「そ、そうかな、ちょっと仕事で悩んでて」「もう辞める仕事の事なんか考えてどうすんの」「そ、そうだね、忘れちゃおう」私は精一杯笑った。彼は安心したように話を進める。私38歳、彼、新山透42歳、大手自動車メーカーの本社勤務課長だっった。
誰もがこの縁談を祝福した。

「ねえ、俺の自転車のキー知らない?」私はキッチンに立ち、背中で答える。「だからいつも言ってるのに、キーは玄関の籠の中に入れなさいって、佑太は免許が無いんだから、自転車の管理ぐらいしっかりしなさいよ、脱いだズボンのポケットは」
 背後でごそごそするのを感じながら洗い物を続けた。「あは、あった」予想通りの結果と反応だ。そして、佑太が後ろから抱き着いてきた。無駄に身長の高い佑太の顎が私のつむじに乗る。「千春さんは俺の事なんでもわかるんだね、大好き」
 バイトは10時からだと言ってたのにもう9時40分だ。駅まで自転車でどんなに飛ばしても5分はかかる。そこから2つ先の駅まで行き、徒歩5分。また首になるに違いない。でも彼に抱かれているのは心地いい。私は叱責を躊躇していた。
 六大学というネームバリューだけで入社してきたダメ社員。私は上司で教育係、そして今は母親だ。

「親がどうしてもって言うから会ったの、そしたら相手がすごく乗り気でね」布団の中で私の背中にぴったりと肌をくっつけている佑太の挙動に集中したが、これといった動きはなかった。「そう」それはどういう反応なのだろう。
 あなたにとってはその程度の事で、焦りも嫉妬も感じない些細な事なんだね。目尻から涙がこぼれ落ちて枕に染みこんでいった。そして「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。体の震えを必死に押さえた。あなたが平然と別れを口にしたのに
私だけ動揺するのは悔しい。「……なんで春」佑太がぎゅっと抱きしめてきた。「だって、今は凄く寒いもん」湯たんぽがわりか……。私はもう震えに抵抗するのを諦めた。そう、今はとても寒いから。

 打ち合わせの後、彼は急いで職場に戻った。好景気な自動車メーカーの役つきに土日はないらしい。私はアパートの手前まできて1人の部屋に帰るのが嫌で公園をうろついた。桜のつぼみがはじけてまばらに花を咲かせている。
「千春さん」不意に聞こえた聞き覚えのある声に反射的に振り返りそうになったがぐっと堪えた。「何か忘れ物?」私はゆっくりと振り返った。縦長い佑太だが、今日あらためて見ると、より縦長く見える。新山さんがあまり身長の高いほうでは
無い事もあるかもしれない。
「なに?」「結婚が決まったんだってね、おめでとう」頭の後ろを押さえていつものように緩い表情で笑っている。「ありがとう」すると佑太は意外な事を口にした。
「俺も就職が決まってさ、県外に行くんだ」
 寄生の宿主がいなくなって本気を出したといった所か。今更どうでもいい話だ。「そう、おめでとう」「じゃあお互い頑張ろうね」そう言って佑太は踵を返し、歩き始めた。一体何をしにきたんだろう。さっぱりわからない。
だけど私の頬を涙が伝った。
 やっぱり私期待してた。何か言ってくれるんじゃないかと期待してた。でもこれで本当に諦めよう。私は頭を垂れた。その瞬間だった。「やっぱり嫌だ!」突然の大声に私は顔を上げた。拳を握り締めて立ち止まっていた佑太がこちらを向いた。
「俺じゃ千春さんを幸せにできないと思ったけどやっぱり耐えられない、千春さんが他の男のものになるなんて絶対やだ!」あまりの事に私は言葉を失った。見たことのない真剣な眼差しと怒りにもにた震える体。
 嘘だ。佑太はそんな事は言わない。騙されちゃいけない。しかし佑太は猛然とこちらへ戻ってきて半ばタックルのように私を抱きしめた。足が宙に浮いてパンプスがぶらぶらとぶら下がった。「千回目の、別れるのは千回目の春じゃだめですか? 千春さん!」
 熱い。佑太の体が熱い。私は目を瞑って天を仰いだ。今、私の涙の色が変わった。