2ch厨房が新書等のベスト 5冊目
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後半では、マイケル・ポランニーの暗黙知理論などが持ちだされる。また人間の高度な認知能力が進化の力だけで発達したという説に対する疑念が提出される。
遺伝アルゴリズムは目的に達するまでの効率が悪く、大きな進化を説明できないという。
そして、キリンの首の進化のためには、高い位置の頭に血を送るための強い心臓や、全身の重心など、様々な要素が同時に進化しなくてはならず、
それは確率が低すぎて進化するには時間が足りないはずだ云々。ここまで来て、正直「?」という感じ。
普通はキリンの首の進化などは初心者向け入門書でも「前適応」の概念を使って説明されているはず。
「前適応」では説明できないという論拠があるのかもしれないが、納得できる説明はないし、しかもどうやら進化を目的論的に考えているフシがある。
この著者は>>552でも紹介したように進化心理学の入門書も書き、自ら遺伝アルゴリズム研究に携わり、
デネットの『ダーウィンの危険な思想』の翻訳者でもあるのだが、そんな人が進化の原理を根本的に誤解しているなどということがありうるのだろうか?
自分は本当に>>552と同じ著者かと疑ってググってしまったくらいである。>>552では進化の力を過大視しているような感じだったが、転向したのだろうか?
というか、もともと進化について根本的に誤解していたために、以前は過大視し今回は過小視しているのだと見るべきかもしれない。
最後に著者は、意味の進化に量子論的過程が加わっているという仮説を唱えているが、自分はもはや真面目に読む気を失っていたので読み飛ばした。
どう評価していいかよくわからない困惑物件。★★ 戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書)。かなり話題になった自然主義の哲学入門書であり、既に優れたレビューがネット上にもいくつかあるようだ。
ちなみに>>743>>745の2 冊は、これの前フリのつもり。これの内容を要約すると考えただけでも気が重くなり、読後しばらくは感想文は書けず放置。今やっと書けた。
『哲学入門』という直球のタイトルは一見普通だが実は挑発的。文体は>>576のようなお行儀のいいものではなく、やや攻撃的な翻訳調で、山形浩生氏がクルーグマンなどを翻訳する時の文体に近い。
著者の立場は科学的自然主義的唯物論で、デカルト的二元論はまず最初に切り捨てている。
意味・機能・情報・表象・目的・自由・道徳といった「ありそうでなさそうでやっぱりあるもの」=「存在もどき」を自然の中に書き込むというプロジェクトが自然主義の哲学である。
「ありそうで」というのは日常的な感覚としてありそうということで、「なさそうで」というのは科学的・客観的にはないんじゃね?ってことで、
「やっぱりある」というのは、やり方次第で客観的な世界に科学的に位置づけられますよってことだろうか。
そして「客観的にはないけど主観的にはある」というような二元論的答えを拒否しているわけである。
また単純な還元主義や、解釈主義・遠近法主義も退け、「存在もどき」は自然の中に涌いて出た(進化論的・発生論的)と考える。
「意味」に関しては、サールの「中国語の部屋」の議論を批判し、ミリカンの目的論的意味論を採用。これには「本来の機能」の自然化が必要で、それは進化の歴史によって説明される。
ここで著者は分析哲学が概念分析ばかりやってきたことを批判し、哲学は「概念を作る」仕事をするべきだと言う。 「情報」については、シャノンの情報理論を採用したドレツキの哲学を紹介。
確率を基にして定義された情報理論では、、情報は出来事から出来事へ流れ、解読者は必要なく、情報は自然の中にある。
この情報概念から情報内容・情報の意味論が構築され、「知識」も情報の側から定義される。
