党派やリーダーが違うだけで、反革命だの反労働者だの、学生同士で敵対し合っていた。
猿山のボスの縄張り争いのように、ボスやボス候補の数だけ党派や理論があった。
資本主義的だ! 小市民的だ! とか言葉の遊びをしながら敵対していた。
まるで宗教的な禁欲競争の様相。思想なんかじゃなく宗教、あるいは幻想。
宗教や幻想を否定しながらも、実は宗教そのもの、幻想そのものだった。

高野さんの日記にはそれらが タテマエ として書かれ、そして悦子さんはそれらの
禁を実生活では破っていく。
そもそも、そんな自己否定のタテマエなど無理な話なのだ。守れないのは当然。
行き着く先は自らの心身の自己否定に純化される。彼女はそれを実行してしまった。
多くの学生が現実と妥協しはじめたその頃にだ。
そして、現実と妥協すること、受け入れることこそが正しい身の処し方だった。
卑怯に見えても、美しくなくとも、一貫性がなくとも、取り敢えず息をし、生き続ける
ことが、正解だったと思う。
人生で、死んでまで守らなきゃいけない、そんな価値あるものなんてない。
自分の命のほうがよほど大切なこと。
男の視線を自分に向けるために、自分の命を捨てるのは愚かとしか言いようがない。
悦子さんは最後の最後で愚かだった、としか言いようがない。