ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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>>737
ドストエフスキーは土壌主義と言われるくらいに、民衆に癒着している何か、という概念をとても大切にしたと云われるね
トルストイもまたそうだったと同じくする
ロシアというのは国民性の中に、祖国に対する、という習性が強いのかもしれない
日本人のぼくからすると、愛国心何て言われると、何か独特の違和感を持ってしまうけども、そういうのは本来なら当たり前の気持ちなのかもしれない
それでも、無関心より悪いものはない、というのがドストエフスキーの見解だったりもする、何て思う
「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです。」スタヴローギン バルザックは『知られざる傑作』くらいかな、読んだの
フランス革命前後の作家だけど、何のために読むのかというのが重要だ >>739
1> 土壌主義と言われるくらいに、民衆に癒着している何か、
>
2> ロシアというのは国民性の中に、祖国に対する、という習性が強いのかもしれない
> 愛国心
3> 「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです。」スタヴローギン
きみの言わんとするところを理解しやすくするため要約した。ここでは2についてのみ書きたいことがある。
... ごめん、ちょっと休憩w 夜までに書く 当時はロシアに限らずどの国もナショナリズムの時代でしょ
言葉遊びで誤魔化さなければ日本帝国主義やナチズムと何ら変わらない
スターリンがレーニンと袂を分かつ契機となった大ロシア主義が、
ドストエフスキーが言うところの汎スラブ主義なんだよ >>741
いやいや、時間のある時にでもごゆっくりー 一同は、主人も客も、長老の寝台のすえてある第二の部屋に座を占めた。
これは前にも述べた通りきわめて手狭な構えであるから、四人の客は
やっと長老のひじかけいすをとり巻いて、第一の部屋から持って来たい
すに腰をおろすことができた(ただし、修行僧のポルフィーリイはしじゅ
う立ったままであった)。早くも夕闇がせまってきた。部屋は聖像の前な
る灯明とろうそくの光に照らし出された。アリョーシャが入口に立って
もじもじしているのを見て、長老は喜ばしげにほほえみながら、その方
へ手をさし伸べた。
「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来
たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
------------------
1,長老の部屋はきわめて狭いこと
2,修行僧のポルフィーリイはしじゅう立ったままであること
3,「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰っ
て来たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」 「第六篇 ロシアの僧侶」冒頭から全文を引用してコメントを入れて
いく試み。
ただしどこまで続くかわからない。ゾシマ青年時代、決闘の前夜従
者アンフィーム?を殴るところまで到達したいと希望している。
同志たちよ。
ほとんどレスを返さないがかんべんしてくれ。 >>739
>ロシアというのは国民性の中に、祖国に対する、という習性が強いのかもしれない
逆に弱い
とくに貴族・知識人層はドイツやフランスに留学して
外国語や外国文献からの引用を自在に操ることがプレステージとなっていた
そういう上層部にとっては「未開」で啓蒙の対象となる
土俗的な民衆と民間信仰にロシア固有の民族性を発見したのが
プーシキンやドストエフスキー、トルストイであって
ドストエフスキーの作品で素朴な民間信仰に生きる庶民や
子供たちに無垢なものを見出すのはそのため 東大作家じゃ世界文学全集につぶれちゃうね。そろそろ最強の日本軍軍人文学者出せよ。 ツルゲーネフの小説でも外国かぶれを揶揄するようなセリフが良く出てくる
ナポレオン戦争以降、ロシアは封建階級を中心にかなりフランスかぶれだったと聞く
ステパンやスタヴローギンは外国語で育ち、ロシア語を満足に話せない上流階級・知識人階級の象徴でもある 前にここで名前出てたシラー面白かったよ
ユゴーは意外と読んでない人いるかな、あっという間に読めるからおすすめしとく >>746
そう言われるとそうですね
弱いからこそ見返して民衆に沿う事を訴えた、という理由があると言える >>750
レミゼラブルって事?
ユゴーなら何がおススメ?
シラーの群盗は面白かった
シェイクスピアより濃い戯曲はなかなかあるまいw うんレミゼラブル
ちくま文庫のが解説含めておすすめだけど書店にないんだよな
あとノートルダムドパリも面白い
これはドストも翻訳されたとき序文書いてるらしい(うる覚え)
死刑囚最後の日は未読だけど面白そうなんでいつか読む >>753
今ちょうど読んでいた本に区切りが出来て、次に読む本を探していたから助かるよ
ちくまでレミゼラブルを探してみる
結局は書店になくてアマゾンになりそうだけどw ちくまじゃないとダメてわけでもないから新潮や岩波でも読めそうなら全然あり
解説もレミゼラブルは面白い解説本が意外とあるしね アリョーシャが入口に立ってもじもじしているのを見て、長老は喜ばしげにほほえみなが
ら、その方へ手をさし伸べた。
(アリョーシャにとって、長老は猛烈な権威だった。善と正義の権威であった。だから、
もじもじしていた。)
「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来
たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
アリョーシャはそのそばに近寄って、額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急に
さめざめと泣きだした。何かしら心臓が引きちぎれて、魂が震えだすように思われ
た。彼は慟哭したいような気持ちになって来た。
(ここ数日、長老の死という高い緊張感をアリョーシャは生きてきた。だが父は待っていた。
けっしてアリョーシャを置いて、逝かないことを。ゾシマの心の中にはつねにアリョーシャ
があった)
「お前はなんとしたことじゃ、泣くのはもう少し待つがよい。」長老は右の手をアリョー
シャの頭に載せて、にっこり笑った。「わしはこの通り腰をかけて話をしている。この
分なら、本当にまだ二十年くらい生きられるかもしれんて。
(ゾシマはある意味超人的な側面を持つが、もうひとつの明らかな側面とは、すべての人の
父とならん、としたことではないか?) 昨日ヴィシェゴーリエからリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な優しい女房の言
うた通りかもしれんて。神様、どうぞあの母親と娘のリザヴェータをお守り下さりますよう
に ! (と彼は十字を切った)。ポルフィーリイ、あの女の施し物をわしの言うた所へ持って
行ったか?」
これは昨日元気のいい信心ぶかい女房が、『わしよりも貧乏な女にやって下さい
まし』と言って寄進した、例の六十コペイカのことを思い出したのである。この種の
寄進は我から好んで己れに課した一種の難行と言った形で行われるのだが、その
金はぜひとも自分の労働で得たものでなければならなかった。長老はもはや昨晩
の中にポルフィーリイを使いとして、ついこのあいだ火事で丸焼けになった町人の
後家にその施物を贈った。この女は火事に 遭った後、幾たりかの子供をつれて袖
乞いに歩いているのであった。ポルフィーリイはもう用件をはたして、金は言いつけら
れた通り、『無名の慈善家』という名義で贈ったことを急いで報告した。
----------------------------
ここのところはとくにオニオンに心を込めて読んでみよと言いたい。
オニオンなら「きっと、施し物のカネは、ゾシマと教会がふところに入れちまうんだろうな」
と予測しただろう。
ところが現実はちがうのである。わたしたちは、一般世間の常識とは隔絶した価値基準にのっとって
生き、動いているからである。
他人を助ける。それは即自分のためなのである。この難行に「チームで」挑戦している。 自分のためとは、ビル・ゲイツが莫大な寄付をして、名声を得るのと異なる。
じゃ、なにが「自分のためなんだ?」その回答が宗教と信仰のメカニズムです。
このことは文学哲学書を読んだだけで会得できるような性質のものではないです。
しかし、カラマーゾフやドストエフスキーを読めば、その片影を感じることができる。 作り話の中と現実の区別もつかないとは、やっぱり宗教は害毒だと思った
ドストエフスキー自身も現実ではギャンブルに狂ってたクズだし、
麻原尊師も言葉の中では立派に空中浮游していたことを思いだそうよ?
言うは易し、行うは難し! 本読まない阿呆な人間がカラマーゾフに挑戦してみたが
序盤の教会ゾシマ長老とフョードルの初絡みで堪えきれず爆笑しちまった
久々にこんな笑ったわ
本でこんなに爆笑できるもんだとは思わなかった
こんなの笑わずに読めるヤツがいるのかと思ったが変なのか
難しそうだけど岩波買ってよかった。青空のほうの朗読を聞いてるとニュアンスが全然違って聞こえる
これ呼んだらいろんな考察を見て回っていずれロシア語原文にもあたりたい
なんかすごく良い趣味が出来たきぶん >>760
カラマーゾフ読んで笑える感性は一つ才能だよね
シリアスな所も、なんか変に小難しい所も、まだまだ出てくるから飽きずに読みきれる事を願っています そりゃ、そうだろう、趣味嗜好なんて千差万別だからな
同じJKフェチの中にも、
現役JKじゃないと認めない派と、制服が似合っていればアラサーでも可派、
青い蕾のような成長途上の張りと弾力のある体が極上派と、むしろ体は25くらいの発育しきった柔らかいのが好みで、それに制服着せたら最高、
逆に現役でも全裸や私服なら全然興奮しない派
制服で美少女なら言うこと無し派と、むしろ顔はちょいブスくらいがリアルな女子高生感があって良い派、
JKの瑞々しい太腿全開の激ミニがたまらない派と、激ミニなんてビッチすぎて萎える、膝上10cmくらいが清楚感を保ちつつ、ちらりと見せるエロさが絶妙派、
スカートの中の秘密の花園を覗くと最高のリビドーが襲ってくる派と、日常の登校風景のような全身画だけで十分抜ける、別にパンツまで見たいとは思わない派、
未だにブルマのことが忘れられない派と、ブルマなんてもはやAVの世界だろ、ハーパン以外ありえない派、
パッと思いつくだけで、これだけある
さらに、細かく分類すれば、「ブルマの中にシャツ入れ派」と「シャツ出し派」とかあって、キリがないくらいだわ >>756
> アリョーシャが入口に立ってもじもじしているのを見て、長老は喜ばしげにほほえみなが
> ら、その方へ手をさし伸べた。
>
> (アリョーシャにとって、長老は猛烈な権威だった。善と正義の権威であった。だから、
> もじもじしていた。)
>
> 「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来
> たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(アリョーシャにとって、長老は猛烈な権威だった。善と正義の権威であった。だから、
> もじもじしていた。)
この説明はちがうようにおもわれる。諸君の意見をききたい。 >>757
>例の六十コペイカのことを思い出したのである。この種の
寄進は、われから好んでおのれに課した一種の難行といった
形で行われる
カネを出すことは難行中の難行であろう。何のためにするのか?
>その金はぜひとも自分の労働で得たものでなければならなかった。
ナマポの金、賭博でもうけたカネ、それどころか親から受け継いだ
資産さえ受けつけない。
比喩的にいえば、身を削り「大地を耕して得たカネのみ」と解釈する。 オニオン君の書き込みを見てると、ほんとうにラキーチンそっくりでびっくりする。
自尊心というワクを超えるものを持たない。自分がないからとうぜん他人もないと
思い込む。諸君はどう感じる? >>763
もじもじする、とは恥ずかしいという事
羞恥心とはカラマーゾフでは少なくとも2種類は提示されている
一つはフョードルの恥辱
人と接すると自尊心が顕示されて道化を演じてしまう
恥ずかしさを隠すために攻撃的な態度をとってしまう
一方ではアリョーシャの恥ずかしさ
誰かに好意を持っている事がなんだか気恥ずかしいように思えて、自尊心が芽生えはするが、態度は攻撃的ではなく代わりに人見知り風になってしまう
もじもじするとは後者の意味とするならば、アリョーシャが久しぶりに会うゾシマにもじもじしたとしても、別におかしくはないんじゃなかろうか ただし、これは煽りじゃないことを念押ししておく。なぜなら、オニオンを可哀想とおもわなければ
おれはアボンするだけだからだ。オニオンのような、またラキーチンのような姿というのは
無信仰者にとっては当然の帰結だし、大多数の青年壮年がそうなんだ。生きているラキーチンこと
オニオンは、おれが「意図的に」現実と作品中を混乱させている手法に気づいていない。
いっさいのラキーチンたちよ!
せめてイヴァンカラマーゾフたれ。よしやアレクセイとはなれなくとも。むしろスメルジャコフになったほうが
マシだ。今自分がラキーチンでも、けっして卑下するひつようはない。これから、いまこの瞬間から、アレクセイや
ゾシマたらんと決意すればよいのだ。 >>766
整理と分析さすがです。ただし最後の「久しぶりに会うゾシマにもじもじした」というのは
「ん?」となりました w
ではなぜ、「額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急にさめざめと泣きだした。何かしら心臓が
引きちぎれて、魂が震えだすように思われた。彼は慟哭したいような気持ちになって来た。」
のですか? >>768
久しぶりの再会ではなかったっけ?
そうでないなら読み間違え
それでも自尊心ゆえの人見知りというのはあり得る帰結、だと思ってます
個人断定するならば、死が近い時、それは死後という想像力が最大に発揮させられる瞬間でもある
もうすでに死後の悲しみを先取りしている、という感情と、死が近いと実感するが故に、今ある生の時間が明確に現れてその時間が大切だと認識する感覚
時間とは精神次第で貴重にもなりただの日常にもなり得るわけだから、最愛の父のようなゾシマがもうすぐ死にゆくと分かれば、それは悲しみという喪失感を感じて涙した、のではないでしょうか たしかに私はスタヴローギンのような男だな
顔も男前だし、嫉妬されるのもよくあることだ
さて、前にエホバかものみの塔のパンフレットに書いてあったのだが、
「我々は近代哲学の宗教批判と向き合うと勝てないので耳を塞いで妄想の中に逃げ込みます」と
ニーチェあたりでも原始仏教に関しては「考える宗教」として高く評価していたようだが、君たちのような世俗的宗教は結局のところ念仏を唱えるだけの馬鹿のゴミ箱になってしまったのだよ
偽善者らしく、知的障害者を引き取って世話でもしてるのがお似合いということだ 姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気
になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いて
るなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、
よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までい
ちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そう
なのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あ
たしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」
葉桜と魔笛
太宰治 できちゃった婚してすぐ離婚したやつは逆のこと言ってるよ >>771
とりあえず斜陽を買ってみて、太宰も読んでみようかと思う
海外古典に偏っているのは確かなので楽しみだ >>774
斜陽のような生命力弱き作品より、太宰の場合は何気ない短編こそ、忘れがたき味わいあり。
短編集から読むことをおすすめします。 >>776
そーいうもんなんだ
斜陽は短編入ってなかったから、他で短編集になってるのを本屋寄ったついでに見てみる
ありがとう テキストの詳細検索の方法を学んでいる
また書くから待っててな。
ほら、ドストエフスキーの言葉であったじゃん?