「表象」は「志向性」を持つとされ、情報もまた不完全ながら志向性もどきを持つ。情報の志向性もどきから志向的表象がどう進化したかをたどる。
ここではドレツキの情報概念をミリカンが批判して、生物にとっての志向的記号はどのように得られるかを論じる。
局地的で反復する自然記号が、「消費者」としての生物側の需要によって志向表象となるのがミソ。
次は「目的」の進化。人間の高度な「目的手段推論能力」も、原始的な「オシツオサレツ表象」から徐々に進化した。
「オシツオサレツ表象」とは事実を知らせる(記述面)と同時に行動を指示(指示面)する表象のこと。一種の「アフォーダンス」である。
ここから記述面と指示面がだんだん分離してくるための諸条件を検討し、試行錯誤・学習、さらには人間のように心の中でシミュレーションできる生物が進化してくるシナリオを描いている。
さらに目的手段推論能力が他の能力の進化の副産物か否かという論点では、著者は副産物ではないだろうと結論している。
以上で「自由」と「道徳」を自然の中に書き込む準備が整う。 自由意志に関しては、決定論と自由は両立するというデネットの説を取り上げる。
デネットは自由の概念について、行為を始動する不動の第一者がいるという「行為者因果説」(※1)を退ける。著者も行為者因果説は自由概念のインフレだと言う。
そして「自己コントロールとしての自由」という自由概念のデフレ化を提唱。この自由概念なら決定論と両立可能であり「持つに値する自由」だと言う。
(ここで量子力学の確率論的非決定論は自由を保証するものではないという論点が出される。自由のためにはむしろ決定論が必要。)
そして最後に「道徳」について。これも「責任」を介して自由意志と関連がある(自由意志がないとされるものには責任は課せない)。
これもまずデネットの見解を紹介。デネットは、言語を介した反省的思考により、責任主体としての「自己」を自分で構築する自由が得られる、とする。
この「自己」とは実体ではなく「知覚・理由・行為を統合する組織化のされ方」であり、身体の外まで拡張された自己(「延長された表現型」byドーキンス)として進化してきたものであり、
言語によって構築された「物語的自己」である。そして自由があるから責任があるのではなく、責任があるから自由があるとする。
もうこのあたりは、進化論を除外すればカントなどとあまり変わらないし、物語云々などは著者も指摘するようにポストモダン系に近い。
著者はこのデネットの説に対しては不満を表明し、自由意志を完全に捨ててしまう、ダーク・ベレブームの哲学も紹介する。
こちらは、犯罪者の責任というものも存在しない(※2)ので、罪人は伝染病患者のごとく隔離されるだけである。
これはこれで、非常にすっきりするし、意外に大きな問題は起きないのではないかと著者は言う。
最後に、自由意志の存在が疑われる決定論的世界における「人生の意味」について、哲学者トマス・ネーゲルの思想に共感しつつ、著者の見解を述べて終わる。 やはり要約は無謀だったか。自分で読み返しても何がなんだかわからん…
自分はミリカンは知らなかったが、デネットの『自由は進化する』『解明される意識』とか著者の『知識の哲学』などは読んでいるので、後半の議論はある程度馴染みがあった。
自分の関心は「自然主義」の妥当性自体の方にあるが、ド素人なりにいろんな疑問が湧いてくる。
まず素朴な疑問として、デカルトのコギトとかカントなどの超越論とか永井均の独在性などを本当に抹消できるのかという点。
「主観」なんて錯覚かもしれないが、これを残しておくメリットが何かあるからこそ、この錯覚が温存されているのだとすると、これを無理に抹消すると何か不都合が起こるのではないか。
あるいは、主観の中身を科学の力で客観の側に全部移したとしても、空っぽの主観は残るのではないかとか、残しておいたらなんでいけないの?…など。
もうひとつは科学にとって本当に二元論より自然主義の方が有用なのだろうかという疑問。主観と客観を分けて相互不可侵にすると、
