男は夜の闇を歩いていた。
闇を選び、隠れるように歩いていた。まるで、夜に溶けようと思うがごとくに。

走る車の後部座席で、フェリーチェは赤く塗られた唇をひらいた。
「どこへ行くつもりなの? ドメニコ」その声はひどく鋭かった。
「父は……ドン・コンティッキオはどこ?」
ドメニコはルームミラーで後ろを一瞥すると、口の片端を上げてこたえた。「この前の返事を聞かせてくれませんかね? お嬢さん」
「騙したのね。父が呼んでいるなんて言って。返事はもちろんノーよ!」
ドメニコは運転していたリンカーンに急ブレーキをかけると、フェリーチェに顔を向けた。
「俺はドンの右腕ですぜ。その娘と一緒になるのが筋ってもんだ。あんたは俺のものだよ」
薄い口をひくつかせながら、ドメニコが笑う。やおら左手を出すと、そこにはきらりと光る物があった。大粒のアメジストの指輪だった。
「さあ、あんたの瞳と同じ色の宝石だ。高い代物ですぜ。女はみんな喜ぶ」
「借金漬けにされた哀れな女ならね」フェリーチェは強く言い放った。
長い髪もまつ毛さえも、明るいブロンドに燃えていた。シチリアの血筋の父親には似ず、北欧系の母親の血を濃くひいたようだ。三十才手前の豊満な胸が白いブラウスの上からも見てとれる。
アメリカ・フロリダの暗部をしきるコンティッキオ一家の、ひとり娘だった。
「レベッカはどうしたの? お前に尽くしていたレベッカは?」
「シカゴのガント一家のところですよ。あっちでひと仕事するんでさぁ」
「売ったのね!? あの純粋な子を! この下衆がっ!」
怒りに顔を紅潮させ、フェリーチェはアメジストの指輪を激しく叩きはらうと、車の外に飛び出した。街灯がひとつしかない道は暗く、他に車一台通らない。重い湿気を含んだ空気を感じる。
ドメニコも車を降りると、すぐに彼女の腕を乱暴に捕らえた。
「昼間は教師をしているか知らないが、お高くとまるんじゃねぇ! 所詮お前もイタリアンマフィアの血をひいているんだ」
必死に抵抗する女の頬を平手打ちにすると、首筋に手をかけた。
「ここがどこかわかるか? すぐ側に沼があるんだ。飢えたアリゲーターが待っている」ドメニコの指が白い首筋に喰い込んでいく。
「さぁ。これからどう料理してやろうか? ばれりゃ俺はガント一家の世話になる。フロリダの暑さにもうんざりだ」

そのとき、ドメニコの後ろで闇が動いた。
黒い闇の中から一人の大男が現れ、ドメニコの背を一撃した。ドメニコは大きくよろけ、振り返ると、ぎゃっと悲鳴をあげた。
そこにいたのは、顔が溶けた男だった。
片方の目はほとんど塞がり、もう片方は目玉が飛び出ていた。
唇はなく、ただそこに口らしき穴があった。鼻も同様だった。頭には左側にほんの数筋だけ茶色い髪があったが、あとはケロイドの海であった。顔も頭も皮膚が引きつれ、あるいはのたうつように隆起している。
薄明りのなか見るそれは、あきらかに怪物であった。
幼い頃に頭部と腕にひどいやけどを負い、碌な手当もされなかった。母親は行方をくらました。養護院を出たあと、廃油工場に放り込まれた男は、暗い工場のなかでドス黒い廃油に塗れて働いた。夜に紛れて、路地の薄汚い店で粗末な食糧を買った。
人の目を逃れ、闇に隠れて生きてきた。

「このバケモノ野郎っ!」ドメニコがナイフを取り出し、男に切りつける。
男はその手をすばやく掴むと、廃油運びで鍛え上げられたケロイドの腕で、ドメニコの腹部に拳を入れた。あっけなく、くずおれるドメニコ。
 近くから、バシャッという水音がする。風が沼の湿気を運んでくる。
ドメニコは当分目覚めそうになかった。いや、永遠に目覚めないのかもしれない。沼から這い出してくるものによって。

男はかたわらに立つフェリーチェの視線を避けるように、顔を背けた。女と碌に面と向かったこともなかった。逃げるように再び闇にとけようとする。

「待って!」フェリーチェが腕をつかむと、男の身体が一瞬おののく。
「ブロンドでも、お馬鹿とは限らないのよ」そう言うと、彼女が前にまわる。
甘い花の匂いが漂う。男の胸に手のひらを置くと、静かに口にした。
「わかるの。ここに、私の欲しいものがある。この胸の奥に輝く宝石が……」
彼女は、男のいびつなまなこを見つめた。男は吃音のある喉で「う……あ……」と呻く。目の前に、みたこともない美しい天使がいる。
フェリーチェは、男のぐしゃぐしゃとした頬に指をそっとはわせると、濡れた唇で男の口を覆った。唇からため息にも似た言葉が漏れる。

「私の部屋に来て……」

震える男の手に、ぐっと力が入る。
夜は真っ黒な闇ではなく、女の瞳と同じ深い紫色を呈していた。