「ノルウェイの森」について語ろう
いよいよ明日から映画が公開される「ノルウェイの森」。
出版から20年以上経った今再ブームキテマス。 最初の場面で、井戸がどーじゃこーじゃ言ってた女性って名前何だっけ? ふうむ。
火事は緑の『生』のエネルギーを減らそうとする働き? 「ナプキン燃やす焼却炉がある」って言った女誰だっけ? 無意識的に直子は緑を殺そうとしたんだろうな
火事の場面で
いや、レイコは死神なのではないかという考えもある。 能天気で自己中な女としか思えないなんて……
蛍の光は何色よ >>476
確かに、実際にあんなわがままを言われたらイラッとするかもしれない。
でもそれを言い放つ背景(父親の介護や一枚のブラジャーなどそれなりに苦労してきたことや、
あの天真爛漫なキャラ)を考えれば「まぁしょうがないか」と思えるかもしれない。
直子はキヅキの死の前から多少の心の病を抱えていたように思う。
大好きなのに「濡れない」という時点でおかしい。
それなのに、好きでもない相手(ワタナベ)だと「すごく濡れてしまう」こともおかしい。
心と身体の不一致に直子は悩む。そりゃそうだ。
まだワタナベが相手でも濡れなければ直子はあそこまで落ちなかった。
ワタナベは言ったね。直子の絶頂の声は実に悲しげであった、と。
直子はイキたくなんかなかったんだよ。 >>478
確かに、それが普通だと思う。
普通の人ならそう行動する。逃げる。
だけど緑はちょっと違うしね。
いやちょっとじゃない、大きく違う。それは彼女の言動を見れば解る。
仏壇の前で全裸になり、姉にドン引きされる。
しかも姉にも同じことを求める。
思考回路が常人と違う。
それと火事のとき緑は別に死んでもいいと思ってたんじゃないかな。
すでにワタナベのことが大好きだったし、もし火事が迫ってきて、
死の予感があったとしても、彼が一緒なら別にいいか的な。
人生に疲れたときはそんなことも考えると思うよ。 人生に疲れてもそんなこと考えません。死んでもいいやなんてな。ましてや仏壇の前で裸になるとかな、こういうバチあたりなことは。アホや。アホとしか考えられん。文学の世界の中で考えるのはありですが。緑と直子どっちが好きとか、ないね。 人は生きる上でいろんな人生に疲れるほどの困難に遭う。
でも他人のそういう話を聞くと、そんなの困難じゃないだろと思う時もあるし、
逆に自分の受難を人に話すと別に大したことじゃないよって言われることもある。
人によって困難や辛さの捉え方は違うのだ。
自分の考え方で、抱える辛さは軽くも重くもなることもある。
でも思うんだ。その人が辛いと言うならそれは辛いんだなと思ってあげるべきなんだと。
誰が何と言おうと当事者にとっては今それが辛いことなんだよ。
直子の抱える問題も、弱者だからそんなことになるんだと言う人は少なくなかった。
いちいち考え過ぎるからそうなるんだと、と。
俺も以前は直子の苦しみなど今ひとつ理解できなかった。
今は少なくとも理解しようとは思っている。
想像力を働かせようと思っている。 未だにノルウェイの森の夢を見て鬱になることがある
ここまで読者に刷り込ませる技術はすごい >>492
いや、直子を理解しようとかじゃなく、架空の人物だから理解するも何も、無、なんですよ(笑)
目の前の現実社会の他人、もしくは自分自身を理解しようとするならともかく。直子なんて現実にいないので。また似たような境遇の人がいたとして、それは直子と同じではないはず。無意味。幼稚。 な、直子みたいに濡れない人間もおれば、親が死んだ日も、俺みたいにAOAのセクシーダンスで三回マスターベーション出来る人間もいる。カミュの『異邦人』みたいに親の葬式の翌日に恋人と海水浴に行く人間もいる。それぞれに意味があり、それぞれに死の受け入れ方がある。 異邦人なら、フランス語の『mere(母)』『mer(海)』はどちらもメールと読むし、主人公のムルソーはMeurtseau(死+バケツ)の名前。ムルソーはムルソーなりの母の死の受け止め方があったわけ。でも直子は意味不。理解できません。幼稚や。手紙かけないのは。アホや。 >>493
俺は全く、そんな夢みないから刷り込まれてないけど?村上春樹に刷り込まれてなんか。かっこつけるな。ノルウェーの森の夢なんか見てないやろ。鬱になる?ノルウェーの森は架空の話。キズキも直子もハツミも、最初から存在しないのだから。心配するな。 架空話のノルウェーの森の夢で鬱になるより、明日のおかずは何にするか迷う夢を見る人の方がはるかに文学的で哲学的です。ノルウェーの森の主人公よりバカボンのパパが世界についてわかっている。かっこつけるな。大宰の親友交歓でいう『威張るな』。 何というか…アホやな。小説に感情移入して、自分も鬱になるとか。フランス文学の視点からなら、アホ扱い、下手したら偏屈な教授は怒鳴りますよ。 この小説が累計1000万部売れたのはなぜだろうか。
春樹だからというのは除いて。 読んでる時はそうでもないのに読み終わった後何ヶ月も心に残る
そんな不思議な作品だった そして、しかるべき時が経つとまた読みたくなってくる。
映画版を観たあとも。 何人かの人が死んでいったが直子の死ほど唐突で悲しいものはない。
本格的に治療に専念し、よい兆候は見られた矢先の死。
この際だから全部治してしまいたいの。
彼にはキレイな形で会いたいの。
と直子は前向きだったし、レイコさんも喜んでた。
「直子が死んでしまったあとでも〜」と作者は綴る…
え!?
