【創価・学術立ち入り禁止】 ドストエフスキー @
ドストエフスキーを真面目に語り合うスレ。
キチのソーカと学術は立ち入り禁止!
馬鹿がうつるからw 前者は旧帝国主義や民族主義、戦時体制から抜け出せなくなったソ連系社会主義(=失敗した共産主義)
後者は『素晴らしき新世界』の共産主義が成功した世界のディストピアだね
しかし過去の人々からみれば我々の今も十分にディストピアかもしれない
さて後者の観点だが、現代社会の悲劇は過去の社会において夢物語とされた理想の結果として生じている
何かが解決すると弁証法的に次の問題が生じ、世の苦難は決して絶えることはない
(ので、プルードンは変革に悲観的であり、マルクスと対立した
マルクスは変革すべく戦うこと自体に人間存在の価値があると見ていた)
ディストピアは文明発展の副作用として生じ、あるいは人間が不幸の概念をわざわざ新しく発明することにより生じている
こんにち、不幸とされている概念は昔は存在しないか、些細な問題と見なされていたものばかりだ
「貧しさは豊かさにより生じる」(フーリエの弁証法) 過去の人から見れば、現代の社会がディストピアに見えるというのは確かにそうなのかもしれない
ただしディストピア社会とは管理された社会という意味においてだけど
ネットの発展により、情報の共有化並列化で人は均等になってしまった
技術の特化が優遇される場では、能力は価値をもたらさないのかしれないね
どこか社会の正当性もまた、正しさよりも世論と多数という数によって決められる現代は、もはや人間の自我に拠らないディストピアと言われても過去の人間に反駁できない気がする ディストピアにも種類がある
オーウェルが描くような官僚的管理者なのか、ハクスリーの描く階級的福祉社会なのか
そういえばフーリエも愛の新世界を描いてみせた
いわく、情念という性愛の共産主義化になる
家族とは人類からの最大の孤立である
隣人愛において、その隣人を愛するならば一夫一妻制という特定の第三者「のみ」を愛することは調和という全体の愛からはほど遠くなる
共産主義の理想とは私有財産の廃止であり、共生・共有こそが理念になる
よって、情念の共産主義においては、特定の第三者を問わないフリーセックスが愛の共有であり、欲望を否定せずその方向を調和に向ける理想社会の可能性がそこには存在する
ドストエフスキーやトルストイも似た思想があるね
もちろん性愛の共有化ではなく性愛そのものの消滅という思想だけども、本質的には同じなのかもしれない
ドストエフスキーに限ってはフーリエに傾倒していた時期があるので説明もいらないだろうけど
作家の日記(4月16日-マーシャの死)でドストエフスキーは書き記している
めとったり、とついだりすることはない、彼らは天にいる御使のようなもの(マタイ22-30)、として生きることを調和の理想としている
個人的には性を厳格に規制された1984みたいな社会より、すばらしい新世界や愛の新世界のフリーセックスがある社会のほうがディストピアであってもマシだと思うけどw こういう本の根拠って何なのかな
本当なのだろうか
釈迦は反出生主義者だった?
古くは仏教の開祖ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)がスッタニパータで「子を持つなかれ」と説いている[2]。
Hari Singh Gourは彼の本The Spirit of Buddhismの中で、とりわけ四諦とパーリ律の始まりを考慮し、以下のようにブッダの教えを解釈している。
ブッダ曰く、人生が苦しみである事は忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。 生まれてこぬが最善、次善は死ぬことであるみたいな名言残したのはキュロス王だっけかな
当時は反出生主義があちこちで湧いてた気がするけど釈迦は死後の世界を認めた認めぬとか
デマや後世の修正が多いから判断が難しい 今ある、ということは何物にも変えがたい恩恵なのに、生まれてこない、死を賛美するなんて悲しい
ざっとググったらこんなに出てきた、なんて世の中だw
しかもショーペンハウアーばかりじゃないかw
結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、七十五年の全生涯において、真に幸福であったのは四週間とはなかった、とさえ断言できる。
私の生涯は、たえず転がり落ちるので永遠にもち上げてやらなければならぬ岩のようなものでしかなかった。
(ゲーテ)
もし子供が純粋に理性の働きによって作られるなら、人類はそれでも存続しえたであろうか?
