくけど、内容はまったくしらないw 「ドストエフスキイの生活」は?まだ読んでないけど… やはり小林秀雄あたりがよそそう
名前的に選んではいるけど
解説本も一冊くらいとりあえず読んでみようと思う 468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2018/09/16(日) 01:54:17.21 ID:iqXRGs5S
俺は一人でいる時にやたら独り言を話す
それも全て英語で
延々と英語で独り言を話す
何故だか分かるか
つまり、そう言う事だ ドストエフスキーを理解するには、19世紀のロシアのインテリゲンチャの状況と特殊性について理解する必要がある
それについては、小林秀雄の「ドストエフスキイの生活」は、非常に参考になる
同じ小林秀雄全集第5巻に収録されている、「ドストエフスキイの時代感覚」と「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」も必読 イワンの悪魔がいう、悪のみを欲して善を行う、ってメフィストフェスも同じこと言ってた気がする
かく言う人間は、善のみを欲して悪を行うんだけど
ある意味で、悪霊のテーマだよね 女「で、年収は?」
男「年収??」
女「そうとも。あんたの年収が高ければ私は働かずに生きてゆかれるからの。」 この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は
種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長す
べきものは成長し、成長したものは現に生活している。
しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部
にあるこの感情が衰えるか、それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したもの
も死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。
私はこのように考えている。 (H)人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰
人間は何人の審判者となることもできない。これは特に記憶すべきことである。なぜならば、
審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めない限り、この地上に犯人の審判者
というものは存在し得ないのである。この理を悟った時、初めて審判者となることができる。
これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なの
である。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかも
しれない。 もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、自ら負うことができる
ならば、猶予なくそれを実行して、自ら犯人のために苦しみ、犯人はなんらの譴責もなく
赦してやるがよい。たとえ国法によって審判を命じられたのだろうとも、なお事情の許す
限り、この精神をもって行動するがよい。こうすれば犯人は法廷を去った後、他人の審判
よりさらに苛烈に、自分で自身を裁くだろう。もし犯人が審判官のキスに対してなんらの
感動をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去ろうとも、決して迷いを起こしては
ならない。これは詰まるところ、まだ彼の時が来ないのであって、来べき時には必ず来る
に違いない。
また来ないとしても同じことである。もし彼が悟らなければ、そのかわりにほかの者が悟
って苦しむだろう。そうして自分で自分を責めるに違いない。すると真理は充たされるこ
とになるのである。人はこれを信じなければならない、必ず信じなければならない。
この中に古聖の希望も信仰も、ことごとく蔵せられているからである。
------------------------------------------------
(我)これらは なんという思想だろうか? このような精神で行動しているもの、また胸中奥深くに
こんな思想を抱いているものが、現代世界に何人いるのか? >>171
>また来ないとしても同じことである。
こういう結果より経過を見るのを見逃さずにむしろ重視するドストエフスキーの考え方は好き >>172
> >また来ないとしても同じことである。
> こういう結果より経過を見るのを見逃さずにむしろ重視するドストエフスキーの考え方は好き
おれもここに着目してました。ここで結果より経過を重視するのは、まさにこれは信仰だからだと思います。「まさに必ずそうあるべし」と。
ただ、ここ「(H)人は同胞の審判者たり得るか? 」のところは、うまく説明できないが、強い違和感を感じるのも事実です。 >>173
>ただ、ここ「(H)人は同胞の審判者たり得るか? 」のところは、うまく説明できないが、強い違和感を感じるのも事実です。
素直に言葉を読むと自分はこうなった
ここで言う審判者になり得るは、審判者になるには被告と同じだけ(それ以上)に罪があると自覚する事が必要と言っている
言葉の通りに読むなら、犯罪者しか犯罪者を裁けない、みたいな感覚で言ってるように読める
しかしそもそも裁くのは司法(非犯罪者)が世の法則であると続き、その審判者は犯罪者(自分)であると話を最初に戻しているように感じる
要するに人は人を裁けない事を知ろう、ということかな
裁くものはいないから、罪は認める必要があるけど、裁かないで許しちゃえ!そーすれば自分(見た誰か他の人)でいずれ後悔して回心するだろう
みたいな事を言いたかったのかかもしれない、と読めるんじゃなかろうか >>171
>これらは なんという思想だろうか?