それを知った主人公の苦悩。
俺涙。
そして時々無性に読み返したくなる。
だから1000万部なんだろう。 世界の終わりの、図書館の女の子は心を無くした直子だと誰かが言ってた。
似てるね確かに。
世界の終わりでは、「直子」と共に森へ行った。
すなわちここでは「一緒になれた」わけだ。 この作品はマスターベーションがスパイスになっている この作品を批判する人は
おそらく本当の恋愛を経験したことがないのだろう 『本当の恋愛』とは何なのでしょうか。定義は?全員ですか?そうやって上から見て、アホにしか見えないですけど。本当の〜、何やねん。言う話 >>507
僕→直子→築木
なのだから恋愛になっていないと思う 『三省堂国語辞典』第7版の「恋愛」は「(おたがいに)恋(コイ)をして、愛を感じるようになること」と記す。
『広辞苑』第6版では「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい」と簡潔に記し、
間違えた日本語を使うことは感心しませんね
ストーカーを「恋愛」とは言いませんよね? 直子は少しくらいは「僕」が好きだったのでは。
身体を許すくらいだし…
処女だったのに。 てもワタナベは言う。
「直子は僕のことを愛してさえいなかったのだ」と。 >>510
恋愛は常に片思いだと思いますよ
必ずどちらかの気持ちのほうが勝ってますから・・・・ 国内累計1000万部超、さらに36の言語に翻訳され260万部発行された本の
読者層の統計を調べるのは大変だったでしょうね
感服いたします >中2病
こんな日本語使うとは
自分も充分メンヘレでありライトノベル脳ということに
気づきませんか まだ続いてたんだ このスレw
昔のスレにあったが、
キズキはゲイで
本当に好きだったのは主人公。
だから死ぬ前のビリヤードのシーンが
印象に残る。
直子もそれをわかっていたのね。
後半のレイコさんのレズ話も伏線。
読み方によっては
夏目漱石の「心」に似ている。 キズキがゲイなら直子と付き合わないし、ましてやsexしよとはしないだろ。 厳密に言うと
限りなくゲイのバイセクシャル。
事実、キズキは直子とは結局のところ
SEXは最後まで出来なかった。
直子がワタナベとやったのは
キズキに対する復讐も少なからず
あったはず。
好きでも無い男に濡れてしまった
自分の贖罪もあるのだろう。
この小説はいろんなところで
三角関係が成り立っている小説。 自分はこの小説が好きなのだが、
文学版にも書いたが
不幸なのはあまりにも売れ過ぎた事。
この小説は偉そうに言わせて貰えば
50万人くらいの読者に
支持される小説であり、
50年くらいかけて100万部に達する
小説であるのが本来の姿。
そもそも、村上さんもノーベル賞など望んでいないと思うんだけど。
本人とはハワイでランニングしてる時に
偶然遭遇しましたw >>524
原作によると、セックスができなかった原因はキズキではなく直子側にあった。まったく濡れなかったからだよ。彼はやりたがっていたから、ローションか何かをぬって試したがだめだったと直子は言う。
10代の男なんてやりたくて当たり前。でも身体が受け入れなかったから手や口でやってあげてた。
その時から直子は心と身体が一致していなかった。すなわち病は始まっていた。 まあ、いろんな解釈ができる
というのは優れた小説の条件ですよね。
それでも、この小説が
累計1,000万部も売れるのは
おかしい気がする... 直子は
キズキのことは愛していたが体は発情せず
僕のことは愛していなかったが体は余裕で受け入れた
つまり
心と体のバランスを失っていた
そのことを表現したかったのだろうな 二人で歩きに歩き
駒込までたどりついてしまった
「え、なんであたしこんなとこに来てんの?」
これもそうなのだろうな
体は元気でも精神とのバランスを失っていた 可哀想な直子。そんな直子に会うためにときどき本のページを開く。辛い結末は分かっているのに再読してしまう。
また読みたくなること。
これが1000万部の要因じゃないだろうか。 >>521
夏目漱石大先生と屑の村上春樹なんかを一緒にすんなカス 『ねじまき鳥クロニクル』どうにか全部読みました。よかった!ノルウェイよりねじまき鳥の方が面白い。最初は長すぎで、特に3巻の前半はきつかったが、比較的結論も出てた。よかった!『1Q84』『ノルウェ』『ねじまき鳥』と読んできました。次は海辺のカフカを読みます。 ノルウェイ、ねじまき鳥、海辺のカフカの中でどれを傑作と感じるかは、
読者の年齢に大きく左右されると思う。 突撃隊を越えるキャラが出て来ない。
直子を越える美少女が出て来ない。
早く出てこいやぁ!
(高田延彦風に) 直子美少女だったの?
