ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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「未成年」の「節約ノウハウ」みたいな箇所は面白かったw ロスチャイルドを理想にするアルカージー少年の若々しい自意識を書いたのが、54歳であったという
50になったら未成年の頃の気持ち何て忘れているよね
「わたしには金は必要でない、というよりは、わたしに必要なのは金ではない、と言ったほうがよかろう。威力でさえもない。
わたしに必要なのは、威力によって得られるもの、そして威力がなければぜったいに得られないもの、それだけなのである。
それは一人だけのしずかな力の意識である!
これこそが、世界中が得ようと思ってあれほどじたばたしている自由の、もっとも充実した定義なのである!」 >>3
> 50になったら未成年の頃の気持ち何て忘れているよね
それは凡人の場合であって、天才的な作家はそうではないのでは? >>4
そう言われるとその通りで、天才の根拠はそういう非凡人的な性質にあるんだろうね
あの頃の万能感を取り戻したいものでもあるw >>969
> 私の小文『宣告』は、人間存在の根本的な最高の思想、つまり人間の霊魂不滅の信念の
必然性、不可避性について論及している。
人間存在の根本的な最高の思想 = 人間の霊魂不滅の信念
しかもそれが
必然性、不可避性 であること。
> つまり、自分の魂とその不死に対する信仰なしには、人間存在は不自然であり、考えら
れず、また堪えがたいものだ
> 「論理的自殺」によって死につつあるこの人間の告白の裏付けとなっているのは、今す
ぐこの場で次のような結論を出す必要があるということである。
「論理的自殺」によって死につつあるこの人間
とは、
この場合だれを指すか?
> 最も優れた観念なしでは、人間も国家も存在することはできない。
> ところでこの地上における最も優れた観念はただ一つしかない。
> つまり、人間の霊魂の不滅についての観念である。
> というのは、人間が生きる拠りどころとなっているすべての残りの「最も優れた」観念
は、この一つの観念にのみ源を発するからである。
この信仰が源となって、文化文明社会制度そのほかいっさいの人間の営みが活力を得て持
続する。 こんかいぼくがとくに問題視したいのは、自殺との関連についての以下の断言です
現代社会において、いじめ自殺など毎日ワイドショーでとりあげられているが、以下のドストエフスキーのような
思考はふつう考えられていない。
大津市のいじめ自殺の判決がきょう下されましたが、「いじめが直接的な原因としてあり」被害者は
自己価値感を喪失し、自殺したと判決があった。ぼくはこの話題についてほとんど調べたことがないが、
ワイドショーでいっていたが、「これは画期的判決であり」いままで「いじめはあったが」それは自殺の直接原因ではない― とされてきたらしい。
論理的文を書くのが苦手なのでかんべんしてほしいが、
> 私は言明しておく、人類に対する愛は人間の霊魂不滅に対する信仰と共にあるのでなければ、まったく考えられず、理解できず、全く不可能である、と。
ぼくも同感。人類に対する愛、人類愛的なものは、永遠の生命への信仰がなければ、あるはずがないと実感する。
そうであるから、5ちゃんねるでは種々の差別があたりまえのホンネという前提で存在している。事実、かれらには、他人への愛や配慮、人類は皆兄弟的な世界は皆無である。 >不死の観念喪失の場合の自殺は、まったく不可避であり、必然的なものとさえなってお
り、
彼(いじめ自殺の中学生)は不死の観念喪失ゆえに、自殺したのか?もともとその観念が
なかったのか?
>逆に不死は永遠の生命を約束することによって、それだけ強く人間を地上に結びつける。
永遠の生命の約束を確信しきってなかったがゆえに、かれはこの地上を投げ捨てたのか?
>自分の不死に対する信念がなかったら、人間と地上のとのつながりは切れ、より細く、
腐ってゆく。
彼(我とおきかえてもよい)信心弱きゆえに人間と地上のとのつながりは切れ、より細く、
腐っていったのか? >そして人生最高の意味の喪失は、疑いもなく自殺を招来する。
不死についての観念、これは生命そのものであり、生きた生であり、生命の決定的な公式
であり、人類にとっての真実と正しい意識との主要なる源泉である。
自殺のいろいろな事実を叙述し、ついでこれらの自殺について私がどのように考え、また
どのようにそれを説明するつもりなのかとたずねる手紙を非常にたくさん受け取っている。
------------------------------------------------------------------
私はこれらの自殺のすべてに説明を与えようとしているのではないし、そんなことはでき
ない。
しかしそのかわりに、この自殺者たちが、その大部分、全体として、直接間接に、同じ一
つの精神の病から、自分たちの魂の中に存在することについての最高理念の欠如からわが
身を滅ぼしたのであると、私は確信して疑っていない。
------------------------------------------------------------------
天才ドストエフスキーのこの断言をどう思うか? このいじめ自殺は該当しないのか?
