「うどん粉は相当旨いらしい。俺は楽しみだ」
 透明な天井の向こう側から、あなたの背中が喜々として語りかけた。
 巨大な葉の上に建てられた1Kルームの集合住宅に、ボクたちは住んでいる。
 狭苦しい身動きの取れぬ密集地。辛うじて動かせるのは首のみで、ボクはいつも天井を眺めていた。
 兄もまたボクと同じように拘束されている。この硝子のような美しき堅牢な天蓋と障壁は、確かに風よけにはなるものの、鬱陶しく感じる機会のほうが多かった。
「うどん粉かぁ」
 何をすることもなく、唯一の自由である口で兄の言葉を反芻した。うどん粉など生まれてこのかた食べたことはない。そもそもボクはまだ食事をしたことがない。
 ただ時間が過ぎるのをこの部屋で待つだけの一日。朝日が現れ、ボクたちの部屋を一通り照らしたのち、沈む。まるで悪戯をした子供のように、親の怒りが収まるのを待つ。これは罪か罰か。
 ボクたちはもしや愛されていないのではないか。孤独の裁き。逆巻く侮蔑。
 雨が降り、風が騒ぎ、雪が崩れる。一定に保たれた部屋がゆっくりと暖かくなる。
「ボクたちはいつか死ぬのでしょうか」
 背中越しのあなたに、ぼくは訪ねた。
 あなたは一切動かないまま応えた。
「あぁ。死ぬ。必ず死ぬ。病気か寿命か食われるか殺されるか。死ぬ理由はいくつもあるが、理由などどうでもよい」
 不安定なせせらぎを押し込めるように、あなたは答えた。
「死ぬのなら……なぜボクたちは生きるのでしょうか」
 声を絞る。不安が零れる。
「我々は死ぬために生きている。それが不思議か?」
「ええ。僕にとっては不思議です。あなたは違うのですか」
「いいや不思議だよ。死ぬために生きているとはなんたる不思議か。だがしかし――それは疑問に思ってはならない。追及してはならない。疑問を持てば――我々に意味がなくなってしまうからだ」
「意味がなくなる……のですか」
 それ以降彼は答えなかった。ボクはまた天井を見つめる作業へ戻った。
 数時間、数日、数か月。どれほど経ったかは分からない。
「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
 それは突然の言葉で、ボクは意味を計りかねた。らしくない、とは思ったが理解できずに目を閉じた。
 春が来た。壁は少しずつ溶けていき、堅牢だったはずの硝子たちは水に漬けたようだった。
 ボクは勢いよく壁を蹴飛ばした。
 渾身渾身渾身。壁には穴が開き、無理くり体をねじりながら外へ出る。
 外は、大きかった。
 静穏な日光を浴びた。
 花信風の匂いを飲んだ。
 静かな土煙の音が止んだ。
 ボクは振り返り、さっきまで暮らしていた狭い集合住宅を見た。まるで紫陽花を氷に閉じ込めた白き結晶体。
 あなたがいた部屋の扉は、ボクと変わらぬ大きさの穴が空いていた。
 ――あぁもうあなたは巣立ったのか。そんなことを一瞬だけ思案して、胡瓜の葉を強く踏み込んだ。
 もう二度と会うことはあるまい。ボクたちはそれでいい。死ぬために生きていると兄は言った。それが正しいのかなんて、今のボクには分からない。
 ボクは進化する。なりたい自分に成る。成長する。
 正しさなど、そのあとから追い求めればよい。さすれば正しさがついてくるかもしれない。
 今存在すべき理由を探すことなど愚の骨頂。
 ボクの人生を、ボクが邪魔してはならない。 
「別れるなら春がいいね」とボクは呟いた。この世界と離別するのに、冬ではつまらない。秋でも夏でもつまらない。
 もっとも命が溢れ流れる春こそ、最後に見る世界に相応しい。 
「今を楽しまなければ」
 高らかな宣言ののち、きゅうりの葉に繁殖したうどんこを食べだした。

 春下旬。少年がきゅうり畑へ現れた。 
「ねぇパパ! テントウムシ捕まえた!」
「珍しいね。これはキイロテントウだ。こいつはね、うどんこ菌を食べる益虫だよ。胡瓜の葉に卵を積み上げて生むのさ」

 父親は胡瓜の葉をひとつ千切ると、葉の上にのった卵の抜け殻を見せた。
 キイロテントウたちの白き集合住宅を覗き込み、少年は屈託なく笑った。