直子が美少女だとする表現ってあったっけ?
ま、春樹の小説に出てくる女はすべてレベル以上だとは思うが
絵にならない女は出演機会ないのは確かだが 直子の可愛さ美しさについては、ワタナベとれいこさんが言ってる。顔もそうだが、身体も美しいと表現がある。容姿端麗なのだ。
何かを損なう場合、何かを得るとという法則通りだ。 >何かを損なう場合、何かを得るとという法則通りだ。
何かを得る場合はそれ以外を損なうです
東大に入るためにすべてを犠牲にして勉強した
野球一筋の人生だったのでそれ以外のスポーツのことは皆目わからん
みどりと結婚したのでそれ以外の女性との恋愛の可能性をあきらめた 世界の終わりの博士登場。
あの博士なら直子の脳に何かをインプットし治せたかもしれないw
「俺とお前は離れられないぞ」という直子の幻聴も聞こえなくできたり 決して解決されることのない哀しみ、
終わることのない苦しみを抱えた者にとって、
この小説は心の静謐さを得られる。
それは僅かなものではあるかもしれないけれど、
心の闇が訪れたとき、この本をそっと開く。
そして泪を流す。
誰のために流す泪なのか。
直子か、ワタナベか、自分か。
北方謙三はかつてこう言った。
死にたくなったら何でもいい、本を50冊読め。
それでも死にたい気持ちに変化が無かったならば、
もうとめはしない、死ねばいい、と。
ノルウェイの森はそんな50冊に入れるべき物語だ。
哀しい時はとことん哀しむ方がいいのだ。 作者の自伝的小説ノルウェイの森
直子という名前で登場し、自分の事を忘れないでと懇願した彼女
私という人間がこの世に存在したことを、と
忘れないと言われても記憶はだんだん薄れていくことが解っていた彼女
それはどうしようもないことだ
人間の記憶はそんなものだからだ
だから作者は小説にして忘れないようにした
そして直子として登場した「彼女」がこの世にいたことは、
多くの読者が知ることとなった
直子はとても可哀想ではあったが、彼女が一番求めていたこと、
自分を忘れないでほしい、という願いは達成された
世界中の人々が今でも彼女の存在に遺した言葉に、いろいろと想うことだろう
思い出してもらえるだろう
その意味では、彼女は幸福なのかもしれない
不幸だったが幸福ではあるのかな
でも彼女は死んでしまったし、そのような「状態」を知らない
もしあの世というものがあるならば、きっと彼女はその場所で微笑んでいることだろう
この小説を読む度に、直子の抱えた苦しみや哀しさ、最終的な死を悲しんでいた
でも最近は悲しいばかりじゃないと考えるようにもなった
良かったね直子…と私は言いたい
世界中の人たちが君のことを想っているよ、と いや最後の二行は、私なんかよりも、
作者自身の方が強く思っている言葉かもしれない…
なんといっても当事者なのだから… 自伝としての解釈で直子という人物を忘れないということですね
私はあくまで直子は死のメタファーであって
「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」
=死を記憶せよ=メメント・モリ という風に解釈しています
これだと「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
という有名な文章に対応していると思うので ノルウェイの森の直子と
1973年のピンボールの直子は
果たして同一人物であろうか? 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱え心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全て自分の出来心から起きたことで、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切って新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 村上「執筆前、6人中3人が死ぬアイデアはありましたが誰が死ぬかは分かりませんでした。
書きながら誰が死に誰が生き残るか自問していました。」
マジか。自伝的小説だから直子は始めから死ぬ設定かと思ってた。 インタビュー集ね
僕は夢を見るために毎朝目覚めるのですっていう本
村上「僕は即興性を大事にします。
もし物語の結末が解っているなら、わざわざ書くには及びません。
僕が知りたいのは、まさに後につづくことであり、
これから起こる出来事なんです。」
じゃもしかしたら、直子は死なない可能性もあったということか。
これは凄いことだな。
でも直子は死なない場合、最後はワタナベと一緒になるのか、
そうなると緑は?