主観の錯覚は温存されるが、客観の側が錯覚に汚染されることはないのだから、二元論の方が科学にとっては有用かもしれない。
自然主義はむしろ自然の中に亡霊を解き放つことになるのではなかろうか。
細かい論点では「本来の機能」などについてはやはり引っかかるが、他には、「情報」を自然の中に書き込むことに成功したとしても、では情報の基礎になる「確率」はどうなのかという疑問が出てくる。
著者は、量子力学から、確率は「無知の尺度」ではなく自然の中にあるものと認められるようになったと考えているようだ。
しかしもし量子力学の多世界解釈が有力だとすると、まだ「無知の尺度」という解釈も生きているのではないか。
とすると、確率の前に「知識」が来ることになり、確率→情報→知識というシナリオは崩れる。
こんな素人の思いつき程度の事は専門家がとっくに議論し尽くしているのだろうが、俗世を忘れてこんな思弁にふけるのが一番楽しい気がするということで5つ星進呈★★★★★ ※1「行為者因果説」を奉じる人は「リバタリアン」と言うそうだが、政治思想のリバタリアンと紛らわしいですね…
政治思想的リバタリアンより、サルトル的な実存主義に近いなぁと思ったら、著者自身があとがきでそのように書いていた。
あとこれをインフレと言うのは違和感がある。原理主義的と言うならわかるが。「自由意志」の概念分析を徹底して追求していけば、そうした不可能な一点に至るのは必然だし、
それが不可能な概念だからこそ自由は幻想だ、とする方がしっくりくる(本書ではそうした説も紹介されている)。自由の概念をデフレ化するのは自分にはごまかしに見えてしまう。
また、SF作家グレッグ・イーガンの短編「決断者」(ハヤカワ文庫『ひとりっ子』所収)はまさにこの件をネタにしていた。
イーガンはデネットなどの影響を受けつつも、デカルト的な直観を捨て切ってはいないのが面白いところ。
※2 このあたりを読んでいると、自分は18世紀のド変態文学者サド侯爵を連想する。サドはスピノザの自然主義的哲学を文字通り悪用して悪の哲学を作った。
サドの小説の登場人物は「悪は自然の本質だから自分はそれに従うだけだもんね」とか嘯いて悪逆非道の限りを尽くす。
ところが時に、悪人は「悪をなすべし」というカント的当為にコミットすることがある。すると自由意志が生じて、自然主義から逸脱する。
サドの悪の哲学は、このスピノザ的自然主義とカント的定言命法の世界の間を揺れ動く。 四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)。2006年に出た本。
この著者は昔から「かわいい文化」に対して批判的だった事を、自分はなんとなく知っていて、
近頃のオタク文化に対する見解は如何にと思って読み始めたもの。
第1章を読むと、一応、中立的に書き始められてはいるものの、やはり批判的スタンスは変わっていないのがわかる。
まず、海外に日本のオタク文化・かわいい文化が輸出され、人気を博していることを指摘。
「セーラームーン」「サンリオ」「ポケモン」など。2006年の本だから、少し情報は古いし、
もともと著者はリアルタイムでオタク文化を追いかけている人ではないから、一般的なおっさんの印象に留まる。 2章では、日本文化における「かわいい」の淵源と語源をたどっている。「かはゆし」の起源は今昔物語である。
さらに遡ると、枕草子の「うつくし」に至る。
橋本治という人も、つとに、枕草子の「うつくし」の感覚は女子高生の「かわいい」と同じだと指摘しているのだが、
著者は橋本には言及していない。もっとも、枕草子を読めば、多くの人は現代の「かわいい」の感覚と同じだと感じるだろう。
また、「かはゆい」にはもともと、「痛ましい」「気の毒」という意味があったのだが、
中世末期になると、そうした否定的な意味が脱落していったという。
ここでちょっと引っかかるのは「かわいそう」という現在でもある言葉との関係なのだが、それについての言及はない。
「かわいそう」は漢字では「可哀想」と書くし、「かわいい」とは全く別の系譜なのだろうか?