「この自殺者たちが、その大部分、全体として、直接間接に、同じ一つの精神の病から、
自分たちの魂の中に存在することについての最高理念の欠如からわが身を滅ぼした」の
か?
ぼくはこれは観念論ではない、と思っている。事実そのままだと考える。ぎゃくにいえば、
最高理念なきものは、かならず自殺して終わる(自殺的な形をとって)とおもう。
ですから結論的に、わたしたちは残りの人生のすべてをささげて、この最高理念の獲得に
「のみ」生きなければならない! >そして人生最高の意味の喪失は、疑いもなく自殺を招来する。
不死についての観念、これは生命そのものであり、生きた生であり、生命の決定的な公式
であり、人類にとっての真実と正しい意識との主要なる源泉である。
自殺のいろいろな事実を叙述し、ついでこれらの自殺について私がどのように考え、また
どのようにそれを説明するつもりなのかとたずねる手紙を非常にたくさん受け取ってい
る。(とくに以下点線でかこんだ箇所に注目してほしい)
------------------------------------------------------------------
私はこれらの自殺のすべてに説明を与えようとしているのではないし、そんなことはでき
ない。
しかしそのかわりに、この自殺者たちが、その大部分、全体として、直接間接に、同じ一
つの精神の病から、自分たちの魂の中に存在することについての最高理念の欠如からわが
身を滅ぼしたのであると、私は確信して疑っていない。
------------------------------------------------------------------
天才ドストエフスキーのこの断言をどう思うか? このいじめ自殺は該当しないのか?
「この自殺者たちが、その大部分、全体として、直接間接に、同じ一つの精神の病から、
自分たちの魂の中に存在することについての最高理念の欠如からわが身を滅ぼした」の
か?
「同じ一つの精神の病」であると書いてある。そのとおりではないか!そしてこの病は
自覚できないところが極大重病のゆえんなのだ。
ぼくはこれは観念論ではない、と思っている。事実そのままだと考える。ぎゃくにいえ
ば、最高理念なきものは、かならず自殺して終わる(自殺的な形をとって)とおもう。
ですから結論的に、わたしたちは残りの人生のすべてをささげて、この最高理念の獲得に
「のみ」生きなければならない! 一回目の投稿でフォントが小さくなったので、再投稿した。 不死がないならもはや生きていけなくなる、これはトルストイも似たようなことを言ってる
死ぬこと自覚した時、生の付属は意味を失う
なぜなら、すべて例外なく誰もが、死ななければならなだから
やがて死すべき存在であるという事実に直面した時、挫折・絶望し、いかなる幸福も光を失う。──「死の竜と、私の生命の綱である灌木の幹をかじる鼠とを見ると同時に、いかなる蜜の甘さも私には甘美でありえなくなったのである」(トルストイ『懺悔』) > >哲学的学術的文学的な深い教養をひけらかしつつ、
> >信仰に「ペッペッ」とツバをはきつけてまわっている。
> 「ぺっぺ」と言えば、ドストエフスキーの小説ではよく出てくるが、
> ロシア語版だとどういう表現になっているのだろう?
> 翻訳者はこういうところでセンスを問われている
そうだね。ぼくもドストエフスキーからこの表現をおもいついた。眠くないとき調べるわ。 > 人生は幸福か、それとも苦痛か? 宗教が繰り返すそれは実に無益な問いであった
> 幸福は苦痛によって、苦痛は幸福によって、弁証法的に発展し続ける
> ――人間とは、揺れ動き続ける状態である(『銃夢』)
-------------------
このジュームとかいう作品は有名なんか? 作者オニオンじゃねww?「宗教」とひとまとめにしてもなあ!
