その音楽家は長いブランクに陥っていた。
往年は数々のヒットを飛ばし、いくつもの賞に輝いた彼がいまは、まるで楽器の弾き方すら忘れたように、音楽の迷子となっている。
「俊さんもうすぐ本番です」
と、ラジオADが俊を呼びに来た。三年ほど前から俊をMCとしてやっている音楽番組である。
「あいよ」
いつもの調子で答えて席を立ったが、ほんの一瞬、俊は自嘲的な笑みを浮かべた。
もはやこの身にひと欠片の音も残していない自分が、どうしてえらそうに音楽を語れるのだろう。これは冒涜だ。もう終えるべきだ。俊のなかで、そんな思いが、日に日に強くなっている。
「いいのかなー!」
もうひとりのレギュラーの拓也が爆笑する。オープニングトークは大盛り上がりで、今日も番組の出だしは快調だった。
「さて、本日のメールテーマは名前ですが、俊さんはなにか名前のエピソードとかありますか」
「特にないかな、曲の歌詞にも名前は……あ、でも」
「でも! もしかして恋愛話ですか!」
「ちげーよ!」
と、俊は大声で笑う。声だけのラジオでは、伝わりやすいリアクションが大事なのだ。
「俺の名前、女みたいだからさ、そういや昔お袋としょっちゅう喧嘩したなって」
「いや、俊なんて女いないっすよ
「芸名だから」
「えーそうなんですか!」
拓也は声のトーンを一段上げる。上手い反応だ。
それからメールを数件読んで、テーマに添った曲を流してから、ゲストコーナーへと移っていった。今日のゲストは『琳人』という詩人の大家であった。
理由は聞いていないけれど、今回の出演は本人たっての希望だという。作品を読んだことはないが、同じ創作者として、俊も彼には少なからず興味があった。
琳人は六十過ぎの男であった。髪はすでに白く染まりきり、眼光強く、どこか傲慢な感じがした。しかし芸術家というのは皆、そういうところを持っている。
トークでは、しばらく詩作りの話をした。それから、機を見計らって、俊は思い切って尋ねてみた。
「ブランクのときはどう対処されますか?」
訊かれて、琳人はなぜか、その質問を待っていたような顔をした。
「ブランクは誰しもがなるものだと私は思う」
その声は、深く染み入るようなものだった。
「私にも経験はある」
急にそこで言葉を切ると、琳人は俊と拓也を見て、
「ちょっと関係ない話をしてもよいかな」
と尋ねた。ふたりは少し驚いたが、すぐに、
「構いませんよ」
と答えた。琳人が自ら語りたがる話に興味があったからだ。
「ありがとう。では話させていただくがーー」
琳人が話し出したのは過去の結婚生活のことだった。
琳人は三十年前に一度だけ結婚をして、わずか一年で離婚している。週刊誌は不倫やDVなど様々な憶測を書き立てたが、琳人は徹頭徹尾、「私の身勝手だ」としか言わなかった。
やはり彼は、いまも同じ言葉を述べていたが、微かに語調が変わった。
「私には捨てた息子がいる」
「えっ捨てた!」
と、拓也が驚きの声を上げる。琳人は悠然とうなずいた。
「言葉を飾っても事実は変わるまい。私は息子を捨てた。自分の身勝手で。離婚したのもそうだ。結婚してわかった。家族は詩作の邪魔だったのだ」
琳人は表情一つ変えずに言った。
「息子はまだ産まれてさえいなかった。あの子の母は、私は死んだと伝えたらしい。それで構わない」
そう言ってから、琳人はふと、今日はじめて表情を崩した。ひどく愉快そうに笑った。
「名前、そう、名前だよ。奇妙なものでね、息子の名付け親は私らしいんだ。私はそんな憶えがなかったから、知らされたとき、驚いて尋ねた。すると彼女は答えた」
ーー 「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
「私は笑ってしまったよ。それは離婚の話だと彼女もわかったはずだ。しかし彼女はそれを息子の名前にした。ハル、という名に」
「あ、すいません」
と、俊はいきなり謝った。それはボールペンを落としてしまったからだ。
琳人はちらりとそれを見たが、何事も無かったように話を続ける。
「私は己の汚さや愚かさを隠しはしない。私は愚かだが、芸術家としては胸を張って歩いてきたつもりだ。その立場から私は一つだけ芸術家たちに伝えたいことがある」
息をつき、琳人はまっすぐ前を見た。
「お前は素晴らしい芸術家だよ。胸を張れ」
言って、琳人は急に憮然とした顔をして、それきり黙りこんでしまった。
「ありがとうございましたー」
と、拓也が作り笑いで、慌てて場を繋いだ。俊は素知らぬ顔で台本にペンを走らせていた。机の下で音が鳴った。
後日、その番組には珍しいことに何件かのクレームが届く。
MCの鼻歌がうるさいのをどうにかしてくれ、と。