基礎的研究に力を注ぐんだってな >>766
> 羞恥心とはカラマーゾフでは少なくとも2種類は提示されている
> 一つはフョードルの恥辱
> 人と接すると自尊心が顕示されて道化を演じてしまう
> 恥ずかしさを隠すために攻撃的な態度をとってしまう
> 一方ではアリョーシャの恥ずかしさ
> 誰かに好意を持っている事がなんだか気恥ずかしいように思えて、自尊心が芽生えはするが、態度は攻撃的ではなく代わりに人見知り風になってしまう
このまとめがとても有益。でも、前者は作中のどこに書いてあるか
すぐ思い浮かぶが、後者はどこに書いてあったけ? >>779
一番分かりやすいのは、場違いな会合の信仰の薄い貴婦人
アリョーシャが気恥ずかしそうにむしろ青年らしい自意識を表現する箇所として、ホフラコワ夫人とリーザがゾシマを訪れる最初の場面で、リーザはからかうようにアリョーシャを見つめては目をそらすを繰り返す
まるで小悪魔ようにw
アリョーシャは赤くなってリーザを見ることが出来ない
お互い好意を持っているのにね
他にもフョードルの家に集まった最初は、ミーチャとはすぐうちとけるのにイワンとは長く会話すらしていないと書いてあった
アリョーシャは好意を持っても、それが強ければ強いだけ人見知りをしてしまう傾向がある
やはり父と子という親子のカラマーゾフ 特有の自意識がある、と思うんだ
もちろんフョードルのように攻撃的な自意識ではない表現方法だけど、自意識としてはカラマーゾフ 的に強いものを秘めているんじゃないかな >>780
> 一番分かりやすいのは、場違いな会合の信仰の薄い貴婦人
> アリョーシャが気恥ずかしそうにむしろ青年らしい自意識を表現する箇所として、ホフラコワ夫人とリーザがゾシマを訪れる最初の場面で、リーザはからかうようにアリョーシャを見つめては目をそらすを繰り返す
> まるで小悪魔ようにw
> アリョーシャは赤くなってリーザを見ることが出来ない
> お互い好意を持っているのにね
こんばんわーw もうすぐ寝ます。きょうもカラマーゾフの電子書籍関連の、自由自在に検索する方法について
研究してた。
上の箇所は、「アリョーシャは好意を持っても、それが強ければ強いだけ人見知りをしてしまう」の場面としては
やや不適切な感じがするんだけどw
というのは、たとえば電車のなかで、たまたま隣がかあいい女子高生だったとする。ぼくは赤くなってとなりを見ることができない。カラダも固くなって緊張してしまうとする。ついでにチンも固くなってしまったとするw
それをさして「好意を持っても、それが強ければ強いだけ人見知りをしてしまう」ということになるか?ww >>782
うん、自意識の使い方を間違ったみたい
表現を間違えたかもしれない
でも恥ずかしがり屋こそ自意識が強いのなら、アリョーシャも自意識が強いはずと思うんだけどね
実際にアリョーシャほど前半と後半(ゾシマの死の後)で性格が変わるキャラクターはいないからね
それにしても前半のアリョーシャで、とても純真なるがゆえに極端な羞恥心を持っているとは考えられないだろうか
例えばクラスで卑猥な話に耳を塞いだりとか、極端に女性に対して恥ずかしがる描写もあったりとか
こういう極端な羞恥心は自意識が強いとイコールにはならないのかな
さて、純真と自意識はどう結びついているのか、自分でも考えを整理してみる 608 :吾輩は名無しである:2011/12/29(木) 07:01:47.90
バナーエフ婦人の回想録より(トロワイヤ『ドストエフスキー伝より孫引き』)
「ある日のことです」とバナーエフ夫人はつづけている。「ツルゲーネフがドストエフスキーのいる前で、自分のことを天才だと思っている男に、あるとき田舎で会ったことがある、といい出したのです。
そして彼は、その人物が、どんなに滑稽だったかということをおもしろおかしく話し出したのです。
するとドストエフスキーの顔から、すうっと血の気が失せ、途中で中座するといきなりとび出していきました。だから私、その場にいたひとたちにいってやったのです。
『いったいどうして、それほどまでにドストエフスキーをいじめるのです?』」
609 :吾輩は名無しである:2011/12/29(木) 09:18:32.69
悪霊でカルマジーノフを馬鹿にしていたシーンを思い出した
613 :吾輩は名無しである:2011/12/29(木) 12:03:44.43
>>608
そんなことがあっても、兄への手紙には
文学仲間から一目置かれてるように書いてしまうドストエフスキー 90 :吾輩は名無しである:2012/10/11(木) 07:58:56.47
>>82
ツルゲーネフのドストエフスキー評とかなら知ってるけど。
ツルゲーネフのドストエフスキー評。
「逆の万人の真理とは何だか知っていますか。人がうっとりしているときに胸をどきどきさせたり、
人が怒っているときに恥ずかしがったりすることです。ドストエフスキーでは、なんでも逆のことが
おこります。たとえば、人がライオンに出会ったとします。その人はどうするでしょうか。もちろん、
青くなって、逃げようとするか、かくれようとするでしょう。…ところがドストエフスキーは逆に
語るのです。人は恥ずかしがって、その場にとどまるというわけです。これが逆の万人の真理でしょう。
そのためにドストエフスキーの作品では、2ページごとに、その主人公たちは、うわ言を言ったり、
狂乱したり、熱病のようになったりするのです。こんなことって、あるでしょうか。」 ツルゲーネフは「罪と罰」を傑作とは見なさず、この小説から受けた印象を「長くつづくコレラの苦痛」と
比較している。彼はまた「未成年」を、ドストエフスキーの「カオス」、「だれにも必要のない」わかりにくい
「つぶやき」と呼んで、酷評している。これらの片よった、意地のわるい、不当な評価は、論争による興奮を
示しているだけではなく、ドストエフスキーの、ときとして逆説的な創作方法にたいする、ツルゲーネフの
観点からすればドストエフスキーの心理主義の極端さにたいする原則的な反撥をもあらわしている。
ツルゲーネフは、その冷静な性格で、多分に主観的に、ドストエフスキーの主人公たちの悲劇的な世界を、
苦悩の一種独特の病的な弁解として受け取っている。芸術家としてのツルゲーネフにとっては、
ドストエフスキーは『残酷な才能』だった。
(みすず書房 松下裕訳 アンナ・ドストフスカヤ「回想のドストエフスキー」注釈より) ツルゲーネフ』という名前は読んだこともないのに小学生から知っていた。
もちろん今も読んだことない。たぶんこのひとは とてつもない作家なんだろう。 『罪と罰』について。
殺人を自分に告白したラスコーリニコフを純粋に愛し、彼を追ってシベリアに移住し、ラスコー
リニコフを見守ったソーニャという女性を、作品の登場人物の設定としたこと―
このことで『罪と罰』のリアリティーは半減して、いかにもフィクションだなと思ってしまう。 第二 べた雪の連想から
わたしが迷いの闇のなかから
火のごとき信念にみちた言葉で
その淪落の魂をひきだしたとき
お前は深い悩みにみちて
双の手を揉みしだきつつ
身を囲んでいる悪趣を呪った
そうして追憶の鞭をふるって
忘れやすき良心を罰しつつ
お前は過ぎこし方の身の上を
残らずわたしに語ってくれた
と、不意に両手で顔をおおって
恥と恐れにやるせなく
お前はわっと泣きだした
悩みもだえ身をふるわし……
云々 云々 云々
N・A・ネクラーソフの長詩から >>789
> 『罪と罰』について。
> 殺人を自分に告白したラスコーリニコフを純粋に愛し、彼を追ってシベリアに移住し、ラスコー
> リニコフを見守ったソーニャという女性を、作品の登場人物の設定としたこと―
>
> このことで『罪と罰』のリアリティーは半減して、いかにもフィクションだなと思ってしまう。
う〜ん。ぼくはそう思いません、というより、リアリティを超越した
作品じゃないですか?
>ツルゲーネフは「罪と罰」を傑作とは見なさず、この小説から受けた印象を「長くつづくコレラの苦痛」と比較している。
『罪と罰』はとてつもない作品で、外面だけ後世の作家はこれを真似することができても、読中読後の衝撃は無限大だとおもいます。
小説というジャンルを信じられないレベルまで高めたものだと。
>彼はまた「未成年」を、ドストエフスキーの「カオス」、「だれにも必要のない」わかりにくい「つぶやき」と呼んで、酷評している
解説者の言葉を先に読んで、すごい作品ではないんだろうと推定して、
いままで最初の数ページをのぞいて未読ですw 君たちは本当に権威主義だな
先日まで盲目的にマンセーしてたのに適当にコピペもってきたらすぐに揺らいでしまう
信仰なんて、そんなものだ 結構このスレは肯定と否定が入り混じってる方だと思うよ
というより詳しくなれば自然とドストエフスキーが生活面ではめちゃくちゃだったとも分かるし、何より地下室の主人公はドストエフスキーの自己と分かってくる
あの部屋の人間を盲信する変わり者は滅多にいないよw
権威が欲しいなら少なくともトルストイを選ぶかな
まートルストイも人格者とは呼べないけどね、晩年はともかくとして青年期は似たり寄ったりだろうし だから、もし、賛美されているように感じもしくは本当にしているものがあるとするならば、それはドストエフスキーというよりドストエフスキーが作り出した芸術という事になる
つまり本だよ
読書家とって賛美されるのは常に本に他ならない
権威主義体制の読書家がいるならノーベル賞作家を選んだ方が賢いんじゃなかろうか 神による救済ではなく人間による自力救済と
その際に発生する犠牲は機会費用として目を瞑る
というのがラスコーリニコフの超人哲学であり
自らを神の玩具たる贖罪羊として差し出して
他者救済の一助とするのがソーニャの敬虔主義
「罪と罰」では虚無的な悪漢スヴィドリガイノフをたたき台として
この二者(自力本願と他力本願とでもいうか)の相克があり
最終的にはソーニャの敬虔主義(ドストは大地主義と名付ける)が勝利する
しかし次作長篇の「白痴」ではソーニャ的聖娼の
発展形ともいえるナスターシャが
文字通り「贄」としてソーニャ的聖性や人間的尊厳もすべてはぎ取られた
贖罪羊として聖骸となる
「罪と罰」では諸般の事情でハッピーエンドという形で幕を閉じたが
それで問題解決とはせずにさらに突き進めるのがドストエフスキー
「罪と罰」はもちろん「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」よりも
救いのないのが「白痴」であり
冗長さもひっくるめてもっともドストエフスキー的なのが「白痴」なのかもしれない >>795
>救いのないのが「白痴」であり
そうだね
具体的には未読の人のために伏せるけど、ムイシュキンもロゴージンもアグラーヤもナスターシャも不幸な未来が待ち受けていて、なおかつ疑問が残る
ムイシュキンがアグラーヤとナスターシャの間で選んだ結末がなぜなのか、ナスターシャがムイシュキンとロゴージンの間で選んだ選択など、なんでそっち?みたいな謎も多い
だから面白いと言われればその通りなんだけどね 読んでいないだろホラ吹きw
アグラーヤは不幸になんかならんだろ!
長文ウザいから死ねよゴミ! >>797
勘違いで批判されるほどため息になることはない
こういう感情って何て言えばいいのかね
アグラーヤは望まぬ結婚に身を投じる、とハッキリ書いてあるが、これは何て幸せな結末なんだろwとでもいうのかよw
あと、長文は専門スレではーって理解できないだろうからいいや、やっぱ 私も「父と子」を持っている。(本当は「ルージン」が欲しいのだが手に入らない)
「悪霊」の中でツルゲーネフは女々しい恋愛小説ばかりだと批判されてるが、
それ以前にツルゲーネフの小説は普通に読むと面白くないのできっと驚くだろう
ただし一見どうでもいい内容が何を風刺しているのかが分かると話はかわる
解説を読んだり、当時のロシアの情勢を調べながら読むと良い
ツルゲーネフは社会主義革命に人生をかけていた
彼の小説の内容はすべてそれに関するものだ >>800
何を風刺しているかを気にしてみる
アドバイスどうも 岩波文庫に入っているツルゲーネフは全部読んだけど、代表作といわれる『父と子』が一番いいかな?
その次は『春の水』か『煙』 >>802
>岩波文庫に入っているツルゲーネフは全部読んだけど、代表作といわれる『父と子』が一番いいかな?
