>>835
どうぞ

柚子の花の香りが鼻腔をくすぐる。
背中に両の腕を回す彼女を見下ろしても、眩しいうなじしか見ることはできない。
触れる身体の柔らかな感触に、今更になって頬が熱くなる。照れくささを押し隠して、憂の肩を引き離そうとした。
「今までありがとう。だからーーごめんね」
それより首筋の冷たさが、一瞬だけ早かった。
抱擁を解いた憂が、感情の綯い交ぜになった瞳で僕を見ていた。
柔らかな身体が少し離れる。細い腕がわずかに離れる。
けれど、首筋の感触だけは残っていた。
彼女の肌ではなく、細い紐の、鋭い痛みが。
「……? …………っ!!」
「好きだったよ。初めてだけど、たぶん本当に。ずっと嬉しかった。ずっと楽しかった」
答えは返せない。肺があえいで酸素を求め、本能が彼女を突き飛ばして命を残そうとする。
だが、憂は動かなかった。僕を見つめながら、愛を囁きながら、細紐を全霊で絞っている。
「あなたが私を見てくれるだけで、私の名前を呼んでくれるだけで、何よりも幸せな気持ちになれたの」
淀んだ瞳で、けれど迷いなく彼女は愛を謳う。
疑問が、怒りが、困惑が、生まれては息苦しさに呑まれて消えていく。
思考が途絶え、理性が潰え、最後に残っていたのは視界だけだった。
彼女が見える。
彼女の姿が見える。
彼女は何と言っているのだろう?
彼女の名前は何だっただろう?
何もかもが消えていった後の世界で、瞼が閉じる前、最後に見えた彼女の顔は。
「だから、ありがとう。世界で一番、大好きでした」
とても幸せそうに、笑っていた。