★★★大江健三郎スレ2★★★
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大江健三郎
1935年1月31日生まれ
1994年 ノーベル文学賞受賞
2018年 大江健三郎全小説刊行開始
前スレ
★★★大江健三郎スレ★★★
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1484634141/ つーか、表紙がクイーンのアルバムのジャケのパロディーだよね。>ニッポニアニッポン 文学から遠く離れたものを文学に昇華する過程で作家としての力量が問われるわけじゃん。その意味で阿部は大江と同じことをやってるんじゃないかな。 大江の場合は大江が小説の中で扱った時点でそれが一般的な文学的素材に変化してしまう状況があって、阿部にそういう影響力はないから後から論じる上ですげー難しいけどさ。 >>681
いやあれをダサいというなら大江信者のお里が知れるというものだろう
口をききたいとすら思わない >>679
韓国人のことは大江の犯罪の一部。お前はちゃんと読んでるのか? クイーンとかイーグルスとかU2のファンってダサくないと思ってあれを聴いてるからすげーよ >>689
モーツァルトは粋で政治的なベートーベンはダサいみたいな話だろ
そんな発想がそもそもダサい
一番汚らしいのは大江のようなその国を汚す売国奴 映画ができてニワカに見つかってしまったーとかファンがいってるのも笑ったが
もっと笑ったのはここの粘着キチガイがクイーンファンだってことw というかネトウヨが一番ダサいよな。ネトウヨを文学作品化すべきだと思うよ。まあ、セヴンティーンの二番煎じにしかならないのが悲しいけど(笑) ウヨクの欺瞞みたいのも大概ネットに出回って一周まわってんのに
いまだに反日ガー、売国ガー
いってるのって情報感度みたいのも悪いんだろ >>693
国が欺瞞だろうとなんだろうと
大江のような裏切り者の売国奴は一番醜く
万死に値する
>>692
そのネット右翼という言葉を誰が生み出したものなのか
わかってお前は使ってるのかね
左翼の宮台だ。屁理屈のゴミだろ。 「裏切り者」とか笑っちゃうよな。どういう立ち位置からモノ言ってんのかほんと謎(笑) こういう滑稽でしかないものを文学化すべきだと思うな。 >>694
大江はなにを裏切ったの?
ネトウヨ君の書き方は、いつも非論理的。
論理が無い頭をしてるからネトウヨになるんだろうな。 >>696
お前がどうして生かされてるのかという根本まで考えることができない
やつは死ぬべきだと思う。 >>699
そのキャラはネタでやってんの?それとも本気?何歳なの? 子供じゃない可能性もあるよな。おっさんがスマホを買ってネトウヨ化する現象は日本全国で確認されているし。 >>699
キミの脳内おもちゃ王国では、大江が良くないこと一切合財引き受けてる諸悪の根元なのかも知れないけどさ
ここはもうちょっと、大人の場所なんだ。よそで遊んどいで いま田舎に帰省する人が一番恐れているのは久しぶりに会った親がネトウヨ化しているという事。関係ない話として聞いてるぶんには笑えるけど、自分の身に起こるかも知れないと想像すると最早ホラーだよな。 ボヘミアンラプソディーを見てきた感激をアンチ粘着しているここに書き込まずにいられなかった男w みんな親がネトウヨのまとめブログ読んでないかスマホやPCチェック出来るならした方がいいよ。感染の初期段階ならまだ治療する事ができるから。 >>703