「痛ましい」という意味の「かわいい」が「かわいそう」に受け継がれたとも考えられると思うのだが、
これを明確に反証するような記述もされていない。
調べればわかるかもしれないが、めんどくさい。
3章では、大学生に「かわいい」に関するアンケートをとって、現代人の「かわいい」感覚について考察。 4章では「きもかわ」という感覚に焦点を当て、「かわいい」は「グロテスク」と隣合わせであることに本質があると論じる。
典型例としては「ET」。同情や保護欲を喚起する弱さとは、グロいものでもあり、かわいいものでもあるということ。
5章では、李御寧『「縮み志向」の日本人』や、スーザン・スチュワート『憧憬論』などを参照しつつ、
ミニアチュール、プリクラなど、小さい可愛らしいものに価値を見出す日本文化の特質を論じる。
6章では、子供時代への郷愁、ノスタルジアに焦点を当てる。これは過去を美化するゆえに歴史と敵対する。また成熟を拒絶する。
ここではヘンリー・ダーガーが参照される。
7章では「Cawaii!」「CUTiE」「JJ」「ゆうゆう」といった女性誌を比較分析。消費社会が「かわいい」神話をいかに醸成し利用しているかを論じる。
8章では、「萌え」の聖地、アキバを探索。男女のジェンダーによる萌え感覚の違いや、ゲイの感覚との比較も試みている。
例えば、腐女子の感覚と、リアルなゲイの感覚は「全く異なる」と断じている。
だが、この辺は、違うといえば確かに違う(実際、腐女子を敵視しているゲイも多いだろう)が、全く断絶してるかといえばそうでもないのではないか。
このあたり、外から、オタク文化やゲイ文化にちょっと触れただけで安易に断定している感がある。
9章では、日本の「かわいい」文化の海外進出と、グローバリズムについて述べる。
エピローグでは、「かわいい」と紙一重のところにある、禍々しさやグロテスクについて指摘し、特に結論もなく終わる。 自分としては、結論のなさや掘り下げ不足については、別に不満はない。この程度で充分じゃないかと思う。
「かわいさ」の文化における、「歴史の隠蔽」「成熟拒否」「弱者支配の政治性」といった事に対する警戒感も、
御説ごもっともという感じで、別に言うことはない。
9章で、著者は、「かわいい」の美学は、日本に特殊なものか、人類普遍なものか、と問うているが、
これは、「自然主義」的に考えて、生物学的な普遍性があるのは当然と思われる。
「かわいさ」とは、第一義的には保護欲をそそることであり、おとなの保護欲をそそるというのは、無力な子供にとって重要な生存戦略だろう。
親の側から言えば、自分の遺伝子を持つ実子か親族の子供以外を「かわいい」と感じる利己的遺伝子的メリットはないわけだが、
おおむね一般的に子供が「かわいい」ということは、子供の生存戦略が成功しているということだろう。
哺乳類の子供がおおむね「かわいい」のも生物学的必然だと思う。
もうひとつは、女性が男性の保護を求めるための「かわいさ」もあるだろう。男性も女性を保護することが繁殖戦略に適うのだろう。
この2つの「かわいさ」が混同されてしまうと、ロリとかショタになるのかもしれない。
実際は、文化のレベルの話を、生物学的レベルにこじつけるのは危険なので、一応分けて考えた方がいいわけだが※
、一応生物学的レベルも視野に入れておいて欲しい気もする。★★★
※「文化的遺伝子(ミーム)」とかを想定して論じることもできるのだろうが、これも実証が難しいわけで、
いずれにせよ「お話」の域は出ないだろう。とするなら、やはり文化は文化で分けて論じた方が無難だと思う。 廃墟スレがなかなか落ちずにずっと残ってるってのも辛いもんがあるな… 愛着あるスレゆえ、荒らされる前に安楽死してほしいスレ なんか、レビュー主体になって、スレの方向がわけわかんなくなったよな。
簡単な紹介とか、質問とかで、まったり進んでたのに。 アウトロー関連の新書を三冊読んだ
夏原武『反社会的勢力』(洋泉社新書y)
著者は、暴力団・裏世界・犯罪・詐欺・知能犯罪に関する著書が多い
ジャーナリストであり、漫画「クロサギ」の原作でも有名。
この著書では、2011年「暴力団排除条例」が東京都と沖縄県でも施行され、
すべての自治体で実施されるようになったことを受けて、それに伴う問題点や、
「反社会勢力」と一般市民の関係がどう変わっていくかを論じている。
第一章では、反社会的勢力とは何かを説明しており、
暴力団・共生者(フロント企業(企業舎弟)・総会屋・企業ゴロ・
社会運動標榜ゴロ・特殊知能暴力団)、グレーゾーン(関東連合など)について紹介。 第二章では、暴排条例によって、
社会と暴力団の切り離しが図られるようになったことについて検討されている。
