「おはよう、芸人さん!」
 早朝、宿を出て少し歩いたところで掛けられた挨拶の声。すっかり馴染みの顔になった農夫のおじさんが、笑顔でこちらに手を振っていた。
「おはようございます、いい天気ですね」
言って空を見上げれば太陽がさんさんと輝いている。まばらな雲と青空が、今日のこれからに期待を抱かせてくれる。
「これなら今日の畑仕事は張り合いがあるってもんよ! うまい野菜を育てなきゃってな」
「がんばってください」
「ありがとさん。後で宿にまた取れ立ての野菜届けるから、食べてやってくれよ!」
「はい。それでは」
 会釈して再び歩き出す。ゆっくりと歩みを進めながら周りを眺めれば、どこの家もからも漂う朝の忙しい気配。
「今日は何をやろうかな?」
頭に乗っけた帽子に手をやりながら呟いた。
「おまえさんは何がしたいよ?」
つばの縁をなぞるように指先で撫でながら訊く。微かな動きで帽子が反応する。
「そうかそうか。やっぱりあの子を笑顔にしたいよな、おまえも」
きゅっと全体をすぼめ、返事をする帽子。これがこいつの━━私の相棒、生きている帽子のいつもの反応の仕方だった。
「お、噂をすればなんとやら」
 進行方向の少し先に見える大きめな家。その玄関先に立つ姿を認め、私は相棒に言った。所在なげに佇む幼い少女がこちらを見つめている。
「お嬢ちゃん、おはよう!」
おどけた仕草で帽子を振りながら、元気のいい挨拶を飛ばす。
「いい天気だ、気持ちいいね!」
しかしすぐに少女は何も言わず、静かに家の中へと入ってしまった。今日も朝から空振り、私のささやかな恋は不発に終わってしまうのだった。