心臓病の持病をもちいつ終わるか分からない中での全方位的追究を
彼女なりにやりつくした末の自殺な訳だから、彼女の中に、「もう言う
ことはない」的な諦観はあったと思う。やりつくした感があることが
彼女の特徴で、こういう風に終わる人生はそれこそ「あしたのジョー」
くらいしかないのだから、真似できないし、未だに語り継がれる理由
もそこにある。

 ここに書いてる人間がどれだけアレに匹敵する人生を送ってるか
といえば、あそこまで「真っ白」になることはなかなかできない。
やっぱり高野悦子に匹敵するのは「あしたのジョー」しかいないと
いうことになる。

 批評も色々書かれてるけど、どこか「やったもん勝ち」というか
、実際にぶつかってこなごなになり、終わって行った人生には
敵わない感があるのね。ちょうど高野悦子の後に三島由紀夫が死んで
て。アレも言わば「やったもん勝ち」なところがある。あの「やった
もん勝ち」をどうやって超えるかが問題で、だから三島論はあの死に
拮抗する論理と思想をあの死によっていつでも試されることになる。
「愚行は百も承知だったろう」と当時吉本が三島の死に向けて書いて
いた。つまりたとえ愚行でも、やった行為自体の重さによって無化
されるもの−当時で言えば生命尊重主義、戦後民主主義−があるこ
とをあの自死は狙っていた。

 高野悦子の場合でも、やっぱりあの生と死によって試される。拮抗
できているのかが。「拮抗しようなんて思ってませんよ(笑)」と
最初っから断って言うのがあの手記にたいしてはまず出てくる。批判
はできてもアレに拮抗する生き方を提示することはなかなかできない。