渡部直己の自由間接話法といい、國分功一朗の中動態といい、要は
ナラティヴにおける主体性の揺らぎだろ。
元々が近代以後の日本、韓国、中国人にはパースペクティヴは殆ど
消失していたが、それは東洋が西洋に負けたからで、東洋人には「現在」しか
無くなっていたのが、ポストモダン以降に東洋人が主体性を回復したこととも
関係あるだろう。
だが、こんなのヨーロッパじゃホーマーの時代からずっとあちこちで現れてる訳で、
フローベール、ジョイス、フラナリー・オコナ―その他など有名だが。
渡部や國分が最近の日本での僅かな例を挙げて、「これからはこれに注目ですよ!」と、
小賢し気にちょこまか動くのがいじまし過ぎる。
日本という極小さな、しかも後進的文学市場で起きた僅かの現象を大げさに
取り上げることの愚劣さ。
欧米の学者たちは、歴史上の例を挙げてるだけで、それを現代の文学者が
やるべきとか一言も言わない。
土台、渡部や國分らの阿保が流行を作り出すとか絶対に無理だから。
早稲田や慶応から本格的な文芸評論家や哲学者など絶対に出ませんから。
村上春樹のノーベル賞もいい加減で諦め宣言出した方が良い。