古人は近現代の思想家なんかより異次元の思索をしてるんだぜ? それこそ日蓮大聖人なんか釈迦や
ドストエフスキーでさえ んこ というぐらい深いんだよ。ただ、小説として「思想をドラマチックに
表現できるところ」はすごいね。ドストエフスキーやトルストイは。
> 今日もすばらしい書き込みを授けよう
おまえは「ぜんぜん凄くない」とわかってるから、そんな変な前置きを書くんだろう?WWW >>13
> 創価学会に非ずは人に非ず
> 公明党に投票しなさい
確かにまちがいなく「おれの心の中の本心」ではそう思っている。
そして「公明党に投票」すれば、「ぜったいに幸せになれる」しあわせへの一歩を開く。
おまえの人生のいっさいが開けていく―と断言できる。
しかし。「そんなことをこのスレで書くのは」いたずらに反感をかい、ある意味差別であり、広宣流布において
逆効果である。 >>yOWU9zu4
嫉妬深い創価学会のおじいさん、『銃夢』はJOJO世代の有名な漫画で、最近ハリウッドで実写映画化されたよ
映画館で『アリータ: バトル・エンジェル』を探してごらん
忠告しよう。創価学会の井の中の蛙をやめて、娑婆の空気を吸いなさい Kindleで講談社学術文庫が珍しく50%ポイント還元やってる
ドストエフスキー人物事典
中村健之介 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00S66ZXGG/
これ気になるけど、どんな感じ?読んだ人いるかー 南無阿弥陀仏池田陀仏 南無阿弥陀仏池田陀仏 南無阿弥陀仏池田陀仏 創造的価値観学会の子も傷ついた。第何野党より企画、都構想とおせよな、いい時宜に。第一党になびくさ。 人間を自然化してとらえるならば、人間社会で選ばれた人間はあらゆる法と制度の枠組みを越える権利を持つのはその通りといえる
越えるとは縛られないものであり、社会において、罰せられないという事と同義である
その証明は歴史であって、同時に人間社会での話に限られる英雄でもある
自然は強きを重んじ弱きを軽んじる
だけど人間は何時でも自然に従うのみなのだろうか
自然を人間化して考える事が間違いなのだろうか
そうならば、その時ラスコリニコフの論理は破綻する
凡人と非凡人の価値観は消え失せ、別の何か新しい価値が創造されるだろう
その新しい価値での非凡人という概念が生まれるのかもしれない
それは愛と呼ばれるものだったりするのかもしれない
と、ぼくはそう思うし、そういう世界をドストエフスキーも望んだのだろうと思います >>24
お帰りw
しかしむずかしいな。
>人間を自然化してとらえるならば
冒頭からかなり理解しにくい。そこ以降はだいたいわかる。罪と罰を読んでいるから。
>自然を人間化して考える事が間違いなのだろうか
またしても、わからなくなった。ただひとつわかるは「あなたはいつも真摯にドストエフスキーについて
考えている」こと。 >>24
非凡人は王やただの英雄ではないだろ
遺伝子的に高次の物を作り出せる能力をもった人間とかだ
おそらくはその論理はドストエフスキーから生まれたものであって
ドストエフスキーも非凡人の範疇に入るのであろう >>25
お久しぶりです
最近色々あって書き込めなかった
なんとなく伝わっているなら良かったです
おそらくここでは、なんとなく、汲み取ってくれる人がいると思う
このなんとなくがイデア的に重要だと思ってる
言葉が重なるとはそういう事なんだろうね >>26
言葉足らずだったけど、そういう人も含めて自然から人間を見ると強者になる
才能とか高知能とか強靭な身体の持ち主とかも
つまり物資的な、という意味が内包される
一方で人間を人間として眺めれば、精神とか形而上的な感情とか、もしかすれば優しさなどの情緒さえも飛び抜けていれば、新しい非凡人の価値になり得るかもしれない
その時に最上の人間的な価値があるとすれば愛ではないだろうか、という持論です
だけどドストエフスキーだってゾシマやアリョーシャの生みの親なんだから、そういう思考はあったはずと思う
ゾシマもアリョーシャも愛の人と言っても間違いではないんじゃないだろうか 非凡人にNo1アスリートが含まれると?
そんな人間が殺す権利を持っていると言えるのか? 新しい非凡人なんてないですよ
非凡人は限定された存在である >>28
> 言葉足らずだったけど、そういう人も含めて自然から人間を見ると強者になる
> 才能とか高知能とか強靭な身体の持ち主とかも
> つまり物資的な、という意味が内包される
イヴァンが使っていた「自然法則」ですね。
> 一方で人間を人間として眺めれば、精神とか形而上的な感情とか、もしかすれば優しさなどの情緒さえも飛び抜けていれば、新しい非凡人の価値になり得るかもしれない
> その時に最上の人間的な価値があるとすれば愛ではないだろうか、という持論です
そうです!そうです!「優しさ」こそ人間が持ちうる最大価値です。愛という言葉は混乱を呼びがち。それは
せっこすの愛ではないし、恋愛の愛でもない。仏教の文化圏の用語に翻訳すれば「慈悲」です。しかもいま
話されていることは、特定の文化に限定されたものではない。言葉の表面的な字面なんか関係がないんだ。
ゾシマやアリョーシャは「愛のひと」だったし、イヴァンやミーチャは心の奥底に慈悲や愛を内包してはいたが
それは、日常の振る舞いに自然とあらわれるものではなかった。
ラスコーリニコフもしかりです。青年期の各過程をドストエフスキーはとらえ、それをば巧みに形象化し表現した。
> だけどドストエフスキーだってゾシマやアリョーシャの生みの親なんだから、そういう思考はあったはずと思う
いちばん忘れがちで、こんかい目が覚める思いしたのはここ。ゾシマやアリョーシャのもつ、わたしたちが
あこがれる、あの大感情も、天上の高みへと登っていくあの苦悩も、ちっぽけな自分を制覇しようとする
あの勇気も、悪からの誘惑を退ける瞬間的な愛の爆発も。
すべてドストエフスキーの「心」から生み出された。それはまったく同じものが、いやそれどころか
はるかに壮大かつ深甚のものがあるから、できるワザです。 ぼくは、論議しやすくするために、映画やまんがの登場人物のように
イヴァンやミーチャは一段低い劣ったもののごとく言い、ゾシマやアリョーシャは
ただ崇高そのものの人物と書くが、ぼくの真意はちがう。
彼らはすべてロールモデルです。問題はだれに自分を当てはめて考えるか?です。
ぼくたちは若い頃ラスコーリニコフを読んで、彼に同化した。青少年にとってひじょうに同化しやすい
共感しやすい人物像を、若い詩人であるドストは創造したから。 ぼくは告白しますが、若いときからこんにちに至るまで
ぼくのロールモデルはつねにアリョーシャです、でした!
