今、ファッションに敏感な若者たちの間で流行しているダッドシューズ(またはダッドスニーカー)をご存じだろうか? “ダッド”とは、お父さんのこと。つまりお父さんが履くような、ゴツゴツしたちょっとダサいシューズのこと。
それを、DJやヒップホップのラッパーたち、または、スケーターなんかを中心に広まっている。インスタでハッシュタグをつけて検索すると出るわ出るわのダッドシューズの写真。インスタ映えもばっちりだ。

 ダッドシューズが流行り始めたのは去年の11月頃からだと記憶している。ストリート系の若者たちから火がついた。そこからクラブに通う若者たちも好んで履くようになった。

 ダサいものをかっこよく履きこなす。そこにセンスが現れる。一種のセンスの競い合いから始まったダッドシューズブームだが、インスタを見れば、「かっこいい!」というコメントが並ぶ。
いまでは、履きこなしがかっこいいというよりは、ダッドシューズそのものがかっこいいと見られているニュアンスである。

 かつて、建築史家の井上章一は、著書『つられた桂離宮神話』で、近代的(モダン)な建築の代表的なひとつで、世間では美しいとされている桂離宮を、「美しいとは思えない」と言い、
美の基準には人間の作為が入っており、美しいと思わされていることを喝破したが、筆者には、このダッドシューズブームにも、それと同じ問題が内包されているように思える。