これによって、暴力団と持ちつ持たれつでやってきた一般社会の側も
態度の変更が迫られている。
寺社への参拝や、幼馴染などの個人的な付き合い、
小売店の暴力団への掛け売りなども条例に引っ掛かってくる。
テキ屋も規制・解体され、祭りの衰退に繫がっていることを著者は批判している。
また現場の警官にも「やりにくくなった」という声がある。
著者はおおむね「切れすぎる刀」としての暴排条例には批判的である。
第三章では種々の「ブローキング」を紹介。
ブローキングの対象として「戸籍」「偽造カード」「産廃」「中古船舶」
「不法入国」「宗教法人」などがある。
産廃の実態や、宗教法人そのものが売買される話は参考になる。
第四章では、大相撲八百長や紳助引退の事件と、暴排条例との関係や、
その背後の警察や裏社会の動きについての裏話を暴露している。
自分のような世間知らずには、実に勉強になる。
裏の社会がどのように動いているのかわかって面白い。★★★ 溝口敦『暴力団』(新潮新書)2011年発行。
このジャンルでは大御所の有名ジャーナリストによる、
暴力団に関する基礎知識を解説した入門書。
第一章では、まず、暴力団対策法による暴力団の定義から解説。
指定暴力団22団体を列挙。
そして、山口組を例にとって、組織の構成、役職などを説明している。
準構成員・暴走族・愚連隊・共生者・企業舎弟などについても簡単に説明。
第二章ではシノギの手口について解説。覚醒剤・恐喝。賭博・解体屋・産廃など。
第三章では、ヤクザの人間関係や人間性について論じている。
第四章は、海外マフィアについて。イタリアやアメリカのマフィア、
香港の三合会、台湾や中国の流氓、コロンビアのカルテルなど。
三合会幹部のインタビューが採録されている。
また台湾の流氓の凶暴な生態が紹介されている。
第五章では、暴力団と警察との関係について。
暴対法や暴力団排除条例によって、暴力団が追い詰められている現状など。
また芸能人との関係についても述べられており、島田紳助の事件にも触れている。 第六章では、関東連合などの半グレ集団について解説。
暴力団の動きが規制されていく反面、こうした半グレ集団が勢力を伸ばしてきた。
第七章では、一般人が暴力団に出会ったらどうしたらよいか、というノウハウを伝授。
最後に、暴力団はジリ貧になりつつあることを重ねて指摘している。
著者は意外なほど暴力団に対して厳しい眼で見ているが、
ヤクザに脅され刺されたこともあるのでそれも当然か。
暴力団を潰したらマフィア化してかえってやっかいなのではないか、
という意見に対しては、マフィア化しても急に凶暴化することはないし、
そうした意見で暴力団を擁護するのはよくないということで、
「退場してもらってよいのではないでしょうか」と書いている。
裏社会の話題にうとい善良な市民向けの初歩的入門書だが、
ところどころに深く切り込んだ話題も折り込まれている。★★★
続編も出ているが自分は未読。 鈴木智彦『潜入ルポ・ヤクザの修羅場』(文春新書)
著者はヤクザ専門のジャーナリスト。
ヤクザ専門雑誌『実話時代』の編集部に入社し
『実話時代BULL』編集長を務めた後フリー。
著者の体験に基づき、暴力団と暴力団ジャーナリズムの歴史と現状を語る。
序章では、警察が山口組に矛先を定め、強硬姿勢を示している現状を見る。
第一章では、著者が歌舞伎町の「ヤクザマンション」に居を定めていた頃の、
様々なエピソードが語られる。マンションのバルコニーからヤクザが転落して、
鉄柵の鉄棒に串刺しになっている現場を目撃した話など。
第二章では、暴力団専門ライターとしての著者の経歴と、
暴力団ジャーナリズムの歴史を語る。 第三章では、加納貢という愚連隊の帝王と言われた男の伝説と真の姿、
その惨めな晩年についての物語。
著者は、この加納をネタに記事を書くために、最期まで面倒を見ていた。
加納は金持ちのボンボンであり、自由の理想を追い求め、財産を食いつぶし、
ヤクザと違って舎弟を食わせる甲斐性もなく、
結局は、社会不適合の生活無能力者として死んでいった。
第四章は、著者が、大阪西成に居を移してからのエピソード。
博奕の話や、飛田新地の実情などが詳細に語られている。
終章では、ヤクザそのものが斜陽産業であり、食えない稼業となってきており、
ヤクザ専門ジャーナリストという職業も行き詰まっている現状が語られる。
最後に「もうヤクザの時代じゃない…」と言って拳銃自殺したヤクザの末路が語られて終わる。 ヤクザや愚連隊の元トップなどと親密な関係を築き上げながら、
地を這うような泥臭い取材を続けてきた著者の体験が、
ほろ苦い調子で語られている。
様々なエピソードが、あまり整理されずに詰め込まれており、
