暗闇の中を蠢く集団がある。明智勢であった。
 彼らは、夜の帳が下り切った中、危険な行軍を行っている。先の見通せぬ闇夜を、兵らが掲げる松明の灯りで払いながら進み行く。ぼんやりと浮かび上がる彼らの顔は訝しげなものであった。そこかしこで囁き声が漏れる。
「夜間行軍とは、尋常ならざることよ」「うむ。当初の目的、筑前殿への後詰の為なれば、こんな時分に動く理由がない」「後詰の前に上様の検分を受けるというが……」「それも異なこと。まさか、昼夜駆け参上せねば、上様の怒りを蒙るとでも?」
「では、真の目的は別に?」「もしや、堺を遊覧中の三河殿を……」「上様の密命でか!」
 兵らは無責任な憶測を深めるや、興奮を増していく。ただ、光秀の周囲を固めた馬廻り衆はそういうわけにいかなかった。
 無言で進みながら、時折主である光秀の顔を盗み見る。そうして、此度の任務が容易ならざるものだと悟った。
 何せ、馬上の光秀は俯きがちで、その表情はいつになく優れない。
 馬廻り衆の不安げな視線にも気付かずに、当の光秀は胸中で煩悶とした思いを渦巻かせていた。
(ワシは何故上様に弓引こうしている?)
 光秀は己に問いかけた。
(確かに、またとない好機じゃ。各方面軍は畿内を出払っておる。軍勢らしい軍勢はワシのものだけ。更に上様の周囲は手薄。今なら容易に御首を上げることが出来る。じゃが……)
 光秀はぎゅっと手綱を握りしめる。
(動機が何処にある? またとない好機に、野心が焚きつけられたか? それとも、ワシは上様を恨んでいたのか? ……遺恨がないと言えば嘘になる。三河殿の饗応や長宗我部との折衝では面目を潰された。しかしそれだけのことで、謀反を起こす不忠者であったのか、ワシは?)
 光秀は一度頭を振るう。
(あるいは、上様が天下人の器でないと断じたか? ワシは上様を軽んじている? あのような者に天下人は務まらぬ、と。……馬鹿な、上様で務まらぬとあれば、この日の本の誰に務まるというのか? ……分からぬ、ワシは何故上様を――)
「殿!」
 呼びかけに、光秀はびくりと体を震わす。俯いていた顔を持ち上げた。
「……何か?」
「兵らに休息を与えようかと。宜しいでしょうか?」
 光秀の目に、視界の外にあった兵らの姿が映る。
「……うむ。そのように取り計らへ」
「はっ」
 かくして、歩き詰めであった兵らに休息が与えられた。光秀もまた下馬して椅子に腰掛ける。馬廻り衆がその周囲を固めながら各々休息をとった。
 その最中、馬廻り衆の中でまだ若い男が、竹製の水筒を手から取り落してしまう。ころころと転がり光秀の足元へ、やはり俯いていた彼の視界の中へと入り込んだ。
「これは誰の水筒か?」
 光秀の傍に若武者は駆け寄る。
「某の物に! 申し訳ありませぬ!」
「気を付けるがよい」
 そう言って水筒を手渡すが、受け取る若武者の手は小刻みに震えている。
「そなた、緊張しておるのか?」
「面目ありませぬ。重大な任務を前につい……」
「何、重大な任務とな?」
 光秀が言葉尻を捕えた。
「も、申し訳ありませぬ! 秘事を勝手に推測するような真似を……!」
「……よい。それで、手柄を立てねばと緊張しておったのか?」
「はい。いいえ、それだけでなく、殿の御為にと」
「ワシの為?」
「はい。時勢を鑑みるに、今まさに天下は織田のものになろうとしています。この時に、殿は上様より大変なご下知を賜ったように見受けられます。それはつまり、上様の天下取りを決定付けるものではないかと」
「成程、つまりその命を果たせば、ワシは天下人の下で安泰というわけじゃ」
「いえ、それもありますが……上様が天下人となられることこそ、殿の至上の喜びかと。殿はいつも上様のことを、天にある日輪を仰ぐかの如く見上げておいでなので」
「ワシがそのような……」
 光秀は呆然とした表情を浮かべる。
「殿……?」
「いや、良いことを教えてくれた。礼を言うぞ」
 光秀はすっと立ち上がる。初老とは思えぬ身軽さで馬上の人となると、歴戦の将の威風を放ちながら周囲を見回す。そうして大音声を上げた。
「敵は本能寺にあり!」
 ざわりと、動揺した兵らの声が上がるが、それらが光秀の心を乱すことはない。
(ワシは上様を恨んだわけでも、軽んじたわけでもない。また、内なる野心に焚き付けられたわけでもなかった。そうか、そうであったのか。此度ワシを謀反に駆り立てたは、憧れであったのだ。――ワシは上様に、織田信長になりたかったのだ!)
 光秀は得心すると、背筋を伸ばし顔を持ち上げ、しかっと前を見据える。未だ呆然とする兵らを尻目に、乗騎を暗闇の中へと進ませて行った。