いわゆる「悪人正機」に近いものでしょうね
無明の世界にいる罪人が弥陀の「不可思議光」によって覚醒する
ここで注意すべきことは闇に光が訪れて照らされるのではなく
他力によって闇が光り輝き始めて罪業が浄化されて回心がなされる
これは反省や自己批判といったものではない
それゆえ「不可思議」と形容されるしかない
トルストイもそうだけどドストエフスキーの議論には
東方の異教的な発想に近いものがある
まあこの場合はイスラムではなく東洋思想に近いわけですが >>174
> 素直に言葉を読むと自分はこうなった
> 被告と同じだけ(それ以上)に罪があると自覚
原文。
>『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』
>自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかった
一側面として「一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。」
という思想・信仰を内包している。すべては関連してる、すべてはつながり合っている、偶然はない、という。 >>174
> 素直に言葉を読むと自分はこうなった
素直に読むことこそ いちばんむずかしいと感じます。ですから、解説書のたぐいは初読のときは
読むべきではない。解説者の境界が入り込むからです。
> 被告と同じだけ(それ以上)に罪があると自覚
原文。
>『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』
>自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかった
一側面として「一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。」
という思想・信仰を内包している。すべては関連してる、すべてはつながり合っている、偶然はない、という。 >>175
ぼくの受けた印象は「西洋的な伝統のもとにひじょうに深い思索」であると。
ただ、ひとつ問題が。人間の本能を無視していないか?と。
ここでは司法に限定されてるかのようだが、別の箇所で「復讐心」についても語られている。
悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、とうぜんの生命の法則性である。
つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。
とにかく(H)人は同胞の審判者たり得るか?の内容を、2ちゃんニュー速などで展開しても
理解するやつは少数でしょう。
論理的な文は書けなかった。諸兄の思索の展開を待つ。 >>175
ぼくの受けた印象は「西洋的な伝統のもとにひじょうに深い思索」であると。
ただ、ひとつ問題が。人間の本能を無視していないか?と。
ここでは司法に限定されてるかのようだが、別の箇所で「復讐心」についても語られている。
悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、とうぜんの生命の法則性である。
つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。
とにかく(H)人は同胞の審判者たり得るか?の内容を、2ちゃんニュー速などで展開しても
理解するやつは少数でしょう。
論理的な文は書けなかった。諸兄の思索の展開を待つ。 >>175
ぼくの受けた印象は「西洋的な伝統のもとにひじょうに深い思索」であると。
ただ、ひとつ問題が。人間の本能を無視していないか?と。
ここでは司法に限定されてるかのようだが、別の箇所で「復讐心」についても語られている。
悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、とうぜんの生命の法則性である。
つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。何か一段高みから
すべてをみおろしてないか?
とにかく(H)人は同胞の審判者たり得るか?の内容を、2ちゃんニュー速などで展開しても
理解するやつは少数でしょう。
キリスト教が偽善的であると解釈されがちなのは、こういうところに由来してないか。誤解を避けるために書きたいが、
「犯人をバンバン死刑にしろ」的な感覚は、大嫌いです。個人的に。
論理的な文は書けなかった。諸兄の思索の展開を待つ。 >>181
>つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。何か一段高みから
>すべてをみおろしてないか?
