ボロアパートの二階の角部屋、四畳半の狭い部屋。
 と言えば、ホームレスと代わりのないような汚らしい親父が一人で暮らす、とっ散らかった汚部屋を真っ先に想起するかもしれない。
 ただ実際には、その部屋は綺麗だった。それもその筈。極端に物がない。

 部屋の中央には木製の丸テーブル一つ。端に衣装箪笥と三つ折りにされた布団。それだけが部屋にある物の全て。
 いや、今一つ物があった。それは、部屋の主が大事そうに抱いている人形であった。

 ――市松人形だ。年季物なのか、着せられた緋色の着物の裾はほつれている。顔の肌色にも所々変色している部分が見受けられるし、古いものであるのは間違いないだろう。
 人形を抱いた女――化粧もせず髪もぼさぼさでロクに手入れされてない。その女が、赤子をあやすように人形をゆっくりと揺らしている。
 女の目は虚ろだ。そんな目をして、只ひたすら人形を揺らす。時折、何かぼそぼそと呟く。口の端は笑みの形に吊り上がっていた。

 どう見ても正気を失っている。
 この女の事情を鑑みれば、それも致し方のないことであった。

 女は、十年前に結婚した。誰もが羨むような、恵まれた結婚でこそなかったが、それでも普通の幸せな結婚生活を送れる。誰もがそう思った。
 最初の悲劇は、結婚二年目。妊娠したのだが、何ら原因らしい原因もないまま流産になってしまった。
 女は酷く悲しんだが、夫や周囲の人間が励まし、少しずつ立ち直った。子はもう一度産めばいい。そう思うようになった。
 しかし、不妊の期間が数年続き、不妊治療の為に長く病院に通い詰めることになる。そしてようやくその努力が実を結び、待望の子供が出来た。
 ……と思った矢先にまたもや流産した。

 この時の女の取り乱しようはすさまじく、半狂乱、いいや、正に狂人の振る舞いを取った。
 夫はそんな妻に嫌気が差し、妻と別居。半年後に離婚した。
 更に女に追い打ちをかけることが続く。別れた夫は一年後再婚し、新しい家庭で早々に子宝に恵まれた。
 これを聞き、女はついに壊れた。

「あゆみちゃん、私がこれからたーんと可愛がってあげますね」

 女は禍々しい視線で市松人形を見下ろすと、抱いていたそれを無造作に床の上に置く。次いで取り出した刃物を強く握り締めた。そして――。

「ああああああああああ!!!!」

 ざくりざくりと、顔、腕、腹、足にと所構わず刃物で刺し貫く。

「死ね! 死ね! 死ね! 死んでしまえ! あの女の子なんて死んでしまえ!」

 怨嗟の言葉を吐きながら、延々と人形を刺し貫く。
 時刻は丑三つ時。
 女の故郷では、一風変わった丑の刻参りに類似する風習があった。
 通常では、神社で藁人形を五寸釘で貫くものであったが、女の故郷では自分以外誰もいない閉じられた部屋で、市松人形を刃物で刺すというものだった。

 女は、市松人形を元夫と再婚相手との間に産まれた子供に見立て、息が切れ腕の感覚がなくなるまで刃物を振り下ろし続けると、喜悦の笑みを浮かべたのだった。