1956年7月、徳島県麻植郡川島町(現在の吉野川市)に、畜産コンサルタントであった[2]父・善川三朗[1](本名:中川忠義)と母・君子の次男として生まれる[2]。出生名は「隆」。徳島県麻植郡川島町川島中学校、徳島県立城南高等学校を卒業。幼少期は、GLAの高橋信次や生長の家に感銘を受けて日本共産党の活動家から転向した父[5][6]に「聖書」や「無門関」について教えられる[2]。10歳の頃、将来の夢は学者と外交官だったという[2]。一浪の後1976年に東京大学文科一類に入学し[2]政治コースに進む[1]。ハンナ・アーレントの研究論文を作成した時には、教授から「マチュアー(成熟している)」という評価をもらったという[2]。
その後、司法試験と国家公務員上級試験を受験したがいずれも不合格となり、また学者の道に進むこともなかった[2]。大川は、司法試験について論文問題に学者的な視点で過去の判例を批判する答案を提出したために合格できなかったとし、大学に残らなかったのは自分が師事すべき教官がいなかったと悟ったためと自らを振り返っている[2]。1981年に法学部を卒業し、総合商社のトーメン(現豊田通商)に入社[2]。翌年1982年8月にニューヨーク本社に研修生として派遣され、その間にベルリッツ語学学校ニューヨーク校を卒業[2]、ニューヨーク市立大学大学院センターで国際金融論を学んだ[PR 4]。

大学を卒業して商社マンとして勤める一方、この時期に宗教家としての「霊的覚醒」が始まったとされる[PR 4]。卒業を控えた1981年3月23日に日興・日蓮との間で「霊道」を開き[7]、その後に空海、イエス・キリスト、天之御中主と通信した内容を集めて幸福の科学の初期の霊言集が完成したという[8]。
1985年からは「大川隆法」の名で父・善川三朗とともに出版活動を始め、1981以来4年間で収録した「霊言」を整理し、初めての著書『日蓮聖人の霊言』(善川三朗編、潮文社)を発刊。その後、『空海の霊言』『キリストの霊言』『天照大神の霊言』『ソクラテスの霊言』『坂本龍馬の霊言』等の著書を出版。1986年7月15日には5年4ヶ月間勤めたトーメンを退社して宗教家としての活動を本格的に開始する[PR 4]。それから1ヶ月後、幸福の科学の根本経典『正心法語』と、幸福の科学の宗教理論の基本書となる『太陽の法』を自動書記と称した方法で記述した。 その後9月『黄金の法』を 自動書記で記述、同年11月に『永遠の法』を口述筆記し翌年出版した。

立宗以降
1986年10月6日、幸福の科学の事務所を東京都杉並区西荻窪に開設し、主宰(当時)に就任。11月23日東京の日暮里酒販会館(現・幸福の科学初転法輪記念館)にて、87人の会員未会員らに対して初めての説法を行う(「初転法輪」)。翌年の3月8日には、東京の牛込公会堂にて約400人を集め幸福の科学第1回講演会を開催。演題は「幸福の原理」。このとき、幸福の科学の会員心得である「正しき心の探究」、その具体的展開である基本教義の「愛」「知」「反省」「発展」の「現代的四正道」(幸福の原理)を説く。「救世の三部作」と呼ばれる『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』はこの年に発刊した。1988年4月10日、東京大学英文科を卒業したばかりの木村恭子と結婚し、大川宏洋ら5人の子を儲ける。

それまで自著『太陽の法』などで示してきたが、1989年11月に『仏陀再誕』を出版し、1990年10月28日第12回大講演会(於:幕張メッセ)では自身は「仏陀の魂の再誕」であると明示し、宗教家としての地位を高めようとした[9]。1989年1月のセミナーでの大川の宣言により幸福の科学は思想・宗教の統合を目指す宗教団体に転換を図ることになり、この頃から2009年までの一時期「霊言集」と題する著書の出版は少なくなった[10]。1991年7月15日に東京ドームで行われた大川の「御生誕祭」で、大川は自身が「エル・カンターレ」であると宣言した[11]。この集会はテレビなどで取り上げられて世間に広く知られることになったが[11]、雑誌『フライデー』に自身の批判記事が掲載されることにもなった(講談社フライデー事件)。1994年4月10日に法話「方便の時代は終わった」を説き、根本経典や基本書の改訂を行う。また、「ノストラダムス戦慄の啓示」で初の製作総指揮を務めた。1995年以後、マスコミへの登場は少なくなったが[12]、2009年の幸福実現党の立党以降からはマスコミへの登場を再開した[1]。

2009年に幸福実現党を創立、党総裁に就任。マスコミに対して講演会の模様を18年ぶりに公開し、結党理由を明らかにした[13]。 その後同年8月の第45回衆議院議員総選挙への出馬を表明[14]。一時期は出馬見送りを公表したが、翌日に再度出馬を表明し[15]、 落選する結果となった[16]。2010年の年初からは「霊言」を再開し、降霊した大川に教団幹部が質問するという内容を「公開霊言」と称して短期間で書籍化し[17]、年間発刊点数52冊が年間・最多発刊書籍のギネス世界記録に認定された[PR 5]。