見方として、見下ろすと悲観的な結論につなげなくてもいいのかもしれないよ
むしろ当事者という意識を無くしたかったのかもしれない
ドストエフスキーは我やエゴの部分を、自分と他人を分ける部分をどう無くしていくのかにこだわった作家でもあるし、それが不可能と分かっていながら自分が一番認められないイワンの側面を持っていた
法則は本能的であるけど、法則を超える事に生きる意味を探している作家でもある
キリスト教的に言えば隣人愛の到達であるし、東洋思想で言えば無我とか真我なんていうのかな
一切は大海、そういう事なんだろう >>181
>悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、
>とうぜんの生命の法則性である。
それは科学主義に基づく自然の法則と
ジュネーブ思想と名付けられた市民社会の名誉意識が複合したもので
ゾシマの思想はそういうものではない
仏教思想の時事無碍法界相のようにすべてが連続的であり
それ故に「愛」に基づく融和が生じるといった発想で
「神」というのはこの連続性の最終審級くらいの意味ですね
たとえば検事イポリートによるミーチャの論告求刑は前者の見方で
精神分析や論理学で法としての罪を構築していくが
これは冤罪に過ぎない、しかしこの社会的制裁、つまり「罰」を
あえて汚名とともに引き受けることによって贖罪と自他の救済が生じる
作品の冒頭に記された聖書からのエピグラムである
一粒の麦〜というのはそういう事でしょう
ドストエフスキーはいちおうキリスト教世界にとどまるのだけど
ローマカソリックやプロテスタントと違った独自の境地にいる 法廷闘争部分である最終章は退屈極まりないけど
やはりこの作品の完成度は高い、と言わざるを得ない >>183
>ドストエフスキーはいちおうキリスト教世界にとどまるのだけど
>ローマカソリックやプロテスタントと違った独自の境地にいる
そうだね、カトリックプロテスタント批判をよく耳にするね
彼は正教会だけどその中でも煙たがられていたくらいだから、もっと異端扱いされてたのかもしれない
だってハッキリと書いている
キリストに近付こうとする事を教理にする教会からすればたまったもんじゃないだろうから
「キリスト教の教えに従い、己のごとく隣人を愛する事は不可能だ。この地上ではみんなが個我の法則に縛られているからだ。我が障害となるのである。ただキリストのみがそれを成し得た。………」
結局、イエスの教えができたのはイエスだけだった、と言ってしまえば批判は免れないと予想でこるのに >>182
>法則は本能的であるけど、法則を超え
なければならないのだ。それはそのとおりだ。 >>183
> >悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、
> >とうぜんの生命の法則性である。
>
> それは科学主義に基づく自然の法則と
> ジュネーブ思想と名付けられた市民社会の名誉意識が複合したもので
「市民社会の名誉意識」とは思わない。より本源的な素朴に生命的なものと考える。
右の頬を打たれたら相手の左の頬を殴り返したくなるのが人間生命であり、クリスチャンであってもとうぜん同じ。たとえばw煽られれば煽り返すのが2ちゃんの流儀であり、精神衛生上もよい。
(しかし、精神衛生上は良くても、因果の法則性的には、まったくよくない)
言葉であれ、暴力であれ、この場合なら、相手の修羅界の生命という縁に触れて、自分の修羅界が出生する。しかしその負の力にどうすれば打ち勝てるのか? その方規が問題なのだ。
> ゾシマの思想はそういうものではない
それはまちがいない。「ゾシマの思想はそういうものではない」
> たとえば検事イポリートによるミーチャの論告求刑は前者の見方で
> 精神分析や論理学で法としての罪を構築していくが
> これは冤罪に過ぎない、しかしこの社会的制裁、つまり「罰」を
> あえて汚名とともに引き受けることによって贖罪と自他の救済が生じる
これはゾシマの腐臭に通じている。ゾシマの死臭により、その生涯は汚点をもって解釈されるのか?