そうなら父と子を買ってみてよかったと思う
ラッキー ドストエフスキーの中で兄ミハエルに宛てた書簡(1838年、8月)がある
まず彼が17歳で書いたというのは驚き以外にはない
ぼくがとても好きな文章なんだけど、謎がある
果たしてここでドストエフスキーの思っていた発狂とはどういう意味なのだろうか
小林秀雄は考察でパスカルの、呻きながら探る人、と同じ意味を与えているが、もはや未成年の頃から自己の本質を予感する芸術家は非凡と言われるだけあると思わされる一方で、自己との対決というとても大きな苦悩をともなう運命と共にあるのだな、何て思う
以下本文↓ 確かに僕は怠け者だ。非常に怠け者です。
併し、どうも僕には、人生に対して非常に怠惰な態度を取る他に道はない。
とすればどうしたらよいか。幾時になったら、この僕の暗い心持が無くなるか見当がつきません。
惟ふにこういう心の状態は、人間だけに振り向けられたものだ。
天上のものと地上のものが混じり合って人間の魂の雰囲気が出来上がっている。
人間とは、何と不自然に創られた子供だろう。
精神界の法則というものがめちゃめちゃにやられているからです。この世は、罪深い思想によって損なわれた天上の魂達の煉獄の様に僕には思えます。
この世は途轍もない(否定的なもの)と化し、高貴なもの、美しいもの、清らかなもの悉くが一つの当てこすりとなってしまった様な気がします。
ところで、こういう絵の中に一人の人間、絵全体の内容にも形式にもよらぬ、一口に言えば全くの異邦人が現れたとしてら、どういう事になるでしょう。
絵は台無しになり、無くなってしまうでしょう。
だが、全世界がその下でうめいているお粗末な外皮が見えているこの覆いを破り、永遠と一体となるには、ただ意志をふるい起こせば足るのだとは知っている、みんな解っている。
それでいて、凡そ生き物のうちで一番のやくざ者でいるとは、これは堪らぬ事だ。人間とは何と意気地のないものか。
ハムレット、ハムレット。
彼の荒々しい、嵐のような話を思うと、足腰立たぬ全世界の嘆きが聞こえて来る様で、もう僕の胸は悲し気な不平にも非難にも騒がぬ。
僕の心はいよいよ苦しくなり、僕は知らぬ振りをする、でないと僕の心はこわれてしまいそうです。
パスカルは言った。哲学に反抗するものは自身が哲学者だ、と傷ましい考え方だ。(…) 僕には新しい計画が一つあります。発狂する事。 以下略』 ラスコーリニコフくんみたいなのが地下室でうんうんするのかと思ったら地下室の手記難しすぎワロタァ
読みにくいし偏屈なうんこが屁理屈こねくり回してるうんこの話って感じでめまいがしたんだけどこれ面白いか? 『地下室の手記』の面白さだけは良く分からないんだよね。
絶賛する人が多いけど。
筑摩・河出・新潮の全集をなめるように読んだんだけど。 >>769
最愛の父のようなゾシマがもうすぐ死にゆくと分かれば、
----------------------------
この一文について、ひとことどうしても書いておきたかったことがある。
アリョーシャはゾシマから「愛されていたから」師につかえたのではない。
まったく愛されておらず、それどころかアレクセイにたいして無関心であったとしても、アリョーシャは「どこまでも師を求めたであろう」
少なくも、ぼくの「己心のアリョーシャ」ならそうする。 長老ゾシマは最初はまったく凡庸なる一修行僧であった、と想像する。
しかし彼には幼年期に得た偉大な天界への、宇宙への、発心の糸が、
種が下されていた。
この凡僧を偉大たらしめたのは、民衆の信仰であった。非常に長い時間をかけて、ゾシマは成長し、聖人とよばれるものになった。
... と空想する。 /: : : : : __: :/: : ::/: : ://: : :/l::|: : :i: :l: : :ヽ: : :丶: : 丶ヾ ___
/;,, : : : //::/: : 7l,;:≠-::/: : / .l::|: : :l: :|;,,;!: : :!l: : :i: : : :|: : ::、 / ヽ
/ヽヽ: ://: :!:,X~::|: /;,,;,/: :/ リ!: ::/ノ l`ヽl !: : |: : : :l: :l: リ / そ そ お \
/: : ヽヾ/: : l/::l |/|||llllヾ,、 / |: :/ , -==、 l\:::|: : : :|i: | / う う 前 |
. /: : : //ヾ ; :|!: イ、||ll|||||::|| ノノ イ|||||||ヾ、 |: ::|!: : イ: ::|/ な 思 が
/: : ://: : :ヽソ::ヽl |{ i||ll"ン ´ i| l|||l"l `|: /|: : /'!/l ん う
∠: : : ~: : : : : : : :丶ゝ-―- , ー=z_ソ |/ ハメ;, :: ::|. だ ん
i|::ハ: : : : : : : : : : : 、ヘヘヘヘ 、 ヘヘヘヘヘ /: : : : : \,|. ろ な
|!l |: : : : : : : : :、: ::\ 、-―-, / : : :丶;,,;,:ミヽ う ら
丶: :ハ、lヽ: :ヽ: : ::\__ `~ " /: : ト; lヽ) ゝ
レ `| `、l`、>=ニ´ , _´ : :} ` /
,,、r"^~´"''''"t-`r、 _ -、 ´ヽノ \ノ / お ・
,;'~ _r-- 、__ ~f、_>'、_ | で 前 ・
f~ ,;" ~"t___ ミ、 ^'t | は ん ・
," ,~ ヾ~'-、__ ミ_ξ丶 | な 中 ・
;' ,イ .. ヽ_ ヾ、0ヽ丶 l /
( ;":: |: :: .. .`, ヾ 丶 ! \____/
;;;; :: 入:: :: :: l`ー-、 )l ヾ 丶
"~、ソ:: :い:: : \_ ノ , ヾ 丶 >>805
> 天上のものと地上のものが混じり合って人間の魂の雰囲気が出来上がっている。
この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世まで理解することは不可能だというのは、これがためである。
神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして
成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界
との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、
それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。その時は人生
に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。私はこのように考えてい
る。
-----------------------------------------
てもとに在る、19歳時購入の河出書房・カラー版世界文学全集より引用。
(米川正夫は昭和40年に没して、息子の米川和夫が、昭和43年改版の際に編集。旧かな旧字
体の訂正、句読点を変更して読みやすくしたもの。)
http://www.geocities.jp/lsxravine/dost/sakuhin.html
この本はボロボロになり50ページほど失われている。
ぼくは16歳のとき図書館の暗い書架ではじめて手にした世界文学がこれで、同じものを19歳
のとき買いました。ひらがなが異常なまでに多い、こちらこそがぼくにとっては『米川』で
あり、岩波の米川訳には抵抗があり、手入力で修正してます。 >>811
では、そんなあなたには米川正夫訳で
『もっとも、ぼくはなまけ者です。とてもなまけ者です。しかし、どうも仕方がありません、ぼくにとってこの世に残っている唯一のものは、不断の無為をなすことなんですもの!
いつかぼくのわびしい想念が静まることがあるやら、自分でもわかりません。
人間の宿命として与えられている状態はただ一つです。人間の魂の雰囲気は天と地の合流の中にあります。
人間はなんという反合理的な子供でしょう。精神的自然の法則が破れているですもの・・・・この世界は、罪深い想念に曇らされた天の精霊のための煉獄みたいな気がします。
この世は、否定的な意味を採ったので、高遠で優美な、精神的なものから、サテイールが出て来た、そんなふうに思われます。
もし、この画面の中に、全体と効果も思想もわかたない人間、つまりまったく関係のない人間が飛び込むとしたら、いったいどうなるでしょう?画面は台無しになって、存在することができません!
しかし、全宇宙がその下で悩んでいる固い殻のみを見ているうちに、意志がただいちど爆発さえすれば、この殻を破って、永遠と融合することができるということを知り、それを知りながら創造物の中で一番の屑でいることは・・・
ああ、恐ろしい!人間てなんという浅はかなものでしょう!
ハムレット!ハムレット!
麻痺した世界のうめきを響かしているあの荒々しい、けうとい言葉を思い出すとき、その時は、わびしい不平も非難も、ぼくの胸をしめつけはしない・・・
魂は悲哀のためにしかく圧迫されているので、おのれ自分を責めさいなまないために、それを理解するすることを恐れているです。
ある時パスカルはこういいました。
哲学に抗するものは、そのものみずから哲学者である、と。哀れな哲学者よ!』
(僕には新しい計画が一つあります。発狂する事。 ) >>807
ドストエフスキー「世界観」がこの作品からついに始まってくる。
……重要な作品です。
(*´▽`*) この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世まで理解することは不可能だというのは、これがためである。
神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして
成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界
との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、
それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長、したものも死滅する。その時は人生
に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。私はこのように考えてい
る。
-----------------------
申し訳ない。おれ以外にとってどうでもいいことだが、投稿時の「書き込みウインドウ?」上の編集でミス。
40分かけて「息子の米川和夫が、昭和43年改版の際に編集」を入力したのに、誤ってキンドルの米川正夫文をそのまま投稿してしまったことに気づいた。
残念だ。おれの40分を返せ! 下書き自動保存もできねえ2ちゃん専ブラのローテクのせいだ。
なぜ40分もかかるか?といえば、老眼がひどく、まいかい紙のテキストとディスプレイを交互に参照するのが、
苦行なんだ。
だが、このキンドル版は本家本元の米川正夫ではない。編集のなんとか氏が「勝手に現代風に変えていたり」
ミスタイプも多い。アルコール度数95℃という感じだ。おれにとって「カラマーゾフ」は昭和43年カラー版世界文学全集以外にない!!
この文のままに、おれの脳内で、言葉が響いている。
だから、キチガイじみてはいるが、後日、もういちどチャレンジさせてくれ!ゾシマのこの言葉、ドストのこの思想について。こんどこそ、かんぺきに「河出昭和43年カラー版世界文学全集」のままに引用させてくれえ!! もうたくさんだ!…ええい、もうよそうや!ふん、まあいいさ!
とかうじうじしてる割に ばかな女さ! とか女に当たるイメージが強くなってしまったw >>815
それは「悪霊」でイワンだかキリーロフが言っていることで
ロシア人は当時のアメリカ人と比べても子供であり
当然のことながらアメリカ人よりも大人のイギリス人にも劣る
ただ、そういう子供っぽさが文学的には力になるわけです
大人にとってはとるに足らないようなことでも
異常にこだわって大げさに表現するから >>756
> アリョーシャはそのそばに近寄って、額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急に
> さめざめと泣きだした。何かしら心臓が引きちぎれて、魂が震えだすように思われた。
彼は慟哭したいような気持ちになって来た。
> 「お前はなんとしたことじゃ、泣くのはもう少し待つがよい。」長老は右の手をアリョー
> シャの頭にのせて、にっこり笑った。「わしはこの通り腰をかけて話をしている。この
> 分なら、ほんとうにまだ二十年くらい生きられるかもしれんて。
> 昨日ヴィシェゴーリエからリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な優しい女房の
言うた通りかもしれんて。神様、どうぞあの母親と娘のリザヴェータをお守り下さりますよ
うに ! (と彼は十字を切った)。ポルフィーリイ、あの女の施し物をわしの言うた所へ持っ
て行ったか?」
ゾシマは死ぬことを恐れないのか。そうではあるまい。アリョーシャやポルフィーリイ
そして自分を慕う「ヴィシェゴーリエからリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な
優しい女房」といった民衆。
そうした存在が、病苦をおして、長老としての自分のつとめを果たそうとさせるし、
じっさいに「死ぬことが怖くなくなる」に近い状態となり得るのではないか。 (「第六篇 ロシアの僧侶」冒頭から全文を引用してコメントを入れて
いく試み。のつづき)
「さあ、せがれ、起きなさい」と長老はアリョーシャに向かって語をついだ。
「一つおまえの顔を見せてもらおう。おまえ、うちの人たちをたずねて行ったか、
そして兄に会うたか?」
長老がこんなに正確な断固たる調子で、兄たちといわずにただ兄ときいたのが、
アリョーシャには不思議なことに思われた。しかしどっちのことだろう? どっちにして
も、長老が昨日も今日も自分を町へ送ったのは、そのひとりの兄のために相違ない。
「ふたりのうちひとりのほうだけに会いました」とアリョーシャは答えた。
「わしがいうのはな、昨日わしが額を地につけて拝(はい)をした、あの上の兄のことじゃ」
「あの兄さんとは昨日会ったばかりで、今日はどうしても見つかりませんでした」とアリョ
ーシャは答えた。
「急いで見つけるがよい。明日はまた、急いで出かけるのだぞ、何もかも棄てて急ぐ
のだぞ、まだ今のうちなら、何か恐ろしい変を未然に防ぐことができようもしれぬ、わ
しは昨日あの人の偉大なる未来の苦悩に頭を下げたのじゃ。」
彼は急に言葉をきって、何やら思い沈むかのようであった。それはふしぎな言葉
であった。 >「一つおまえの顔を見せてもらおう。おまえ、うちの人たちをたずねて行ったか、
そして兄に会うたか?」
(長老は、アレクセイの顔を見ただけで
1,「兄に会ったか」それとも「会わなかったか?」
2,アレクセイが兄や父のためにどんな仕事をしてきたか?
3,何か恐ろしい変を未然に防ぐことが可能な「顔を持つ男」たるアリョーシャ
4,ロシヤと人類の運命を内包するひとつぶの種子、それどころか、地上と天上をつなぐもの。
言葉ぬきにいっしゅんにして見抜くのであろう。
> 長老が昨日も今日も自分を町へ送ったのは、そのひとりの兄のために相違ない。
まえに「ひさしぶりに長老と会った」?という疑問がありましたが、48時間ぶりであることが判明w
アリョーシャはこのとき僧院に寝起きしていた。最初の方を精読してないから、思い出せないけど。 長老はアリョーシャのこうしたエンジェルとしての役目のためにのみ
家族の元へつかわすのではない、と思う。
「そのこと自体が」つまり兄のために、また別人のために、彼が動きまわることが
即、アリョーシャの一生の土台として、この青春の3日ほどが、彼を支えることを見て取ったのだろう。 おそらくは物語の「今」を書いているのは、ゾシマ修道院訪問から殺害まで4日〜遅く見積もっても1週間の物語なのかな
アリョーシャでいうと修道院からコーリャにはじめて会うまで4日なのかな
多分ガリラヤのカナ夢がゾシマ腐臭の後だから、ゾシマの修道院の場違いな会合から3日目後だと思われる
たぶんそんなもんだと思うんだけど、スメルジャイコフの自殺はその後と推定すると4日目か5日目?
イワンについては、フョードル殺害からからスメルジャイコフの自殺までに3回スメルジャイコフに会っている事になっているけど、発狂しているので時系列は性格に読めない
(あくまで個人的推測です) >>824
嫌いな理由がいちいち最も
凄く興味深くて面白いアンチ意見だ >>824
ドストエフスキーが死んだとき、トルストイは日記に記している。
「今や私はある精神的支柱を失った…私は戸惑い、ドストエフスキーがいかに私に近しい
存在かを悟り、泣いた。今も泣いている」 やっぱりナボコフかと思ってみたらナボコフだった
ナボコフ派のドストエフスキー嫌いは有名だよね
ドストエフスキーは良くも悪くもクセが強いからアンチもすごいいそうだよね、実際 >>820
昨日の礼拝を目撃したヨシフ主教は、パイーシイ主教と目くばせした。アリョーシャは
たまりかねて、
「長老さま、お師匠さま」となみなみならぬ興奮のていで言った。「あなたのお言葉はあ
まりにも漠然としております..... いったいどのような苦悩が兄を待ち伏せしているのでご
ざいましょう」
「もの珍しそうにきくものでない、昨日わしは何か恐ろしいことが感じられたのじ
ゃ......ちょうどあの人の目つきが、自分の運命をすっかりいい現わしておるようであ
った。あの人の目つきが一種特別なものであったので......わしは一瞬の間に、あの人が自分
で自分に加えようとしている災厄を見てとって、思わずぞっとしたのじゃ。わしは一生のう
ちに一度か二度、自分の運命を残りなく現わしているような目つきを、幾たりかの人に見受
けたが、その人たちの運命は、――悲しいかな、――わしの予想に違わなんだ。わしがお前
を町へ送ったわけはな、アレクセイ、兄弟としてのおまえの顔が、あの人の助けになること
もあろうと思うたからじゃ。しかし、何もかも神さまのおぼし召し次第じゃ。われわれの運
命とてもその数にもれぬ。『一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死な
ば多くの実を結ぶべし。』これをよう覚えておくがよい。
-------------------------------------------------------------------------------------
(長老のことばが長すぎもし、重要でもあるので、いったんここで引用を切ります) 1,昨日の礼拝を目撃したヨシフ主教は、パイーシイ主教と目くばせした。
長老の行動と言葉に「意味のないものはひとつもない」と知っているがゆえに、両主教は
「目くばせした」
2,..... いったいどのような苦悩が兄を待ち伏せしているのでございましょう」
アリョーシャはほんとうになにもわからなかった。長兄ドミートリイに「何か恐ろしい
変」「偉大なる未来の苦悩」があろうなどとは「このとき」まで考えたこともなかった。
3,昨日わしは何か恐ろしいことが感じられたのじゃ......ちょうどあの人の目つきが、自
分の運命をすっかりいい現わしておるようであった。あの人の目つきが一種特別なもので
あったので......わしは一瞬の間に、あの人が自分で自分に加えようとしている災厄を見て
とって、思わずぞっとしたのじゃ。
ゾシマは「目つき」で人間の運命を読み取る。
4,わしは一生のうちに一度か二度、自分の運命を残りなく現わしているような目つき
を、幾たりかの人に見受けたが、その人たちの運命は、――悲しいかな、――わしの予想
に違わなんだ。
ただしそれは、ゾシマの長い一生の間に「一度か二度」しかなかった。数人のひとだけが
「そういう目つきをしていた」のだ。 釈尊が在世の時代の古代インドで、多くの人命を奪い、人々から恐れられていたアングリ
マーラを巡る説話
――ある時、釈尊の姿を見かけたアングリマーラは、釈尊の命を奪おうとして、後を追い
かけた。
しかし、どれだけ足を速めても、釈尊のそばにはたどりつけない。
業を煮やした彼が立ち止まり、釈尊に「止まれ」と叫んだ。すると釈尊から返っ
てきたのは、「アングリマーラ、わたしは止まっている。おん身が止まれ」との答
えだった。
自分は足を止めているのに、なぜ、そんなことを言うのかとたずねるアングリマ
ーラに対し、釈尊はさらにこう答えた。
「止まれ」と言ったのは足のことではない。次々と命を奪うことに何の痛痒も感
じない、その行動の奥底にある害心に対し、自らを制して止まるように言ったので
ある、と。
この言葉に胸を打たれたアングリマーラは、害心を取り払って悪を断つことを決
意し、手にしていた武器を投げ捨てた。そして釈尊に、弟子に加えてほしいと願い
出た。以来、彼は釈尊に帰依し、自らが犯した罪を深く反省しながら、贖罪の思いを込
めた仏道修行にひたすら励んだ。 ――アングリマーラが托鉢をしながら街を歩いていると、難産で苦しんでいる一
人の女性を見かけた。何もできずに立ち去ったものの、女性の苦しむ姿が胸に残り、
釈尊のもとに赴いてそのことを伝えた。
釈尊はアングリマーラに対し、女性のもとに引き返して、次の言葉をかけるよう
に促した。
「わたしは生まれてからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。
このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんこ
とを」と。
自分が重ねてきた悪行を知るがゆえに、アングリマーラは真意がつかめなかった。
そこで釈尊は、アングリマーラが害心を自ら取り払い、深く反省して修行を重ねて
いることに思いを至らせるかのように、改めて彼に対し、女性にこう告げるように
呼び掛けた。
「わたしはとうとい道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物
の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、
胎児に安らかさあらんことを」と。
釈尊の深い思いを知ったアングリマーラは、街に戻って女性に言葉を捧げた。す
ると苦しんでいた女性は穏やかな表情を取り戻し、無事に子どもを出産することが
できたのだった―― この二つの出来事を通して、釈尊がアングリマーラに促したことは何であったか。
それは、彼を長らく突き動かしてきた害心に目を向けさせて、悪行を食い止めた
ことにとどまりませんでした。母子の命を助けるための道を照らし出し、アングリ
マーラが自らの誓いをもって“命を救う存在”になっていく方向へと、心を向けさせ
た
聖教新聞 第44回「SGIの日」記念提言上 「平和と軍縮の新
しき世紀を」 2019年1月26日(より引用) 釈迦の話は中々面白いもんだね
仏教系の本だと面白いのって何があるんだろ
ヘッセくらいしか読んだことがない >>833
仮にあなたがアングリマーラで、おれが釈迦だとしよう。
あなたの中の害心(一凶)とは、いまの場合
> 釈迦の話は中々面白いもんだね
「釈迦」に興味をひかれている点だ。だからあえてこのアングリマーラの説話の出典をふせた。
釈迦仏法などいくら知っても、まったくなんの得にもならず、人生になんの変化も起きない。のみならず
悪業を積むであろう。日蓮仏法と創価学会について知っていくべきです。
> 仏教系の本だと面白いのって何があるんだろ
> ヘッセくらいしか読んだことがない
ヘッセは外人でほんとうの仏法のことなどまったくわかっていない。
仏道修行をこころざすしかない。(どうだ?なかなかにキチガイじみたレスだろう?)
だが、常識豊かなレスなど「ほんとうの幸福」には何の役にもたたない。おれにとっても
君にとっても無益だ。 釈迦を軽んじて仏法と称するとは天皇の血を引いていない皇室のようなものだ >>836
このことは深甚の義があり、ひとつだけ説明すると「釈迦ではなく日蓮大聖人」
同じく「釈迦仏法ではなく法華経」「法華経ではなく南無妙法蓮華経」ということです。 キリスト教はそもそも世俗的な幸福を求めていない
むしろそういう世界と反対の概念を持つために、幸福どころか迫害されるし、それも苦痛を伴う
それでもキリストと共にありたい、としたのがドストエフスキー
トルストイは当時正教会に不満を持ち東洋思想に興味を持っていたようだね
仏教でもブッダにはとても興味をもってたらしい
https://jp.rbth.com/arts/2014/10/16/50677 >>838
> キリスト教はそもそも世俗的な幸福を求めていない
ああ、この奇跡、ほんとうになんというやさしい奇跡だろう。キリストは初めて奇跡を行
うときにあたって、人間の悲しみでなく喜びを訪れた、人間の喜びを助けた......「人間を
愛するものは、彼らの喜びをも愛す......」これはなくなった長老がいつもくりかえして言
われたことで、あのおかたのおもな思想の一つであった......喜びなしに生きて行くことは
できない、とミーチャは言った......そうだ、ミーチャ......すべて、真実で美しいものは、
いっさいをゆるすという気持ちに満ちている、――これもやはりあのおかたの言われたこ
とだ......』
「……イエス彼に言いけるは、婦(おんな)よ、なんじとわれとなんの係わりあらんや、
わが時はいまだいたらず。その母は僕(しもべ)どもに向かいて、彼がなんじらに命ずる
ところのことをせよと言いおけり……」
『せよ……そうだ、喜びを作らなきゃならない。だれか知らんが、貧しい、非常に貧しい
人の喜びを作らなきゃならない…
(我)世俗的な幸福と宗教的な幸福の二元対立ではないのです。どちらも人間には必須です。
ぼくはガリラヤのカナの ここのところをそう読みました。 >>838
> むしろそういう世界と反対の概念を持つために、幸福どころか迫害されるし、それも苦痛を伴う
「迫害され、苦痛を伴う」がそれを乗り切る力を自己の内部に湧き起こし、最後はかならず幸福になり、
さかえるのです。 世捨て人の自由ならエピクロスやディオゲネスで充分すぎる
釈迦も布教するとかそういう考え方に反対してたね
やりたい奴が参加して、やりたい奴らだけでやってればいい
誰かに植え付け、教化しようとする宗教は必ずそれが目的化する
日蓮聖人とかいうやつがすべて悪い >>841
> 世捨て人の自由ならエピクロスやディオゲネスで充分すぎる
レスありがとうw
だからエピクロスやディオゲネスは、民衆の信仰の対象とならなかったし、
彼らの思想はだれひとり幸福にしなかったんじゃないですか?
> 釈迦も布教するとかそういう考え方に反対してたね
もし可能なら出典を示してほしい。
> やりたい奴が参加して、やりたい奴らだけでやってればいい
> 誰かに植え付け、教化しようとする宗教は必ずそれが目的化する
あなたの我見でどう考えようと、菩薩とは「自分並びに一切衆生をことごとく
救おう」という精神です。その究極が仏です。
さきに、アングリマーラと釈迦の物語を引いたでしょう?あれはきみが
小学生の時 手塚治虫のブッダを読んだと言っていたから、これなら
わかりやすいか?とおもい引いた。アングリマーラはブッダに出てくるね。
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――ある時、釈尊の姿を見かけたアングリマーラは、釈尊の命を奪おうとして、後を追い
かけた。
しかし、どれだけ足を速めても、釈尊のそばにはたどりつけない。
業を煮やした彼が立ち止まり、釈尊に「止まれ」と叫んだ。すると釈尊から返っ
てきたのは、「アングリマーラ、わたしは止まっている。おん身が止まれ」との答
えだった。
自分は足を止めているのに、なぜ、そんなことを言うのかとたずねるアングリマ
ーラに対し、釈尊はさらにこう答えた。
「止まれ」と言ったのは足のことではない。次々と命を奪うことに何の痛痒も感
じない、その行動の奥底にある害心に対し、自らを制して止まるように言ったので
ある、と。
この言葉に胸を打たれたアングリマーラは、害心を取り払って悪を断つことを決
意し、手にしていた武器を投げ捨てた。そして釈尊に、弟子に加えてほしいと願い
出た。以来、彼は釈尊に帰依し、自らが犯した罪を深く反省しながら、贖罪の思いを込
めた仏道修行にひたすら励んだ。
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これがまさに教化です。 作り話を貼って得意になっているところ悪いけど
仏教はルサンチマンにありがちな贖罪を求める宗教ではない
君は知ったかぶりばかり
創価学会の信者は所詮この程度だということだ
嘘をついてまで創価学会に属していることを隠していたのも
本当は創価を恥じているのだろう
実は創価の本を本屋で軽く立ち読みしたことがある
ざっと言えば、進研ゼミの広告チラシに付いてる漫画のような幼稚な内容だった
進研ゼミの漫画に従えば、部活に勉強、恋愛と人生万事順調になると描かれているが、実際の受講者はそうはならない
創価学会、ひいては他の宗教もろもろがまた進研ゼミと同じような嘘つきに過ぎないことに気づきなさい
私を信じれば救われる! 進研ゼミといえば、進研ゼミか公文かで悩んで公文に行った子供時代を思い出すなあ
年末に、小林秀雄のドストエフスキーの生活を実家の埃を被った本棚で発見
値段が200円でボロボロで年季を感じたけどw、とりあえず中身は変わらないはずだから読んでみた
前半はドストエフスキーの伝記になっているんだけど、よく調べたなあ、と思うくらいこと細かかった
結構面白い本だったよ >>828(前回の引用部分にアンカーをつけます)
ところでな、アレクセイ、わしはこれまで幾度となく心の中で、そういう顔を持っている
おまえを祝福したものじゃ、今こそ打ち明けて言ってしまう。」長老は静かな微笑を浮か
べながらこう言った。「わしはおまえのことをこんなふうに考えておる、――おまえはこ
の僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮らすのじゃぞ。いろいろ多くの
敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。また人生はおまえに数々の
不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸福になることもできれば、人生を祝
福することもできるし、また他の者にも祝福させることができるであろう――それが何よ
り大切なのじゃ。よいか、おまえはこう言ったふうな人間なのじゃ。皆さん。」と彼は喜
ばしげにほほ笑みつつ、客人達の方を向いた。 (我)
1,>そういう顔を持っている
とは、目が大きいとか、賢そうな顔をしているとかではなく、福運が如是相に出ていると
いうことだと。
2,>おまえはこの僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮らすのじゃぞ
この僧院を出て俗世で暮らすのは、その目的は「自分自身が」人生を祝福し、「他の者に
も」祝福させるためである。つまり「自他ともに幸福になるため」である。僧院の中にい
るよりも、アレクセイは俗世間においてこそ、より大きな仕事をなすからである。
3,>いろいろ多くの敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。
これこそ信仰者にとってもっとも大事な生き方だとおもいます。最後は信頼されるという
こと。だから勇気です。
4,>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
青年がもっとも信頼し傾倒しきっている長老、その言葉は奇跡としてぜったいに予言通り
になると。だからこそアリョーシャは、今後の人生においてなにが起きようと、どんな不
幸な事件が来ても、長老の自分にたいする予言を思い出し「自分はぜったいに幸福にな
る」「苦悩を使命に変える」「他の人々をも救いきっていく」そういう使命が自分にはあ
るのだ! と考える。そしてじっさいにいかなる堕落からも立ち直る。 >>845
>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸福になることもできれば…
の所はいいと感じた
不幸や苦悩は幸福に内包される、とするドストエフスキーの考えがよく出ていると思う
「幸福は快適な生活の中にはない。幸福は苦痛によってあがなわれる。人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ。しかも常に苦痛によって。」
『罪と罰』の創作ノート
「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
『作家の日記』
「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。」
『悪霊』 >>847
レスが遅くてごめん。
とりいそぎひとつだけ。
>「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
『作家の日記』
この言葉は前後の文脈がないから正確に判断できないが「まったく意味不明」と感じた。
「なぜ不幸なのかを知る」ことが、少なくとも「最大の幸福」なのか? >>848
>「なぜ不幸なのかを知る」ことが、少なくとも「最大の幸福」なのか?
なぜ幸福なのかを考えるのも、なぜ不幸なのかを考えるのも、なぜそう思うかをこの私が考えているだけで、だから結局同じことという意味じゃないかな
ゾシマ兄が自分が幸福と知りさえすれば楽園はもうあるといったように、キリーロフがすべていいという事を知りさえすればすべてが良くなると言ったみたいな
幸福と不幸繋がっているので、一方を知るなら一方も知った事になるのかもしれない
幸福も不幸も状態の概念だから、つまるところ認識の問題なんだと思う
「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。」(悪霊 キリーロフ ) 単にキリスト教的発想に見えるが
苦痛を感じることで精神の解放を感じるとか
よくモチーフになるじゃん
そのバリエじゃないの 苦痛とは神から与えられた試練であり
それによって人は精神性を獲得して神の存在を知覚できる
つまりもっとも惨めな時こそ私は偉大になれるという
キルケゴール的神学あるいはヌミノーゼのようなものだけど
キリーロフの議論はそれとはちょっと違う
「神」の捏造によって現状の苦痛を合理化するのではなく
この苦痛を無根拠なものとして引き受けることによって
創造性へと転化しようとする意志の哲学であり
これは後のニーチェの超人思想やカミュのシジフォスの神話のようなもので
ドストエフスキーが後世の作家たちに与えた影響の強さがうかがい知れる >「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
-----------------------------------------------------------------------------------
作家が日記にしるした時の、そのときの心持ちを、言葉で表白した。
それにたいし、カラマーゾフの「ロシアの僧侶」のところは、後世まで残るような智慧の言葉として
書かれている... ... みたいに感じた。 >>851
>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
---------------------------------------------------------------------------------
ゾシマがアレクセイに送ったこの言葉の意味するところは
> 苦痛とは神から与えられた試練であり
> それによって人は精神性を獲得して神の存在を知覚できる
> つまりもっとも惨めな時こそ私は偉大になれる
でもなければ、
> キリーロフの議論はそれとはちょっと違う
> 「神」の捏造によって現状の苦痛を合理化するのではなく
> この苦痛を無根拠なものとして引き受けることによって
> 創造性へと転化しようとする意志の哲学であり
> これは後のニーチェの超人思想やカミュのシジフォスの神話のようなもので
でもない、と思う。どちらも確実にちがうと思う。 言葉足らずでした。
> 苦痛とは神から与えられた試練であり
これは宗教的な世界解釈として当然そのとおりなんですが、
問題はつぎの箇所で
> それによって人は精神性を獲得して神の存在を知覚できる
> つまりもっとも惨めな時こそ私は偉大になれる
不幸や苦痛が「即」「精神性を獲得」や、「神の存在を知覚」にならないと。
もっとも惨めな時「即」私は偉大になれる とはならない。
------------------------------------------------------------------
3,>いろいろ多くの敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。
4,>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
------------------------------------------------------------------
ゾシマの教え3,4 ともに、時間の経過を「始中終」でザックリ考えたとき、3においては
始めと中において、>いろいろ多くの敵を作る が
最終的に、>その敵さえもおまえを愛するようになる。
4では、始め>人生はおまえに数々の不幸をもたらす 中程も >その不幸はつづく 終わりに
>その不幸によっておまえは大きな幸福を得る
とぼくは解釈します。 >>851
そう言われるとそうだね
神に与えられた試練としての不幸や苦痛の肯定と、キリーロフのような無根拠なものとして不幸と苦痛を全肯定するのでは本質が違う
最大の必然性に見舞われた時に神の存在が近くなるようなキリスト教的世界観があるのかもしれない > キリーロフの議論はそれとはちょっと違う
> 「神」の捏造によって現状の苦痛を合理化するのではなく
> この苦痛を無根拠なものとして引き受けることによって
> 創造性へと転化しようとする意志の哲学であり
> これは後のニーチェの超人思想やカミュのシジフォスの神話のようなもので
---------------
キリーロフの議論未読、カミュのシジフォスの神話未読でしつれいだが、おそらくこれは
観念論に過ぎない。
というのは、キリスト教信仰の神であれ、日蓮仏法の転重軽受 ·願兼於業・変毒為薬と
いった「苦悩を乗り越える」「苦悩を使命に変える」といった信仰であれ、多くの現実の
自分のまわりにいる近しい人々の信仰があって、支えがあって、はじめて「自分ひとりで
はない」「自分もかならず乗り越えられる」と実感できるからだ。
うまく説明できないが、これこそが「観念論・哲学」と「信仰・宗教」との違いだとおも
う。 病人を聖体のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったりもがいたりしていたものが、
急になおってしまうという奇妙な事実も、『あれはただの芝居だ、ことによったら『いん
ちき坊主 』どもの 手品 かも しれ ぬ』と人はいうけれど、おそらくきわめて自然に生じ
るのであろう。つまり病人を聖体のそばへ連れていく女たちもまた病人自身も、こうして
聖体 のそばへ寄って、頭をかがめたとき、病人に取りついている悪霊が、どうしても踏
みこたえることができないものと、確固とした 真理 かなんぞのように信じ 切っ て いる。
それゆえ必然的な治療の奇跡を期待する心と、その奇跡の出現を信じきっている心とが、
聖体の前にかがんだ瞬間、神経 的にそしてもちろん精神的にも病める女の肉体 組織に、
非常な激動をひき起こすのであろう( いな、ひき起こすべき はず で ある)。
かよう に し て 奇跡 は わずか の 間 ながら 実現 する ので あっ た。 長老 が 病人
を 袈裟 で 蔽う た とき、 ちょうど これ と 同じ こと が 生じ た ので ある。 長老
の そば 近く 押しかけ て いる 女達 は、 その 瞬間 の 印象 に 呼び 醒さ れ た 歓喜 と
感動 の 涙 に 暮れ た。
(我)この場合治ることよりも重要なのは、「 歓喜 と 感動」なのである。それがあれば
こそ、狂い女の病をも喜んで周囲が支えいくのである。 病人を聖体のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったりもがいたりしていた
ものが、急になおってしまうという奇妙な事実も、『あれはただの芝居だ、ことによった
ら『いんちき坊主 』どもの 手品 かも しれ ぬ』と人はいうけれど、おそらくきわめて
自然に生じるのであろう。つまり病人を聖体のそばへ連れていく女たちもまた病人自
身も、こうして聖体のそばへ寄って、頭をかがめたとき、病人に取りついている悪霊が、
どうしても踏みこたえることができないものと、確固とした 真理 かなんぞのように信じ
切っ て いる。それゆえ必然的な治療の奇跡を期待する心と、その奇跡の出現を信じ
きっている心とが、聖体の前にかがんだ瞬間、神経的にそしてもちろん精神的にも病める
女の肉体組織に、非常な激動をひき起こすのであろう( いな、ひき起こすべきはずであ
る)。
(我 : ( いな、ひき起こすべきはずである)の注記はドストエフスキー自身の信仰を表す
る)
かようにして奇跡はわずかの間ながら実現するのであった。長老が病人を袈裟で蔽う
たとき、ちょうどこれと同じことが生じたのである。長老のそば近く押しかけている女達
は、その瞬間の印象に呼び 醒された歓喜と感動の涙にくれた。 (文字が小さくなったので、整形しなおして投稿。)
「知る」のではなく「信じる」
たとえばあるひとが、書店で宗教の書籍を手にとったとする。「なんじゃそりゃ」となる。とうぜんです。
信じていないから。
引用したゾシマと信心深い農婦たちの話は、つまりゾシマを中心とした信仰・宗教共同体です。
単に一個人の思想ではない。
同じように、創価学会の書籍に書かれている教えというのは、日蓮仏法と池田先生の指導をぜったいに信じ切る
民衆のものがたりであり、その教えの核心は「南無妙法蓮華経の唱題→生命力向上・絶対的幸福」であり、これを
全学会員が(どんなに信力弱きメンバーでさえも)体験し、確信しきっているゆえに、御本尊中心の団結であるから永遠に崩れることはない。
「知る」のではなく「体験」する
(すまん。持病の鼻詰まりでよく眠れんかってw 論点がずれてきたww もうやめる)
たとえば池田先生が「いじめはいじめる方が一〇〇パーセン悪い」と発言された。一般人が同じ言葉をいえば
議論百出する。(2ちゃんのようなもの)いわく「イジメられる方に幼稚な点があるからだ。イジメられる方の
人間的成長が必要だ」とか「イジメはなくならないサ」とか。
その指導が出たとたん 全学会員はトップの幹部から最末端のおれらまで、ぜんいん「いじめはいじめる方が一〇〇パーセン悪い!」という確信をもって動き語る。 イヴァンが強力な知性と意思をもっていても、信仰共同体の中に入っておらず、自分一個の観念の世界で
信仰について考えることは。。。
ラキーチンが世知に長けていて、しかもその身はゾシマの教会に属していても、その心は開いておらず、
まったくメンバーではない。。。
だめだ!寝不足でことばが出てこない、やめる うおう!ごめんなみんな!!だれも書いてねえ、書く気が起きねえんだろ?
おれが創価ネタでこのドストスレを乗っ取るからか??
カラマーゾフで信仰の話主体だから、どうしても出てしまうんだよね!
おれの引用する美しくも気高いカラマーゾフの引用文にだけ注目してくれたらいいんだ。
信心はだれにも強制できない。あたりまえだけど。ドシドシ悪口書いてくれたまえw
だいたいおれが悪いよね。いくら2ちゃんで遠慮なしとはいえ。リアルだったら、ぶん殴られたり
会社クビになったり、きびしい反響がある。おれは卑怯者だね!
じゃ、みんなおやすみ。 唯心論者たちが適当なことずらずら書いてるだけで不毛だな
「自分は特別な存在だ」「自分には神の声が聞こえる」と誇大妄想にとりつかれた変な人たちが下らない思い付きと信念の表明を書いて議論しても話は噛み合わずに平行線のまま
もう少しリアリストになりなさい >>862
まー、そーいう時もあるよ
レスがなかったのは話の流れがなかっただけで君のせいってだけじゃないさ
斜陽が終わったので、今日あたりからツルゲーネフの父と子を読む予定
楽しみだ ドストってすごい人生だね。まさに破天荒w
政治活動、ギャンブル、女!! 太宰治を更にやばくしたような男w
思想や信仰の変遷ってかなりある?若いときからキリスト教に帰依してたの?
シベリアで聖書しか持ち込めなかったらしいからそのときに信仰が
深まったのかな? 実際よく人間の残忍な行為を『野獣のようだ』というが、それは野獣にとって不公平でもあり、かつ侮辱でもあるのだ。
なぜって、野獣は決して人間のように残忍なことはできやしない。あんなに技巧的
に芸術的に残酷なことはできやしない。虎はただ噛むとか引き裂くとか、そんなこと
しかできないのだ。人間の耳を一晩じゅう釘づけにしておくなんて、たとえ虎にそん
なことができるとしても、思い付けるもんじゃない。
とイヴァンカラマーゾフはいったが、きょうライオン兄弟の宿命という動画を見たんだ。
このドキュメンタリーの最後に研究者が語る「ライオンというものはひじょうに可愛いが、
その反面信じられないほどの邪悪さをもっている」と。
とにかく、ナチスのユダヤ人虐殺どころじゃないメチャクチャな動画だった。つまりなにが言いたいかというと、イヴァンのこの認識さえ、現実を把握してないということなんだ。 キリーロフは汎神論者としての反帝政なのかな
帝政では皇帝が神であり、逆らう者には死の恐怖がもたらされるからね
人神が神=死(権力)を恐れ敬わなくなると、帝政は柱から崩れ去るというわけだ 全盛期に滋賀のおバカ高校行ってたおっさんだけどパンチラなんて当時は日常的な光景で全くありがたみなんてなかったぞ。
普通に生活してるだけで毎日5人くらいのパンツ見てたし。見る気になったら20人くらい見れてたんじゃないだろうか。
むしろ友達の女の子とかなら汚いもん見せんなやって言ってたなぁ。
当時クラスにいた1番スカート短い奴はチャリのサドルにスカートを挟めへんって言ってたわ。普通に前を歩いてるだけでチラチラ見えるから今日はピンクか?って聞いたりするとめくって見せてきたりしてた。
やっぱり今思うと貞操観念が狂ってたんだろうね。
3年の時に元カノ6人と同じクラスになるというミラクルが起こったんだけど、それくらい付き合ってSEXするということが安売りされてた。周りもそんなのばっかだったから兄弟姉妹で溢れてた。今思うと相当狂ってたしゾッとするわ。 >>866
獣が邪悪さを持っていたとしても、イワンのいう邪悪さとは異なるんじゃないかな
ドストエフスキーのいう邪悪さとは快楽と同居するという意味で禍々しい人間的嗜好、という意味に近いんだと思う
カラマーゾフでイワンが人間には幼児虐待の嗜好がある、と言ったような邪悪さ >>865
おそらくは死刑宣告がキッカケだと想定しているよ
死の先駆はどんな価値観に変換されてもおかしくはないと思われる
死と宗教は類似しているからね >>867
ドストエフスキーは皇帝至上主義に批判的だったといわれているから、キリーロフのような人神論考え出すようなキャラクターに、そういう反帝政の意味があっても自然な事になるね
汎神論者かどうかは推測したけど分からなかった キリストを愛し、愛されているという感覚ではないのかな
最晩年ドストエーフスキーは。
汎神論者はゲーテか。
大天才のふたりだから通常人とは「神」と言っても認識の仕方が異なると思っています。 ドストエーフスキーは、
リアリズムに徹して作品を創造。
V・E・フランクル『夜と霧』を想起。 >>872
ドストエフスキーは神の認識について人格を持った神を強く意識したのだと思います
彼にとって神とは絶対の道徳ではなくてはならず、また対峙できる神である必要があったのだと
そうでなければ世界の矛盾に向き合えなかったのでは、なんて思っています
知と愛はぼくもヘッセの中で大好きです
そしてナルチス派かなw
「われわれの思索は、絶えざる抽象であり、感覚的なものの無視であり、純粋に精神的な世界の建設の試みである。しかし君はまさに反対に、最も変わりやすく生命のはかないものを抱き取って、まさに無情なものの中に存在する世界の意味を告げ知らす。
君は無常なものも無視せず、それに心を打ちこむ。君の献身によってそれが最高のものとなり、永遠なものの比喩となる。われわれ思索家は、世界を神から引き放すことによって、神に近づく。」 そのなかにある中編(作中の主人公、ヨーゼフクネヒトが書いたとされる「3つのものがたり」 >>881
読んでないです
代表作をいくつか読んだにすぎないヘッセシロウトです
おススメですか >>884
究極おすすめですW
いきなり本文を飛ばし、その3つの中編から読むことをおすすめ
ものすごく易読。 あなたの読書力なら 舐めるように一文字ずつ精読しても 2日でひとつ読めます 「雨ごい師」、「ざんげ聴聞師」、「インドの履歴書」という3つの物語
ぼくはとくに「雨ごい師」「ざんげ聴聞師」が好きです。
それは師弟のものがたりだからです。少年があるいは青年が、年長の模範となるべき人物に
したがって人生の目を開いていくものがたりだからです! だいぶヘッセに詳しいんだね
本屋に寄ったらこのスレ思い出して挙がっている本は手にとってみますw
『ガラス玉演戯』はなんか気になる 真昼の月っていう昔の常盤貴子のドラマで草むらでレイプされるやつクッソ抜けた
本当にガチなレイプで抜きたい気分のときは、このドラマを見返してる
AV女優の演技なんてやっすいのがわかる
本当にレイプされる恐怖心ってすごいんだなって思うと更に抜ける
オレは常にガチレイプで抜きたい派なんだけど、
そんな物はもちろん持ってないからAVのよく出来たお気に入りのシーンを眺めながら
あとは想像を交えて頭の中でガチレイプを展開して抜いている
真昼の月も年に数回使っている
演技力って大事なのが分かるよな
AVとかだとレイプされてるのににやけてる奴とかいるしガン萎え
下手したら自分から脱げやすいようにしてたり、自分から咥えてたり…
騎乗位しながら両手で手コキまでしてたらもう笑うしかないわな >>889
誤爆?
それともコピペ?
>AV女優の演技なんてやっすいのがわかる
>本当にレイプされる恐怖心ってすごいんだなって思うと更に抜ける
需要を考えればリアルにはできないよ
ただ舞台などで場数を踏んでいた霧島さくらとかは演技が上手いよ ドス好きはやはり
トルストイ、カミュ、ヘッセ辺りが好きなのかな? >>882
てか絶版じゃん
プレミアムついて中古でいい値段するんだけど >>894
古本屋でよく見かけるよ。
新潮文庫の水色の表紙。 「ガラス玉演戯」ってヘッセの代表作って言われてるし結構な長編なのに
新潮文庫が絶版ておかしいよな。
「二重人格」読了。
失敗作という評価が定着してるみたいだけど確かにこれは受けないな。
ゴーゴリの影響受けまくり。 >>893
古典好きが多いと思うからその辺りははずせないね
>>895
古本屋を気にしてみる
でもそんなに近くに古本屋ないんだよなー ドストエフスキー関連の本を読んでいて、彼のとても明確な信仰観がのっていた
たとえーーでも、私はーーに留まるだろう。
という意思は、やがてくる未来の自分そのものを束縛してしまうほどの強さを感じる
理性で厳密に選んだのか、盲信であるのかは定かではないが、なかなかの社会主義者だった彼がキリスト教に傾倒した心理的な理由とは何だったのだろうか、なんて考えた 続き
ナタリヤ‐ドミートリエヴナ‐フォンヴージン夫人への書簡より
わたしは自分のことを申しますが、わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われる まで、不信と懐疑の子です。
この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶に値した か、また現に値しているか、わからないほどです。
その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、 いよいよ魂の中に根を張るのです。
とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。
そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。
つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。
このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。キリストより以上に美しく、深く、同情のある、 理性的な、雄々しい、完璧なものは、何ひとつないということです。
単に、ないばかりではなく、あり得ないとこう自分で自分に、烈しい愛をもって断言しています。
のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう >>899
>その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、
>いよいよ魂の中に根を張るのです。
>とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。
>そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。
懐疑と自己否定による虚無感が希死願望につながる
というのはADHD(ドストエフスキーもその一人)に顕著な傾向で
こういう人間が「生」に縋りつこうとするのなら
不合理ゆえにわれ信ずという信仰の世界に進むしかない
ただ信じられないので苦しむという悪循環の繰り返しで
これは死ぬまで続く
脳内分泌物質の不足から普通の人間がオートマティスムとして
習慣的に処理できることがどうしても出来ない
それゆえこの欠陥を「〜となるのは何故か?」という原理主義的「思考」で補おうとする
そうやって懐疑によって掘削していっても
大した意味は発見できない(人間的事情による取り決めにすぎない)ので非常に苦しむ
しかし、この種の原理主義的思考の副産物として科学や思想が発達するわけで
もちろん最終的真理などないので心理的に苦しむ人間が後を絶たない
われわれ凡人はそういう苦悩から生じる甘露の一滴を享受する
ひじょうに虫のいい人生を送っているわけです なんか分かる気がしないでもない
なぜなんだと色々な出来事を考えていくと、そこに最後に待ち受けているのは、何もないという事が分かる
だけど何も信じないで生きていけるほど人間は強くできていない
だから何かを信じたくて、不合理とか不条理とかいう根拠はなくてもいいという気になる
だけど根拠がないから最初の懐疑に戻ってしまう
だけどそれでも一つの答えを見つけたよ
信と不信の間に「葛藤」は確かにいつも有ったはずなんだ
意識的にか無意識的にか、なりきれずにも中間は確かに存在したと言えなくはない
ドストエフスキーの思想はまさにこれだと思っています
肯定もできないが否定もできない
曰く、葛藤であり、もしかするとそれは彼にとって苦痛と同義になるのかもしれない >>902
地下室の主人公がドストエフスキーの分身であるというのが本当ならば、その分析はよくできているんだろう
麗しく崇高なるものを持つ人間に立ちはだかる壁とは2かける2が4になるという事
つまり自然の法則のに同意できる、彼のいう習慣的に生きれる真っ当なやり手の人間はこのかけ算に適応できる人間であるということ
だから
(引用)(脳内分泌物質の不足から)
>普通の人間がオートマティスムとして
習慣的に処理できることがどうしても出来ない
それゆえこの欠陥を「〜となるのは何故か?」という原理主義的「思考」で補おうとする
そうやって懐疑によって掘削していっても
大した意味は発見できない(人間的事情による取り決めにすぎない)ので非常に苦しむ
ただ脳内分泌物質の不足かどうかについては、僕は唯物的な医学の知識はないので分からないけど 岩波文庫「2019年〈春〉のリクエスト復刊」34点40冊
スペインの太子 ドン・カルロス シルレル/佐藤 通次 訳
ルーヂン ツルゲーネフ/中村 融 訳
スピノザ 神・人間及び人間の幸福に関する短論文 畠中 尚志 訳
「ルーヂン」にはオニオンそっくりの頭の悪いオヤジが出てくるぞ ドスとカミュ
あとひとり研究したいのにいなかった。
トルストイはキリスト教の説教臭さが無ければ文句無しなんだけどな。 キルケゴールはどうだろうか
ドストエフスキーとカミュと似ている所はある
ただ残念なのは小説がない
ならばシェイクスピアかシラー方が似てるのかもしれない シェイクスピアはちっとも面白くなくてね
なんでこんなやつが評価されてるんだとずっと疑問に思ってたんだが
最近『七人のシェイクスピア』という漫画を読み始めてから楽しめるようになった >>899
>わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われる まで、不信と懐疑の子です。
これは、何をいわんとするか?世紀の子とは? 19世紀はみなが不信と懐疑であったと?とりわけて、自分自身が不信のかたまりであったと?
信じることと不信は、表裏一体だとおもう。19世紀や21世紀など関係がないのではないか。以下は13世紀の日蓮のことばです。
------------------------------------------------------
「我並びに我が弟子、
諸難ありとも、疑う心無くば、
自然(じねん)に仏界にいたるべし。
天の加護無きことを疑わざれ、
現世の安穏ならざることを嘆かざれ。
我が弟子に、朝夕(ちょうせき)教えしかども、
疑いを をこして、皆すてけん。
つたなき者の習いは、
約束せしことを、まことの時は
忘るるなるべし。」
------------------------------------------------------
大聖人は「我が弟子よ!」ではなく「我並びに我が弟子よ!」と自分自身にも
よびかける。
先のドストエフスキーの
>わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われる まで、不信と懐疑の子です。
にも通じる。
「あなただけが、不信なのではないですよ」
>いわば悪魔と神の戦いだ、そしてその戦場が人
間の心なのだ。
とミーチャは言ったね。人間生命の中に神と悪魔はおることを喝破している。
信と不信の戦いである。約束を守れ。つたなき者(しょーもない者)になってはならぬ。いざ何かあった時に、約束を忘れて、不信して捨ててはならん。
それでは、しあわせになれないからだ。 (略)...どのように努力しても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がして
ぞっとする時、そういう時あなたはこつぜんと目的に到達せられる。そして絶えず密かにあなたを導きあなたを愛された神様の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと認めつたなき者(しょーもない者)
られますじゃ、ご免なされ、もうこれ以上あなたとお話はできません、待っておる人
がありますでな、さようなら。」
夫人は泣いていた。
「リーズを、リーズを祝福して下さいまし、祝福して!」
--------------------
とゾシマ存命中に、全力の指導を受けながら、のちにホフラコーヴァ夫人は、ゾシマの遺骸から腐臭が発したという
報告を受けると
>『わたくしはゾシマ大主教のような立派な
長老から、ああした行為を予想することができませんでした!』
と発言するにいたる。これが、つたなき者(しょーもない者)の姿です。 >>913
>それでは、しあわせになれないからだ。
2、2が4になるような、いわゆる誰もが幸せを目指すというのは実は錯覚で、もしかすると完成を恐れて幸せと同じくらい苦痛と破壊を人間は望んでいるのかもしれませんよ
気まぐれこそ意識ですからね
「人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、生そのもののなかにこそ含まれており、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」
そして
「有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?
人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、いや、そのことを証明する幾百万もの事実をどうしてくれるのだ?
しかも彼らは、だれかれも、何からも強要されてそうしたわけではない。ただ指定された道を行くのだけはごめんだとばかりに、それとは別の困難な、不条理な道を、それこそ暗闇をてさぐりせんばかりにして、強情に、勝手気ままに切りひらいてきたのだ。」
だから
「二二が四というのは鼻持ちならない代物である。
二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行く手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。
二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。」
結局、なにもしないこと、地下室ばんざーい!という事ですね >>915
> 2、2が4になるような、いわゆる誰もが幸せを目指すというのは実は錯覚で、もしかすると完成を恐れて幸せと同じくらい苦痛と破壊を人間は望んでいるのかもしれませんよ
> 気まぐれこそ意識ですからね
>
「しあわせ」「幸福」といった言葉は、底が浅く感じるかもしれない。しかし、以前も引用したゾシマの思想にもあったが
「喜び」「幸福」とは人間にとって究極の価値なんです。そこには両義があって「苦痛や破壊を人間は望む」
という人間本性の別の側面をも止揚していくものではないか。 自分ひとりだけそう思ってればいいんじゃないの?
他人に押し付けないことだね >>917
> 自分ひとりだけそう思ってればいいんじゃないの?
> 他人に押し付けないことだね
誰に対して発言してるの? 「そう思っている」とは? こういうシニカルな発言しかできない
人というのは、取り扱いに困るな。 > 自分ひとりだけそう思ってればいいんじゃないの?
> 他人に押し付けないことだね
-------------------------------------------
この手のバカげた意見を書く人はドストエフスキースレにカキコすべきではない。
討論していく気持ちがないし、真理を追求しようという姿勢もない。 915 さんはとても重要なことを書いてくれた。これに返答するには準備が必要だ。
これは幸福論であり、そしてドストエフスキーの真意は何か、自分自身の思想はどうか?をもっと考えないと。
では、また明日w ていせい。>自分自身の思想 というより
自分自身の「信仰」ですね。自分はなにを頼りに生きていくか?ということですね。 >>916
ドストエフスキーが地下室を書いた時とカラマーゾフ を書いた時では思想に違いがあるからね
地下室の主人公の主張とゾシマの主張、相反する思想があるけどもどちらもドストエフスキーの声に他ならない、という面白さがあると思うのです >>915
> 2、2が4になるような、いわゆる誰もが幸せを目指すというのは実は錯覚で、もしかすると完成を恐れて幸せと同じくらい苦痛と破壊を人間は望んでいるのかもしれませんよ
> 気まぐれこそ意識ですからね
この場合「苦痛と破壊と気まぐれ」が幸福なのか。ほんにんはそれが幸福と思っている。しかし、それは幸福ではない。
> 「人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、生そのもののなかにこそ含まれており、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」
これはそうだなあ!
> そして
>
> 「有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?
> 人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、いや、そのことを証明する幾百万もの事実をどうしてくれるのだ?
> しかも彼らは、だれかれも、何からも強要されてそうしたわけではない。ただ指定された道を行くのだけはごめんだとばかりに、それとは別の困難な、不条理な道を、それこそ暗闇をてさぐりせんばかりにして、強情に、勝手気ままに切りひらいてきたのだ。」
>
なんという素晴らしいことが書いてあるのだ!そしてそれを、こうして見事な文で表現してくれるから、
ドストエフスキーは文豪とよばれるのだ!!
ドストはこんにちの流行作家ではない。ドストは19世紀の人だ。ドストは死んじゃってもういない。それなのに、
いまをときめくAKB や嵐とおなじように、まいにちどっかで語り継がれている。
それはなぜだ?文明に確かな足跡を残したからだ。その点ではニュートンとかエジソンとかといっしょなのだ。
ほかにこんな外国の作家がいるのか?もしいるとしたらシェークスピアぐらいだろう。
たとえばサルトルは、1960年代には世界的に流行した。ノーベル賞も受賞した。こんにち読み語る人はほとんどいない。 >>924
> ここは自演スレなの?
自演スレじゃなくて、彼はおれの味方なのw
文がへたくそで、雑なことも書くけど、きみらより数段深くドストエフスキーを愛読し、
その作品から学ぼうとする情熱をもってることを知っているから、それでおれの味方をしてくれるわけwww >>923
とりあえず気になったら地下室の手記がいいよ
短編で、ドストエフスキーのドストエフスキーしている所がとても濃く出ている
嫌いになるか好きになるか、判別するのに持ってこい 青年時代に書いた「二重人格」と中年になって書いた「地下室の手記」
これふたつともあんま考え変わってないんじゃないかと思った。 やはり死刑宣告を分岐として考えに違いが出てくるのかもしれない
もしくはマリイの死か
地下室の頃に最愛の妻をなくしているね >>924
ここを占拠して変な長文を書き続けている日本語不自由な創価学会員の二人組がいるのよ
自分の意見すべてに服従しない者はドストエフスキースレにカキコすべきではないと言い張り
威張りん坊してるプチ宗教の教祖様たちがね >>932
いつのまにか学会員さんがふたりになったんかっ?wwwwwwwwwww
こりゃーユカイなことになってきたな!w
おまえらクズねらーのイクナイ点はな、「ドストエフスキーを読んで」どう感じたか?自分の生活に即して、どう考えるか?
そういうことを書かないor 書けない点じゃない?
書けないのは、能力がないからじゃないと思う。人にどうおもわれるか?とか、勇気がないからだと思うぜ。 >>915
>「人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、
>生そのもののなかにこそ含まれており、
>目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」
たとえばアリストテレスが説くように
「幸福」という「目的」があり個人においても人類においても
共通の目的として「幸福」が設定されていて
人類史とは幸福追求の過程であるという考え方がある
ただ、幸福なるものはの正体はよく分からないので
不幸あるいは不快なものの抹消によって幸福へと前進する
という弁証法的解決が提示される
これがドストエフスキーやニーチェだと
生の本質は惨苦であり幸福とはそれに耐え得ない人間が生み出した
虚構に過ぎないという身もふたもない考え方になる
ニーチェの場合は自己欺瞞の破壊に猛進して発狂するが
ドストエフスキーは例えばゾシマのように惨苦もまた恩寵となり得る
として踏みとどまる
惨苦も歓喜に変換する人間精神(まあ一種の倒錯に過ぎないのだが)に
創造性や豊かさを見出し、そこに何者か超越的なものを感じさせる
ここがニーチェとは決定的に違う ……キリストやキリスト教との関係で記述すると多分に比較的解り易くなるよ。
あと例えばV.E.フランクルの著作を読み込んでみるとかね >たとえばアリストテレスが説くように 〜
>人類史とはXX追求の過程であるという考え方がある
これはマルクスが唯物史観の功利主義的な合理性の追求という形で完成させたように見える
――が、人類共通の真理の追及から相対的真理の時代に移行してちゃぶ台返しされた
>ニーチェだと 〜
ニーチェは虚構を虚構と自覚するリアリストでありながら
あえて虚構や自己欺瞞を駆使し、それを知性のコントロール下に置き、
嘘も方便じゃないけど有効活用するというのが彼の能動的ニヒリズムである
宗教は自分で考えることを止めて虚構を本気で信じなさいと説き、それは時に役に立つこともあるが、
嘘を付いた本人(例えばイエス)いなくなったら、頭カラッポな信者の方は運転手不在の車になって暴走する
その意味においてはイスラム教なんか最も宗教らしい宗教と言えるだろう 宗教家が論じた宗教というのはどうしても身内の馴れ合いに終始していてね
霊的な、あるいはそう見なされるような空虚な概念を垂れ流し、最初から議論にならないものさ これは個人的見解である、と断った上でドストエフスキーの思想について解釈してみる
まず、幸福には不幸が、歓喜には苦痛が包括される
つねに極にある概念は同じだけその極にある概念に内包されるという事
そして、幸福にはまず不幸が、不幸には幸福が先行する
その性質とは反対の性質の状態からの変化が必要条件となるという事
ならば人間が生きていく上でどのような意味付け必要とし、この世界をどように見渡すのか
ドストエフスキーは世界を堕落と不正としてまず設定したのではないかと思う
永遠の不正や苦悩を認め、反抗するからこそ、永遠の幸福と歓喜を構築「しなければならない根拠」とした
彼はこの世界を苦痛と残酷の限りとし、それを是正しないために徹底的に反抗する事で幸福を見出そうと試みたのではないだろうか
ただし、
地上から天上を目指すのは神の恩寵とした
こればかりは形而上的神性に頼る他がなかったのかもしれない、彼にとってはキリストだった
一方で、
天上を地上に引きずり下ろす事は人間の神格化という主義思想が存在する、社会主義者たちはそういう意味で無神論者というより反有神論者なんだと思う
ドストエフスキーは前者を選んだ人、というだけにすぎないのかもしれない そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないーーとだけ書けば十分な見解ですな、へっへ! あれだけ捻くれたキャラクター書けるのがすごい才能だな。
他の作家でいる? 罪と罰、ほんと読みやすいな
思わず、身を入れて朗読してしまうほどの名文 >>935
> 生の本質は惨苦であり幸福とはそれに耐え得ない人間が生み出した
> 虚構に過ぎないという
ぼくは主として「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」しか読んでいません。これらの作品中
どの登場人物に仮託して、なんと語られていますか?この思想について。
> ドストエフスキーは例えばゾシマのように惨苦もまた恩寵となり得る
> として踏みとどまる
> 惨苦も歓喜に変換する人間精神(まあ一種の倒錯に過ぎないのだが)に
前にも同じことを訊きましたが、なぜ「倒錯的」だと考えるのでしょうか?
> 創造性や豊かさを見出し、そこに何者か超越的なものを感じさせる
> ここがニーチェとは決定的に違う 倒錯的だろ歓喜って下品な言い方だけど気持ち良くなったって事だからな >>937
> 宗教は自分で考えることを止めて虚構を本気で信じなさいと説き、それは時に役に立つこともあるが、
> 嘘を付いた本人(例えばイエス)いなくなったら、頭カラッポな信者の方は運転手不在の車になって暴走する
> その意味においてはイスラム教なんか最も宗教らしい宗教と言えるだろう
この考え方はすこぶる通俗的で卑しく感じられるが、じつは大審問官に近くないか?
宗教の教えを虚構ととらえる。これ自体はたとえばキリスト教徒でないならとうぜんといえる。しかし信仰というのは「信じなさい」と説かれるから信じえるものではないということを理解しているのか?
また「嘘を付いた本人(例えばイエス)」と書いているが、各宗派の祖師というものは、あたりまえであるが
「だれよりも深い信仰をもっていた」のだ。
つまり「大審問官」とはオニオン的な卑小な精神が思い描く信仰宗教を詩的に表現したものではないか。
さらに笑止千万なのは、キリスト教にせよイスラム教にせよ仏教にせよ「1ミリたりとも知らず」体験したこともないのに、語っている点である。全世界の笑いものの発言レベルであろう。 地獄とは「愛すべきひとを愛することのできない生命」だ。
愛や尊敬を軽蔑して生き、無為に人生を過ごす生命をさす。
イヴァンカラマーゾフは父親さえ愛せない。母親も愛せない。だから他人を愛せるはずがない。
> 宗教は自分で考えることを止めて虚構を本気で信じなさいと説き、それは時に役に立つこともあるが、
> 嘘を付いた本人(例えばイエス)いなくなったら、頭カラッポな信者の方は運転手不在の車になって暴走する
> その意味においてはイスラム教なんか最も宗教らしい宗教と言えるだろう
だから、だいたい以上と大差ない世界に生きている。そしてわれわれ自身もまた「イヴァンカラマーゾフなのだ!」 > 惨苦も歓喜に変換する人間精神(まあ一種の倒錯に過ぎないのだが)
この考えもまた地獄の思考といえる >>948
おそらくだけど>>935さんは、論理的思考として、苦痛を幸福と概念的に同等に扱い、加えて幸福を一方的な状態とはせずに受容と拒否の間にある調和としようとするようなドストエフスキーの創造性は豊かだ認めているんじゃないだろうか
だけどそういう事を分かった上で、それでも個人的には倒錯的に感じる、ということじゃないかな
苦痛は苦痛でしかなくて不快なものである、というのは普通のことで、歓喜や幸福を苦痛や不幸に同じ価値を認めるというのはなかなか難しい事ではあるからね
例えばこういう考えがあった時、理解は出来ても納得は難しいとさえ思うんだ
この苦痛によって幸福をあがないとる、とはまず自らに課せられた生は苦でしかない事を認める事になる
ニヒリストなら喜んで受け入れるだろうけどw
「人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ、しかも常に苦痛によって。そこには何の不公平もない。
何故なら、人生を知ること、生活意識(つまり、直接肉体と精神とによって、すなわち生活のプロセス全体によって得る矛盾せる感覚)は、経験、すなわち肯定と否定(pro et contra)によって獲得される。
その肯定と否定とをみずから背負わねばならぬ。」『罪と罰』創作ノート なんというか、君たちの考察は常に浅いというか、井の中の蛙なんだよな
そしてついていけない議論になると誹謗中傷や人格攻撃に終始する
創価学会の信者がどういう人間なのか、君たちがここで体現していることを忘れないようにね 宗教的独断論、あるいは根拠なき信念の告白には「ああそうですか」とスルーしておく
よくUFO番組で自称金星人が宇宙人語で「アバババババ」と訳のわからん真理を授けてくれるが、反論以前に会話にならんからな
つまり適当なこと言ったもん勝ちの唯心論・神秘主義の時点で、議論の前提が間違っているということ さて話を本題に移そう
ドストエフスキーの時代はヘーゲル左派のリアリストとしての唯物論が台頭し、
人間精神の特別さを否定していた最中で、ドストエフスキーとかニーチェはそれに抵抗感を覚えた
(「地下室の手記」は唯物論に反駁する唯心論者の話である。しかし幾ら念じたところで、人間精神は物体を、サイコロひとつ動かしたり奇跡を起こすことはない)
しかし精神論者が崇高なものと捉える幸福や愛とは何か?
それは所詮、感情の高揚とそこから生じる快楽であり、
それはマリファナのような薬物を投与して得られるものと何ら変わりは無いと、唯物論者やフロイトのような人々は言うだろう
ハックスリー「素晴らしい新世界」では、副作用の無い薬物投与によって人々は常に幸福感に満ちた感情で居続ける完璧な世界が描かれている
宗教家が意味の無いことをブツブツと呟いて意味深いことを書いたつもりでも、
それは詐欺師が情に訴えるほどの浅はかさに過ぎない
唯物論vs唯心論という問題、人間が個人的に何かを思うことに何か特別な意味があるのかという問題の核心に触れなければ、ドストエフスキーを読んだとは言えないだろう >>942
キャラはこいーよね
おかげで他の小説が物足りなくなるというデメリットがあるw >>949
> おそらくだけど>>935さんは、論理的思考として、苦痛を幸福と概念的に同等に扱い、加えて幸福を一方的な状態とはせずに受容と拒否の間にある調和としようとするようなドストエフスキーの創造性は豊かだ認めているんじゃないだろうか
935さんが深い教養を持ち、かつまじめに考えていることはわかっている。
「苦悩を突き抜け歓喜に至る」と表現を変える。それが倒錯的であるというのは、
「私たちの現実感覚にあわない」
具体例を出す。(どこが具体例なのか?とオニオンが言うであろう。ぼくにとってはカラマーゾフとは現実だからだ)
ゾシマの腐臭によって多くの人が疑惑におちいった。アリョーシャ自身も苦悩した。その後彼は
カナの婚礼の場面で「なにかを悟り」大歓喜に至った。こうした体験は倒錯的なのか?
ひとりアリョーシャのみではない。わたしたちすべてのものが「苦悩を突き抜け歓喜に至った」体験を持つのでないか?なぜなら苦悩と苦痛は人生の付属品だからです。生きることはそれをば歓喜に変え乗り越えゆくことじゃないですか? >>952
>人間精神は物体を、サイコロひとつ動かしたり奇跡を起こすことはない
ところがぼくは、人間精神は大宇宙を動かすと思っている。きみのドストエフスキー理解はおかしい。
そうでないというなら、カラマーゾフの兄弟第六編ゾシマの遺訓の章節にちくいち反論を加えてみせよ。 >>952
きみはドストエフスキーを読んでいないと思う。おそらく「ああそうか〜〜〜」という感じに斜め読みしてる。
ぼくのように「一行一行精読」してみせよ。 >ID:ghmyeTzK
>ところがぼくは、人間精神は大宇宙を動かすと思っている。
前にも書いたが、きみには常にwhyが無い。自分一人で何となくそう思ってるだけ
オウム真理教の信徒は今でも麻原彰晃が空中浮遊したと本気で信じているが、きみもそう思っているのか?