時系列などもちょっとわかりにくいが、
裏社会のカオスな実情が体感できるように書かれていて、
読み物としては、以上三冊の中で一番面白い。★★★★ 佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』(集英社新書)
現代宇宙論における、マルチバースや人間原理、著者のインフレーション宇宙理論などを平易に解説。
第一章は、宇宙探索の歴史と現状、地球外生命の可能性、ビッグバンや宇宙背景放射など、宇宙論の初歩的解説。
第二章では、暗黒物質や暗黒エネルギーといった、宇宙の最新の謎や、インフレーション理論、
真空の相転移といった概念を説明し、人間原理について触れる。
第三章は「人間に都合よくデザインされた宇宙」として、英の天文学者マーティン・リースが提唱した、
「宇宙を支配する6つの定数」について説明する。それは、N(クーロン力と重力の比)、ε(核融合率)、
Ω(臨界密度と現実の宇宙の物質密度の比)、λ(真空のエネルギー)、
Q(重力結合エネルギーと星や銀河の静止質量エネルギーの比)、D(次元)の6つである。
これらの数字がわずかでも違うと、生命ないし人間はこの世に生じて来られず、
あたかも人間のためにこれらの数が「ファインチューニング」されているかのようだという話。
ただし、複数の条件を同時に変えるとチューニングの幅は広がる。 第四章では、インフレーション理論について、少し詳しく説明しながら、
素粒子物理学と宇宙論の接点について解説。
第五章では、人間原理とマルチバースの理論について説明。
スティーヴン・ワインバーグは、マルチバースを前提に人間原理を主張した。
次に、インフレーション理論からも、マルチバースが生じることを説明。
次に、超弦理論・ブレーン宇宙の理論では、「カラビ=ヤオ空間」に多数の膜宇宙がくっついているとする。
次は量子力学における多世界解釈によるパラレルワールド。
また、マックス・テグマークは、事象の地平線の彼方に別の宇宙があると考える。
第六章では、地球外生命の探索などについて触れながら、人間原理についての著者の考えを述べる。
学者の中でも人間原理に対する態度はいろいろあり、
例えばホーキングは人間原理を重視する考えを述べており、デビッド・グロスは強く批判している。
著者は基本的に後者に共感しており、人間原理の濫用をいさめている。
最新宇宙論の話題について、わずか200ページで、初心者向けに平易に書かれている。
さすがに、このページ数で素人に多くを理解させるというのは困難で、
やや説明不足気味のところもあるが、それでも思ったより情報量が多い。★★★★ 青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(講談社現代新書)副題は「人間原理と宇宙論」
著者は女性の理論物理学者で、サイモン・シンの一連の科学啓蒙書などを多く翻訳紹介している人でもある。
本書は、宇宙論における「人間原理」の考え方を、科学史・科学思想史を紐解きながら科学的に位置づけている。
「まえがき」によると、著者が初めて人間原理の考え方に接した時、
「無内容で非生産的な、宗教的な願望にまみれたトートロジー」だとして、拒否反応を示したとのこと。
「人間が現に存在しているこの宇宙が、人間が存在できるような宇宙だからといって、だからどうだというのだろう?」
と思ったという。しかし、英の天文学者マーティン・リース『わたしたちの宇宙環境』を翻訳していく過程で、
「人間原理、要検討派」に鞍替えしたという。しかし、信仰に目覚めたり、人間中心主義者になったわけではない。 第1章では、古代の天文学・占星術・哲学における、宇宙観の変遷をたどっていく。
古代ギリシアの数学者エウドクソスからアポロニオスを経て、プトレマイオスに至る、
精緻を極めた天動説が完成していく過程を、わりと詳しく追っている。
また、地動説によって「人間中心主義を転換させた」と一般に誤解されている、
コペルニクスの思想を、正確に捉え直している。
コペルニクスは、別に太陽を宇宙の中心に置くことを狙ったわけではなく、
「等速円運動の原理」の回復を目指した結果として
「偉大な球(地球を運ぶ天球)」の中心を、宇宙の中心としたのだ。
コペルニクス自身は人間中心的な考え方を崩しておらず、
そもそも当時は宇宙の中心が良い場所とは考えられてなかった。
コペルニクスが人間中心主義を否定したという誤解の基づく「コペルニクスの原理」は、後の啓蒙主義者が広めた。 第2章では、まず、古代地中海世界に生まれた、「原子論者の“無限宇宙”」「プラトン・アリストテレスの“有限宇宙”」
