ほかでもない、神は再びヨブを奮起せしめて、再び彼に富を与えたのである。こう
してさらに数多の歳月が流れて、もう彼は新しい別な子供らの親となり、その子供
らを愛することとなった。ところが人は『ああ、なんたることだ! 以前の子供らがい
なくなったのに、以前の子供らが永久に奪い去られたのに、どうして彼はこの新し
い子供らを愛することができたのか? どんなに新しい子供らが可愛く思われるに
もせよ、以前の子供らのことを思いだして、前と同じように十分な幸福を味わい得
るだろうか?』ところが、それが可能なのである。大いに可能なのである。昔の悲し
みは人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな感激に充ちた悦びと変わってゆく。
若い時の湧き立つような血潮のかわりに、つつましく晴ればれとした老年が
訪れるのである。私は日々の日の出を祝福し、私の心は依然として朝日に向かっ
て歌を歌うけれども、しかしどちらかというと、むしろ入日の方を愛する。斜めにさす
夕日の長い光線を愛する。それを眺めているうちに、静かな、つつましい感激に充
ちた追憶や、懐かしい人のおもかげなどが、長い祝福すべき生涯の中から 甦ってくる、
――そうしたすべてのものの上に、人を感激せしめ和解せしめ、かつ一切を許す
神の真理がさし昇るのである! 私の生涯はまさに終わらんとしている、それは自
分でも分かっている。しかし、わずかに残れる日の訪れごとに、私の地上の生活が
既に新しい、限りない、まだ知られない、とはいえ近く訪れるべき生活と、相触れ
んとしているのが感じられる。その生活を予感すると、私の魂は歓喜に震え、知性
は明らかに輝き、感情は喜悦に 咽び泣くのである。......

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トルストイの重いコントラと このドストの穏やかなプロは 一体不二ではないか?
表裏ではないか? 重苦しい絶望をくぐり抜けて、はじめてこの境地を得るのでないか?
このふたりのロシヤが生んだ大詩人が希求したところはある一点において共通している。
そうであるから、ふたりとも共通の結果を得るはずだと―― ぼくは考えるのだ。
そして、ドストエフスキーとトルストイに限らない。われわれは誰でも信仰さえあれば
彼らと同じ境地に立てる。それが「どういう信仰なのか?」と疑念に陥りもしよう。