↑は弁栄の意見であって、ベルクソンと同年生まれの弁栄は井筒俊彦や大拙と共通するエキュメニズム的観点を有する。
浄土宗と禅だけでなくキリスト教をも取り込み、ベルクソンやデュルケムの宗教観の影響も非常に濃い。
それは19世紀の延長でもあるし、進歩主義の残滓をかぎつけることもあるだろう。
明確な敵はニーチェであり、もう一人はカール・バルト。
苛烈なる危機の神学の批判に晒される20世紀前半の「宗教哲学」はありうるか?という論争を背景とした議論であり、「信仰」の次元は統一できないが「霊性」の次元は統一できるのではないか?という背景を持つ。弁証法神学はこの延長にはない。
しかし、道元にある不立文字に文字によって近づこうという「健全なる理性」への信頼は弁栄、井筒、大拙、そして当時の新トミズムに共通する。

妙法は仏になるための大宇宙と繋がるための手段なので日常ではないですね。
キリスト教で言うなら聖霊に満たされた状態が妙法を発現させた状態で、そのような状態を準備する人間側の準備。