あなたがたにも、そうなってほしい。イヴァンやそのほかを捨て去ってください!
「えw?おまえのどこが、アリョーシャ?」かって?
そんなことはイイんです! 自分の中で卑小なものを見つけたら、その都度修正して見つめ直せば。
「いや、むしろここはフョードルでゆこう!」「こういう腹たつやつには、スヴィドリガイロフしたれ!」
という感じでゆきましょうww ところでな、アレクセイ、わしはこれまで幾度となく心の中で、そういう顔を持っている
おまえを祝福したものじゃ、今こそ打ち明けて言ってしまう。」長老は静かな微笑を浮か
べながらこう言った。「わしはおまえのことをこんなふうに考えておる、――おまえはこ
の僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮らすのじゃぞ。いろいろ多くの
敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。また人生はおまえに数々の
不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸福になることもできれば、人生を祝
福することもできるし、また他の者にも祝福させることができるであろう――それが何よ
り大切なのじゃ。よいか、おまえはこう言ったふうな人間なのじゃ。皆さん。」と彼は喜
ばしげにほほ笑みつつ、客人達の方を向いた。
(我)
1,>そういう顔を持っている
とは、目が大きいとか、賢そうな顔をしているとかではなく、福運が如是相に出ていると
いうことだと。
2,>おまえはこの僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮らすのじゃぞ
この僧院を出て俗世で暮らすのは、その目的は「自分自身が」人生を祝福し、「他の者に
も」祝福させるためである。つまり「自他ともに幸福になるため」である。僧院の中にい
るよりも、アレクセイは俗世間においてこそ、より大きな仕事をなすからである。 3,>いろいろ多くの敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。
これこそ信仰者にとってもっとも大事な生き方だとおもいます。最後は信頼されるという
こと。だから勇気です。
4,>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
青年がもっとも信頼し傾倒しきっている長老、その言葉は奇跡としてぜったいに予言通り
になると。だからこそアリョーシャは、今後の人生においてなにが起きようと、どんな不
幸な事件が来ても、長老の自分にたいする予言を思い出し「自分はぜったいに幸福にな
る」「苦悩を使命に変える」「他の人々をも救いきっていく」そういう使命が自分にはあ
るのだ! と考える。そしてじっさいにいかなる堕落からも立ち直る。
--------------
「第六編 ロシヤの僧侶」ぜんぶんにコメントをつける
を一ヶ月ぶりに再開します。上は前回までのところ 「この若者の顔がわしの心にとって、なぜこれほど懐しいものになったかというわけ
を、いままで当人のアレクセイにさえ一度も言うたことがない。今はじめてこれを打
ち明けますじゃ。
>(我)先生はゾシマ長老の生まれ変わりなどではない。先生は先生。小説中の登場人物
たるゾシマはゾシマだ。
しかし、その精神の核心部分はひじょうに似ている。それは弟子をきづかい、その成長を
祈り、ときには厳しく指導する。それはなんのためだ?ほんとうの幸福をつかませるため
だと思う。仏にするためだと思う。
この少年の顔はわしにとって、まるで追憶と予言のように思われ
る。わしの生涯のあけぼのに、わしがまだ小さな子供のとき、ひとりの兄があったが、花
の盛りの十七やそこらの年に、わしの目の前で死んでしまいましたじゃ。
>(我)このゾシマと同じような体験をぼくは持たないが、しかしここに書いてあること
はストンとぼくの胸におちてきた。当時少年のぼくにさえ。
その後、自分の生涯を送って行くうちに、わしはだんだんこういうことを信じるように
なった、――この兄はわしの運命にとって、神の指標とも予定ともいうべき役割りを勤め
た、とな。 >>36
> その後、自分の生涯を送って行くうちに、わしはだんだんこういうことを信じるように
> なった、――この兄はわしの運命にとって、神の指標とも予定ともいうべき役割りを勤
めた、とな。
ある人物との出会い。しかもそれはひじょうに短い言わば瞬間的ともいえるような出会い
だったかもしれない。
それが年齢を経るに従って、それは「神の指し示していたもの」「神によって予定されて
いたもの」(宗派によっては仏とおきかえてもいい)そう感じられてくるような人生の出
会い!