むしろ誰もが来たるべき世代に対して深い同情を感じて、なるべくなら彼らには存在の重荷を背負わせるような真似はしたくはないと思ったりはしないであろうか。
(ショーペンハウアー)
人間は死の恐怖と生の苦痛とのはざまを漂流している悲惨な存在である。生きることを嫌悪しつつ、死ぬこともできないでいるのだ。
(セネカ)
子どもを産むことは、災いを増大させることにほかならない。
存在しないよりは存在する方がマシだということを証明するいかなる方法も存在しない。
赤ん坊を他人に見せ、潜在性のこの災厄を見せびらかしては悦に入る。
これはもう理解を絶した狂気の沙汰だ。
(シオラン)
私は死を恐れない。私は産まれるまで何十億年もの間死んでいたのに、少しの不自由も感じなかったのだから。
(マーク・トウェイン)
人生は無意味なものである。これが真理だった。自分の前には滅亡のほか何物もないことを発見したのである。
生に酔いしれている間だけは生きても行けよう、が、さめてみれば、これらの一切がごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!
(トルストイ)
赤ん坊が生まれたときに泣くのは、この大いなる阿呆の舞台に上がってしまったからなのだ
(リア王) 人生とは裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない。
(ショーペンハウアー)
人生は苦痛と退屈のあいだを、 振り子のように揺れ動く
(ショーペンハウアー)
眠りは良い、死はもっと良い。でも一番良いのは生まれてこないことだ。
(ハインリッヒ・ハイネ)
死は我々から意識を永遠に奪うものであるが、不思議な利益もあって、深い夢のない眠りは最も幸福な人生のいずれの日よりも好ましい。
(プラトン)
幸福は夢に過ぎず、苦痛は現実である。
永遠の生命というのはどのようなものか私は知らない。
だが、これはよほどたちの悪い冗談だ。
(ヴォルテール) なぜ我々は出産を喜び、葬儀で悲しむのか?当事者ではないからだ。
(マーク・トウェイン)
この世は、苦悩と不安に苛まれている生物が、互いに食い合うことによって生を繋いでいる修羅場である。
墓石を叩いて、もう一度生き返りたいかと死者に問えば、彼らは首を横に振るだろう。
そして、ソクラテスの意見もこれと同じである。
(ショーペンハウアー)
もし魂が肉体とともに死滅するのであれば、死は一つの救いである。
(キケロ)
貪り食う動物の喜びと、今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。
(ショーペンハウアー)
人生はとるに足りない夢だ。いつかは消え去ってしまうのだ。
(ナポレオン) そしてドストエフスキーだけど、ドストエフスキー読者なら本の中の一部を切り取って、その人の本質だったと言わないけどねw
本には全体という構成がある、モノローグではない
人を幸福にし、最後には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作ると仮定してごらん。
ただそのためにはどうしても必然的に、せいぜいたった一人かそこらのちっぽけな存在を、例えば例の小さな拳で胸を叩いて泣いた子供を苦しめなくてはならない、
そしてその子の償われぬ涙の上に建物の土台を据えねばならないとしたら、お前はそういう条件で建築家になることを承諾するだろうか。
(カラマーゾフの兄弟) そんな悲観的現実を超えて人生を肯定する哲学をニーチェは目指したらしいが
あの人は何がいいたいのかよく分からん
人生ひとそれぞれでいいよという実存主義らしいが
またサルトルは人は目的をもって生まれるのではなく、親が後先考えずに無責任に産み、
ゆえに人は生まれてからの経験によって後天的に自らの生まれてきた意味を獲得するみたいなこと言ってるね
人間個体においてそうなら、類的な文脈(人類)においても後天的に(これから)意味を見出すしかないのだろう 一方でキリスト教に限らず神や真理に生の意味を求めるというのは先天的な(過去に)意味を求めるに等しく、
