ヨブ記の時点、つまり旧約の神に対しても自己否定だよ
キリスト教だけではなくユダヤ教やイスラム教でも
神と信徒との間にはこの関係がつきまとう
ここで重要なことは自分を神への供物として捧げる(自己犠牲=献身)ではなく
神の被造物に過ぎない自分が元の持ち主のもとに返還される(自己否定)
といった具合に再規定され、不合理な運命やそこから派生する苦痛や恐怖が
宗教的法悦に一転すること

このあたりは仏教も変わらないのだけど
キリスト教(や旧約の派生宗教)の場合は絶対者と「私」が直接向き合って
「私」という人格の崩壊に愉楽がともなう事とかなあ
はっきりいって狂気なんですけどね
でもこれもまた一種の救いですね