大通りの喧騒から裏路地に入った一角にその喫茶店はある。知る人ぞ知る名店、とまでは言わないが瀟洒な内装と物静かな店主、お決まりの数名の
常連からはこよなく愛されているなじみ深い、憩いの場である。私もこの店の常連の仲間入りをした、ここ最近の半月程度の話だが。高校からの帰り、
最低でも週に三四日は通うことにしている。男子校であるから、この店へ来るとより解放された心地になる。
「いらっしゃいませ」
「やあ、結衣ちゃん、今日もかわいいね。いつもの一つ、お願いね」
「はい、かしこまりました。クリームソーダをお一つですね」
 そう、看板娘の結衣ちゃんを目当てでこの店に通うことにした。注文を取りに店内を、またはトレイに載せた品を軽々と運び、またはテーブルを拭き、
店主や常連客らと談笑しながらも忙しく立ち働く姿、その一つ一つの動作が、仕草がまるで私にとっては、いたいけな天使のように愛らしい。もちろん、
彼女と私もすっかり気が置けない仲である。
「結衣ちゃん、もしよかったら今度、クラシックのコンサートでも観に行かないか。父の知り合いから、いい席のチケットが偶然手に入ったんだ」
「まあ、これは私の好きなアーティストが多く出演していてあの有名な……、すごい、絶対に行きます」
「結衣ちゃんからこの間借りたCDもすごくよかったよ。特に、ショパンの幻想即興曲は最高だった」
「私もあの曲はとても好きなの。コンサートは次の日曜日ね、楽しみにしてるわ」

 授業中、教師から指されて、あたふたと立ち上がり、見当違いな答え方をして、クラス中から酷く笑われる。今日は特に恥ずかしい思いをした、
教師からもあきれられていた。
このところの空想癖は重症だ。気が付けばいつでも結衣ちゃんのことばかり考えている。最前の空想では私は結衣ちゃんをクラシックの
コンサートに誘って、もしくは借りたCDの話を微笑交じりにしていた。授業が終わり、放課後、友人とそれこそ冗談交じりの話で大いに笑ってから
学校を出て、大通りへ、喧騒から裏路地に入った一角にあるその喫茶店に入る。
「いらっしゃいませ」
 ネームプレートに視線を落としながらぺこりと無言で頭を下げて、窓際の席に座る。「やあ、結衣ちゃん」というか、結衣ちゃんなどと
なれなれしく呼んだことは一度もない。当然、私が結衣ちゃんからCDを借りたなどという事実は存在しない。コンサートに誘うなどの、
もはや偉業に至ってはとんでもない空想の、夢のまた夢である。
「ご注文は何にいたしますか」
「ク、ク、ク、クリームソーダを」蚊の鳴くような声が喉に絡まりながら微かに出た。
「かしこまりました。いつものをお一つですね」
 覚えられていた。私は彼女の中で、いつもクリームソーダを頼んでいる客に印象として残っていた。店内には私の他には
二人の客しかいない。いつも見る顔である、中年のサラリーマン、読書に耽る老人。時折、それぞれに、結衣ちゃんと談笑をしている。
夢の中では私と結衣ちゃんもすっかり気が置けない仲のはずである。しかし、現実は無口な自分である。
 結衣ちゃんは大学生であろうか、何年生であろうか、いつまでこの店でアルバイトを続けるのか、できるだけ長く続けてほしい。
聞きたいこと、話したいことは山ほどある。夢の中では私と結衣ちゃんは冗談交じりに、話にも花が咲き、
「やあ、結衣ちゃん、今日もかわいいね。いつもの一つ、お願いね」しかし、現実は無口な自分である。
 いつものをお一つですね、その一言を反芻していた。私は「これからもこのお店に通います」と心の中で小さく呟いて応えた。
クリームソーダが運ばれて来た。私は目も合わせられなかった、ありがとうございますさえ言えなかった。テーブルを拭き、
店主や常連客らと談笑しながらも忙しく立ち働く彼女の姿を見ていた。いつか夢が現実になる日が来るだろうか。
結衣ちゃんが私のすぐ隣の席のテーブルを拭いている。声をかけようか、いや、鼓動がやけに早くなり、口の中が渇き、
かすれた弱々しい声しか出ないであろうことが容易に予見された。隣の席には結衣ちゃんがいる。目の端にしっかり、
大事な人を感じている。今はただ、この時間が、少しでも長く一緒に時間を過ごせさえすれば、それがすべてであり、
それだけでいいと思っている。ただ、結衣ちゃんの健康と元気と笑顔と幸せを祈る、無口な一人の客として「これからもこのお店に通います」