「ストア派の“有限宇宙+無限空間”」という3つの宇宙観を解説。
次にニュートンの自らの重力理論に基づく宇宙観を解説。
さらにアインシュタインの、有限だが果てのない閉じた宇宙、ビッグバン・モデルの登場と定常宇宙論との相克、と続いていく。
ビッグバン・モデルは、宗教的な天地創造論を思わせるとして、当初は科学者の反発も強かった。
ハッブルによって宇宙の膨張が観測された後も、ビッグバン・モデルには観測データと合わない不都合があり、
なかなか受け入れられなかった。 第3章では、「あれこれの物理定数は、なぜ今のような値になっているのだろうか」という問いを発し、
まず、さまざまな数字の「コインシデンス(偶然の一致)」を検討する。
ハーマン・ポンディは、電子の電荷(e)・電子の質量(m)・陽子の質量(mp)・重力定数(γ)・
光の速度(c)・宇宙の物質の平均密度(ρ0)・ハッブル定数の逆数(T)の7つの定数から、
4つの無次元量を作り、そこに現れる10の40乗という数字の一致に注目した。
ディラックやガモフもこの問題を考察した。
こうした中で、1974年にブランドン・カーターという物理学者が
「大きな数のコインシデンスと宇宙論における人間原理」という論文を発表した。
この頃にはビッグバン・モデルが最有力となっていた(65年に背景放射が観測されたため)。
カーターの人間原理は、「目的論」的に解釈される限り科学的には受け入れられないものだが、
「弱い人間原理」については「観測選択効果」として考えられる。
ここでの「観測選択効果」とは、観測者がいる時間と場所によって観測結果が異なる、といういわば当たり前の原理である。
変化していく宇宙の歴史の中で、人間が観測できるのは、人間が生存できる時期の宇宙だけである。
人間が観測できる宇宙が、人間の生存に都合よくできているのは当たり前なのである。
しかしまだ「強い人間原理」の謎が残っている。 第4章では「多宇宙(マルチバース)」の宇宙論によって、
「強い人間原理」も「観測選択効果」の一種と考えられることが指摘される。
この宇宙が人間の生存につごうよく「ファインチューニング」されているように見えるのは、
無数の宇宙の中で人間が存在できる宇宙に人間が存在しているというだけのことである。
この章では、エヴェレットの多世界解釈に少し触れ、
また、アラン・グースと佐藤勝彦のインフレーション・モデルをやや詳しく説明している。
第5章では、まず素粒子物理学の歴史を簡単にたどる。
次に真空のエネルギーに関して。アインシュタインの宇宙項(λ)の話題や、
スティーヴン・ワインバーグの人間原理を使った真空エネルギーの値の予測などについて説明。
最後に、ひも理論から導き出される多宇宙論があり、それによると宇宙の青写真は10の500乗通りもある。
そして現代の宇宙論では、多宇宙ヴィジョンはデフォであるとのこと。 終章では「グレーの階調の中の科学」と題して、多宇宙ヴィジョンや人間原理に対する著者の考えが述べられた後、
「宗教的真理と異なり、科学的知識は永遠に白黒確定することはないのかもしれない。
むしろ永遠にグレーの階調にあるからこそ、科学的知識は強まり、広がるのではないだろうか」
と著者の科学観がまとめられている。
科学史上の風説・俗説・誤解を正しながら、科学思想の変遷を丁寧に追っていき、
人間原理について科学的に納得できる解釈を提出している。
久々に突っ込みどころの見つからない完璧な科学啓蒙書を読ませていただいた。文句なしの星5つ★★★★★ 岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)2013年発行
著者は臨床教育学者で、刑務所受刑者に対する更生支援を行っている。
論旨はタイトルに尽きるが、若干誤解を招きそうである。
実際には、反省を否定しているわけではなく、むしろ囚人が主体的に真の反省に至ることを目標にしている。
正確には「反省を強制すると」と書くべきだろうし、その方が常識的にも理解しやすいはずだが、
インパクトを重視して、逆説性を強調したのだろう。
要するに、不満や抑圧を抱えたままの犯罪者に対して反省を強要すると、
犯罪者は自己の内面に向き合うことのないまま、表面的な反省のポーズだけが上達していくとのことである。
著者の更生支援の方法としては、囚人に社会や親に対する不満などの本音を吐き出させ、
心を開かせ、他人を受け入れる心理に導いていく。
そして自分の心の痛みに気付いて初めて他人の痛みにも気付くことができるとのこと。
例として酒井法子の謝罪会見を参照し、反省することの問題点を指摘している。
いじめ問題では、尾木ママを批判し、いきなり被害者の立場を思いやることを強制するのではなく、
