どれどれ。「芸術」についてか。んー、おのおの好き勝手に定義づけをしているみたいだが、それ、意味あんのか? むしろあれだな、なぜそんな定義づけをしているのか、その人間の心理を推し量るべきだろ。つーことで、ようは、

芸術だから何をやってもいい! 芸術は爆発だ! ウンコだ! そこに上手下手はない!だから点数をつけるな!

つーこったろ? そ、下手だとかいうな、バカにするな。――な? 違うか? まーしかしいつものことだけど、飼い猫ちゃりりんは思い込みと決めつけが激しくて、またそれを他人にわかるように書かずにメタファってるから、「まともな文章」にはならないんだぜ?

たとえば『殉職した猫』の冒頭、「現代とは取引の時代である」って、なんで現代に限定してんだよ? 少なくとも貨幣経済ができてからずっと取引の時代だろ? たぶん自分の中で何かあるんだろうけど、まずはそこまでの考えに至った経緯をテキストにしろって。意味不明だから。あとな、どっかで書いてたけど、芸術が産むとか法則があるとか、安易にへんなメタファー使うな。ようはそういうとこだから。日本語大丈夫?って思われてスルーされんのは。

それからコウは、文学や文芸は「言語芸術」。これは一般常識だから。で、右脳左脳な。小説で使う「説明」は左脳、「描写」は右脳、って覚えておけ。オッサン連中は左脳が得意。だからつい説明文になる。神視点になる。映像より展開重視で箴言っぽいことを書こうとする。そんで三人称の小説を書く傾向にある。オバチャン連中は右脳が働きやすい。だから小学校の高学年くらいにポエムを書いていた思い出がある。また感覚的な言葉遊びが好きでいろんな流行語を発信する。小説も主観的で情緒的。視点を意識し映像を見ている。傾向としては一人称の小説。ちなみにコウの書く三人称の語り手は一人称の書き方で書いている。つまり右脳がデフォっぽい。

青木は気難しいオッサン……の前に、論外だな。論理的な文章が書けない。というか書けていると思い込んでいるから始末に負えないんだよ。――おい、青木。おまえの理屈は理屈になってないよ。自分だけの感覚でこうだと思い込んで、それを論拠にしているだけだからな。ま、これは一陽来復も同じ。しかしこっちは『アンドロイドとソフトクリーム』のところで嫁イジメみたいなもんをやらかしてるな。完全に鬼姑じゃねえか。

「暇和梨さん! ソフトクリームとアイスクリームは別物です!」「はい、そうでした、お母様。お母様のいうことが正しいです。」

うぅ……、泣ける。見てて痛々しい。いいか? 出来立てのアイスクリームをソフトクリームっていうんだぜ。わかりやすくいうとな。炊き立てのごはんも、弁当のごはんも、同じごはんだ。わかるな?

もちろん、あの小説内にそういう説明みたいなもんがあったほうがいいし、あのままだと違和感があるのは十分理解できる。しかしだな、「ソフトクリームとアイスクリームを同じだという人はIQが低い!」とか余計なこと書いて恫喝してんじゃねーわ。まさにブーメランがてめえの脳天に突き刺さってんだろ。

よし、いいな? 純文学は文学を超える。そうげんが書いてたな。そう、純文学は文学を超えたところにあった。なぜかわかるか? はい、そこのチビ。答えろ!

――そう、そういうこと。〈世界最古の小説〉は日本の源氏物語。100万字だったっけ? とにかくすげえんだよ、日本人は。こと文芸に関しては格別に。まあもともと純文学とは和歌のことだ。そうだ、俳句や短歌で、自然を愛でる文化が四季を生み出した。わかるな? 日本人なら。外人にこれが理解でけるか! できねえだろ! 主語に縛られた糞言語を使っているようじゃあな!

純文学とは世界に類を見ない言語芸術だ。だから英訳できない。英語にするなら、MANGA同様、JUNBUNGAKUだ。世界に誇れ! 純文学! ――といっても、今じゃこれでは食えねえよな。まさに俳句や短歌のように同人たちの間で細々と生き続けていくものになるのだろう。

よし、では、欧米人の考える文学とは、だが。思想や哲学が入っているもんだろ。差別するなとか、戦争はよくないとか、ま、しょせん英語のような言語ではそれが限界だ。しかし、日本語は違う。これを操るのは、まさにアートだ。芸術的センスが必要となる。ではそれはどういうものかというと、ブレバトを見ろ。俳句の添削をやっている動画、ユーチューブにもあるだろ? 夏井先生のやつ。

俳句と小説とでは違うが、「文章表現における巧拙」があるっていうのは同じ。つまり、上手下手があるってことだ。残念だったな。そこの、下手くそなキミ。――だがしかし! 時代は「言語芸術」より「エンタメ小説」。そうだ、いい風が吹いている。チャンスは誰にでもある。てこと〜。