苫米地が書いた文章を読んでみると,気功を密教的な中観の枠組みで捉えてるんだよな.
だからそもそも気功の実在について議論することがそもそも無駄.

実在するしないに関わらず人と人との間で気功という仮を想定し,共有できればその人らの間で気はあるんだよ.(ここでいうあるは実在を指しているわけではない)そして俺らが実在していると思っている全てのこと,数学,物理学みたいな全ての科学,学問もすべて仮を想定して共有するという枠組みの上で成り立っている.ここら辺の空観実観中観みたいな大前提を理解せず「気候はオカルトか否か」みたいな二元論的な議論は簡単かもしれないけど,いくらやっても意味がないよ.そもそも論点が違うから