もちろん今すぐ大宇宙を動かしてくれても構わない。いわゆる「ここがロードス島だ、飛べ!」というやつだ
>カラマーゾフの兄弟第六編ゾシマの遺訓の章節にちくいち反論を加えてみせよ。
では引用してその論点を述べよ
>きみはドストエフスキーを読んでいないと思う。おそらく「ああそうか〜〜〜」という感じに斜め読みしてる。
ひとりでそう願ってればいいんじゃないかな
宗教家に「僕は神様に選ばれた人間なんだと思う」とか言われてもね、「あっそー」としか言いようがない
>ぼくのように「一行一行精読」してみせよ。
一行一行精読した結果どうなの? 思いあがった自意識以外には、なんにもないじゃん。随分と空虚な人間だね >苦悩を突き抜け歓喜に至る
心頭滅却すれば火もまた涼し――そう説教する人たちがいる
ところが「じゃあ早速あんたがやってみてくれよ」とガソリンを持ってくると
蜘蛛の子を散らすように逃げていくんだな、へっへ! >>954
>935さんが深い教養を持ち、かつまじめに考えていることはわかっている。
そっかじゃあ勘違いだったよ、余計な事を言ったようだね
オーウェルのディストピアならばハクスリーの描くディストピアかザミャーチンそれだな
だってフリーセックスがあるもんねw 目の付け所が良いな
ジョージ・オーウェル「1984年」を近いうちに引用しようと考えている
ドストスレでドストを貼っても、それはツァラトゥストラでいうところの「海に塩を投げ込む」ようなことだからな
フリーセックスは自由と反体制の象徴である
しかし宗教は現世の繁栄を否定し、禁欲を説く
ニーチェ「キリスト本人は天衣無縫のアナーキストとして自由主義者だった」 しかし私が教えてばかりではギブ&テイクにならないな
乞食に施しをしてはならないとニーチェも言うからね
――もっと優れた知見を投稿しなさい、私のように! 唯心論と唯物論か。夢幻のごとくにひかるの国は幻術士もいるぞ。
心が映し出す物というところだろうな。物自体はあって、心が物とつながっているんだよ。 「未成年」2回目読んでるけど前回もそうだけど
なんか手紙がすごい重要みたいな感じなんだけど
それが全然ピンと来ないのは私だけかな? フォークナーを買ってみた。
なんか重厚でドロドロした人間関係とかでドスっぽいかなと。 フォークナーとか手が出せずにいる
アメリカ小説は幻想的なイメージという勝手な先入観があるけどどうなんだろう
同じく未成年でそこまで手紙の重要性は気にならなかった
でも、検索してみたら手紙は物語のメインで動かすとても重要な役割らしい
いつか読み返さなければw ドストエフスキーは晩年に少しだけ
平穏な時期があっただけで結構苦しみの
多い人生だと思うけど意外に自殺の
誘惑は受けなかった?
また自殺についてどう思ってたとか文章ある? 自分の人生に自己決定権がある自殺はよくない。他者の多さ他者の圧力から抜けろ。 >>966
スタブローギン?
私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き
捨てるべきであることを知っている。
しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。
私はそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞である
だろうことを知っている。
心の広さを演じてみせるためだけに自己をあざむいてみて何になろう?私の内部には憤怒
と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。
ゾシマ
しかし地上において我とわが身を滅ぼした者は気の毒である。まことに、自殺者は気の毒
である! これより不幸な者はほかにないと私は思う。彼らのために神に祈るのは罪悪であ
ると人はいう。そうして、教会も表面的には彼らを破門するような具合である。けれども
私は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。キリストも決して愛をと
がめて、怒られるわけがないではないか。私は白状するが、こういう人々のために一生
涯、心の中で祈っていた、今でも毎日祈っている。 『作家の日記』の自殺についての章は次の通り
1976年10月 第1章 3二つの自殺 4宣告
1976年12月 第1章 2遅れてやって来た教訓 3根も葉もない断言 4青年についての若干 5自殺について、そして尊大について
少しだけ抜粋すると
私の小文『宣告』は、人間存在の根本的な最高の思想、つまり人間の霊魂不滅の信念の必然性、不可避性について論及している。
「論理的自殺」によって死につつあるこの人間の告白の裏付けとなっているのは、今すぐこの場で次のような結論を出す必要があるということである。
つまり、自分の魂とその不死に対する信仰なしには、人間存在は不自然であり、考えられず、また堪えがたいものだという結論である。
最も優れた観念なしでは、人間も国家も存在することはできない。
ところでこの地上における最も優れた観念はただ一つしかない。
つまり、人間の霊魂の不滅についての観念である。
というのは、人間が生きる拠りどころとなっているすべての残りの「最も優れた」観念は、この一つの観念にのみ源を発するからである。 つづき
私は言明しておく、人類に対する愛は人間の霊魂不滅に対する信仰と共にあるのでなければ、まったく考えられず、理解できず、全く不可能である、と。
不死の観念喪失の場合の自殺は、まったく不可避であり、必然的なものとさえなっており、逆に不死は永遠の生命を約束することによって、それだけ強く人間を地上に結びつける。
自分の不死に対する信念がなかったら、人間と地上のとのつながりは切れ、より細く、腐ってゆく。
そして人生最高の意味の喪失は、疑いもなく自殺を招来する。
不死についての観念、これは生命そのものであり、生きた生であり、生命の決定的な公式であり、人類にとっての真実と正しい意識との主要なる源泉である。
自殺のいろいろな事実を叙述し、ついでこれらの自殺について私がどのように考え、またどのようにそれを説明するつもりなのかとたずねる手紙を非常にたくさん受け取っている。
私はこれらの自殺のすべてに説明を与えようとしているのではないし、そんなことはできない。
しかしそのかわりに、この自殺者たちが、その大部分、全体として、直接間接に、同じ一つの精神の病から、自分たちの魂の中に存在することについての最高理念の欠如からわが身を滅ぼしたのであると、私は確信して疑っていない。 翻訳の都合なのか、あの時代の文章と言うのは実に読みにくいね
スタヴローギンの遺言てのは、『異邦人』の最後同様に、結局開き直っただけのことなのよ
――私は、自分が自殺すべきであること、容赦なく死ぬべきで悪人であることを、まるで他人事のような"一般論"としては分かっている。
しかし私は自殺がこわい、なぜなら良心を示すことを恐れるからだ。
私はそれがまたしても嘘であるだろうこと、無限につづく嘘の列の最後の嘘であるだろうことを知っている。
私には良心が無い。さも良心が欠片でも有るかのように演じてみせるためだけに、自分に嘘をついて何になろう?
私の心には、私がしてきた犯罪の数々に対して怒り、絶望、恥、そして罪悪感はけっして存在しえないだろう。
神がいなければ、すべては許される まったく素晴らしい!
すばらしすぎる引用とタイミングだ。
これを読めばハッキリわかる。「カラマーゾフの兄弟」とは筆者ドストエフスキーの思想をあますところなく、
完全な形で展開しきったものであると。
ですから、「地下生活者の手記」「悪霊」等?をもって、不信仰にしてネガティブな思想をドストエフスキーであるかのごとくとらえてはいけない! >>968
自殺と言われると、ぼくもスタヴローギン(もしくはキリーロフ )を最初に思い浮かべてしまった
不遜ながらスタヴローギンに付け加えさてておくれw
これは自殺についての言及と読んでいる
「私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚を失ってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ、あるのは一つの偏見だけ。私はすべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手に入れた瞬間、私は破滅する。」 >>969
やはり作家の日記は重要だね
思想の原型がそこには木のように立っている
6巻まで文庫を2万近く払って買ったのだけれど、4巻あたり止まっている自分(T ^ T) >>973
しかし、地獄の中にも傲慢、残忍を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を
確知し、かつ認識したにもかかわらず、サタンとその 倨傲な精神に結合しきった恐ろし
い人間もいる。
こういう人たちにとって地獄は、望むところでもあり、それでもまだものたりないところ
である。彼らはみずから好きでなった受難者である。なぜなれば、彼らは神と生をのろっ
て、おのれ自身をのろったからである。
たとえば砂漠で飢え渇いたものが、自分で自分の体から血を吸い始めるのと同じように、
自分の毒に満ちた倨傲を糧としている。
しかし、永劫に飽満を知らぬ彼らは、赦免を拒み、自分を招いてくれる神を呪うのである。
彼らは生ける神を憎悪の念なしに考えることができぬ。
そうして、生命の神のなからんことを願い、神が自分と自分の創造物を減ぼすことを要求
している。
こうして、永久に瞋恚(しんに)のほむらの中に燃えながら、死と虚無を願うことであろ
う。しかし、その死はとうてい得られないのである...... >>972
プロとコントラとして、否定の部分に飲み込まれてしまうとドストエフスキーは悪魔の書になり得る
ゾシマで姿勢を正すことは正しいと同意するよ
でも他が甘美であることソドム的な誘惑がそこにあるw 確実なことだけ 書き込みます。
>>968
> ゾシマ
> しかし地上において我とわが身を滅ぼした者は気の毒である。まことに、自殺者は気の毒
で始まるゾシマの教えをひとことで表すと「自殺者はかわいそう」ということです。
------------------------------------------------------------------
自殺者はかわいそうだから、自殺させないようにする。もう自殺したものには回向する。というのが、宗教者です。宗教的発想です。
ところで、悪霊の登場人物は「私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。」
あるいは「人神」となるため自殺する?(悪霊当該箇所未読ですので、このスレの引用からの判断w ごめん)
といった複雑さとゾシマのシンプルさと、どちらが真実か?
このように観念を弄ぶことに、なぜなるのか? また
オニオン的ラキーチン的ミウーソフ的考えというのは、観念をもてあそび、哲学的学術的文学的だんぺんを
ひけらかしつつ、信仰に「ペッペッ」とツバをはきつけてまわっている。こうした浅い人物像というのは
その出現した由来は何なのか?
おれはこれは日本人の主流ではないと思う。いな、日本というより、世界のなかでひじょうに孤立した人間だと思う。 ただ、誤解なきよう追加しておきたいのは
オニオン的じんぶつの「態度は確かに卑しい」が「宗教宗派への激しい不信と侮蔑」というのは
ぎゃくに「求めている証左でもある」そして「宗教というのは」ある面「ひじょうに恐ろしいものです」
なにを信じてもいい、なにを信じても同じ」などということは「ぜったいにない」 すまん。みなの衆
もう二度とオニオンのことなぞ書かん。約束する。荒れるからな。
ドストエフスキー本文にそって書いていこう!
オニオンよ。おまえもこのとおり書いていくんだぞ。 ID:od7JfXHy = ID:tgg65jwp
創価学会は勧誘を拒絶されると執拗に人を誹謗中傷するカルト集団です
みなさん気を付けましょう
選挙前に電話がかかってきても公明党には絶対に投票してはいけませんよー!
:P オニオンよ、こう考えたらいいんじゃね?
宗教信仰とは「正しいか正しくないか?」いぜんに
人間にとって必要だからあるんだ。
上の「作家の日記」の引用、それよりカラマーゾフを読んでみろ。 >980吾輩は名無しである2019/02/18(月) 00:05:57.12ID:tgg65jwp
>もう二度とオニオンのことなぞ書かん。約束する。荒れるからな。
創価学会はみずから誓った約束すらすぐに破る、信用できない人たちです
このスレの創価学会員が体現しているのでよく分かります。気を付けましょう
――実存は本質に先立つ >哲学的学術的文学的な深い教養をひけらかしつつ、
>信仰に「ペッペッ」とツバをはきつけてまわっている。
「ぺっぺ」と言えば、ドストエフスキーの小説ではよく出てくるが、
ロシア語版だとどういう表現になっているのだろう?
翻訳者はこういうところでセンスを問われている ちくま文庫の「作家の日記」復刊してくんねーかな。
全6巻だよね?これでも全部じゃないの?
あとは岩波文庫の「妻への手紙」も復刊してほしい。 今日もすばらしい書き込みを授けよう
人生は幸福か、それとも苦痛か? 宗教が繰り返すそれは実に無益な問いであった
幸福は苦痛によって、苦痛は幸福によって、弁証法的に発展し続ける
――人間とは、揺れ動き続ける状態である(『銃夢』) >>985
全6巻であっている
文庫で読む習慣がある自分はこれをネットで買ったのだけれど、廃刊扱いだからネットで買って、中古なのに1冊3000円とかした
ドストエフスキーなんてどれも有名なんだ売れると思うんだから復刊させ欲しいよね まあ、いくらドストエフスキーでも「作家の日記」とかは
よほどのマニアしか読まないよね。
自分的にはなんでも読みたいけど。 全集が普通に売ってるなら「書簡」と「創作ノート」は読みたいけどねえ。
でも古本だと汚いから嫌だ。 古本汚いのは意外と気にならないけれど、たまに蛍光ペン引いてあったりするよね
まーそれはそれで前の人の影が見えて悪いもんじゃないんだけどね
でも本は新品買って大切にしていきたいな
読み返したくなった時がきっとあるだろうから 人間は死を恐れる。それは生を愛するからである。
悪霊から
弁証法が成り立つね 死を恐れることで生に執着し、生に執着することで更に死を恐れるという悪循環
この過程の副産物として死とは何か、生とは何かの定義もまた変化していく(社会的死とか観念的生の概念が生まれる)
だが根源にあるのは宗教的空言ではなく、生物的本能だな
すべての生物は(元々は)自己保存のためだけに生きている 279 名前:名前書くのももったいない[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:01:24.22 ID:???
大阪から鹿児島に引っ越したけど車のマナーの良さが段違いなのに驚き
歩行者が横断歩道にいたら普通に止まってくれる(大阪じゃありえないレベル)
あと大阪みたいに自転車がうじゃうじゃいたりもしない
各店舗の駐車スペースが大阪の倍はあって路駐がほぼない
285 名前:名前書くのももったいない[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 00:58:15.57 ID:???
>>279
大阪に住み慣れてから、他地域行くと、
マナーの良さにびっくりするよな
スーパーの店員のある人は、
クレームが全く無くて、怖いくらいって言ってた
大阪なら、98円のほうれん草を128円の小松菜に間違えただけで、
「どないなってんねん!この店は!」って、散々説教されるし
駐車場に持って行く途中で割れた卵を、
「割れてもたから、変えてくれ」」って平気で言ってくる客も居る
学校の先生やってた人の話によると、給食費を請求しても、
「ワシらは、お前らに食わせろとは言ってない。お前らが勝手に食わせたんや」
と断固として払わない。修学旅行費も、
「お前らが勝手に連れていったんや。ワシらは知らん」と
楽器屋の店員やってた人に聞くと、
大阪では、毎回のように値引き交渉されるのに、東京ではほぼゼロだからびっくり
どうして金を払う立場の、店からすれば神様のような人が、
こっちの言う通りの金額を払ってくれるのか不思議がっていた 「未成年」2回目読んだけど1回目と違ってだいぶ内容が理解できたw
最初はもうゴチャゴチャしすぎてなにやってるのかわかんなかった。
でも不思議な作品、どんな作品か説明できない。 >>990
鉛筆のカキコはニヤリとする
試験用の参考書で最初の数ページしかかやってなかったのを見た時は
他人事ながらショボンとした 埋め
「いちばん大事なのは、自分を愛するように他人を愛するということだ。これがいちばん大事なのだ。これがすべてであって、これよりほかには何も必要でない。」作家の日記より >自分を愛するように他人を愛するということだ
聖書の引用 >>997
そうだね
新約での重要なイエスキリストの戒め んー。。。
神よりの愛の観点も実際とっても大切かと。 このスレッドは1000を超えました。
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