大なり小なりだれの人生にも思い当たるのではないか? だから大事なのは、その心の奥
底にねむっている原点をたいせつな思い出を、いまいちど思い出すことじゃないか? やっぱドストエフスキーの集大成はゾシマの言葉にまとめられているのかもしれないね
もしくはアリョーシャに
ぼくはアリョーシャの言葉が気に入ってる
「これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。
君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそおそらく最良の教育に他ならないのです。
そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」
「ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません!何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!」 >>38
圧巻のスピーチですねw
ぼくも人生のいろいろの局面で、内容パクって使いまくりましたww
色紙への添え書きとかWWW パクろうとおもってじゃないよ?
無意識のうちにアリョーシャのこのスピーチが出ちゃうのWWW 普通の人が考える強者論て数学が得意で計算が早いとか身体能力が高いことなんだけど
ドストエフスキーとかニーチェの強者は我を押し通すだけの精神論の節があるな
ラスコーリニコフは淫乱バイタのソーニャにそそのかされて
殺人の罪悪感に気持ち的に負けてしまったわけだが、仮にそうじゃなくても
絶対にゴロフ王(ナポレオン)の真似事はできないわけでね、精神論に何の意味があるのと
そこが唯心論者たる宗教家の限界なんだな ドストはてんかんもち
でナポレオンもてんかんもち
非凡人は精神病者のことだよ 強者が非凡人なのであれば
「凡人を殺して非凡人は金をえる義務がある」と考える必要もなくなる
非凡人はまず強者でもないんだ 凡人・非凡人、弱者・強者じゃなくて常識人・変人と訳せばしっくりくるんじゃないか?
「常識人を殺して変人は金を得る義務がある」
超人思想も変人思想と呼べば分かりやすい 本棚にゲーテファウストがねむってる。
100円で路上の段ボール箱で見つけたのさ
ほんとに本が読めなくて
目が悪いからなあ、ハズキルーペがあったらいいのか?
マンの魔の山もいつまでたっても読まないなあ 自分も目を悪くしてから本読むのが遅くなった
若い頃にもっと読んでおくべきだったわ >>44
しっくりくるわけないじゃない
ただの変人がジョブスのような天才になるわけがない
https://www.youtube.com/watch?v=W5GnNx9Uz-8
非凡人は「生まれつき人と違うものの味方ができる天才」のことだよ あんま天才天才とか虚しくね? 若いからあこがれる気持ちはわかるけどおW
人間ってそのままの自分でたっといんだよ〜〜 >>44
精神医学で「優秀変質者」とかいう用語がある。
織田信長やロベスピエールは吉外かもしれないが知能が高く結果的に国家を動かした。 >>50
たとえば中国史には光武帝というすごい人がいてだね
並外れた力量を持っている凡人(常識人)もいるわけだよ
だから能力と人格はあまり関係ないと思う
実際、多くの奇人はただ周囲に嫌われているだけで、能力は低く、社会の底辺にいる でも阮籍のような奇才もいるだろうし
李賀のように後世の人に評価される狂人もいる
馬謖のように「言が動を超えた(ようするに口だけ)」結果
やらかして斧で斬首される秀才もいる
日本では東條英機がこのタイプだろうけど
あるいは辻正信とかね
人間の能力と評価は本当に難しい もっとも、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとしたら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。
ただ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わった、むしろ奇人に近い人物だということである。しかし、偏屈とか奇癖とかいうものは、個々の特殊性を統一して、全般的な乱雑さのうちに、
ある普遍的な意義を発見する能力を、与えるというよりは、むしろ傷つける場合が多い。
奇人というものは、たいていの場合に、特殊で格別なものである。そうではないだろうか?