いや直子は自分が身を引く可能性もある。
ワタナベの前から姿を消しどこかでひっそりと一人で生きていく…
でも結局は直子は死んでしまうことになっただろうね。
あの小説では、直子の死は大きな意味を持つから。 インタビュー集をさらに読んでみた
こうあった
村上「この小説で僕が書きたかったことは、
愛していた人が破滅し、いなくなってしまったとき、
何を感じるか、です。
そんな道を外れ自分を喪失してしまった人たちを僕はたくさん知っています。
僕ができる唯一のことは、彼らについて書き記すことです。」
となると、やはり直子は死ぬべき運命だったということか…
死んでしまった人たちのために、生きている僕らのできることは、
その人のことをずっと覚えていてあげることだ、と村上春樹は主張する。
直子のセリフにもあったように。
そういえば、女のいない男たちという短編集で、
拒食症で死んだ医師の話があったが、
その中にも、ずっと覚えていてあげるというセリフがあった。 村上「読者の多くは緑を選ぶでしょうね」
いや村上さん、俺は両方好きすぎて選べないです。 >>551
最期の後書きに
この小説は僕の死んでしまった何人かの友人と
生きつづけているている何人かの友人に捧げられる
と書いてある以上
そんないい加減なものではなかったかと 生き続けているのは(この作品発表時点で)
突撃隊、緑、東大生
亡くなったのは。。。。。。わからんね 夢を見るために目覚めるwwwwwwwwwwwwwwほんと馬鹿 村上「れいこさんのことを書いてるときはとても幸せな気持ちになれました。」 “作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。
・・・夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。”
引用『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』 (文春文庫)
どういう意味なんだろうと調べたり考えることもせずに馬鹿と切り捨てる
流行語大賞の件といい、やはり読書は大事なことではないだろうか まあな
「サラダ記念日」などたいしたコピーでもないのに
朝日新聞に載せられて調子に乗った婆さんいたからな
でも本人は
「子を連れて西へ西へと逃げてゆく」
福島から一歩でも離れるために >>558
おお!俺も今そのインタビュー集読んでるよ。
その部分俺も書こうと思ってたんだよ。
執筆秘話みたいな裏話がたまらんよね。
時折ここにも書いてる。 >>559
80年代初頭からのコピーライターが主役になっていた
時代の潮流を見事にとらえたんでしょうね
短歌集が二百八十万部って、しかも当時二十五歳ですよ
この人の場合、合理性うんぬんではなく作家や詩人の多くに見られるように
時代や社会の情勢をとらえる感覚が鋭いといえるのではないでしょうか 俺はいつもマスターベーションしたら手帳にチェックするようにしている。
新年を迎えたので総括として去年の俺のマスターベーションの回数を発表する。
去年俺がマスターベーションした回数は52回。
ちなみに07年47回、08年58回、09年51回、10年61回、11年63回、12年56回、13年61回、14年53回、15年63回。
年齢は46歳です。 この小説はマスターベーションがスパイスの役割を果たしてると思う いやテレビCMで話題にはなったが映画じたいは批判が少なくなかった 騎士団長殺しのおかげでこの本や他の春樹作品も売れている 都電の大塚の先って巣鴨新田?。オレも学生の頃あの辺住んでたんで親近感アップした。ロケーションがリアルなのが上手い ワタナベが永沢とペニスの大きさを比べるくだりが笑えたw 見たけどないぞ
そこには「わたしはまだ20歳になる準備なんてでけていない」みたいなことしか書いてない