”すべてがFになる”ってのは“姑獲鳥の夏”と同じく、見ているものが何で見えないのかって、疑問に思わないの?

デジタルファイルをどうこうとか、見たくなかったとか、何でも有りってのが講談社版新本格派ってのなら否定する。

とんかつやら流水。

科学的根拠は一切問わずに作者が書くことが全て是で在るって、そもそも、推理小説の基準を満たしているのだろか?