存在しない色のレシピ
カフェの隅で、ヨウコはいつも同じ席に座る。彼女の目的は、コーヒーでも読書でもない。「イシの青」を見るためだ。
イシは、この街で唯一、誰も認識できない色を塗れる画家だった。彼が描くキャンバスには、青でも緑でもない、言葉では説明不可能な「何か」が渦巻いている。人々はそれを「ノイズ」だと嘲笑したが、ヨウコにはそれが、宇宙の裏側で燃える恒星の色に見えた。
今日、イシは店の壁に、その「イシの青」を塗り始めた。彼は古いバケツから、透明な液体をブラシに含ませ、壁に走らせる。本来、何も見えないはずだ。しかし、塗られた瞬間、ヨウコの視界の端が歪んだ。
そこに現れたのは、視覚情報というより、味覚に近いものだった。強烈なミントのような清涼感と、古い本の紙魚のような乾いた渋みが、同時に舌の上で弾けた。
(ああ、なんて奇妙な青だろう。)
ヨウコは息を呑んだ。その色を見るたび、彼女の過去の記憶がランダムにシャッフルされる。今、彼女の目の前で、十歳の誕生日に食べたショートケーキの味が、六歳の時に失くした赤い風船の「感触」と混ざり合っていた。
イシは筆を止め、汗を拭った。壁には、相変わらず何も描かれていないように見える。彼だけが知っている。世界は認識の外側に、もっと多くの色を隠していることを。ヨウコは立ち上がり、イシのバケツの透明な液体を指差した。
「それ、分けてもらえませんか。わたしも、あの『味』を塗ってみたい。」
イシは、初めてヨウコを見て、不気味に微笑んだ。
