>>54
二話まで読みました。
面白いですね。それじゃ辛口めで。

>王都レラから遥か東の田舎町ディケティア。この廃れた炭鉱の町が私は好きだ。

情報量が飽和点を超えています。
「王都レラ」、「田舎町ディケティア」、いずれも読者にとって初めて見る単語。
それがこうして書き出しの説明文として盛り込まれると、第一印象として「どんどん単語を覚えなきゃならなくなる、難儀な作品かもしれない」と読者は感じ、引き返しやすい。
実際は単語の押し売りをする作品じゃないですけどね。王都はまだ話の焦点ではないので「レラ」は削っていいかも。
書き出しのセオリーの一つとして、読者に「どういう事?」と思わせる手があります。
「ディケティアの町を歩く炭鉱員の丸まった背を見て、私は喜ばしく思った」とかね。

>その頃はまだ煉瓦の朱色も毒々しく、私は躍起に浮かされた人々や町が好きになれなかった。私はやかましい所が嫌いだ。

「煉瓦の朱色も毒々しく」というのはよく伝わってきてブラボーなのですが、後半が説明的に流れてしまっていて、読者としては「ふうん」と少し引いてしまう。
ここは、町の人々ががなり立てる様子や、冷ややかに見る詩人の反応を活写する方がイメージは広がりますね。


吟遊詩人と元気な少女の対比の構図は、ありがちと言えばありがちですが、作者さんの手堅い筆力によっていきいきとさせられています。
なろう受けと別に、読者は付くでしょう。

公募などを目指して完成度を高めるのであれば、詩人を「らしく」することだと思います。
吟遊詩人が言うところの「私はどうしても『悲しい』という感情を理解できない」という言葉は、男性的発想です。
散文化して掌握したいという事ですね。そういう人はそういう人で良いのですが。
ただ詩人というのは、そっちではなく、「説明する必要はない」「音楽が伝える」と言ってしまう方の人種なんです。
少し考えてみてください。
それがどういう事なのか。
作者さんが答えを見つけたときに、読者を「どういう事?」とページをめくらせる魅力が同時に出てくると思います。