この先天的な人生の意義とは、近代においてそれは猿の本能に根付く原始的本能に生の意味を求めることに変わった
フロイトの場合、それは快楽の追及であり、すなわち性行為であるという(金や権力という人もいるかもしれない) ニーチェは何が言いたいのかよく分からないという気持ちは分かる気がする
単純に俺の場合は肌が合わなかったよ
カルヴァン主義者たち予定説を念頭においたね
意志の自由の否定であり、自我の否定でもある
あらかじめ祝福されたものと、罰せられる運命にあるものは生まれる前から決められているとした
一方で善く生きる努力は求められる
これは矛盾なのだけど、実は心理的にはとてもかなっている
意志の自由否定することで抑圧し、昇華することで活動に向ける、という弁証法が成り立つ
おまえはなんて無力で無価値なのだ、だから道徳的な活動をしなければならないよ、と 人間は確かに環境縛られる
本能や欲動や無意識に操られているだけなのかもしれない、そんな人形が「我」みたいな顔をドヤっていい気になっているだけなのかもしれないね
彼は決定論を認める為に、もしくは人間は運命に抗し得ない動物だ、と結論したわけではないと思う
フロイトは医者だった
無意識が求めている欲動の動機を正確に認識することで、人は精神の病を治すことができる、そしてあらかじめ定められた枠組みの中ので変化することができると言いたかったのかな、なんて個人的には思うよ
そしてあらかじめ定められた必然性を「ある方向に」変化させるものこそ、自由意志になる
そしてドストエフスキーは、パンのみに生きるにあらず(大審問官)、という言葉を示唆することで、自由意志の問題に踏み込んだのではないだろうか >>88
>そんな悲観的現実を超えて人生を肯定する哲学をニーチェは目指したらしいが
>あの人は何がいいたいのかよく分からん
生の本質は惨苦であり、これを隠ぺいすることが哲学やキリスト教倫理の目的である
本質的に好戦的だったギリシア人が哲学を発明した理由は
生という闘争に疲弊したが故にであり
これを欺罔するためにイデアという虚構を設定して現在の生を否定した
また、ユダヤ教を起源とするキリスト教はユダヤ人の奴隷的境遇に対する
内的復讐感情を未来における救済という形で欺罔した
この二つの思想・宗教を源流とする西欧文明では
現世否定と道徳への服従という内的抑圧が人格形成上の基本原理となっており
大衆化が進んだ市民社会ではさらに悲惨なものになって
人びとの精神生活や生を惨めなものにしている
この二つの軛を粉砕して
人間が創造的に生き、あるいは模索することこそ
思想や芸術にとって急務なのである
…とまあこういったことを手を変え品を
いくつも変え書きちらしているわけです
ある意味ヒューマニズムなんですね
ただ、人格の統一性や普遍性まで否定しているので
その実践は狂気に近いものとなる 治しても殺されると思うから現代のシジフォスみたいにナンセンスだ。 >>94
精神療法は、所詮は対処療法でごかましかもしれないけどないよりはマシでしょう
一時的でもいいから不安を持っていることは苦痛ですからね
緊張している時は食べ物が喉を通らないので嫌いですw >>92
ニーチェの目的は「これが人生か、ではもう一度」でしょう
自分は彼が挫折しらない時期に書いた「悲劇の誕生」を読んでないので
どうしても「挫折した人が人生を肯定するために考えた思想」というバイアスがあって
それでキリーロフの「人殺しも誰もかれもすべての存在が素晴らしい」につなげてしまうんだなこれが ニーチェはもともとナルシストで嫌なヤツだった
それから挫折して痛い目にあったわけだけど、
かといって人生はクソだなと厭世主義に逃げたくなかった
彼は人間は肯定的感情に満ちている=ナルシストであるべきだという
この世はクソだという厭世主義の対極にあるのは現世のすべてを肯定する以外にない
ニーチェは文献も学者の解説も抽象的なので、あんまり関わりたくない…… 力の所有とは2つの意味を持つね
一つはより多く支配できる力ということ
一方は自分に能力があるという意味での力ということ
ラスコリニコフは前者を持つものがこの世の法則を踏み越える権利者だと言ったけど、ニーチェが求めた超人というのはどちらの力だったのだろうか
なんてふと思った ニーチェの「力への意志」という概念は前者だろうね
道徳が否定する欲望を肯定するというスタンスのはず
ニーチェもナポレオンが好きだったらしい >>99
なるほど、そう言うことなんだ
後者は何の心理的な要素はなけど、前者なら推測できるかもしれない
ナポレオン好きとはラスコリニコフと気があうだろう
ラスコリニコフはかなりの捻くれ者だけどw フロムの自由からの逃走を読んでいるんだけど、急にカラマーゾフの言葉が引用に使われていたりすると、読んでいてよかったと思ったりもする
例えば大審問官の、「人は自由という賜物できるだけ誰かに譲り渡したくて仕方がなく、自由という重荷から迅速に逃れようとする動物だ」みたいな事がどういうことなのか、心理学的に書いてある
この本は、自由とはなにか、なぜ自由は苦痛なのか、というテーゼが多い
ドストエフスキーもまた自由意志をテーゼした作家でもある
だから、読んでいるまだ途中だけど面白い本でした
どうやら俺は、意志とか自由とか扱う本が好きなのかな、と思った
ニーチェは挫折したけどw ドストエフスキーの意志というと『地下室の手記』で
サイコロがハンドパワーで動かない、人間の意志は無力だと喚いてるシーンが印象的かな
自由意志ではキリーロフの「悪人も自分が善人だと気づけば今すぐ善人になれます」がそれっぽい 意志の問題に先立って「私とは何か」という問題を明確にしないとならないような気がする
自分が同一性を持つとは何であるのだろうか
幼少期の私を自分思っているし、昨日の私も自分であったとも思う
肉体が続いているから「私」だと思っている
しかし思っているのか、思っているだけに過ぎないのか
ではどういう時に私だと思うのか
人と関係を持った時にこの私だと思う
そうならば、この私とは相手の望む姿に過ぎないのだろうか
デカルトは言った
我思うゆえに我あり、と
ドストエフスキーも基本はこの姿勢だと思っている 死体となった私は私ではないのか?
逆に脳みそだけ他人と入れ替えられても私なのか?
私と思考回路同じのクローン人間は私なのか?
昔のSFでそんなような作品を見た覚えがあるけど
自我の唯一性というのはナルシズムだと思う >>103
>ではどういう時に私だと思うのか
>人と関係を持った時にこの私だと思う
むしろその逆で
人間関係を喪失した際に
「私」とは何か?という問いが生じる
この問いの構造によって「私」というフィクションが生じる
「地下室の手記」の「私」が能弁なのはそのため 哲学的ゾンビなんて言う考え方があるね
いわく定義、物理的科学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識を全く持っていない人間」と定義される
皮肉としてとらえたなら別の意味で面白い
悲しい「だろう」から泣き、嬉しい「だろう」から喜んで見せるような服従的な人間はゾンビなのかもしれない、ようは反射で生きて死んでいくのだろう
この私が欲するとかこの私が願うという個の意識や自らの意志で行う選択は、苦痛に感じるのだろう
彼らは基準を権威に委託する
だから決めてもらうことこそが彼らの願いなのかな
一方で彼らは場に適応する能力は高い
統べる者の考え方はなんでもいい
問題はうまく自分が溶け込めるかどうかが彼らの問題なのであって、その考え方がどうかは何でも受け入れる
オーウェルは大審問官を引用したと言うけど、彼も偉大な作家だね
自由は隷属である
無知は力である >>105
なるほど
そうすると自我の唯一性がナルシシズムにある、と言うのは納得できる
人は子供の頃において母親と一緒の世界に生きているね
それこそ子宮にいる時は栄養もまた母親から、産まれてしばらくも自分でなにも食べられないから泣けば食事が出てくる世界にいる
つまり世界は自分(と母親)しかない
やがて成長し、他人と関わる社会で生きていく
自分と同じように他者も自我があることを悟り、尊重し、妥協することで他者と関係を融和させていく
問題なのは、地下室の主人公のように、他者が自分と同じように自我があることを受け入れられない人間
つまり自意識の強すぎる人間は、ナルシシズムがうまく処理出来なかった者の姿なのかもしれない
ただナポレオンのような英雄ならば、ナルシシズムの世界で生きていくことも可能なのだろうね
ラスコリニコフが求めた世界でもあるね >>105
早とちりしたかもしれない
関係を持った時ではなくて喪失した時に「私」が発生するならば、「私」という意識を持つには孤立するような状態が必要になる、そんな感じなのかな イギリス人のオーウェルがイギリス経験論(経験主義哲学)を代表とするベーコンの言葉「知は力なり」を逆転させたのは面白い
もし彼がフランス人だったらデカルトを逆転させて「我思わない故に我は存在する」で屁理屈をこねただろう これはいい事を覚えたw
皮肉をつきたい時は使わしてもらおう
我思わないゆえに我あり、と 現実の社会でも体制や会社など立場の強い威張り散らした頭おかしい集団に
疑問や反感を一切「思わない故に」その社会で連中と仲良く付き合っていける、
すなわち「我」の居場所「あり」なわけで、正しい意見でも余計なことを思う奴は嫌われ排除されるか
本心と異なる考えに従うことに耐えられずに社会から自ら去っていかねばならんわけだ >>108
関係があるほど、たとえば集団の中に埋没しているときほど私を意識する必要がない
「私」は他人や関係によって70%くらい無意識に定義されている
もしそれを失ったら、あるいは足りないと感じている人間は
埋め合わせるために自分を自己定義するのだろう >>112
関係に依存しないという要素が自由には必要なんだろうね
関係に埋没すると自我を失う、というのはとても共感できた
自由からの逃走でフロムはカラマーゾフを引用している
「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、ゆずり渡せる相手を見つけたいという、強い願いだけしかもっていない。」(大審問官)
依存した個人は、自己自身を放棄して、誰かに関係を委託したいと願う
そこには対等の愛という観念はもはやないらしい
従属したいというマゾヒズム的な欲動でナルシシズムを増長させる、もしくは所有を願うか
よって彼は近親相姦的な性格構造によって、特定の第三者を過大評価し、他を排他しようとするらしい
ナチスの心理を分析してあって、自由からの逃走は面白かった 俺はフロムとかアーレントの議論て血液型占いみたいな印象論で
そこそこ当たってる気はするけど科学的手法とは言えないかなと思ったり
自由とは考え続ける状態のことであり、疲れるんだろうね
エルンスト・マッハがいうには、人間の脳は普段は労力を抑えるために
視覚や聴覚から得た情報をフィルターを通しておおざっぱに遮断しているらしい
これを情報のエコノミー(節約)というらしいが、つまり人間は自由という面倒事は
本当に必要な時以外は脳の情報処理コスト的な理由で回避しておこうとする生き物なんじゃないかな そういえばアーレントがファシズムは孤立した大衆(モブ)によって成立し、
ドイツにおいては戦争(WW1の長期戦)によって、
ソ連では秘密警察による民衆の分断によって成立したと書いてあった
オウムは周知のことだと思うが、創価も外部世界との関係を執拗に分断しようとするらしいね
関係の数が減れば少ない関係に強く依存し、それすらも失ったら(あるいはどうでもよくなったら)
自分自身との関係が強くなるのだろう(だから私とは何か、どうあるべきかということに拘る) 北朝鮮のような全体主義国家では、民衆は陰で無能が自明な独裁者の悪口を言ってると思いきや、
性欲などを強く制限された人々は独裁者を無能と知りながら同時に本心で強烈に愛するらしい
オーウェルの1984冒頭でスミスが二分間憎悪をくだらないと思いつつ不可避的に熱狂してしまうようにね >>114->>116
そういえばカラマーゾフでも心理学に懐疑的な弁護士がいたw
集団は集団への関係を強めるために、社会との分断で連結感を与えようとする特性は、どこの宗教でも程度の差はあれあるんだろうね
集団はそういうものなのだから仕方がない、と言ってもいいと思う
宗教は少なからずカルト性を持たざるを得ないのかな
キリスト教だって、この世との分離を目指していないと言えば嘘になる
だからこそ、宗教をやる人はその宗教のカルト性に飲み込まれないだけの「私」という自我の必要に迫られるのかもしれない
カルト宗教に溺れる人は、原因は宗教団体ではなくその人自身にあるのだろうね
サルトルなんかは同伴者であることにこだわった
党と同調はするけど帰属はしない
人間の目的を選択という自由に託し続けた人だけはある >>108
>関係を持った時ではなくて喪失した時に「私」が発生するならば、
>「私」という意識を持つには孤立するような状態が必要になる、
>そんな感じなのかな
関係という場合は抽象的な「私」ではなく
「父」としての「私」
「夫」としての「私」
「兄」としての「私」
「弟」としての「私」
「部下」としての「私」
「上司」としての「私」
といった具合にそれぞれの関係性に由来する
「役割」を演じる「私」であり
社会的「役割」である以上選択肢は限られているので
葛藤や不安はそれほど生じない仮にあったとしてもそれは具体的なものに過ぎない
逆に言えばそういった「役割」から解放された「私」には自由があるのだけど
社会的役割を喪失しているが故に思考の他には(とくに行動の)自由は
それほどないわけです
というのは行動をおこす足場たる関係性が無いから
そのかわり抽象的な思考という自由がある
それは抽象的な「私」を基点とする
また、役割がはく奪されているが故にその思考は自分に向かう
その場合いくら掘り下げても何も出てこない
逆に掘り下げていく過程で社会的属性が失われていくので虚無に近づく
地下室人間とはそういうものです >>118
思考は主体という自由を持つけど、その思考が行動に移ると即関係が生まれるね
役割を失えば虚無に近づくか、なるほど、対他なくしては生の意味そのもの失いかねない
そういう人物を思い出す
「善悪、すべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手にいれた瞬間、私は破滅する。」(悪霊)
でも無理なのだろうか、と時々思う
多分それは大きく外れた事なのだろうし、ドストエフスキーの言葉を借りれば「神になる(神として存在する)」という観念になるのだけれど
人間は自己原因で存在する、どんな本質にも依らず、何者にも束縛されずただ存在する
そんなことが出来たとしても、スタヴローギンのように虚無に破滅するしか想像出来ないけど、無理なのかな
何て考えだすとニヒリズムに侵されそうで嫌になるw 苦痛だけじゃなくて美味しいものを食べたときの快感や執着心からも自由になると
暇ですることがなくなるけど破滅する必要もなくなると思う
ドストのニヒリストは何故すぐ死んでしまうん? ニヒリズムって生と死の意味を失うってことだから、生きていても死んでいてもどっちでもよくなるんだろう
どっちでもいいなら死の方が楽だから、破滅するとはスタヴローギンにとって自殺という事と同じではないかな
彼の破滅の本質を一言で言えば、無関心という事 教育100分de名著 ドストエフスキー“”カラマーゾフの兄弟””(1)過剰なる家族 268名無しの笛の踊り2020/12/25(金) 23:03:25.52ID:24u6uXmH
いよいよ創価学会が潰れそうになって来たみたい
選挙がヤバいらしく、幹部が顔面蒼白になっていて、信心どころじゃない状況になってるんだと
と言ってもネット上の情報だから、真偽は不明だけどな
ただ、5ちゃんでもRock規制が掛かって、学会関連の言葉が一部書き込めなくなってるし
その関係で学会関係のレスを上手く書けない状況にもなっているので
言論統制でも始めたのかなと思ったら、そういう投稿を目にしたから、ちょっと納得した
悪い事やってた奴らは覚悟しておいた方がいいよ >>13
ニーチェが入ってへんがな
あとコンラッドがキミのレス読んだらイラっとくるやろうがな 【他板からの転載】
みんな、ガスライティングっていう言葉は聞いた事あるだろ?
これを組織的に使用し、悪辣な嫌がらせを働いてる奴らがいるんだが、それをやってるのが創〇学〇だよ
詳しい解説はこのサイトにある
https://gaslighting-knowhow.jimdosite.com/
詳細はサイトを読んで欲しいが、簡単に解説しておくと、意図と手口はこんな感じ
【手口の概要】
【1】被害者の周辺に複数の人間を常に付き纏わせ、被害者に精神的苦痛を与え続け、
被害者が堪らなくなって、怒鳴ったり暴力を振るったりしやすいようにする
そうして暴力をふるわせて警察沙汰を起こさせて社会的に抹殺したり、人間関係が壊れるように仕向けて破滅させる
【2】1の方法で精神的苦痛を与え続け、自殺しやすい状況に置き、自殺に追い込もうとする
【3】仕掛け人を用意して、道ですれ違いざまに『X(被害者の名前仮名)、死ね』と囁かせたり
仕掛け人に、駅のホームの対面から、被害者とじっと視線を合わせたりしておいて
被害者がそのような嫌がらせを受け続けて精神的に参って、ノイローゼになって病院に行くと
医師に「最近、人の視線が気になるということですか』とか、『幻聴が聞こえたという事ですね』と
精神障害の症状でそのような被害を訴えているのだと誤解して、統合失調症などの精神障害と誤診させる
【4】そうする事で被害者の発言の信憑性を低下させ、報道、捜査機関、裁判所等を欺いて対応が出来ないようにし
泣き寝入りに追い込む
【具体的な手口】
基本形は、被害者が語る被害について第三者が聞いた際、精神障害の症状と誤解する行為の実行
嫌がらせの被害内容が、精神障害の症状(幻聴、幻視、現実と夢・妄想の区別がつかない、妄想障害、被害妄想)と
聞いた人が誤解するものなら何でもOK
※ただし被毒妄想系に該当する行為はないし、催眠術の使用もない(証拠が残る為)
※テクノロジー犯罪が行わている事実もない
信じられないかも知れないが、こんな馬鹿な事を本当にやってる
ただガスライティングって言葉が浸透してきた事で、ここがやってきた嫌がらせが
どういう意図を持つものなのか徐々に知られるようになってきて、追い詰められ始めてる
悪い事は言わん、この宗教団体とは関わり合いにならない方がいい av >>1 統一教会でないが、創.価学.会が大学の敷地内で集団ストーカーしてるのに大学当局が黙認してる、助けて!
■関東圏の国公立大学Tの大型の不祥事■
国公立大学に無許可で警察が創.価学.会に違法行為させてる
【拡散希望】公安警察の監視対象であり、米国CSISに親中派認定された宗教団体の公.明党・創.価学.会の信者が大学の敷地内でやりたい放題やってるのに、
国公立大学の大学執行部が被害妄想として揉み消した。
生活安全警察が大学に無許可で学生にガスライティングを実行させてる。いわゆる「やりすぎ防犯パトロール問題」です
また、創.価学.会の信者が大学の敷地内で交通事故の誘発行為などの違法行為を長期間やってる。
大学学部・研究 > 【重大】警察が大学に無許可で学生に学内で違法行為させてる問題
rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1653499190/
【スレの要約】
・2019年から2022年8月現在まで、関東圏の国公立大学Tにおいて、警察が大学の許可を取らずに学生・留学生に大学内で違法行為=ガスライティングをさせてる。
・大学執行部はこの問題を把握したが、杜撰な調査方法で証拠不十分として、被害妄想として隠蔽。
・国公立大学で経済安全保障上も重要なのに親中派認定の創.価学.会の信者が敷地内で違法行為。
・政治的な左右イデオロギー(大学の自治、学問の自由など)とは無関係の問題
見る人が見れば、自分の大学のことだと分かる。また、ここで説明した依頼を受けた人は卒業などで学外者であっても、
大学執行部に即連絡して警察からおかしな依頼を受けたと告発して下さい。
在学生や卒業生で警察から防犯協力と称し、以下の依頼をされてませんか?
・特定の人を監視して欲しい、その人が現れたら連絡して欲しい。
・特定の人が現れたら、咳やクシャミをして欲しい、待ち伏せがわかるようにわざと立っていて欲しい。
ドアを急に閉めて欲しい、バイクで爆音を鳴らして欲しい、車でライトやハザードをいきなりつけて欲しい。
特定の話題について話して欲しい
・とにかく特定の行動を取れと警察に指示された
これらはガスライティングと呼ばれる犯罪です。裁判所の許可が下りませんf 右紙国予が、結婚話や旦那と子供の話題をNG設定ということに、ガッテンできない!
そもそも結婚しているのか!?