長い闘病生活で八の字眉毛は心なしかしょんぼりして、ガリガリでヨタヨタだったけど、昨日までは食欲もあったしそんな予兆はなかった。
私が起きると、あなたはハチを抱いてリビングに立っていた。
「ハチが逝ったよ」
恐る恐る近づいて触ってみると、まだ温かかった。いったい何故。
あなたがサッシから外に目をやった。隣家の桜の花びらが舞い込んで庭に落ちている。
あなたはそれが嫌だったけど隣家に文句を言った事はない。ただ黙々とほうきで片付けて、ゴミ箱に捨てていた。
昔あなたは私に話して聞かせてくれた。あなたの母親が桜が咲き乱れる中で癌を宣告され、桜が咲き乱れる火葬場で見送った事。
だからあなたは桜が嫌い。桜のある場所はいつも避けて通った。私達は花見に行った事が無い。
なのにこの家を買ったのが秋から冬の間だったから桜の存在に気付かなかった。桜が咲き始めたお隣の庭を見て呆然とするあなたの姿が忘れられない。
あなたは引っ越す事さえ考えたけど、自分の給料ではこれ以上は無理だし、君にも悪いと言って寂しく笑った。
ハチの病気が絶望的だとわかった時「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
「なぜ?」と聞くとあなたはこういった。
「悲しい季節は1つでいい、2つも3つもあったんじゃたまらない」
あなたはハチを寝床の籠の中に入れて再び姿勢を戻した。外の陽光に照らされて眼鏡の奥は見えない。悲しんでいるの?
そう思っていると、眼鏡の下から涙の筋が現れた。
「泣いているのね」するとあなたは言った。
「お前は悲しくないのか」
私は猫党じゃないものの、やはり家族として一緒に暮らし、それなりに懐いていたハチが死んだのは悲しい。
だけどそれなりに覚悟はあったし涙は出なかった。
そんな事より病気とはいえ、昨日までは普通に動けていたのに何故突然死んだのか腑に落ちない。
「悲しくないのかぁ!」
あなたは突然激高した。そしてあろう事か私の首に手をかけた。焦った私は抵抗したが体育会系のあなたに文科系の私がかなうはずもない。
「見えるかあの桜がぁ! 悲しいだろう! 悲しくないはずがなぁい!」
手から伝わってくる力であなたが本気だと思った。段々意識が遠のく。
知らなかった。隣の桜がここまであなたを蝕んでいたなんて。