批評時間
大杉重男
文学を愛することについて (11/15)
岡和田氏は(引き続いて綿野恵太氏の論考を批判する文脈の中で)私のことを「文学嫌い」と言うが、
主観的には私は私にとって文学だと思うものを愛している(文壇は好きではないし、
文壇に依存した文学は基本的に嫌いだが、たとえ文壇的でも良いと思えた作品は好きだ。
そうでなければ秋声にここまでこだわったりしない)。
だが私はそのことをいちいち表明したり、告白したりしたくない。

「ヘイト」は何時でも必ず「ヘイトに対するヘイト」である。岡和田氏はこのことを真剣に考えるべきではないか。
「文学嫌い」という根源的な「ヘイト」があると考えて、その根源的な「ヘイト」を攻撃することは、
それ自体が「ヘイト」の典型的な構造にはまっている。
他者が持っていると想定される根源的な「ヘイト」は
何時でも主体に先取り的に想像されたものでしかないのだが、
「ヘイト」の主体にはその想像性は絶対に見えないのであり、「ヘイト」は客観的に実在して見える。
この時間が脱臼した構造的盲目性こそ「ヘイト」の本質である。

いずれにしても私は文学を愛することよりも、文学に愛されることに関心を持っている。
同時にそのために何もできないことに絶望してもいる。
この時少なくとも文学に愛されるために文学を愛する身振りをするのは最悪である。
それは容易に「過度の求愛」(©渡部直己)に陥り、何もかも台無しにするに決まっている。