>法廷闘争部分である最終章は退屈極まりないけど
ぼくはそう思わなかった。「カラマーゾフの兄弟」に退屈な箇所というものはなかった。ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。 >>187
>「市民社会の名誉意識」とは思わない。より本源的な素朴に生命的なものと考える。
いや、前作の未成年でヴェルシーロフの口を借りて
ギリシア思想における公共性の延長として
市民社会における名誉や相互承認があるのだ、と指摘されているし
カラマーゾフではカソリックやその反動にすぎない
プロテスタント(理神論)によってロシア正教的キリスト教思想の衰弱がもたらされこれが啓蒙主義的科学主義の温床になっているのだ、という考え方です >>187
>ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。
その追体験はあくまでイポリートによって批評的に再構成されたものであり
実際は前章までの生の物語を論理的に再構成した市民的価値判断に過ぎない
この論証性によって有罪が確定されるのだが
ミーチャがこの罪をあえて引き受けるというところに意義がある >>189
> >ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。
>
> その追体験はあくまでイポリートによって批評的に再構成されたものであり
> 実際は前章までの生の物語を論理的に再構成した市民的価値判断に過ぎない
> この論証性によって有罪が確定されるのだが
> ミーチャがこの罪をあえて引き受けるというところに意義がある
誤解だ。俺が言ってるのは、「前章までの生の物語」から連続するところの「論理的に再構成した市民的価値判断」を押し付けられ、やがて「この罪をあえて引き受けるという」という精神の流れを
そのまま体験せよ、と言ってるのだ。もっと言えばわれわれは皆ミーチャだ。
同じく、
> この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
> 界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
> いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
> 哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は
> 種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長す
> べきものは成長し、成長したものは現に生活している。
>
> しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部
> にあるこの感情が衰えるか、それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したもの
> も死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。
> 私はこのように考えている。
第7篇でアレクセイが、星空と秋の草花の下で、この「神秘なる他界との接触感」を体験した。
師匠の教え通りの追体験をしたのだ。アレクセイとミーチャを信奉するわれわれは、もし老年であろうとも そのまま青年である。アレクセイである。 >>187
>これはゾシマの腐臭に通じている。ゾシマの死臭により、その生涯は汚点をもって解釈されるのか?
この物語は匂いがあるから意味があったのです
罪をあえて引き受ける、というのは本当に難しい
匂い(ゾシマの腐臭もソーニャのまっすぐな目も)とは存在である
多くの人は精神的に何が正しくて何が正しくないのかを頭では理解しているし、人類を愛してさえいる
でもダメなんだ
自分の正しさを「今は」表に出さずにはいられない
匂う相手が現在の目の前に現れると法則も同時に姿を見せて、その姿に圧倒される
人類(匂わない)を愛する事は出来るが姿(匂う)を見せないこと、とイワンは言ったけどね
ドストエフスキーの言う法則を超えられない、というのは個我を消すのがどれほど不可能な事のか、という命題でもあると思う
この匂いに圧倒されて感情をその場で発散させる、が、後で良心に思い合わせて言った事を後悔する
この人間的な矛盾に神秘がある、とドストエフスキーは肯定的にも否定的にもなれないイワンに似ている作家と思うのです >>192
> 自分の正しさを「今は」表に出さずにはいられない
すごい文であり思索だが、上の一行の意味がよく取れなかった。ゆっくりでいいから、もう少し解説してくれ。 >>193
単純に、言い返したりするのってその瞬間ムカついたとかっていう理由じゃない
後で言い過ぎたなあー、って思うんだけどさ、「今のその瞬間」は言っちゃうんだよね
なんでかって言うと、相手を目の前にしているから
つまり存在を目の前にすると自尊心ってやつが芽生えるから言っちゃうんだよね
まさにあの地下室の主人公だよ(地下室では人類を愛しているが、扉を開ければ人類は敵になる)
頭(精神)で悪いことって理解しているけど、その瞬間はダメなんだ
つづき>>192
>多くの人は精神的に何が正しくて何が正しくないのかを頭では理解しているし、人類を愛してさえいる
でもダメなんだ
そして以下のあの文に繋がる