加害者の視点から始めて、まずは、いじめる側の本音を語らせることを推奨している。
最後に、我慢することや、他人に迷惑をかけないこと、男らしく生きること、などを中心とした教育を批判。
他人に頼ったり甘えたりすることが苦手な者が犯罪者になりやすいとしている。 著者の理論としては、親による抑圧とか幼児期のトラウマを強調しており、
やや古くさい精神分析風のモデルに依拠しているようだ。
「反省させてはならない」というのは一見逆説的だが、よく考えれば納得できる話である。
犯罪者は社会に対して漠然とした恨みつらみや憎悪を抱いているわけで、
そうした不満を心の底に押し込めたまま形ばかりの反省をしても、
真の反省にはならないであろうことは容易に想像できる。そういう意味では著者の指摘と実践は重要である。
ただ、親による抑圧を重視しすぎる著者の理論は疑問であり明らかに間違いだと思う。
なんでもかんでも親の抑圧に還元するのは、過去の捏造という精神分析にありがちな暴力になりかねない。
理論としては「心のバランスシート」モデルで理解した方が妥当だろう。
つまり、犯罪者は、親を含めた社会から様々なものを奪われたり被害を被ってきたと深層意識で感じており、
社会に対して巨額の「貸し」があると感じている。
支援者がそうした犯罪者の不満を聞いてやり受け入れてやれば、犯罪者は「貸し」が解消されたと感じる。
そうすると始めて自分の被害者に対する「借り」が真に実感できるようになる、ということではないか。 また、イジメに関して「まず加害者の視点から」というのは考え方としては正しいと思うのだが、
これをホームルーム等で話し合うのは明らかにまずい。
いじめっ子の本音を自由に発言させたら、それ自体がいじめられっ子に対する集団リンチになりかねない。
やるなら個別面接か、いじめっ子だけを集めて話しを聞くべきだろう。
だいたい実際にイジメの真っ最中だったら、まず被害者の保護が最優先であり、
「加害者の視点から話し合って」などという悠長なことは言ってられないはずである。
正直、著者の教育観や人間観には、視野狭窄な思い込みが多く、一見柔軟なようでいて硬直している部分もあり、
支持できないところも多いのだが、非常に重要な洞察※を含んでいるということで、
あえて高く評価しておきたい。星4つ★★★★
※ 重要な洞察というのは「素朴な道徳感情に基づく行いや制度が非常にまずい結果を生むことがある」ということである。
「悪いことをしたのだから反省しろ」というのは、一般人のごく自然な道徳感情であり、これを否定するのは非常に難しい。
著者の主張や実践も、厳しい道徳観を持っている人々には理解されにくいだろう。
そういう人が犯罪者の「本音」を聞けば、即座に「自己中」「エゴイスト」「甘え」と言いたくなるはずであり、
著者のメソッドが広く受け入れられることはないだろう。
自然で素朴な道徳感情が災厄をもたらしている例は、経済問題でもよく見られる。
最近ではユーロ圏のギリシャ問題などは典型だろう。 ブログでやるといいと思う
そんだけ毎回丁寧な論評書いてればアフィ貼っても踏んでくれるぞ 確かにブログでやってほしい。上から目線で恐縮だが、ここまで詳しく書いてくれてたらこのスレじゃなくても読みたいと思う人はいると思われ。 リクエストしてええか?
「新しい労働社会」(岩波新書)やってほしい 深川図書館特殊部落
同和加配
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用 江東区立深川図書館特殊
銅和加配
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る 見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る 見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る 見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談 見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた 一般書籍よりもおすすめてきにネットで得する情報とか
グーグル検索⇒『稲本のメツイオウレフフレゼ
BDUAE 江東区立深川図書館特殊
銅和加配
在特
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
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