ーカラマーゾフ 序文よりー ミケランジェロやレオナルドダヴィンチは典型。
……余りにも天才。
健常人からは距離の感覚を払拭し難い蓋然性。
では〜(-^ ^-)♪ 汝達 は 喜び て 絆 を 断て。 行 もて 主 を 称 へ まつり、 主 に 愛 を 捧げ まつる、
同胞 めき食を頒かち与うる、み 教 を 弘め つ ゝ 旅 寐 し、 来ん 世 の 喜 を 知らす る 汝達 よ。
師 の君 は 汝達 に 近く お はす。 師 の 君 は 汝達 の ため に い ます。 >>56
> ミケランジェロやレオナルドダヴィンチは典型。
> ……余りにも天才。
> 健常人からは距離の感覚を払拭し難い蓋然性。
> では〜(-^ ^-)♪
なんかテクスチャー的にちがうんだよね〜〜
職業人として究極的絵画技法のひとですよね。ボク的にはむしろ
>>54
> もっとも、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとしたら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。
> ただ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わった、むしろ奇人に近い人物だということである。しかし、偏屈とか奇癖とかいうものは、個々の特殊性を統一して、全般的な乱雑さのうちに、
> ある普遍的な意義を発見する能力を、与えるというよりは、むしろ傷つける場合が多い。
> 奇人というものは、たいていの場合に、特殊で格別なものである。そうではないだろうか?
> ーカラマーゾフ 序文よりー
で表現されてることこそ、もっとも美しくすばらしい人間像ということじゃないかと? >私 は アレクセイ を 自分 の 主人公 と 呼ん で いる けれど、 彼 が 決して 偉大 な 人物 で ない こと
は、 自分 で よく承知 し て いる。 従って、『 あなた が アレクセイ を 主人公 に 選ん だ のは、 何 か
偉い 所 が ある から です か? 誰 に なんで 知ら れ て いる の です か。 一体 この 男 は どんな こ
と を し た の です? どういう わけ で 我々 読者 は この 男 の 事蹟 の 研究 に、 暇 を つぶさ なけ
れ ば なら ない の です?』
と読者から質問されるだろう、というのだ。
その答えは
>『 ご 自分 で 小説 を 読ん で ご覧 に なっ たら わかる でしょ う』 と 答える ほか ない
これはつまり「ひとことではいえない」という意味ではないか?
>私 にとって は 確か に 優れ た 人物 で ある が、 果たして これ を 読者 に 証明 する こと が 出来る
か どう か、 それ が 極めて怪しい
>つまり 彼 は 事業家 で ある けれど、 曖昧 で はっきり し ない 事業家 なので ある。
アレクセイを「事業家」とよんでいる。これは第二部をも視野に入れた発言であろうか。「曖昧 で
はっきり し ない 」事業家だと。
いわゆる「偉大 な 人物 で はない」
ミケランジェロやダヴィンチのごとき偉人ではない
なにか特別な能力をもっていたのでもない
誰 に なんかで 知ら れ て いるのでもない
そういった何重もの「非」によって、逆証明される優れた人物ではないか?
>ただ 一つ ほぼ 確実 らしく 思わ れる のは、 彼 が 奇妙 な、 むしろ 変人 とも 名 づく べき 男 だ と
いう こと で ある。 しかし、 奇妙 な こと や 変 屈 な こと は、 注目 の 権利 を 与える より、 むしろ
傷つける 場合 の 方 が 多い。 ことに 現代 の 如く すべて の 人 が、 部分 を 統一 し て、 世界 全体 の
混沌 の 中 に、 普遍的 意義 を 発見 しよ う と 努め て いる 時代 には なおさら で ある。 そう では な
い か?
変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、 かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し
て、 その他 の 同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人 から 離れ た もの に すぎ ない、
という よう な 場合 が しばしば だ からで ある…… 岩波文庫「妻への手紙」読んでるけどさすが屑だなw(ギャンブル依存症?)
いちいち弁解するのは太宰治を思わせる。
なんで金無いのにあちこち移動してるのか疑問。
転治療法?? ギャンブル依存症だけではないよ
幼児虐待までやってるし
くだらない虚栄心のためには平気で駄法螺をふく
しかし、小説家というのはそんなものだよ
屑に徹した人間ほど人間存在の深奥に近づくのは
人間というものの本性がどうしようもないほどの屑だという事だろう
人間は他者から賞賛される限りにおいて自分を卑下する
というのはラ・フォンテーヌの箴言であるのだが
太宰やドストエフスキーの場合はもっと屈折していて
他者の賞賛を勝ち取るためにあえて自己を卑下する
その際に自己の暗部を人間一般の業として普遍化するので
その告白が受難者のそれとして聖性に転化する
しかしこういう見え透いた戦略は自意識に滓として残るので
さらに苦しい言いを訳続けなければならない
この人たちは生きている限り救われることは無いね
かといって開き直るほどのふてぶてしさもない
ようするに弱者でしかないのだが、
悪あがきを続けるのも人間の一生であるので 同じひとりのにんげんにたいして
評価が真逆の場合が多々ある
それはなぜでしょうか?
