大江健三郎と原子力、そして天皇制
繻エ 丈和
http://kuwabara.a.la9.jp/study/pdf/genshiryoku.pdf

大江健三郎の作品という参考書を通して現状の出来事を分析しようというのではなく、
現状起っていることから大江健三郎のテクストを読み直そう、という試みである。正直な
ところ現在の事態になるまで大江健三郎をこれから述べるように読めなかった自身の鈍感
さは恥じるしかない。

これまでは、それが故に彼のエッセイなどの社会的な発言が現実と正しく切り結んでい
ないという批判がなされてきた。ただ、そこで批判のために招喚される〈現実〉は国家と
癒着したマスメディアという企業組織によって作り出されてきたものでしかなかった。も
し、大江健三郎に原子力への批判者としての優位性があるとすれば、最初の節に引用した
ようなマスメディアの言葉への批判的な認識を持ち続けていたこと、そして後述する数値
の魔術にとらわれていなかったことにあるのだろう。

そして、大江健三郎の一つの特質はそういう〈空気〉を読まない「不謹慎」さを身につ
けているところにある。そういえば原子力や天皇を巡る発言の中で大江健三郎は数値を用
いて語ることが少ない。テクストに頻出する数字に基づいて物語を組み上げた「大江健三
郎論」すら存在するにもかかわらず、社会的発言において大江健三郎は数値に禁欲的で
あり、それは前節でふれた科学への批判的スタンスとつながるのだろう。

これまで見てきたように大江健三郎は直接的に暴力を発揮する国家・行政と企業などの
癒着した体制に対する批判を行いつつも、生活に不可欠なライフラインをコントロールす
ることで人々を支配する側面については、明確に問題化しているとは言い難い。ただ、住
居・上水道・電気といった直接のライフラインではなく、人間が生きていく上で必ず生じ
てしまう排泄物の処理―通常は市町村が管理する下水道設備が担っている―の問題を
取り上げることで、そこにふれている。国家・行政の管理によるのではなく、小規模の集
団が生活を維持していくために自律的にかつ周囲の環境をできるだけ変更することなく、
インフラを整備するイメージを描いている。