「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
溌溂として、春の陽のような表情でした。
でも、その表情の裏に、あなたが莫大な借金を抱え、苦心している事を私は知っておりました。
いつかその秘密を打ち明けてくれると信じておりました。
それがよもや、秘密が打ち明けられぬまま、春の別れを告げられようとは思いがけませんでした。
借金は厭くまでも自分だけの不幸とし、心に収められるのですね。
その心遣いには、敬愛の念を抱きながらも、どこか寂しくも思います。
あなたの元に嫁ぐ時には、もうあなたと共に生きてゆこうと決心しておりました。
あなたの不幸とは、私の不幸であると思っておりました。
ですから、あなただけの不幸と考えず、どうかその苦しい胸の内を、私にも打ち明けて下さい。
それだけが私の最後の望みであります。

別れを予告された日より幾日が過ぎ、冬の寒さも随分と和らいだ。もう間もなく春である。
出会いの春、妻にとっては別れの春である。そう思うと、妻の胸には痛切な悲しみが込み上げてきた。
結局、妻の願いは空しく、未だに夫から秘密を打ち明けられることはない。
ふと庭先を見ると、裸であった木々に若葉が芽吹き、近づきつつある春の足音が感じられた。遠ざかる冬の足音でもあった。

あなたは、お前は本当にいい妻だった、と仰いましたね。
それは何を持って仰られたのですか?
私の体がですか、心がですか、それとも所作がですか?
本当の私を顧みないあなたから「いい妻」と称賛される事ほど、空虚な言葉がありましょうか。
あなたが「いい妻」と称賛されるのは、私の体裁であって、本当の私ではございません。
結局、貴方は一度も、本当の私と真剣に向き合うとなさらなかったのですから。
短い結婚生活でありましたけれど、あたなとは一度も本当の夫婦に成れなかったような気が致します。
本当の夫婦になれず、関係を解消される事が、悔しくて堪りません。
せめて別れる前に、一度だけでも本当に夫婦のように、その苦しい胸の内を打ち明け、私と向き合ってみませんか。
私から、その秘密に触れる事も出来ますが、あなたが今日までひた隠しお気持ちを考えますと、それは憚れるのです。
怖いのです。

麗らかな春陽が差し込む朝、妻は目を覚まし、夫がいつも寝ているはずの隣のベッドを見た。そこに夫の姿はなかった。夫は家を出たのだとすぐに理解した。
夫のベッドに寄り、枕に触れると、まだほんのりとその温もりが残っていた。先ほどまで確かにこの場所で、あの人は寝ていたのだ。
夫の残り香が鼻先に触れると、一時に短い仮初の夫婦生活の記憶が蘇った。悔恨と悲愴が胸を貫いた。ーーああ、あなたはもういないのですね。
乱れ足でリビングに行くと、テーブルの上にいつ用意したのか、離婚届が置かれていた。夫の欄はすべて記入されてあった。春に向けて、夫はここまで準備していたのだ。
震える手で離婚届を取り、夫の最後の書置きをじっくり確認しようとした。
離婚届の下にもう一枚、見知らぬ書類が置かれているのに気付いた。
借用書と記され、今まで数えた事のない莫大な金額が記載されており、連帯責任者の欄には妻の名が明記され、印がしっかりと押されていた。
夫は春と共に逃げ、書面を通し妻に全て打ち明けのだった。
「ひえぇぇーー!!」 妻は発狂した。