他界とは精神的な事=天の種
成長する草は肉体的な事=成長した(例えば草)
精神の世界では人類は姿がない(天の法則):匂わない
肉体の世界では人類は姿がある(地の法則):匂う
一読者の解釈にすぎないけど自分はこう読んだ、という事なので正しいのかは分からないよ
こう言うのは形而上の話なので形而下で正解を決めるのは難しいからね
「(全文:哲学では不可能である):神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。」
だからそもそも、精神の種で生まれ地で成長する、という矛盾してつくられているからこの世界で調和させるのは(哲学的な=地上の考え)では不可能、とドストエフスキーは考えたのではなかろうか
で、キリスト(天の考え)を(地の法則)に加えるとどーかな?調和出来ないかな?という読み方です
この辺は正教的な神化とかっていう考えもあるんじゃなかろうか、と思うのでした >>192
この文は詩的に昇華してる。たしかに言われてみれば、あの断章は、匂いや五感に総合的に訴える
インスピレーションが多い。 眠る時刻です。皆さん、今日はありがとうございました。 ドストエフスキーが影響を受けたとされるバルザックを読んでいるが、これは傑作だったよ
と、言ってもゴリオ爺さんだけだけどね
個人的にはとてもよくにていると感じた
スヴィドリガイロフっぽいのもいるし、良心と自尊心に悩まされて翻弄する主人公なんて、似ているように感じ、感じるかこそ面白かった
他に影響を与えたのではなく、受けたの作家って誰なんだろう
なんて思っている >>200
ゴーゴリ、国外ではGoetheかな〜
では〜♪ (-^ ^-) 影響を受けたのは、ゲーテよりシラー
「カラマーゾフ」なんて全編がシラーだ
ベートーベンが最後にシラーの詩を使って第九を作ったように
もっとも、小林秀雄はこう書いているが
「彼ほど往年のシルレルの夢から徹底的に覚めた作家はゐなかった。当時の流行思想が、コントやミルの衣裳を纏ったシルレルに過ぎない事を彼程明らかに看破したリアリストはゐなかった。」 >人間はなんぴとの審判者となることもできない。これは特に記憶すべきことである。
なぜならば、審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、
むしろこの人間の犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めない限り、
この地上に犯人の審判者というものは存在し得ないのである。
たとえば宅間守がここにいたとする。わたしは彼の審判者として指定された。そのとき
『自分は目の前に立っている この宅間守と同じような殺人犯である。否、むしろこの宅間守の
小学生みなごろしの犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めるのだ。
------------------------------------------------
>これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理
なのである。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかっ
たかもしれない。
じっさい自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている宅間守は生じなかった!
それはなぜか?「いっさいは大海だからである。いっさいはつながり合っているからである」
------------------------------------------------
もし宅間守が自分の前に立って、自分の心のままに審判される宅間守の罪を、自ら負うこと
ができるならば、猶予なくそれを実行して、自ら犯人のために身代わりで死刑になり、宅間
守はなんらの譴責(けんせき)もなく赦してやるがよい。
これは古代部族社会ならできたのではあるまいか?ひとりの超権力者に願い出れば、こんな
ことも可能だったのではあるまいか? さてこの「きちがいじみた言葉」には続きがある。
>なお事情の許す限り、この精神をもって行動するがよい。 「いっさいは大海だからである。いっさいはつながり合っているからである」
そのためだけではなかろう。この精神は重要なかんがえ 死刑廃止国家では宅間は「罪人」ではない
何故なら彼はそう生まれついたのだから ドストエフスキーが出した結論が古典ロシアキリスト教への回帰ってのがなんかなあ
今の時代に生きていたら結論変わっていたのだろうか >>207
> 死刑廃止国家では宅間は「罪人」ではない
宅間のみが罪人なのではない。すべての人間が罪人です。ぼくのなかで、ぼくの信仰にもとずき「罪」という言葉をキリスト教概念で考えていないが。
> 何故なら彼はそう生まれついたのだから
これについては、深い意味があるかもしれないですね。 >>208
> ドストエフスキーが出した結論が古典ロシアキリスト教への回帰ってのがなんかなあ
> 今の時代に生きていたら結論変わっていたのだろうか
宗教的価値というものは、時代によって移ろうものではないとおもう。それが、真実の普遍性をもつものならば。
たとえばゾシマの説教集におさめられた言葉を明確に批判して「ではどうすべきか?」対案を出せる
賢者というものはいるのか?
そこにキリスト教信仰が書かれていても、ぼくは仏教と究極的には完全に合致すると思う。
神とか仏とか世界解釈の観念が異なっていて、思想がちがうから、生き方も変わってくるかもしれない。しかしそれでも「究極的価値は一致する」と感じる。 カラマーゾフの隣人愛ってさ、結局はスメルジャイコフも愛せるのか?って事だよね
すべての人が罪人であってすべての人を愛さないと許さないといけないならば、犬にグギのついたエサやりを楽しめるスメルジャイコフの人間性も愛せるし許せるってことになる
同じ人だから、と
それはそれでどーなんですか、とも思うのです ついさっき、衝撃の事実を知った
お気に入りだった援交ものの動画で、「中学2年生、14歳」と自己紹介していた子が、
実は、高1だったらしい
マジで吐き気がする・・・、JKみたいなババアで今まで抜いてたんだぜ・・・
おぞましい・・・、気持ち悪すぎ・・・ >>211
> カラマーゾフの隣人愛ってさ、結局はスメルジャイコフも愛せるのか?って事だよね
> すべての人が罪人であってすべての人を愛さないと許さないといけないならば、犬にグギのついたエサやりを楽しめるスメルジャイコフの人間性も愛せるし許せるってことになる
> それはそれでどーなんですか、とも思うのです
隣人愛、愛という言葉のとらえ方が違うんじゃないですかね?
> 同じ人だから、と
じっさいあなたもわたしも、そういういのちを持っているんじゃないですか? >>213
隣人愛を否定しているわけではないですよ
ただなんと言うか、現実的にスメルジャイコフを愛するって言うのは難しい
でもそこまですることを宗教は求めている
アリョーシャですら一時は彼を嫌悪したのです >>217
スメルジャコフにも いいところはあるんだぜ?
小さいころに彼は、猫を絞め殺して、あとで葬式のまねをするのが大好きであった。
そのために敷布をひっかけて法衣の代わりにして、何か香炉《こうろ》の代わりに
なるものを猫の死骸の上で振り回しながら、讃美歌をうたったものである。これは
厳重な秘密裡《ひみつり》にこっそりと取り行なわれた。ある時、そういうお勤め
をしているところを、グリゴリイに見つけられて、鞭《むち》でこっぴどく折檻
《せっかん》されたことがある。するとこの子供は片隅へ引っこんでしまって、
一週間ばかりというもの、そこから白い眼を光らせていた。『このできそこないはわ
しやおまえを好いていねだよ』とグリゴリイは妻のマルファ・イグナーチエヴナに言い
言いした。『いや、誰ひとり好いていねんだよ。それでもてめえは人間なのかい?』と、
彼はだしぬけに当のスメルジャコフに向かって、こんな風に言うことがあった。
『うんにゃ、てめえは人間じゃねえ。湯殿の湿気からわいて出たやつだ、それがてめえ
なんだぞ......』それはあとでわかった話だが、スメルジャコフはいつまでもこのことば
を恨みに思っていた。
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このエピソードを読んで、これは「じっとこらえて今に見ろ!」の精神だと思った。
自分にとってはイヴァンなんかよりよっぽど彼と仲良くなると予測する。
こういう悔しさと人生の辛酸をなめなければ、けっして人生の本当の意義などわからない。 今キリスト教は同性愛を受け入れようとしている
それは同性愛者がそう生まれついたのは神が彼らをそのように作った、とするためである
それはつまりクレプトマニアのような異常性癖からスメルジャコフのような類まで
「すべて受け入れる」ということになる
受け入れるとは「行為を容認」することだろうか?