親が団塊世代なら、自分を確立していることが多いからネトウヨ化する心配はないが、50代とかだと心配した方がいいのかな? >>706
バリバリ仕事してた人が一線を退いてネトウヨに生きがい見つけちゃう事があるので危険ですね。余命三年時事日記を読んで懲戒請求をした連中の平均年齢は50代だったらしいですよ(笑) >>707
国を否定する女はマジで死ぬべきだと思うよ。いるだけ無駄だから。 >>708
ミソジニストのネトウヨなの?もうそのパターン見飽きたよ(笑) インターネット以降のセヴンティーンを読んでみたいよね。ネットサーフィンで強化された妄想が暴発して破局に至る話は現代の悲劇でしょ。そんな小説ニッポニアニッポン以外ないじゃん。 阿部の小説の中ではそれほど出来のよいものではないけど。 >>712
愛国オナニーが高じて懲戒請求を煽動した揚げ句に火だるまとなった、小説よりヴィヴィッドな現実が目の前にあるじゃない
「セブンティ」っていう >>712
ギュンター・グラスの「蟹の横歩きで」は最初の匿名掲示板・ネトウヨ小説で出来も素晴らしい 1945年に起こった事件にまつわる小説だと書いてあったけど面白そうなので注文しました ネトウヨさんらは自分が自民党支持者や保守層全般のイメージダウンになっていることを果たして理解しているのやら ネトウヨにとって自民も保守も仮のものだから
どうでもいいんだろう
日本会議嫌いなんて酷いからな なんなんだろうな、このクソな大江健三郎が生み出した読者の
思考と語彙力の閉鎖性は
だから大江健三郎は死ぬべき存在なんだとしみじみ思うよ(´・ω・`)
人類への罪である。 俺がなぜクイーンの話をしたかというと
クイーンが改めて名をあげたライブエイドの年は1985年だが
あのような熱狂的なパフォーマンスをした時代に
このゴミな大江健三郎は同じ芸術家の端くれとして何をやっていたのかという
思いからも言ってみたんだが
そういうことにも思考を及ばせることができない。
今世界はある意味危機に瀕しているわけだが
この大江が生み出した読者の思考の閉鎖性は
まさにその危機を体現しているんだと思うよ。大江は早く死ぬべきだと思う。 何の共通性があるの?思考になってないよ(笑) 単なる思いつきじゃん。 ネトウヨは楽でいいよな。この程度の事を書いてりゃ何も考えてないネトウヨが「そうだそうだ!」って言ってくれるんだもんな。そりゃ勘違いしちゃうよな。 >>724
もうクイーンもわからないし大江についても
自分にとって都合の良いところのかいつまみでなんの感想もないんだろう? ネタでやってるとも思えないし、すげーよな。よく今まで生きてこれたな(笑) 初心者にも読みやすい大江作品って何かありますかね?
やっぱりどれも難しそうなイメージがあるので 初期の短篇はすごく読みやすいですよ。高校生でも十分読めると思う。「飼育・死者の奢り」とか「性的人間」とか手に入りやすいんじゃないかなあ >>730
セブンティーンとか個人的な体験とかかな?
小谷野敦はキルプの軍団を入門編に推している >>731は新潮文庫ね。セヴンティーンも入ってるYO 万延元年のフットボール
洪水はわが魂に及び
同時代ゲーム
初心者に勧めるべきかわからんけどこれらはとにかく凄いと思ってるよ
ちなみに同時代、万延元年、洪水が俺の好みの順 >>734
基本同意するけど、初期の短編も捨てがたい。
自分の子供に関心が移ってから、力を失っていったような気はする。 新潮文庫の「われらの時代」って絶版になったのかな?
この前大型書店に行っても陳列されてなかった
大江にハマるきっかけになった作品なのに残念 大江の多くの作品が新潮文庫に入っていたのが奇跡だったのかもな。日本は元々そんなに文化レベルの高い国じゃないし、大江の小説なんて求められてないんだよ。 736や伊坂幸太郎が叫び声で大江にハマる感じわかる われらの時代
叫び声
日常生活の冒険
この三点セット俺は好きだな
伊坂幸太郎には教えてくれて感謝してる >>738
新潮文庫は三島の作品を沢山出しているけど
大江や川端は最近そうでもないよな >>742
2023年に川端康成はネットで読めるようになると思ってたのにダメになっちゃったね… 安倍政権は企業利益最優先の文化の破壊者、だからね。 >>745
個人的には紙でないと読み応えが違う気がするから残念には思わない
むしろ著作権切れで新しく全集を出してくれるんじゃないかという希望が潰えたのが惜しい
今現在で川端康成は読めないものが多いからね
そういや大江の全集は売れているのかな?そもそも全集って儲かるのか? 作家の名前をアウトプットしても不便でしょうがないよ。引用のマナーがなってない。 >>748
普通の本が全く売れないのに全集だけが売れるとは思えませんね。みんなお金ないからなあ。でも出版社はめげずに全集出し続けて欲しい。 図書館も下らねえ本ばっかり買うから全集とか買わないんじゃないですかねえ。調べたわけじゃないので誰か調べて欲しい >>752
図書館は主任司書の趣味で本の購入を決めるところも多い。
天下りの館長や選考委員会などを作って自治体が絡むと、ろくな本を集めない、というのが一般的。 >>734
俺そのへん全然いいと思わなかったな
興奮しすぎだから落ち着けといいたくなる(作者に)
雨の木以降のほうが好きだわ 文庫はPHPばっかりとか…講談社文芸文庫全部揃えろよ! 毒にも薬にもならぬフィクション・ノンフィクションが豊富で
大江や三島は何十年も前に購入したのが書架に放置されているだけ
日焼けしてページが赤くなった岩波文庫と真新しい文庫版のラノベが仲良く並ぶ
神戸市立中央図書館であった 図書館で時間潰す老人は高卒が9割で、
若い頃週休6日制の世代だから教養不足
ポコポコ生まれて頭数は多い とはいえ、今の若年層は本を読まない。
教養を身に着けるのは無理な話だ。
ネット情報を真に受けて自分をすり減らしているのを見ると、気の毒でならない。 >>754
8割同意する
俺も雨の木以降の大江が好きだ
734のような一般的な意見を気取るレスに自分自身少しシラケてもいた
それでも同時代ゲームは好きだな 初期偏重の人って大江に限らず小説読めないだろうね
初期大江のニヒリズムに厨二的反応しているだけ
われらの時代が良いとしてそれをを叫び声と並べてるなら
叫び声も読めてないだろう 初期好きの自分としては耳が痛い
どういうものを読めば大江を咀嚼できるようになるのだろうか 第一作にはその作家のすべてが詰まっている、とはよく言われることだけどね。
晩年には初期の感性に戻ることがよくあるのも確かだ。 >>764
水死はいい作品だし、「宙返り」や「さようなら、わたしの本よ!」三部作もいい
『晩年様式集』も、大江健三郎の「読み直し」、relectureは自分の読書の指針の一つ
その結果、彼の初期作品、中期作品も読み直すのだけれど、同時にその時代を読み直さざるを得ない
諦観と陶酔の振幅のバランスを取り続ける作家で、陶酔の一歩手前で自分に冷や水を浴びせて絶望し続ける作家だと思う 全集の出版にあわせ僕が本当に若かった頃を読んでるわけだが
どういう形で切って短編を終わらせるかの切れ味の鋭さが見事だし
その切れ味とともに、ガツンとなるほど確かに世界は(又は人生は)こういうものだ
ということを感得させる
そういう感銘は中後期にある
水死のハードボイルドな終りかたも唸らせる
陶酔と諦観そのかたが言っているニュアンス通り理解しているかわからないが
世界や人生のままならなさと、それでも肯定できる世界人生
そういう深いものを懐かしい年への手紙やチェンジリング
といった後期傑作は提示している >>765
僕も水死好きだよ。わかりやすくフリークアウトしてるから取っ掛かりとして初期作品を勧めるのはいいじゃん。無駄に難解な作品を書く人だと思われてるところがあるから。 俺もそう思って初期を強調して挙げてた
確かに中二的な読み方を誘導してたかもしれないしそれは間違いだ
でもそれだけじゃないとも思ってる
蓮実と筒井の対談も良かったけどあれも後期ばかり語ってるんだよな
まあでも余計だったかもしれない >蓮実と筒井の対談も良かったけどあれも後期ばかり語ってるんだよな
万延元年前の初期の中にも秀作もあるが、後期と横並びに並べて比べて
論ずる価値は低いのはあまりに自明ではないか
「われらの時代」みたいな著者も取り下げたいと思ってるような
レベルの低い作品をあげて大江入門たりえるとするのは大江の文業に対する完全なる過小評価だろう >>770
全体としてみると大江の初期作品のレベルは低いということ?
そうだとすると、その根拠は? >>770
>>771の補足。
大江作品のレベルを判断する根拠はなに、という意味。 後期の大江はものすごく三島を、とくに「豊穣の海」の世界観を意識してるとは思うね
そこがつかめないとつまらないと思う >>775
中上健次は、大江健三郎のほぼすべての作品を罵倒しながら絶賛している
「洪水はわが魂に及び」の中上の書評はすさまじい
この小説を読んで、俺は浅間山荘に立て籠っている連中の「敵」だったのだ、と気づかされた、という中上は自分には決して書けない「出来の悪い」小説に感動したことを書いている
「それ以前の小説に比べて完成度が劣るように思えて、しかし異様に新しいものがある」という評価
「万延元年」に中上が影響を受けている、それはいい
ただ、「万延元年」だけに影響をうけたみたいないい方はやめてほしい
それは後期が前期より「比べるまでもなくいい」とかいう馬鹿と似通ってしまう
大岡昇平が、「洪水」の受賞に「同じくノミネートされた自分の作品よりもふさわしい」と発言したのと同じく、溢れんばかりの嫉妬と敵意を大江健三郎に向けていた中上の書評はすごく良い
三島の「豊饒の海」を意識していることを無視すると大江は「真に楽しめない」とかいうやつと同じ、大江の凄さを一点に限定するクッソつまらなさは「軽蔑」をせざるを得ない 大岡昇平は、自分もノミネートされた文学賞が年若い大江(通常より二十年早く文学賞をとり続けた)の蛇足のように、「新しい要素は祈りだ」と「洪水」について言っている
カラマゾフの英訳を議論するなかで、なぜかpray(祈る)という一節に自由不良少年たちと主人公の大木イサナは拘泥する
本来、神に、なにかを祈る、という文脈を主語と目的語を失って、祈るという動詞だけが残る
ただひたすらに、祈る、希求するという行為に陶酔する
主語と目的語を失った動詞は「体験」であり、大江健三郎は「個人的な体験」という小説に対して「体験は個人的だろう」という批評に「体験は共同的であり、無個性でありうる、と発言している」
主語と目的語が失われた「祈る」という行為、「信仰なき者の祈り」という公演でも大江は主語(固有名詞)と目的語(目的)の消失した「陶酔による」脱目的論的陶酔を強調する
それは、「新作を書くために劇団の朗読を始めながら、朗読を聞くことが目的化した」水死でも貫かれている
しかし、「スベテヨシ」と「洪水」は締めくくり、動詞だけとなった「祈り」を裏切るラストを見せる
何に抵抗するのか?国家権力に抵抗していたはずの「抵抗」は自律し抵抗するといことが「祈る」ということと同じく自律化する
この熱狂が「スベテヨシ」と突然否定される、その美しさ、大岡の見出した「祈り」は初期にない異常な大江の個性として出現する 蛮勇を払っていうなれば、1967年の「万延元年のフットボール」には、1973年に発表された「洪水はわが魂に及び」の「祈り」の異常性は存在しない
片鱗はあるが、やはり、異常に新しいものが出現している、と中上や大岡昇平は読み取った、それは正しいと思う
牽強付会かもしれないけれども、この「祈り」という主語と目的語を失わせながら、「信仰のないものの」「祈り」という大前提から出発する後期は初期の大江健三郎からは決して出現しない、大江健三郎が「体験」を経て到達した領域だと思う
沖縄・広島・息子という、「体験」は初期作品には存在しない、と言えると思う
なにかが変わっている、その変わりをつまらないというのは個人の嗜好でいい
ただ、中上や大岡は異常なショックを、明らかに受けている
このショックを与えた変貌を、はたして無視していいのか?
後期大江健三郎の、思考を偏愛するものの、ザレゴト 前期の大江の作品のほとんどにはいい大人が特に検討するに値するテーマ性は無いよ
「われらの時代」なんかは特に
ちなみに万延元年前には以前と言っておらず万延元年は含めてないからね
「大江健三郎と村上春樹はどちらが優れているか?」という命題に答えられるなら
「優劣の根拠は」というのは完全なる愚問ということがわかるだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています