>>183
> >悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、
> >とうぜんの生命の法則性である。
>
> それは科学主義に基づく自然の法則と
> ジュネーブ思想と名付けられた市民社会の名誉意識が複合したもので

「市民社会の名誉意識」とは思わない。より本源的な素朴に生命的なものと考える。
右の頬を打たれたら相手の左の頬を殴り返したくなるのが人間生命であり、クリスチャンであってもとうぜん同じ。たとえばw煽られれば煽り返すのが2ちゃんの流儀であり、精神衛生上もよい。
(しかし、精神衛生上は良くても、因果の法則性的には、まったくよくない)
言葉であれ、暴力であれ、この場合なら、相手の修羅界の生命という縁に触れて、自分の修羅界が出生する。しかしその負の力にどうすれば打ち勝てるのか? その方規が問題なのだ。

> ゾシマの思想はそういうものではない

それはまちがいない。「ゾシマの思想はそういうものではない」

> たとえば検事イポリートによるミーチャの論告求刑は前者の見方で
> 精神分析や論理学で法としての罪を構築していくが
> これは冤罪に過ぎない、しかしこの社会的制裁、つまり「罰」を
> あえて汚名とともに引き受けることによって贖罪と自他の救済が生じる

これはゾシマの腐臭に通じている。ゾシマの死臭により、その生涯は汚点をもって解釈されるのか?

>法廷闘争部分である最終章は退屈極まりないけど

ぼくはそう思わなかった。「カラマーゾフの兄弟」に退屈な箇所というものはなかった。ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。