「オン、ベイシラマンダヤ、ソワカ」
 六畳の広さの御堂に、涼やかな若き女性の声が響く。それは静かなれど、滑舌は明瞭なりて、良く通る声であった。
それは、すでに数えきれぬほどの読経をこなした者のみに許される域に達しており、林泉寺の本職にして「仏門においても義に優れ、無我無心にて、奇特な御方」と言わしめたほどである。
しかし、それでもなお読経は止むことが無い。不足なのであろう。迷いを晴らすためか、あるいは、安寧を得るためか。
 薄暗い御堂の正面にはその一人の修行者を見下ろす毘沙門天の雄々しき姿があった。
 御堂の柱に染み渡る経は軽やかな歌のようでもあり、しかし、楽しむ響きはどこにも無い。それはただ、無心に祈る少女の祈りが込められた無形の結晶であった。
「景虎様ッ! ここにおられるかぁッ!」
 突如、背後の扉をまるで蹴破ったかのような乱暴さで開け放つ者がいた。
 景虎と呼ばれた少女はため息をつき、その大男を振り返る。
「高広、仏前です。騒々しいですよ」
「これが騒がずにいられるかってんだ、謀反だッ!」
「なっ、またですか」
 景虎は愕然とした。彼女は去年も越後の謀反を鎮圧するため、初陣を飾ったばかりであった。戦に勝ってこれで落ち着くかと安堵した矢先であったのに、
こうも謀反が続けば越後守護代たる兄上の威信にも関わってくる。
御堂の外に見える鈍色の重たい雲も、それを暗示しているように思えて不吉だった。
「ああ、まただ。やっぱり、あれだ、今のお館様ではダメだ。頼りにならん」
「高広ッ! それが主君に対する物言いかッ!」
 景虎は絹のごとき長髪を逆立てる勢いで揺らし、怒鳴った。
「まあ、そうキャンキャン怒るな、主の前じゃねえ、ここだけの話だ。だいたい、弥二郎殿や朝信(とものぶ)も言ってる事だぜ?」
「弥二郎殿が……?」
 柿崎弥二郎と言えば侍大将にして奉行も勤め上げ、名実ともに越後守護代長尾家の重臣である。本来、兄上を支えるべき人間が、そのような事を言うなど、にわかに信じがたかった。
「高広、景虎様はいたのか?」
 御堂の前に隻眼の小柄な男が走ってやってきた。
「おお、朝信、ここにいたぞ」
「なら、さっさとお連れしろ。すでに敵方は城のすぐ下まで迫っているぞ」
「朝信、敵方の大将は誰です」
「和泉守秀忠」
 朝信はこちらを睨みながら、淡々と言った。
「ば、馬鹿な……!」
 景虎は雷の音と共にそれを聞いて絶句した。和泉守秀忠と言えば、老中を務める重臣中の重臣、兄の片腕である。
 そのような人物まで裏切るとは――。
「ですので、お急ぎを。一門の景虎様に総大将として指揮していただかねば、兵も動揺しておりますゆえ。高広、お前は手持ちの足軽を率いて先鋒を務めろ」
「がってん承知した! お前も急げよ、景虎! オレだけで大将の首を取っちまっても知らねえぞ!」
 走り去りながらこちらを嘲るように指さす高広は、死と隣り合わせの戦だというのに、まるで散歩を楽しむかのように言う。景虎にはその脳天気さが羨ましくも思えた。
「無礼だぞ! まったく。では、景虎様、それがしも弓兵を集めて参りますので。お先に御免」
「ああ、分かった、すぐに支度する」
 景虎は髪を後ろで結ぶと、白布の御高祖頭巾(おこそずきん)を頭に巻く。女と分かる長髪を隠すすためである。戦乱の世にあって女子と分かれば侮られる。
ゆえに、景虎は一門の世継ぎとして育てられた。
それもこれも、四歳の時に剣術ごっこで兄達を全員打ち負かしてしまったせいだが、あれは失敗したと景虎は思うのであった。
「皆の者、我に続けぇえええい!」
 騎馬隊のみの精鋭三百を率い、景虎は大雨の中、山中を矢のごとく先頭を切って駆け抜ける。馬術においても越後十六国に並ぶ者なし、
非凡な才能を見せる景虎は、後に宿敵武田信玄から「無双」の称号を贈られることになるのだが、まだ若き景虎はそれを知るよしも無い。
「ふう、兄上がご無事で良かった」
 兄上に万が一のことがあれば、自分がお館様と呼ばれかねない。栃尾(とちお)城の戦いで老中和泉守を見事に破った景虎は、ほっとした思いで御堂に戻ってきた。
「こ、これは?」
 見ると、御堂の扉が開き、中まで泥の足跡が続いている。
 景虎は慌てて中に入った。深く信仰している毘沙門天像が盗まれでもしたら……! 
だが、不思議なことにその床の足跡は像の前でぷっつりと消えており、毘沙門天も無事であった。
「これは、私を加護するために、神御自ら戦に出られたのであろうか?」
 毘沙門天様が私に付いていてくれる! 人形をした神の足下に景虎は抱きついて感涙した。  
 天文十四年、後の上杉謙信、若干十六歳の時であった。