簡単なことです。ひとの真実というものは、すごく近くにいるひとすら
知り得ないことがあるからでは。
まさに「おのれひとりしか」知らない真実がある。
>ただ一つほぼ確実らしく思われるのは
偉大な作品を残したということ。
そしてその作品から、彼を、ドストエフスキーの内面をうかがい知る。
そしてぼくらのように「彼を敬愛する」後世のものと
彼らのごとく「クズ」と感じるひととに分かれる。
しかもまた、ぼくらは次のように考える。
人間とはかくも偉大なるか!と。 そしてもうひとつ。
敬愛。尊敬しぬき、愛しぬくからこそ、作品の奥底に到達する。
それは知的理解などではない。 わたしたちが、オギャーと生まれて、まず最初に母というひとを
信ずるところから、人となりゆく。
母がクズか否かを考えない。だからこそ、母の持つすべてを継承する。
その赤ちゃんこそ、俺達なのだ。 アリョーシャを「愛の天才」「形而上的・霊的世界へのセンスを持った青年」
あるいは単に「育ちのいい」「生まれつき性格の温和な青年」と考える人も多いし、
作者もそういう方向で描出してみせる面もある。
ぼくは違うと考える。
俺達は誰でもアリョーシャとなれる。むしろもうすでにアリョーシャだとさえいえる。
この作品を愛読し、その姿に憧れるその一点のみにおいて。 無駄に改行して頭悪い中学生のブログみたいだな
くだらない信念の表明は他でやってくれよ
> 声闘(ソント)とは朝鮮人の古くからの風習で声の大きさで相手の言論を封じること。
> 人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、
> 相手が何も言い返せなくなれば勝ち、というしきたり。
韓国系創価学会員の書き込みには辟易する 太宰が開眼したのが晩年の短い時期
ドストは早いうちから書き方をわかっていた >>72
おれも太宰をよく愛読した。全集の半分は読んだと思う。
> 太宰が開眼したのが晩年の短い時期
って
いつあたりを指してんの? >>19
ゾシマ長老は死後死体が腐敗したエセ聖人
つまりその生まれ代わりの池谷大作もニセモノ >>75
> ゾシマ長老は死後死体が腐敗したエセ聖人
その解釈おかしいでしょww
カラマーゾフの兄弟を理解できてないよw
おれといっしょに第六編から第7篇を精密に読んでゆこうな
> つまりその生まれ代わりの池谷大作もニセモノ
そのネタすきやねwwww あんまくだらないと、そのうちアボンするよWWWW? 何年も前から思ってたけどいま告白しちゃう
このスレでおれと同レベルの愛情をこめてドストを読んでいる子はひとりしかいないね
おれはそいつのためにだけ書いてる
もちろんタイピングそのほかが不得意なだけで、深く情熱をもって読んでいるメンバーは複数いるでしょうが 俺達が若い頃、あんなヤツらっていたっけな〜〜?
心が死んでるっていうか。。。なんて言ったらいいんだろ?
まぁしゃーないか。 >>73
共通点は地主階級出身(しかも新興勢力)、転向左翼、女癖が悪い、浪費家、
猜疑心が強く被害妄想も強い、そして劣等感の反動としての出世欲や虚栄心かな
呆れるほど似通っているけど
太宰治にはドストエフスキーほどの掘削力は無い
こういう部分を坂口安吾は心性において非力な不良少年にすぎず
キリストを引き合いに出すだけで終わっているとしているが実際そうだろうね
逆にドストエフスキーは剛腕なので
業悪の描写によってネガとして神を創出するくらいの地点までたどり着いている
まあ、悪党としてのレベルが違うからね
太宰は基本的にお坊ちゃんですよ ドストエフスキーは放蕩生活をしてたと書かれてるけど
若いころはグレてヤンキーでもしてたんかね >>79
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田静子
>長女の死にまつわる日記風告白文を太宰に送ったところ、思いがけず「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい」という返事が届く。同年9月、2人の女子大生と共に東京三鷹の太宰宅を訪問。12月15日、太宰から電報で呼び出される。既婚者の太宰と恋に落ちる。
ファンレターよこした女を呼び出すタイプの悪党やで https://ja.wikipedia.org/wiki/太宰治#創作、乱れた私生活
>除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の
>海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京
>八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れて
>いるところを発見されたと報道されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/小山初代
>この後、太宰と共に谷川温泉付近でカルモチンにより自殺を図ったが未遂に終る。
太宰は2人殺している、一人は未遂に終わっている
心中って信じてるか? >>77
>このスレでおれと同レベルの愛情をこめてドストを読んでいる子はひとりしかいないね
何様の心算、
此奴の愛情なんて浅薄で歪んでいるだろ
消えろ、塵! >>81
> ファンレターよこした女を呼び出すタイプの悪党やで
その程度のことを「悪党」と感じる?解釈の問題じゃねW
総じて2ちゃんねらーというものは、異常なほどの他罰性と狭量さで研究対象になってるほどなんだぜ? >太宰は2人殺している、一人は未遂に終わっている
おんなは好き好んで恋愛ロマンスで死んだんだろ?
当時の法律じゃ、そんなものは処罰される対象じゃなかったんだろ?
それに殺人殺人って大騒ぎするが、日本人の大半は中絶などで我が子を殺してるけどな。笑い事じゃなく。
ましてや、ドストがクズってWW なにを根拠に書いてんの? >>86
心中が未遂ふくめて3回やで
心中かどうかも怪しいけどな 太宰も読んでるとドストエフスキーという名に出会う
もちろんカミュとか読んでいてもそう
不思議なことにか、ただの確証バイアスのせいなのかは分からないけど、面白いと思う作家はドストエフスキーも関わっている作家になるよ
自分では不思議に思うんだけどね >>86
>当時の法律じゃ、そんなものは処罰される対象じゃなかったんだろ?
たしか自殺ほう助罪の方向で立件されそうになったが
単なる心中の失敗に過ぎない
太宰は助かり、相手女性は死亡したというだけ この核エネルギーは途方もなく強力で、それは肉体の免疫システムを弱体化させ、
人々は肺炎やインフルエンザ、慢性疲労、癌、 HIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
【3.10、3.11】 東京大空襲「逃げるな耐えろ」死者10万、福島原発事故「安全だから住め」死者毎年20万
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1552189012/l50
逃げて、逃げて、福島から、早く逃げて! >>88
>面白いと思う作家はドストエフスキーも関わっている作家になるよ
>自分では不思議に思うんだけどね
でもドストエフスキーやトルストイに対しては
馬鹿の一つ覚えで同じ内容の事を延々と書くと腐していた
しかし彼らのテーマは神亡き世界における信仰と道義についてのものだから
何かにつけキリストを引き合いに出す太宰が腐すのはおかしいし
日本は万葉古今の風土と伝統があるのでロシア風の長篇は合ってない
というのも的外れ
短篇に定評のある太宰だけど実際は長篇向きの資質だろう
たんに根気が無かっただけのような気がするな 敗戦がなければ生み出せてなかっただろう
三島とか北杜夫とかも >>93
そうだ... これは間違いない。戦争と敗戦、後の日本人に多大な影響を与えた。 >>90
例えばカルモチンを一条ずつ自分と相手に交互に飲ませていき
相手だけが死ぬようにできれば完全犯罪か?
毒薬だが耐性が付けば死ななくなる
それを知ってた上でやってもOKかな?
それを10回繰り返しても? 薦 むる 詞
はや
昔 我が 濁 れる 目 に 夙く 浮び し こと ある
よろめけ る 姿 ども よ。 再び 我 前 に 近づき 来 たる よ。
なんだち
いで や、 こ たび は しも 汝達 を 捉 へん こと を 試み ん か。
我 心 猶 そのかみ の 夢 を 懐かしみ す と 覚 ゆ や。
せま
汝達 我 に 薄 る。 さらば 好し。
靄 と 霧 との 中 より 我 身 の めぐり に 浮び 出 でて、 さながら に 立ち振舞 へ かし。
つら
汝達 の 列 の めぐり に 漂 へる、 奇しき 息 に、
我 胸 は 若 やかに 揺ら る ゝ 心地 す。 >>96
>相手だけが死ぬようにできれば完全犯罪か?
少し話が変わるけど、イワンが家路に向かう途中で酔っ払いが寒い中に道端でで倒れている場面がある
一度は見過ごすが、結局は手を貸すのだけれど、もし放置したならば、それは殺人になり得るのだろうか
もちろん良心の呵責の問題であって、法で殺人を問われることはないけれど、こういう良心の問題を突き詰めていくと、どれだけ多くの見過ごしを行なってきたのだろうと思う
そしてイワンは父親の殺人は見過ごすが、酔っ払いは見過ごさなかった
悔い改めたと読むのは深読みし過ぎなのかな 寒中の酔漢については「義を見てせざるは勇無きなり」だけど
因業な父親の危難については「未必の故意」あるいは「不作為犯」という形で
良心の問題がより露になる
悪魔がつけこむのはそういう部分だね
イエスが悪魔の誘惑と戦ったような状態に追い込まれている
だからイワンは苦しむ
確信犯的に悪行を肯定するイワンですらね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています