欲深い、例えば猟奇的な殺人を犯してしまう「あんなことをするなんて人とは思えない」と形容されるような人間の中にこそ正常があり、誠実な
礼儀正しいややもすれば「いい人ではあるのだが或る意味では少し物足りないくらい真面目な人」と却って火遊びをすすめられるような
人間の中にこそ異常が潜んでいるという相剋を決して忘れてはいけない。そもそも、正常と異常の境界は甚だ曖昧模糊として両者は容易に置換や
代替可能なのである。何が正常であり何が異常であるか、私たちの多くが平生から、それを常識や習慣や巨視的にはパラダイムから
自明視してほとんど恣意的に固定化してしまっているだけである。
 彼女を部屋に招いた。快く応じてくれた。むしろ自分から誘いたいのを臆していたのがきっかけを私の方からさりげなく与えられて喜びを隠せない
ようにさえ見えた。部屋まであと二百メートルもない道を並んで歩く、彼女の弾んだ足取り、火照っている顔、上ずり気味の声の調子、
私の腕にしっかり絡められた彼女の両手、そして何より爛々と目は口ほどに物を言う。愛していると言っている。私も彼女を愛している。
 弓矢で的を射抜くためには的を狙わないことだ。欲しがろうとして露骨に手を伸ばせば対象は遠ざかっていく。対象から一度は遠ざかることで逆に
対象の方から進んで近づいて来る、その微妙な好機を逸することなく如才なくキャッチするのである。つまり、的を射抜くとは的と全き一つになることである。
彼女は社内でも随一の、それどころか都心の繁華街をどれだけ歩いても彼女ほどの美貌には滅多にお目にかかれないだろう。故に男たちはすぐ
露骨に手を伸ばす、当然、対象は遠ざかっていく。
 可能な限り完璧な、手抜かりない状況の演出が必要なのである。至って自然な偶然の出会いや会話のきっかけを装い、時には恬然とこちらから
一歩身を引くこともあり、それでも孤独な一面や弱さがあるのを婉曲に巧みに織り込み、相手の琴線に触れるか否かの機微を探ることも細心の注意を
払って欠かさず、しかし飽くまで会話の流れは常に自分より相手の要望を優先し、親身になって話を聞き、要するに見返りを求めない態度、
それは無償の愛である。
 しかし、本当に純粋な意味で報酬を求めない無償の愛というのは存在しない。「相手に喜んでもらいたい」と求めている時点で同時に或る種の見返りを
求めている。強姦というのは犯す側から犯される側へ振るわれる一方的な暴力である。犯す側に喜びはあっても、犯される側に否応なしに突きつけられる
のは恐怖である。しかし、他方、暴力を振るわれる、支配される喜びというのもあり得る。話が前後するが、厳密には痴漢というのは必ずしも犯罪とはいえない。
電車内で女性の尻を触る、すると取り押さえられる、警察に通報される、署に連行される。しかし、結婚した夫婦あるいは恋人同士なら、
男は女を裸にする。つまり、その行為が誰によって行われたかの合意の有無が罪の分かれ目になっている。殺人というのは誰が誰に行っても犯罪である。
痴漢が女性の尻に触れて犯罪であっても、その女性が夫から、恋人から裸にされることは犯罪ではない。
 彼女は私から支配されることを間違いなく望んでいる。支配することによって喜びを感じる私の欲望と、支配されることによって喜びを感じる彼女の欲望が
全き一つになった時、それは無償の愛の特殊な、一時的な結晶である。これから、部屋で私は彼女を抱く。裸にする、抱き合う、隆起した肉の陽物で
彼女の体を激しい動きで貫く、愛液が彼女の奥底を遍く満たす……。しかし、それだけでは私の欲望は満足されないだろう。私は彼女を愛していた、
オルガスムスの我慢を重ねて来た、純粋な無償の愛ではない、それは最大限の見返りを求めるための、一度は遠ざかっただけの無償の愛である。
 私の鞄には数本のナイフが携帯されている。恐らく、私は彼女を殺すだろう。性的絶頂に達した時、さらなる高みを求めて私は彼女を殺害する。
セックスというのは殺人によほど似ている。生と死が懇ろに手に手を取り合い戯れる瞬間であり、だからこそセックスは生殖行為なのである。
 永遠の愛というのは存在しない。人は頂点へ上り詰めた後は下っていくだけである。そして、人をその頂点へ永遠にとどまらせることができるのはただ一つ、
死だけである。私と彼女が互いに喜びの頂点に達した時に、私が彼女を殺すことに、彼女が私に殺されることに、さらなる無上の喜びを感じるならば、
それは罪に相当するだろうか、いや、それ以上の神聖な罪が他に何か相当し得るだろうか。
 部屋まであと百メートル。彼女は私を見て優しく微笑んでいる。私はこの彼女の微笑を最も絶頂に達した無上の喜びの、なまめかしい姿態の中に
永遠に結晶させたいと思う。