すべて許してそのままにしておくことだろうか 人に迷惑をかけないのなら問題なしでしょ
異性愛者だって他人に迷惑をかければ処罰され規制される カトリックの同性愛者司祭は同じ同性愛者とことに及んで処罰うけたで >>221
迷惑をかける類のものは?体罰で矯正でもすべきか? >>220
容認でしょうね
容認するとは相手を理解することで人格を認めているわけですし、自分の良心との呵責もあります
肯定的にも否定的でも、そこまで分かった上で相手を尊重するならば、それはもはや寛容じゃないでしょうか
いいわけもでいますしね
あくまで寛容に接したんだよ!みたいに
自分の規範は崩さずとも寛容になることはできるんじゃないでしょうか
と、ヴォルテールの言葉をいくつか借りましたが キリスト教の一番の過ちは「自分でないものになろうとする」ではないのか
ゲイでない人間がゲイになり、それがソドムになった
真実の同性愛者である限りは神は「私はあなたをそのように作った」というだろうが
そうでない人間にはそれを偽ることがすべての悪徳
それを促すことも悪徳で、その考えを利用することも悪徳 >>224
じゃあスメルジャコフが近所の猫をすべて殺し回っても正しい? 「私は盗人のような人間ではありましたが、心の弱い人間だったので促されるままに盗人になりました
それは神が私を弱い人間にお作りになられたためです」
これが許されるはずがない 間違えた
「私は本来盗人のような人間ではありませんでしたが、心の弱い人間だったので促されるままに盗人になりました
それは神が私を弱い人間にお作りになられたためです」 一方でキリストのいう許しは、自己を許すように相手も許しなさいという事だから、これは理想ではあるけれど難易度が一気に上がりますね
>>220の言う通りにこれはキリスト教での話だから、理想はそうなんだけど、キリスト教の話ならばそもそも同性愛は神の禁止なわけであるから、許す許さないとは次元がちと変わってくるようにもおもわれますね
こういう善悪にすり替わってしまうような問題は、つくづく難しいと思わされます >>226
正しくはないですね
同性愛は寛容になれるかもしれませんが、あの猫は寛容になれる自信はないでしょう >>225
>キリスト教の一番の過ちは「自分でないものになろうとする」ではないのか
そうですね、自分自身が自己であろうとすること、そして神との関係に自己の関係を置く事、が理想なのかもしれません
そうですね
それに神がそうつくった(ように見えるから)、だからなんでもしていいというのは暴論です
母親に駄々をこねてる子供のようですね
ドストエフスキーが再三いった自由意志がないですからね カラマーゾフの兄弟読んで思うんですが
アリョーシャはイワンの大審問官に反論できてませんよね。
2部でするつもりだったのでしょうか >>230
でも猫の屠殺が広く受け入れられてて野良を殺すのは何の罪にも問われない国だったら?
日本でもイノシシでやるならOKだろう
その善悪の規範は何を元に考えられる? >>233
この場合の善悪の規範は文明性ではないでしょうか
誰もが獣性をもっていますが、それに蓋をする事が文明国ではモラルになっています
猫を殺して葬式をあげるのは残虐に見えるだから文明はそれを排除する、ということです
しかしそれは時代や背景で変わる規範にすぎないので、あなたの言うような普遍的なモラルはそこにはないと思います 文学の手本の様に人生の本質的な問題が語られる、どの文字フレーズにもね
このスレッドは秀逸。 文学的評価としては白痴>カラマゾフ>罪と罰なんだろうけど、私は悪霊が好きですね >>232
イワンが話し終えるとキスしてそれ終わりですね
否定がるが理解し得るため、そもそもイワンの叙事詩はキリスト賛美でしかないことを理解し、沈黙しか残ってはいなかったんじゃないでしょうか
間接的には、その後にあるゾシマの講談でどれを為し得ているように、思えます
ここでも、プロとコントラスですね 614 もしもし、わたし名無しよ (ワッチョイ 67be-gyKE)[sage] 2018/10/11(木) 19:31:01.43 ID:SGMbgWVM0
自分はアンティークドールに累計で4億円程使ってます
皆さんはどのくらい使ってるんですかね
やっぱ累計だと10億以上ですかね
自分は4億円程なので恥ずかしい限りですよ 「未成年」の節約生活ノウハウは過小評価されている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています