●魂の追徴課税
​高層ビルの窓ガラスは、東京の夜景を映す代わりに、分厚い鉄の壁のように見えた。紀藤は、薄暗い事務所の椅子に深く腰掛け、目の前にある被害者の調書を睨んでいた。見出しには「ワールド・クライシス」という団体の名。かつて「コスモ・ライフ」と呼ばれた、いかにも時代を象徴する、軽薄で甘美な名前だ。
​「六千五百万か」
​彼は独り言ちた。その額は、一人の人間が救いと平穏を買い求めた代償だ。しかし、彼らが手にしたのは救いではなく、終わりのない不安のサイクルだった。悪霊は除かれるが、次は「業(ごう)」がある。業を払うためには、さらに高額な玉ぐし料が必要だと囁かれる。それは、霊的な救済という名の、巧妙な追徴課税だった。
​紀藤の元に来た元会員の男は、地下鉄サリン事件の直後、教団幹部の顔がメディアに映し出された際も、「あれは我々の仕業ではない」と心底信じ込まされていたと語った。疑うことを禁じられ、批判的な外部の声はすべて「悪魔の誘惑」として遮断される。彼らの内部論理は完璧に閉じていた。
​「救いとは、恐怖の別名に過ぎない」
​紀藤は、煙草に火をつけた。その煙は、団体の支配下にある人々の心から立ち上る、絶望の靄(もや)のように見えた。彼らは不安という名の鎖で繋がれ、自発的に、より深い闇へと進んでいく。
​夜空の闇よりも深いのは、人が見知らぬ他人の言葉に、人生の全てを委ねてしまう心の隙間だ。そして、その隙間を狙う者たちに、法の光を届かせるのが、自分たちの仕事だ。
​机の上に置かれた「被害救済ネット」の設立総会の記録。そこには、数年にもわたる家族の崩壊や精神的な損害が、無機質な文字で記されていた。戦いはこれからだ。相手は、霊的な超能力を謳いながら、裏では膨大な現金を動かす、冷徹な組織だ。
​紀藤は窓に背を向け、煙草を灰皿で揉み消した。この闇を暴き、彼らが詐取した「魂の税金」を取り戻す。それが、彼のノワールな闘いの始まりだった。外は既に深い夜。静かに、しかし決然とした足取りで、彼は立ち上がった。